谷真潮「春秋」

書き下し

或ひと問ふ、春秋は何の為に作れるか。

曰く、聖人世の衰乱を傷みて作るなり。而して其の傷むこと最も魯に在り。魯は隠公弑せられ、桓公立つより、三家は漸く基を創り、年を逐ふごとに彊大となり、公室は年を逐ふごとに卑微となる。孔子の時に至りて、其の衰極まれり。孔子天縦の聖を以て周公の典を講明し、其の初めは諸を一国に行い、兼ねて天下を正さんと欲す。其の魯に相たるに及び、教化大いに行はる。三都を堕ち、甲兵を収め、将に漸く三家の権を収め、而して公室を張らんとす。而るに機縁熟さず、遂行に事無く、四方十有三国を周游して遇わず、晩に魯に帰るに及びては、事勢益々去り、着手すべき者無く、徒に大夫の後に従ひ、日暮道窮まり、志も亦た熸べり。故に曰く「甚だしいかな、吾の衰えたるや。久しいかな、我れ復た夢に周公を見ず」と。蓋し魯は衰弊すと雖も、周公の規画猶存す。聖人を得て因て以て政を行はば(*1)、則ち当に一変して道に至り、兼ねて以て天下を正すべき者、定算在る有り。而るに三家根蟠し、着手すべからざるに終わるなり。是に於いて魯史に因り隠公より下二百四十二年の事を叙し、以て感慨を寓す。夫れ周道衰へて王は王たらず、三家矯僭して公は公たらず。之を列国に観るも、亦た皆な彼の如くにして、文武の 已む。其れ時事に感慨すること、豈に窮まること有らんや。其の筆削の若き、蓋し亦た三家の矯僭より、策書の載する所の事、多く旧章に違へば、聖人其れ之を正すのみ。故に曰く「我を知る者は其れ惟だ春秋か。我を罪する者も其れ惟だ春秋か」と。蓋し言ふこころは、賢人君子、聖人の心を知る所以の者斯に於いてし、三家が輩、聖人を罪する所以の者も斯に於いてすればなり。其れ此の如ければ、則ち孔門諸子の知る者は言はず、言ふ者は知らずして教ふ。後世紛々の説を致す者、亦た宜(うべ)ならざらんや。

然らば則ち春王正月、義に於いて如何。

曰く、王は周王なり。周人は建子を以て歳首と為す。今の十二月(*2)は是なり。王者命を革むれば、前代を損益し、以て一代の典を立つ。故に夏・商・周・秦、正朔は因らず。而して夏正は惟だ時と月と応じ、而して天時正しく、人事順なり。是を以て商・周の世、民間猶夏正を用ふるを禁ずる能わず、遂に時王の正と並び行ふ。故に春秋書すに王正月を以てする者は、夏正に別つなり。蓋し旧史然り。

曰く、何を以て果たして周正たるを知る。

曰く、春秋の伝注三伝、尤も古し。作る者、皆な周末の人にして明解して周正建子の月と為さざる者は、蓋し当時に在りて疑ひ無ければなり。其れ左氏の若き、「春王周の正月」と謂ふなり。公羊氏は「王は文王を謂ふ」と謂ふ者は、皆な王の字の為に発するのみ。而して亦た周別に正月有り、而して前代と同じからざるを見せり。孔安国曰く、「古より皆な建寅を以て正と為す。唯だ殷は夏の命を革めて建丑を用い、周は殷の命を革めて建子を用う」(*3)と。是れ蓋し受くる所有りと云う。他の孔氏が疏の「月改むれば則ち春移る」(*4)と云う者、詳らかと為す。而して三統の説も亦た或いは本づく所有り。宋の程子に至りて曰く「春正月、春に非ざるなり。天時に仮り以て義を立つるのみ」と。而して胡氏も亦た謂ふ、「夫子、夏時を以て周月に冠すなり」と。朱子之を議して謂う、「胡氏の説の若ければ、月と時事と常に両月を差う。恐らくは聖人の作経、又是の若く紛更ならざるなり」と。然れども其の自ら説を為すに及びては、亦た皆な疑辞を為すのみにして、敢えては之を明断せず。是れより後、儒者往々にして之を論じ、互いに経史を引きて証と為し、率ね合するに架説を以てし、左支(*5)右梧し、紛糾して決せず。引いて皇朝近世の渋川春海に及びては、授時食算の法を以て春秋に有る所の日食を推して暦を作述す。其の食、往々にして建子の月に合す。而して又左氏に「僖公の春王正月辛丑朔、日南至す」と曰うこと、漢志に「魯の成公十二年正月庚寅朔且(*6)冬至」と曰ふを挙げ、以て〔証〕(*7)と為す。明白簡当、千古の疑を断ずべきなり。且つ其れ「聖人、周正を改め夏時を用ふ」と謂う者、理に於いて決して然らざる者有るなり。其れ春秋は魯の春秋なるのみ。魯は周公の国にして、周の礼尽く魯に在り。孔子、大聖と雖も、時に魯の大夫と為る。魯の大夫として魯の春秋を修め、而して周正を改めて夏正を用う。之を礼義に度り、之を事体に参じ、之を書体に考うるも、一として可なる者無きなり。其れ聖人なる者は礼義の宗なり。礼義は分を慎むに在り。故に季子八佾を舞ひ、三家雍を用て徹せしとき、聖人之を痛譏す。而るに反て一書を作り、時王の正なる者を改む。其れ是れ何を謂わん。大抵、春秋は聖人の晩年に成るを以て、諸儒之を見て以為へらく、聖〔人〕(*8)経天緯地、高大精微の旨、此の書に在り、と。而るに其の書唯だ事を紀すのみにして理義の言うべき無く、又旧史亡び、筆削の跡見るべからざるを以て、乃ち穿鑿して以て其の義を求め、傍らに経史を取りて之に附会し、鍛錬して以て其の説を成す。所謂一字褒誅なる者、微を探り隠を鉤(さぐ)り、弁詰深刻、人をして解脱すべからざらしむる〔者〕(*9)なり。大類ね後世、法吏の舞文、罪囚を死生する者の為す所、是れ〔豈に〕(*10)聖人公平正大為さざること甚だしの心胸の写し出す所の事ならんや(*11)。又豈に乱臣賊子の能く其の義の懼るる所を覚らんや。今や聖人を去ること二千年、而るに伝注の説を廃し、聖人の微意の在る所を言うも、人豈に之を信ぜんや。然りと雖も、朱子嘗て言ふ、「春秋は只だ当時の事を載せ、治乱興廃を見さんと要するのみ。一字の上に於いて褒貶を定むるに非ず。」「疑うらくは、聖心の正大(*12)、決して伝註の穿鑿に類せず」と。則ち今言ふ所の者、豈に尽く然らざずと言わんや(*13)。縦し或いは然らずと云えば、亦た各々見る所有るなり。



〔語釈〕

(*1)「聖人 因て以て政を行を得れば」とも訓める。
(*2)山内本は「十一月」に作る。当に山内本に従ふべし。
(*3)『春秋正義』隠公経元年疏引。
(*4)同上。
(*5)山内本は「左枝」に作る。
(*6)山内本 は「旦」に作る。『漢書』律暦志(世経)に拠り、旦に作るを是とす。
(*7)山内本に拠り証の字を補ふ。
(*8)山内本に拠り人の字を補ふ。
(*9)山内本に拠り者の字を補ふ。
(*10)山内本に拠り豈の字を補ふ。
(*11)原文は「是聖人公平正大不為甚矣之心胸所写出之事乎哉」に作る。山内本は是の下に豈の字あり。義は同じ。訓み難いが、通常は「是聖人公平正大不為甚」で切れる。ただ下に「之」があるので、原文に錯誤が無ければ、「是『聖人公平正大不為甚矣』之心胸所写出之事乎哉」となる。聖人公平正大不為と類似の表現が程端学の『春秋或問』に見えるが、谷真潮が何をふまえて発言したかは不詳。
(*12)原文は聖心人之正大に作る。山内本は人の字なし。朱子行状に拠り、人の字を削る。 (*13)山内本に拠り哉の字を補ふ。


補足

底本には新版『土佐國群書類従』所収『北渓集』を用いたが、その返り点には従わなかった。『北渓集』には春秋とともに詩経に対する真潮の見解が見える。真潮は万葉学者だけに詩に対する造詣はあったのだろうが、春秋に対しては、さほど見識があったと思われないのは残念である。

こういうと真潮に失礼だが、真潮の春秋論は基本的に朱熹の春秋学説の焼き直しなので、ほとんど見るべき所がない。朱熹よりも進歩したのは、真潮が渋川春海の天文研究を利用して、周正を天文学的に立証している箇所だが、真潮その人はあまりその点を強調していない。むしろ真潮が強調するのは、「春秋に一字褒貶説は存在しない」という理屈を、道義的に説明するところにある。そしてこの道義的説明による一字褒貶説批判は、宋代春秋学の帰結とでも言うべき理論である。

真潮が宋代春秋学説をどれほど知っていたか不明だが、結果的に真潮の学説は、宋代の春秋学説の焼き直しに過ぎない。強いて評価するならば、宋代の春秋学説を理解できるまでに、真潮は春秋の研究を進めていたということになるだろう。したがって当時の学問水準に対する評価としては、真潮の春秋理解の高さを認めることも可能だが、現代的な意味からすれば、真潮の春秋学説にみるべきものはない。

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