谷秦山宛書簡(三宅尚斎)

原文

一、神道之義ニ付、前来申進候義ニ付委細被仰聞忝存候。尚又得心難仕、面会不仕候事遺恨ニ存計ニ候。左様程ニ我国にはへ付タル正道御座候ハヽ、儒学一向ニ御ヤメ候而御申被成候へかしと存候。先生へも其不審晴レ不申候。若又我国ニはへ付タレハ、是非其国ニ而ハ其道ガ正道と申事ニも候ハヽ、天竺ニ而ハ仏教を正道と可仕哉と存候。我国ノ道ニ違候得ハ、孔孟ノ道も御取不被成候由、愈以孔孟沙汰向後御無用ニ被成候様ニ被存候。我国上代洪荒質朴ノ世、天然自然ノ道ナリシガ行レ居可申候。天地ニ無二候得ハ、道も無二候。唐ノ道天地ニ本キタレハ、我国ノ道も正道ならハ合可申候。同一ノ道ニも候ハヽ、拙者なと天地自然ノ道ヲ学候得ハ、神道稽古仕ルト同事と存候。されとケ様ニ申候得ハ、唐人ノ合点と被仰候。拙者なと神道ハ秘事々々と申候故哉、又ハはつきとしたる教もなき故哉、幼年より儒ヲ学候而、今更此外ニ又道アルベクモ不存候得ハ、神道是ニ叶候ヘハ珍重と存斗ニ御座候。只々我国ノ歴代故事ニうとくテ唐ノ故事等ヲ情出し第一ニ学ヒ候ハ、是ハ尊喩ノことく御尤至極と是のみハ存事ニ候。先生ノ風水とや風葉とや申ス書も世上出不申候へハ、承可申様もなく、神道ノ教ハケ様ノ事哉。是レモ一向ニ合点不参候。貴丈御病気中なから講書も被成候由、其程ノ御精力珍重ニ存候。しかし右申候通ニ候ヘハ、儒学ヲスル人ノ老荘ノ書なとなやみ候合点ニ而御覧被成候哉と存候。

十月十七日夜(享保二年)

三宅丹次



〔注〕

(*)合字は二字に分解した。
(*)下付け文字の区別はしなかった。


補足

谷秦山と三宅尚斎が神道をめぐって争ったのは有名な話しだが、秦山の尚斎宛書簡が『秦山先生手簡』に見えるのに対し、尚斎の秦山宛書簡の原本は所在不明らしい。ところが関田駒吉氏の「宮地静軒伝」(『土佐史談』58・59・60連載。『関田駒吉歴史論文集』下巻に収録されている)に宮地静軒の筆写に係る尚斎の書簡を掲載していた。これは尚斎宛の第一書簡に対応する尚斎の書簡で、内容はほとんど『秦山手簡』の引用部分と同じだが、少しく文意の取りやすい形になっている。

なぜ静軒が秦山の尚斎宛書簡を所有していたかというと、秦山が教育のために尚斎宛書簡の模範文を弟子達に執筆させたらしく、静軒はそのとき尚斎の書簡を筆写したらしい。もちろん『秦山手簡』に遺る秦山の尚斎宛書簡は、弟子等の意見を汲みつつも、最終的に秦山が書いた文章である。

なお宮地静軒は秦山の弟子で、後に尚斎に学んだ人物として知られている。静軒の力もあり、宮地家は谷家・箕浦家とならぶ高知藩の学者の家となった。ただ静軒は秦山の弟子、子供の春樹は秦山の孫の真潮の友人、春樹の子供の仲枝は真潮の弟子という具合に、後々までも谷家の人々との関係が深かった。この辺りは関田氏の「隈山幽居中の宮地仲枝」(同所収)に詳しい。

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