谷真潮「送楠瀬清蔭為運輸官之浪華序」

書き下し

清蔭、集録の佐と為ること十余年。其の才は繁劇に任ずるに足り、而るに遷らず。蓋し其の初め、君公始めて封に臨みしとき、封事を奉ること二。当路以て是れ古を好み今を非り、分を犯し事を言う不遜の者と為す。故に推薦する者有りと雖も、遷らざるなり。今歳始めて浪華の運輸官に遷る。

夫れ浪華なる者は、仁徳・孝徳の都する所、共に聖帝・明王と称せられ、而して既に庶(おお)く、且つ富み、教えも亦た至れり。今を以て其の時を観れば、恭倹の化する所、風俗純朴、銭幣未だ行われざれば、則ち侈靡未だ起こらず、則ち九重の魏乎と雖も、炊烟と雖も国に満つ。今の浪華の如き、金城天に聳え、舳艫海を蔽い、万貨輻輳し、阜鄭の徒、世々封植し、富は王公を過ぎ、鐘鳴鼎食、青楼地に布き、倡台雲に架し、車轂撃し、人肩摩し、袂を連ね幃を成し、袂を挙げて幕を成す者か。

東照神祖の都を武江に定めてより、西の諸侯の朝覲する者、道を此に取り、用を此に弁じ、領内の貨物を此に貿易し、其の金を東都に揮うなり。各々邸第を置き、官司を設く。運輸官は則ち其の一なり。日々富商大賈に接して其の事を謀れば、富商大賈其の利を罔(あざむ)かんと欲するや、是を青楼に誘いて其の心を蠱し、是に賄遺を厚うして其の気を驕らせ、其の好に投じ、其の欲に適わしむ。而して官吏と為る者、其の啗(さそ)う所を受け、比周し以て其の利を分く。是を以て酒席を擲ち、而も亦た甚だしくは衣服を惜しまず、極珍を玩好し、麗々揚々貴公子の如し。猶其の余を以て郷里に帰らば、富の屋を潤す者、比々として然り。当路此の如きを病み、其の弊を改めんと欲するも、其の人に難く、選択して田清子を抜擢し、運輸官と成し、先に往かしむ。

夫れ田清子(*1)、才識節概、誠に其の選に当たれり。而も孤立し輔け無ければ、則ち其の志を独行する能わず。是に於いて更に其の輔けを為す者を択ぶも、亦た其の人に難し。或るひと之に薦めて曰く、「彼れ古を好み今を非り、分を犯し不遜なる者。其の節概使うべきなり」と。旁に之を駁す者有りて曰く、「彼れ飲むを好めり。飲むを好む者は、色に溺れざるを得ざるなり。是れ使うべからざるなり」と。薦むる者強く之を弁じ、今の命有りと云う。

真潮曰く、運輸の官は微なり。其の職は一計吏たり。田清子、清蔭、才は繁劇に任ずるに足り、而も節概有る者なり。豈に之を得て愉快なる者ならんや。然れども繁華奇靡の地に居り、其の風に遷らず、日々富商大賈と接して其の欺を受けず、一旦十数年の成弊を改むる者、是れ豈に易々ならんや。古人曰く、貨は猶油のごとし、と。近ければ則ち染まれり。況んや之を重んずるに色を以てし酒を以てするをや。居恒、俯育の資に乏しき者、一旦居りて手を動かせば則ち富の地なれば、涅(くろ)みて緇(くろ)まざる者非ず(*2)。歳月久しく其の操を渝えざる者少なし。

清蔭、我が門に遊ぶこと久し。或ひとをして「我に素より云う、今果たして然り」と言わしめ、推薦者をして口を噤ませ、謝を当路の前に称せしむる者なれば、何を以て郷里に帰り、我が面を見るに忍びんや。往きて田清子と協心合力、可否相済し、其の職に勉め修めよ。閑暇あらば、則ち高津・豊崎の墟に遊び、二帝恭倹の化を追想し、而して晩近侈汰の俗に嘆息すれば、則ち古を好み今を非る所の者も用て其の所を得ん。而して当路の心を厭服し、薦むる者をして眉を挙げ、駁する者をして口を噤ませば、則ち豈に只だ公家運輸の利のみならん、我が門も亦た光輝有るに与からんかな。往き勉めよ。


(*1)植田清之丞(順)のこと。『北渓集』巻中に植田順碣がある。
(*2)『論語』陽貨の言葉。


補足

底本には新版『土佐国群書類従』(『北渓集』巻上)を用いたが、その訓点には従わなかった。また適宜山内文庫本(『北渓集』巻中)を参照し字句を検めた。


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