駮天皇機関説(岡直養)

書き下し

天皇機関説を駮す

夫れ父を一家の機関と為すか。以て機関と為せば、則ち歪む者は以て正に改むべく、頑ななる者は以て賢に替うべし。然れども父は衆子の推す所に非ず。父有り 而る後に子有り。子有り 而る後に父有るに非ず。然れば則ち其の機関に非ざること明らかなり。蓋し我国の皇祖、天より降り、以て下土に君臨し、子孫 繁息し、遂に全土の民と為る。所謂大和民族は是なり。然れば則ち天皇 猶 家庭の父のごとし。天皇有り 而る後に国家有り。国家有り 而る後に天皇有るに非ず。是れ我の他邦と異なる所以なり。彼の舜なる者は聖と雖も、側陋の人。禹なる者は臣、湯武も亦 然り。秦漢以降 論ずる勿きのみ。是れ則ち土地と人民有り、而る後に天子有り。乃ち衆の推す所と為り、黄袍を得て衣る者なり。主権の人民に在ること、固り其の所なり。則ち之を機関と謂うも亦 可。今 外国 此の如きの故を以て、之を持ち来りて擬え、以て我国も亦 宜しく此の如かるべしと為す者、是れ徒だ異邦の制を知るのみ、而して我邦古来の史を知らざる者なり。制なる者は人の定むる所、史なる者は自然の迹。人の定むる所を以て、自然の迹を律さんと欲すは、譬うれば猶 趾を所Uりて渚福Kわしむがごとし。況んや皇国憲法、天皇を以て機関と為さざるをや。高岳親王 曰く「異朝の法を観て、吾神国の掟を守る者は、国の宝なり。外国の法を観て、我神国の掟を疏んずる者は、国の賊なり。」豈に信ならざらんや。豈に信ならざらんや。

原文

駮天皇機関説

夫父為一家機関乎。以為機関、則歪者可以改正、頑者可以替賢。然父非衆子所推。有父而後有子。非有子而後有父。然則其非機関明矣。蓋我国皇祖、自天而降、以君臨下土、子孫繁息、遂為全土之民。所謂大和民族是也。然則天皇猶家庭之父。有天皇而後有国家、非有国家而後有天皇。是我之所以与他邦異也。彼舜者雖聖乎、側陋之人。禹者臣、湯武亦然。秦漢以降勿論耳。是則有土地人民、而後有天子。乃為衆所推、得黄袍而衣者。主権在人民、固其所也。則謂之機関亦可。今以外国如此之故、持之来擬、以為我国亦宜如此者、是徒知異邦之制、而不知我邦古来之史者矣。制者人之所定、史者自然之迹。欲以人之所定、律自然之迹、譬猶所U趾適渚禔B況皇国憲法、不以天皇為機関乎。高岳親王曰:観異朝之法、守吾神国掟者、国之宝也。観外国之法、疏我神国之掟者、国之賊也。豈不信哉。豈不信哉。


補足

底本には『彪邨文集』(巻一)を用いた。岡直養(次郎、また彪邨。-1949年)の駮天皇機関説(天皇機関説を駮す)は、天皇機関説が問題となった頃の作と思われるが、正確な執筆時期は不明。岡氏は楠本硯水(九州の儒学者)の弟子で、内田遠湖とともに幕末から戦前にかけての道学者(崎門学者)として知られている。有名な資料ではないが、たまたま私の目にとまったので、ここに記しておくことにした。なお岡氏の歿年は、「黙斎を語る会」というサイトの『崎門学脈系譜』に従った。『崎門学脈系譜』原本は岡氏らの協力で成ったものだけに、同氏の歿年は記載されていない。

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