『秦山集』を読む(二)

巻十五~巻二十六:甲乙録

『秦山集』第三冊(礼)、巻十五~二十六に収録される『甲乙録』一~十二は、内容的に一~八と九以下に分けられる。まず『甲乙録』一~八は、秦山が渋川春海らから聞き取った言葉を集めたもので、秦山その人の言葉は少ない。これに対して、九以下は秦山独自の発見を収めている。ただし両篇ともに神道や日本に関する故事が圧倒的に多く、系統的に論述したものではない。以下、甲乙録の形態を記した秦山の言葉を抜き出しておく。

『甲乙録』一の第一条:

重遠曰く、予 神道を渋川先生及び荒木田経晃神主に学ぶ。其の神代巻・中臣祓に関わること有る者は、既に之を二書に注す。其の他 書批の間、言 神道に及ぶ者、具に此に録す。其の姓氏を冠せざる者は、皆 渋川先生の言なり。

同第六条の秦山自注:

重遠謂う、渋川翁と講論する所 多端。其の神道に関わらざる者も亦 多し。今 悉く録し、『甲乙禄』に入る者は、蓋し其の講習の年月次第、記識に備へんと欲すればなり。他 皆 此に倣ふ。

『甲乙録』八の最終条の自注:

以上、丙戌に聞く所。丁亥初夏、罪を以て籠居し、書問を絶つ。十月廿六日甲辰、以上数冊を録す。

秦山がはじめて渋川春海に書問を送ったのが元禄七年の三十二歳のときであり、罪を得て禁錮せられたのが宝永四年(丁亥)の四十五歳のときであるから、甲乙録の一~八は、秦山壮年のころの研究成果をまとめたものであることが分かる。

秦山自身が指摘するように、『甲乙録』一~八は、渋川春海との神道及びその他もろもろの事項を論じたものだが、秦山の独立の著書である『神代巻塩土伝』『中臣祓塩土伝』の二書に注解を施した部分については、『甲乙録』から省いたようである。

次に『甲乙録』九以下について、これはその第一条自注に「此の冊以下、重遠の私考及び諸家に聞く所を雑記す」とある。内容は神道に関するものがほとんどで、神様の考証や神社の研究の占める比重が大きい。例として二条ほど引いておきたい。

成務天皇の時、建内宿禰 大臣と為り、大国小国の国造を定賜し、亦 国国の堺、及び大県小県の県主を定賜す。其の功 大なり。(『甲乙録』九)

足羽郡足羽神社、暦年史に曰く、継体天皇なり。(『甲乙録』十一)

なおこの『甲乙録』一~八は『土佐國群書類従』詩筆部(巻百二十。新版第十巻)に収録されており、次のような川田資哲の識語を付している。

宝暦丙子仲夏、坂本翁 谷川淡子の親筆する所の甲乙録を請借す。予 亦 一覧を得。予 翁に謂いて曰く、「此の書 発明多し。而して且つ考うるに便なり。請う 謄写せんことを」と。翁 曰く、「近日 谷氏に返璧せんと欲す。恐らくは書写に暇あらず」と。予 強いて之を留むること数日、仲夏既望に筆を起こし、廿四日に至る。中間九日を経、全部八巻 謄写し功成る。而して家庫に珍蔵す。只だ恐らくは急迫の間、校訂に遑あらず、而して往々にして謬誤あらんことを。読者は諸を思え。


巻二十七:丙丁録

『秦山集』第四冊(智)に収録される丙丁録(巻二十七)は全112条で、秦山の日本に関する発言がまとめられている。概ね前半には史実の考証が多く、後半には他者の著述に対する批評・抜書および聞き取りが目立つ。途中、井沢長秀の『俗説弁』『続弁』『新弁』、および貝原益軒の『自娯集』からの抜書と批評がある。著述年代は特定できないが、文中に「元禄乙亥」の紀年があるので、少なくとも秦山三十三歳以後、学問的に実り多い頃の記述を含む。

既に秦山には『俗説贅弁』の著書があり(『広益俗説弁』(国民文庫刊行会、大正元年)に収録さる)、甲乙録に同じく本録にまとまった論説はない。ただ一~二の興味を引く発言を例示しておきたい。

我が国 櫻花を愛し、西土 牡丹を愛す。我が国 鶴を嗜み、西土 牛を嗜む。両国の習尚 同じからざること、多く此に類す。

尾張大納言義直卿、編む所の『神祇宝典』十巻。予 未だ之を閲せず。序文を以て之を考うるに、莫大の盛挙と謂うべし。

『芝山会稿』十二巻(十巻 已に印す)、土佐の大高坂季明の文集なり。自から称許すること大過、然れども文格生硬、字法差謬、看るに堪えず。『南学伝』の事実、極めて妄誕多し。蓋し亦た論ずるに足らざるなり。元禄乙亥十二月印。

なお本録は『土佐國群書類従』雑部に『秦山随筆』一として収録されている。ただしまま誤植を含み、欠落部分も少なくないので、利用には注意を要する。

巻二十八~巻三十:戊己録

『秦山集』巻二十八~三十には戊己録が収められている。内容は丙丁録同様、講学雑記といった感じのものだが、丙丁録が日本に関するものであるのに対し、戊己録は純然たる漢学に関するものである。録中には薛敬軒の『読書録』や李退渓、歴代諸儒に対する論評が数多く見られ、殊に薛敬軒にはとりわけ高い評価を加えている。

その戊己録は全三部から成り立つ。まず戊己録一(『秦山集』巻二十八)は二十代後半のものを、戊己録二(同巻二十九)は三十代前半のものを収め、特に詩経や四書に関する議論のほか、文末に『朱子文集』『近思録』の抜粋が見られる。戊己録三(『秦山集』巻三十)は文章中に年代を断定できる記述が少なく、執筆時代を特定するのは難しい。全般的に上の二巻から少し飛んで、四十代後半から五十代にかけての記録、つまり秦山最晩年の記録と思われる。記述の傾向としては、『朱子語類』の引用が多くを占め、次いで師匠の闇斎や同門の絅斎・直方に対する論評が興味を引く。その他、若干の考証的発言も看られる。

秦山には最晩年の記録である『秦山日記』が遺っているが、遺憾ながら特殊な機関に所蔵されているため容易に閲読でず、わずかに正徳四年~五年にかけての記述が『南学』(第二十八号以下)に翻刻されているに過ぎない。そのため晩年の秦山幽閉後の精神的進展を知るにはやや不足気味である。その意味で戊己録三は秦山晩年の精神状態を記すおもしろい資料なのだが、分量は多くなく、また他書の引用が多く、秦山その人の感想が少ない。しかし子供達をあいついで失った秦山が、「運命は前定されている」「人生の目的は義理の当然を尽くすことだ」といって納得しようとする姿勢には、朱子学者としてのある種の美しさが感じられる。

以下、特徴的なものを少し引いておきたい。

『読書録』は読まざるべからず。

『讀書録』 架に在れば、便ち清気 人に逼るを覚ゆ。

明道先生、至誠は神明に通ず。而るに九子を生み、六人 先に卒す。土津霊社、亦た近世の有徳君子。而るに十子を生み、八人 早世す。吉凶禍福、各々自ずから前定し、奈何すべからず。予 累りに子を喪い、悲哀 気を出す能わず。其れ命を知らざること甚だし。(乙未)

子孫の衆多を願うも得べからず、壽命の長久を願うも得べからず、爵禄の裕厚を願うも得べからず、身世の優閑を願うも得べからざるは、命なり。命に於いて知る有れば、凡そ為にする所有りて為る者は、皆な徒為のみ。豪髪も効を得る能わざるなり。然れば則ち人世一生、惟だ義理の当然を尽くすを、究竟の手段と為すのみ。『易』に曰く、君子は命を致して志しを遂ぐ、と。至れり。

死生はみな天命なり。花雲が子、百死の理あり。而るに竟に免かる。豈に人謀の能く及ぶ所ならんや。

周新 直臣、枉殺を免れず。此れ天命なり。吉凶禍福 善悪邪正と契勘せざるや、此の如し。命を知ること難からんや。

なお戊己録も『土佐國群書類従』所収『秦山随筆』二~四に収録されている。

巻三十一と巻三十二:庚辛録

庚辛録も秦山の講学筆記。経史子集にわたり幅広く論述した随筆的書物だが、分量的には史(特に明代)に関するものが多い。執筆年代は判然としない。ただしその二(巻三十二)に次男を失った最晩年の記述が見えることから、秦山最末年の記録を含むものと推定される。二の第十一条(羅氏閑居之楽云々)に秦山の自叙伝的記述があるのが、本録最大の特徴と言える。ただし同条は非常に長文なので、また別個紹介したい。なお戊己録も『土佐國群書類従』所収『秦山随筆』に収録されている。

巻三十三~巻四十一:壬癸録

『秦山集』第四冊(智)後半から第五冊(信)前半に収録される壬癸録は、同巻三十三~四十一を占める大部の著述で、天文に関する記述のみを集めた特殊なかたまりである。本録は『土佐國群書類従』所収の『秦山随筆』にも収録されておらず、『秦山集』でしか読むことができない。江戸の天文学が秦山の学問の重要な一部であることは明白だが、遺憾なことに私の天文に関する知識は絶無なので、ここでは例文を引きながら、表面的な特徴だけを記録しておく。

まず秦山その人の天文学に対する思いについて:

予 『壬癸録』を草し、暦術の浅き者を載す。窃かに読者の笑となることを羞ず。頃ごろ『輟耕録』を読む。亦 授時の暦術を載す。其の法 疎膚愈々甚だし。乃ち前輩も亦 此の好み有ることを知るなり。蓋し星暦の学、盤錯肯綮たり。其の万一を録して、以て諸を同嗜に貽すこと、必ずしも過ちと為さざるなり。(庚辛録二)

以下、壬癸録各冊ごとの編纂主旨を記す。

第一冊:都翁(渋川春海)からの聞き書き。

以下、姓名を冠さざる者、皆 諸を都翁に聞く所。(第1条自注。都翁は春海のこと)

第二冊:秦山の天文暦数についての発言。

重遠謂う、頒暦日月食は日用通行の算なり。布算繁多、悉く記すこと能わず。今 粗ぼ平時に用いざる者を左に録す。(第1条)

全てにわたり「柳、赤積四十四度、黄道四十一下云々」などの具体的な度数がひたすら列挙されている。

第三冊:特に総論めいたものは見あたらない。全体的に天文暦数の知見や故事を箇条書きにした印象を受ける。ただし第二冊目のような度数の列挙はない。

第四冊;渋川春海との貞享暦に関する問答をまとめたもの。

重遠謂う、以下 貞享暦の次第に就き、師伝を録す。浅きもの有り深きもの有るも、敢えては私に之を略さず。元禄丙子以来、此の書を筆談す。宝永甲申、面あたりに口訣を授かる。前後九年の問答を取会するも、必ずしも年に繋けざるなり。(第一条の自注)

第五冊~第七冊:第四冊目の続き。

第八冊:秦山の天文暦数に関する見解をまとめたもの。冒頭に「此の巻、皆 重遠の測考なり」と注記がある。星の運行を記し、まま論が天人相関に及ぶ。

第九冊:総論なし。『皇明通紀』『通鑑綱目』から天変に関する記述を集めたもの。最終条に貞享暦の冬至加時と黄道日度に関する議論がある。

壬癸録は大きく分けると、(一)秦山の師・渋川春海の言葉を残したもの、(二)秦山の天文学に関する知見、(三)貞享暦をめぐる春海と秦山の問答、(四)天変を歴史書からまとめたもの、このの四つに分けられる。

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