谷真潮略年譜

口上

以下は松山秀美氏の「谷真潮」(『土佐史談』第45号、昭和8年、土佐歌人群像(十四))をもとに、谷真潮の略年譜を作ったものである。該論文は既に亡失した多くの史料を引用しており、真潮の生涯を理解するために最も重要な論文と言える。真潮の生涯の詳細は、松山氏の論文を参照されたい。なお真潮には吉崎久氏に「谷真潮年譜稿」(『谷秦山・垣守・真潮関係書目録』所収)があり、松山論文を利用しての詳細な研究がある。以下はあくまでも私的な略年譜に過ぎない。また附録として北渓行状から逸事二三条を引いた。

年譜

○享保12年。1歳。

  • 1月3日、誕生。

○元文1年。10 歳。

  • 2月23日、惣領御目見。

○寛保2年。16歳。

  • 7月28日、弟の銀六(万六好井)誕生。

○同3年。17歳。

  • 1月28日、垣守の宅が類焼。

○延享2年。19歳。

  • 12月29日、立田道庵の娘と結婚。

○同3年。20歳。

  • 3月、父垣守に随い江戸出府。御宮仕役。橘恒樹と交友を結ぶ。

○同4年。 21歳。

  • 5月11日、父垣守に随い帰国。

○寛延1年。 22歳。

  • 1月9日、三人扶持を賜い、学問相励むべき旨仰付られる。
  • 9 月22日、長女誕生。

○宝暦1年。25歳。

  • 8月18日、長男氏太郎丹蔵誕生。

○同2年。26歳。

  • 2月18日、大谷直昭の代わりに宮地春樹と御屋敷講釈代講を拝命。
  • 3月30日、父垣守が病死。
  • 7月22日、父の跡目を嗣ぐ。

○同3 年。27歳。

  • 9月1日、宮地静軒(80)が病死。

○同4 年。28歳。

  • 3月3日、江戸出府のため浦戸出港。

○同5 年。29歳。

  • 4月17日、帰郷のため江戸出発。
  • 5月4日、帰郷。

○ 同6年。30歳。

  • 3月3日、江戸出府。

○同7年。31 歳。

  • 6月10日、帰郷。
  • 7月26日、大風雨により家が倒壊。

○ 同8年。32歳。

  • 7月17日、次男三次郎誕生。

○同9 年。33歳。

  • 12月22日、教授館落成。

○同10年。 34歳。

  • 1月16日、宮地為斎(春樹)・箕浦立斎・戸部愿山と教授役に就く。儒者となる。教授役中に暗闘が盛んになる。

○同11年。35歳。

  • 6月28日、江戸出府。
  • 7月3日、若殿(豊雍)御師範役を拝命。浦戸出港。
  • 9月4日、嫡子氏太郎(丹蔵)が御目見。

○ 同12年。36歳。

  • 江戸出府。

○同13年。 37歳。

  • 弟万六を従えて江戸出府。縣居門人録(賀茂真淵)に載る。

○明和1年。 38歳。

  • 6月16日、帰郷。
  • 11月24日、秦山妻が病死(86)。

○ 同2年。39歳。

  • 2月13日、北山通りで江戸出府。
  • 6月27日、母池内氏が急逝(58)。

○同3年。40歳。

  • 6月10日、帰郷。
  • 11月9日、二男三次郎が死亡(9)。

○同4年。41歳。

  • 4月13日、長子丹蔵とともに江戸出府。
  • 11月19日、 豊敷薨御、豊雍襲封。

○安永1年。46歳。

  • 1月9日、切符四石加増。
  • 25日、江戸出府。
  • 5月11日、妻(立田道庵娘)が死亡。

○同2年。47歳。

  • 5月21日、帰郷。

○ 同3年。48歳。

  • 11月17日、 別府伝之丞の娘と再婚。

○ 同4年。49歳。

  • 4月8日、丹蔵が病死(25)。

○同5 年。50歳。

  • 4月1日、万六好井を養子とし御目見。
  • 11月12日、 娘が死亡。
  • 17日、丹蔵の遺腹の男子万三郎が誕生。

○同7年。52歳。

  • 1月9日、新知百五十石を拝領。
  • 2月末日、浦奉行を拝命。教授役免除。儒学は好井を取立。
  • 4月1日、東灘を巡回する。

○同8年。53歳。

  • 4月3日、室津湾の暗礁を取り除く。

○同9年。54歳。

  • 3月19日、日本紀会で雄略紀を講了。

○天明1年。55歳。

  • 7月28日、三男楠八宅守が誕生。

○同2年。56歳。

  • 6月1日、関東御用船が甲浦へ漂着。
  • 5日、安芸郡甲浦へ出張。
  • 7月27日、漂着船の始末滞りなく勤める。

○同3年。57歳。

  • 7月5日、役領知三十石を下賜。

○同5年。59歳。

  • 4月11日、宮地為斎(春樹)が病死(58)。
  • 5月28日、浦奉行を退職。教授役にもどる。

○同6年。60歳。

  • 2月3日、大火事。

○同7年。61歳。

  • 1月、万六が帰宅。
  • 8月4日、郡奉行・普請奉行・物頭格を拝命。役領知五十石を拝領。

○ 同8年。62歳。

  • 1月23日、大目付切支丹役柄弦御差物となる。
  • 2月 26日、諸臣を会して緊縮省略を議す。天明の改革開始。
  • 6月14日、弟の大吾垣雄が病死(57)。
  • 7月17日、江戸出府(仕置役場を相兼)。

○寛政1年。63歳。

  • 4月22日、仲枝を従えて江戸を立つ。
  • 5月18日、帰郷。
  • 29日、五藤永之助の江戸出府に代わり教授館頭取。
  • 8月24日、豊雍薨去、豊策襲封。
  • 12 月3日、異国船の要務を帯びて甲浦へ出張。
  • 14日、甲浦から帰着。

○同2年。64歳。

  • 4月14日、万六が江戸で三人扶持十石を拝領。二人扶持五石合力米を拝領。格式御小姓格。

○ 同3年。65歳。

  • 7月9日、老齢を理由に大目付役柄弦差物を罷免。教授役に戻る。

○同4年。66歳。

  • 1月23日、神代巻講釈開巻。

○ 同6年。68歳。

  • 8月5日、安並雅景が素読に来る。

○同 7年。69歳。

  • 3月5日、宮地仲枝が江戸出府。
  • 8月17日、発病。

○ 同8年。70歳。

  • 2月15日、加増知五十石を拝領。
  • 6月16日、宮地仲枝が帰国。

○同9年。71歳。

  • 9月11日、発病。
  • 10 月17日、 病死(18日の説もあり)。
  • 12月15日、 万六が家督相続。

○同10年。

  • 3月1日、宅守が好井の養子となり御目見。
  • 9月18日、丹蔵の子の万三郎が病死 (24)。

○同12年。

  • 5月23日、宅守が江戸で客死 (20)。

○享和3年。

  • 9月25日、真潮の妻が病死。

行状所引遺事

先生 家の神道、大父秦山先生は渋川春海先生より伝来あり、父君垣守先生は玉木翁より伝来ありて、誠に奥秘ある伝授の事なり。然るに先生 壮年の時より神書を通読せられ、伝来の事に間然する事有りて、垣守先生の説を受けたまはず。垣守先生 殊のほか不快に思し召し、我が家に悪魔が入りしなどとまでもいはれしとなり。先生 恐れ入りながら、終に伝来の説に随ひたまはず、神書文面の儘を自見めされ、終に一見識を立てられけり。垣守先生も力及ばず、以後にはその方の見識の処も一種の事なれば、まずその分の事なり。されども、只今まで蔵来りし神道奥秘の書 いつまでも大切にいたすべしといはれしとなり。

先生 近年著述し給ひし『論聖』『論仏』の二編、誠に世に類ひなき物にてぞありける。儒仏の事は古来論説多かれど、この二編のごときもの和漢ともにいまだ先哲の説を聞かず。古今の確論と云ふべし。この論に『神道本論』を併せ読みて三国の道体、掌上に見るべし。

先生 儒道の学風、壮年の頃より、他に異なる事多しとぞ。勿論程朱の学を本とせらるれども、亦た諸家の取るべきをば平常捨てたまはず。徂徠などの説にも服従の事多し。軍法は『孫子』を常に講ぜられ、能くその義を精究したまひけり。常にいはれしは、軍法の事はその時その事に出合せざれば、ただ書面のみにては会し難き事ありなど、毎々聞しなり。

先生の和歌、誠に当世の絶調といふべし。近年自ら撰出したまへる物三十首ばかり、いづれも風調の高き事、人の及ぶべきにあらず。大坂の人とやら、先生の歌を聞きて、大いに感吟し、「歌はかやうにこそよむべきものなれ。されど今の世、この地などにてかくよみては、口腹の為にならず」といひし事ありとぞ。

以上、『北渓先生行状』より抄す。

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