『秦山集』を読む(一)

全体の構成

土佐南学の中心人物として知られる谷秦山(名は重遠)には、『秦山集』なる文集が遺っている。本書は秦山がその晩年に出版を意図しつつも、ついに適わず、長らく谷家に所蔵されていた。しかしこれを心に留めていた子孫の谷干城(西南戦争で活躍した人物)が、明治四十三年になって出版した。現在利用される『秦山集』は、通常はこの谷干城発行のものを指す。

その『秦山集』は一帙全五冊全四十九巻の和装本で、各々一冊目から順番に仁・義・礼・智・信の号が充てられている。全漢文。日本人が漢文で書いたものだけに、単純な比較はできないが、同時期の中国人が百巻を優に越える書物を著していることを考えるとき、五冊一致津に収まる『秦山集』は、さして大部の書物と言うに当たらない。

『秦山集』の構成は、第一冊(仁)に詩集(漢詩のみ)、第二冊(義)に書簡と雑著、第三冊(礼)、第四冊(智)、第5冊(信)前半までに、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干各二字の順に並べられた録(雑著)、第5冊後半に題跋などの雑文、最後の巻四十九に谷氏族譜が収められている。『秦山集』を締めくくる形で、序文は秦山の高弟・美代重本が、跋文は嗣子の垣守が記す。なお現在の『秦山集』は、最終冊最後にその出版整理の任に当たった松本豊多氏の秦山先生小伝が付されている。

本書の中心部分は十干の文字を配した録で、それも各々甲乙録(一~十二)、丙丁録、戊己録(一~三)庚辛録(一~二)、壬癸録(一~九)の内訳となっている。この中、甲乙録は一~八までが秦山幽閉前の講学筆記、九以降は神社の考証等の研究成果、丙丁録は日本に関する記述、戊己録は漢学に関する記述、庚辛録は秦山最晩年の記録が残されている。ただ壬癸録だけは、特別に天文に関する議論を集めた物で、前半は渋川春海の言葉を書き綴ったもの、後半は天文の観測結果などが書き連ねられている。

なお『秦山集』は、後に甲乙録の一~八とが同じ『秦山集』の名で、丙丁録、戊己録庚辛録の三種が『秦山随筆』の名で、各々『土佐國群書類従』に収録された。『秦山集』は全漢詩漢文で記された講学に関わる文献を集めたもので、和文の書簡を集めた『秦山先生手簡』や『俗説贅辨続編』『保建大記打聞』『小学晩進録』などの単行本は収録されていない。また『秦山集』未収録の短文は、垣守が『秦山拾遺』と題して一冊の書物にまとめている。

巻一~巻七:詩集

『秦山集』巻一~巻七には漢詩が収録されている。第一冊の全てが漢詩のみに充てられていることからも、秦山がいかに多くの漢詩を作ったか容易に了解できる。私は漢詩を論評する力がないので、外形的なことだけ記しておきたい。

秦山の漢詩は感情的なものも多数あるが、旅行記の一つとして作られたものが比較的多く、ついで神社等に対して捧げた賛歌のようなものが目立つ。秦山は生涯に一度だけ江戸に赴き、澁川春海から直に神道を質した。現在でもそのときの旅行記が『東遊草』として遺っている。『秦山集』第一冊目には、その旅行のときに歌った漢詩が多数収録されており、かなりの分量を占めている。

つぎに秦山晩年の心境を知り得るものが漢詩の中に見いだせる。言うまでもなく、秦山はその最後の十二年を無実の罪に問われ、幽閉蟄居のうちに過ごして死んだ。しかし秦山は泰然自若として平素と変わるところなく、少しも怨みの心がなかったとされる。恐らくそれは正しいだろう。しかし心の奥底に何の変化もなかったかと言えば、それは疑わしい。むしろ秦山の残した文献などを見る限り、彼は人間の心の奥底に蠢く邪な心をよく了解し、それを矯めるべく努力していたと思われる。したがって最後の十二年も何の感慨もなかったのではなく、むしろ絶え間なく起こる心の乱れを常に矯めていたと解すべきと考えられる。

さて『秦山集』の漢詩は、秦山若年より最晩年に至るまでの詩を載せるが、秦山が蟄居を命ぜられて以後、毎年のように正月になると「罪籍未だ除かれず年○たび去る」との文句が現れる。少しその跡を追うと:

丁亥歳除:罪籍未除年已去
戊子歳除:罪籍未除年再遷
己丑歳除:罪籍未除年三去
庚寅歳除:罪籍未除年四去
(中略)
丙申歳除:罪籍未除年十去
丁酉歳除:罪籍未除十一年
戊戌歳旦:十二年来罪籍中

ここに罪籍の解けることを待つ秦山の心境を読み取ることは容易だ。中国の偉人伝などでは、罪籍にあろうがなかろうが全くお構いなしという人々が大勢登場するが、秦山は素直に罪籍の解けることを願っていたと言える。罪籍にあることに苦しみながら、なおも泰然自若として生活できるところに秦山の偉大さを感じるとともに、こうして素直に自分の心境を歌うところに、常識人としての秦山の姿を感じる。

巻八~巻十二:書簡

『秦山集』第二冊目の前半には、秦山の漢文による書簡が収録されている。秦山は全ての書簡を漢文で書いたわけではなく、和文によるものも多い。このうち漢文書簡は『秦山集』第二冊目に、和文書簡は『秦山先生手簡』にまとめられた。『秦山先生手簡』は稲毛実の手にかかるもので、『土佐國群書類従』雑部に『秦山手簡』と題して収録されている。ただし同書は昭和十四年に青楓会から単行本として出版された。近代以降の出版とあって、このとき文字も現代通用の平仮名に改められたほか、原本未収録の書簡も増補されたので、可能ならば青楓会本の『秦山先生手簡』を利用すべきだ。秦山の書簡は、漢文の書簡に後世著名になったものがある一方、和文のものにも重要なものが少なくない。したがって秦山の書簡を調べる場合は、必ず『秦山集』所収の漢文書簡と『秦山先生手簡』所収の和文書簡を見る必要がある。

さて『秦山集』所収の漢文書簡は、兄に奉った書簡に始まり、闇斎、絅斎、春海などの秦山にとって先生にあたる人々に送った書簡(巻八~巻九)、富永成是らの畏友や上司、学者に対する書簡(巻十~巻十二)に分けられる。殊に巻十一に収められた中村恒亨に与えた書簡は、秦山の日本精神発揚を如実に著したものとして非常に有名になった。曰く:

天照大神 天津彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊の曲玉および八咫鏡、草薙剣の三種の宝物を賜ひ、また天児屋命、太玉命、天鈿命、石凝姥命、玉屋命、凡そ五部の神たちを配して侍らしめて、因りて皇孫に勅して曰く、「葦原瑞穂の国は、是れ我が子孫 王たるべきの地なり。宜しく爾 皇孫 就いて治しむべし。行けや。宝祚の隆へんこと、当に天壌と窮まり無きものなり」と。是れ乃ち吾が道の本原にして、天地の位する所以、君臣の叙つる所以、此に在り。千秋を更ても万歳 二道なきものなり。

なおこれに関して、秦山は神道をめぐって浅見絅斎や三宅尚斎と論争したが、その書簡は漢文ではなく和文で書かれているため、『秦山集』には収録されていない。それらの書簡はいずれも『秦山先生手簡』に収めれられている。

これ以外にも秦山の思想をうかがうに価値ある書簡は多く存在する。その中でも秦山の生涯と関係するものに、野中継善に与えた書簡がある。継善は野中兼山の息子で、兼山失脚後、数十年にわたり死ぬまで幽閉を解かれなかった人物である。若き頃の秦山は朱子学の普及に尽力した兼山の遺徳を思い、かつて幽閉中の継善を尋ねた。しかし幽閉とは名ばかりで、実際は座敷牢のごとき場所に閉じ込められていたのを知り、衝撃をうける。そして心を落ち着けて書き送ったのが、この書簡であったという。後年、秦山自身も幽閉の身にあったことを思うとき、このときの秦山の書簡は、そのまま晩年の自分自身に試されたものであったと言えるだろう。

継善に与えた書簡はかなりの長文で、まず朱子の書物の永遠性を論じ、次いで野中兼山と闇斎(兼山の弟弟子)が朱子学を講じたことの不朽の功績を挙げ、次いで秦山もその遺沢を受け、ぜひとも兼山の子孫と講学したいこと、しかるに未だ幽閉の身分で、面と向かって話しもできない無念を告白する。次に人間として踏み行うべき道を論じ、その具体例として宋代士大夫の生き様を引き、最後に幽閉中にあってなお温雅沖澹の詩を詠む継善の人間的高尚を称賛した上で、絅斎の『靖献遺言』を贈り、この道を実践すれば幽閉のまま死してなお怨みなく、「幸いに天日を見ること有るも」有益であることを述べ、文を結ぶ。しかし書簡の中心部分は下の言葉に尽きている。

蓋し之を聞く、朱子の道 大にして且つ博し。然して其の実 父子の親、君臣の義、二の者に過ぎざるのみ。此の二者は天の我に与ふる所以にして、我の得て以て性と為る所、人心の已むべからざるに根ざして、天地の間に逃るる所無し。是を以て子の親に事へる、臣の君に事へる、一に其の心を尽くし、死ありても弐なし。それ或いは事変 斉しからず、放逐の悲しみ、竄殛の惨きに遭うことありと雖も、我の已むべからざるもの、おずから息むこと能はざれば、則ち慝を引き身を致し、敢えて一毫の怨懟の私あることなし。或いは不幸にして君父亡没するや、この心を施す所なきが若しと雖も、然れども此の身は即ち親の遺体、君の違黎なれば、則ち我の已むべからざるものも亦 依然として易うべからざるなり。故に葆嗇 節を守り、敢えて一毫解弛の念あることなし。これ君父に徳とすることあるに非ず。蓋し必ず此の如くにして、然る後 本心に慊りて、天地の間に愧ることなきのみ。瞽叟は惨父なり。つねに舜を殺さんと欲するも、舜の知 その惨を知らず、曰く「惟だ父母に順いて、以て憂いを解くべし」と。紂は忍君なり。文王を羑里に拘ふを、文王の聖 その忍を知らず、曰く「臣が罪 誅に当たる。天王は聖明」と。父 没す。曾子 一息なお存するの間に薄きを履み深きに臨めり。君 亡ぶ。伯夷 仁を求め天下 周を宗とするの秋に仁を得たり。これ舜の性なる所以、文王の至徳なる所以、曾子・伯夷の魯を以て之を得 且つ聖の清と為る所以にして、之を要するに本分の外に於いて、毫末を加ふることあるに非ざるなり。もし湯武の慚じて未だ尽くさざる所以、それも亦 此を謂うなるか。朱子 六経・四子を羽翼し、小学・近思を蒐輯せる、その用心精力 蓋し此にありて、『通鑑綱目』はその事実を挙げ、『楚辞集註』はその実情を述ぶるものなり。世の放臣屏子 往往にして此に聞くことある能はず、その抑鬱無聊の感に迫られ、勝えずして天年を夭するものあり、詩に遁れ、酒に遁れ、老釈に遁れ、琴棊書画の玩に遁れるものあり。此の如くなる者はみな惑いなり。また罪あり。嗚呼、天の与うる所、それ奚ぞ避けんや。

この手紙を書いたのは秦山二十五歳のときという。若き秦山がどれほど朱子学を会得していたか、また強靱な精神をもつ人間であったか、これだけからも窺い得る。

巻十三と巻十四:雑著

『秦山集』第二冊後半に収録された雑著は、講学筆記の寄せ集めである第三冊目の甲乙録以下と異なり、おのおのが独立した一論文である。なかには朝倉神名弁のようなそれ自体で冊子として完結した文献も含まれている。しかし概して短文のものが多く、『保建大記打聞』のような大部のものは存在しない。

統一性のある内容ではないので、内容説明の代わりに目次を挙げておく。

巻十三

  • 洪範全書末巻説(庚申)
  • 考定継体天皇本紀錯乱(乙丑)
  • 朝倉神名辨
  • 蓍卦考誤左数右策左右皆策説(庚午)
  • 蓍卦考誤蓍図辨(辛未)
  • 伊川涪州説
  • 禫説
  • 読李氏蔵書景泰諸君子伝
  • 時点説(乙亥)
  • 立子以長以徳辨
  • 日本称倭辨(壬午)
  • 谷氏大神姓説
  • 底筒祭説(丁亥)

巻十四

  • 譜法三篇
  • 土佐国式社考
  • 幼科新義三篇(丁亥。代筆)
  • 私講牓諭(癸酉)
  • 策問(全四篇。庚午。辛未。甲戌)

篇名のみでは分かり難いものを説明しておく。まず第十三巻では、朝倉神名辨は朝倉神名の由来を説いて林羅山説に反対したもの、伊川涪州説は程頤の涪州左遷後の心境を書いたもので、怨みの心をもってはならないとの言葉。時点説は澁川春海の講説を記したもの、谷氏大神姓説は谷氏が大神姓の出であることを説いたもので、これを受けて孫の真潮も附大神姓説後を著した。底筒祭説は底筒祭(庶民が先祖を祭る礼)のことで、目下の急務でありながら、かえって忽せにされているとして、旧聞をあつめて研究の便に供したもの。

次に第十四巻では、譜法は族譜の製作法を説いたもので全三篇。幼科新義は馬詰敬親の著作を漢文に書き直したもので、秦山自身の文章ではない。なお同書は医学書である。私講牓諭は秦山が「日本の学」の重要性を説いたものとして誉れ高い。策問は、科挙の試験の一つで、後に文章のジャンルの一つになったもの。「問題」のみあって「解答」はない。

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