『保建大記打聞』(序文)

本文

師曰く、吾も人も、日本の人にて、道に志しあるからは、日本の神道を主にすべし。其上に器量気根もあらば、西土(もろこし)の聖賢の書を読みて、羽翼にするぞ。ならば上もない、よき学なるべし。是れ舎人親王の御本意、恐れながら吾等内内の志也。然るに今の神道者は、西土の書にうとくて、文盲なり。儒者は人の国をひいきし、吾が国の道を異端のやうに心得てそしり、各異をたてて湊合根著せず、学風が薄く猥りにして、見るに足らぬぞ。吾これを憂ひ、内内同志と講習して、天下の学風の助にもなる様にしたいと思へども、山崎先生は過ぎ去り玉ひて久しく、浅見安正は晩年神道に志は出来たれども、やうやう一両年の内卒去めされて、うしろだてにすべい先輩なく、其外名ある学者たち、多くは斉の国魯の国のせんさくを第一にして、吾が国に懇切なる志なく、又は神道を尊敬はせらるれども未伝授なり。其外は詩文の浮華にめで、どれもこれも取るに足らぬぞ。平生是をきのどくに思ひをりたに、このごろ不慮に此の書が出たぞ。是ほど珍重なことはない。古今めずらしい書ぞ。是こそ神道を大根にして、孔孟の書を羽翼にしたと云ふものぞ。さるによつて吾れ事の外信仰する。過ぎ去つた人なれども、甚だ味方に思ふて、此の講席を開くぞ。別して本望千万ぞ。栗山氏の師授淵源はしらねども、両巻とも論に間然することはないと見へた。先賢にも愧ぢぬ見識、後学のよき矜式なり。日本の学者は唯この様に学問をしなすべいものぞ。千万祈祝の至り也。

補注

底本には『日本国粋全書』所収本を用いた。

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