宋の成立

(01)宋の太祖の建隆元年(960)は、周の恭帝――宗訓の元年である。

これ以前、周の乾徳六年の十一月、鎮州と陳州から、北漢が契丹の兵と合流して侵略を始めたと連絡があった。この年の正月の辛丑朔日、殿前都点検・検校太尉・帰徳節度使の趙匡胤は、兵を率いて防衛に当たることになり、殿前副都点検の慕容延釗が前軍を率いて先に出発した。当時、皇帝は幼く、国中は疑惑に包まれていた。内外には、匡胤を〔皇帝位に〕推戴すべく密議があり、都下は「出軍の日に点検を天子としよう」と喧しかった。人々は恐れおののき、逃亡の算段に余念がなかったが、内廷だけはのんびりとしており何も知らなかった。

癸卯(三日)、大軍が続いて出発した。軍校の苗訓は天文に明るかった。太陽の下にまた太陽が生まれ、黒い光がしばし摺り寄っているのを見て、匡胤の側近の楚昭輔に、「これは天命だ」と言った。この日の夕方、陳橋駅に軍を止めた。軍人らが集まって相談するには、「皇帝はまだ幼い。我々が死力を尽くして敵を破っても、功績を認めてもらえまい。まず点検を天子に奉戴し、それから北方に遠征しても遅くはあるまい。」都押衙の李処耘は、匡胤の弟で供奉官都知の匡義と帰徳掌書記の趙普に事態を伝えた。匡義と普は将軍らに円陣を組ませ、夜明けまで待機させると、牙隊軍使の郭延贇に単騎入京させ、殿前都指揮使の石守信、都虞候の王審琦に報告させた。二人はもともと匡胤に心を寄せていた。

甲辰(四日)の夜明け、軍卒が匡胤の寝所に迫ると、匡義と普が帳の中に入って事態を伝えた。このとき匡胤は酒に酔って寝ており、あくびをしながらもぞもぞと起き出した。将校は既に抜き身の姿で広場に並んでおり、「我々には君主がおりません。願わくは太尉を皇帝に戴きたい」と言うと、匡胤がまだ応えないうちに、黄袍をまとわせた。そしてすぐに整列して拝礼すると、万歳を歓呼し、匡胤を馬上に担ぎ上げ、汴都に帰還した。

匡胤は手綱を執りつつ、「諸君らは富貴のために私を皇帝にした。私の命令に従えばよし、さもなくば私は諸君らの君主になることはできぬ。」将兵はみな下馬して、「願わくは命のままに」と答えた。匡胤、「太后と主上は、私が臣下としてお仕えする人々、手出しはならぬ。朝廷の宰相らは、私の同僚、侮蔑は許さぬ。朝廷の宝物庫は掠奪してはならぬ。命に従えば重く褒美を与えよう。違えば、諸君らを許さぬ。」「仰せのままに。」こうして軍を整えて帰還の途についた。

乙巳(五日)、汴都に入城した。

まず楚昭輔を遣わし趙家の安全を確保させ、つぎに客省使の潘美を派遣して宰執に事態を伝えさせた。まだ朝の政務の終わる前だったが、事変が伝えられると、范質は王溥の手を取って、「よく考えもしないで将軍を派遣したのは我の失敗だった」と言った。〔質の〕爪は溥の手に食い込み、血が出るほどであっが、溥は口を噤んで何も言えなかった。

侍衛親軍副都指揮使の韓通は、防禦の策を練るべく、禁中から急ぎ私邸に向かうと、軍校の王彦昇はあとを付けた。通は私邸に入ったが、門を閉じる前に、彦昇に妻子ともども殺された。

匡胤は明徳門に登り、甲兵を陣営に引かせ、自身は役所に退いた。軍卒が范質らを引き連れてくると、匡胤は彼等をみて涙を流し、「私は世宗の厚恩を受けながら、六軍に迫られ、このようなことになってしまった。天地に罪を羞じる次第。どうしたらよかろうか。」質らが応えないため、列校の羅彦瓌は剣を抜いて声を怒らせ、「我等には君主がいないのだ。今日、どうしても天子を奉戴せねばならん。」質らはたがいに顔を見合わせ、なすところを知らなかった。溥が階段を降り、いち早く拝礼したので、質も已むを得ず拝礼した。かくして匡胤は崇元殿に詣でて禅譲の儀式を求めた。百官を呼び寄せ、日が暮れには朝廷の列次も決まったが、まだ禅譲の詔書ができあがらなかった。翰林学士承旨の陶穀が袖の中から出したため、それを用いることにした。

匡胤は朝廷に赴き、北面して〔禅譲の詔書を〕拝受した。この後、御殿に導かれると、皇帝の位に即いた。周の君主を鄭王に奉じ、符太后を周太后とし、西宮に遷した。

〔この日、〕大赦して改元した。所領の帰徳軍が宋州にあることから、国号を宋とした。使者を派遣して各地の藩鎮に告知し、各々をふさわしい官爵に進めた。国運は火徳の王に当たるので、赤色を貴ぶことにし、臘の祭は戌の日を用いることにした。

帝は涿郡の人。四世の祖の朓は、唐の幽都の長官だった。珽が生まれ、珽は唐の御史中丞になった。珽は敬を生み、敬は涿州の刺史になった。敬は弘殷を生み、弘殷は周の検校司徒・岳州防禦使になった。弘殷は杜氏を娶ると、〔杜氏は〕洛陽の夾馬営で帝を生んだ。赤い光が部屋を囲み、特異な香があたりを包み、消えることがなかった。〔帝は〕成長すると、容貌は立派になり、度量も広かった。先見の明あるものは、常人に異なる人であることを知った。周に仕えて東西班行首となった。昇進を重ね、殿前都指揮使になり、軍政をつかさどること六年、しばしば世宗の征伐に従い大功を立て、人望の帰するところとなった。

むかし世宗は、袋の中から長さ三尺あまりの木を見つけた。そこには「点検が天子になる」とあった。当時、張永徳が殿前都点検だったので、〔匡胤に〕交替させた。しかし、結局、〔点検であった匡胤が〕周に代わって王朝を立てることになった。

華山の隠者陳摶は、帝が周に代わって王朝を立てたことを知ると、「これでようやく天下も落ち着こう」と言った。そうこうしているうちに、鎮州から北漢の兵が引き上げたと報告があった。


(02)戊申(八日)、周の馬歩軍副都指揮使の韓通に中書令を贈り、礼を尽くして埋葬させ、その忠義を明らかにした。

独断で韓通を殺害したとして王彦昇を処分しようとしたが、建国したばかりのことだからとて、群臣は〔彦昇の罪を〕赦すよう求めた。しかし帝の怒りは解けず、〔彦昇は〕死ぬまで節鉞を与えられなかった。


(03)辛亥(十一日)、皇帝奉戴の功績があったとして、石守信に侍衛親軍馬歩軍副都指揮使を、高懐徳に殿前副都点検を、張令鐸に馬歩軍都虞候を、王審琦に殿前都指揮使を、張光翰に馬軍都指揮使を、趙彦徽に歩軍都指揮使を加えて節度使とし、自余の軍指揮官は爵位を進められた。

この当時、慕容延釗は精鋭を率いて真定府に駐屯しており、韓令坤は軍を率いて北方を巡回していた。帝は人を派遣して意向を伝え、臨機応変に事を行うことを許した。二人とも命令に従った。そこで延釗に殿前都点検を、令坤に自衛都指揮使を加えた。


(04)乙卯(十五日)、帝は弟の匡義を殿前都虞候とし、光義に改名させた。趙普を枢密直学士とした。


(05)四等の祖先の廟を立てた。

高祖の朓を尊んで僖祖文献皇帝とし、曾祖の珽を順祖恵元皇帝とし、祖の敬を翼祖簡恭皇帝とした。妃もすべて皇后とした。亡父の弘殷を宣祖昭武皇帝とした。〔宗廟の〕礼を以下のように定めた。――毎年、四時の第一月(正月・四月・七月・十月)と冬の第三月(十二月)の五回は、宗廟に供物をささげる。朔日(一日)と望日(十五日)は、供物や初物をささげる。三年に一度、祫祭を行い、そのときには冬の第一月(十月)を用いる。五年に一度、禘祭を行い、そのときには夏の第一月(四月)を用いる。


(06)夏四月癸巳(二十四日)、周の昭義節度使の李筠が挙兵した。

これ以前、帝が即位したとき、筠に中書令を加えた。使者が潞州までやって来ると、筠は追い返そうとしたが、上客が反対したため、使者を迎え入れた。〔筠は〕酒席を用意すると、すぐに周の太祖の画像を取り出して壁に掲げ、嗚咽して止まなかった。上客は驚愕して使者に、「公は酒に酔ってしまい、常軌を逸してしまったようだ。どうかお気になさらずに」と弁解した。北漢の君主はこれを聞き、蠟書をよこして、ともに挙兵すべく密約を結んだ。筠の長子の守節は泣いて諫めたが、筠は聞き入れなかった。

帝はみずから詔書を出して〔筠を〕慰めると、守節を招いて皇城使とし、帰国させた。そして筠にこう伝えさせた。――「私がまだ天子でなかったとき、君が皇帝になるのを認めたではないか。こんどは私が天子になったのだ。どうして君は許してくれないのか」と。守節は帰国すると筠に伝えたが、筠は結局挙兵してしまった。〔筠は挙兵すると、〕幕府のものに檄文を作らせ、帝の罪を数え上げた。監軍の周光遜らを捕らえて北漢に送り、軍の増援を要請した。また人を遣わして沢州刺史の張福を殺させると、その城を占拠した。

従事の閭丘仲卿は筠に進言した。――「公は単独で挙兵され、状勢は甚だ危険です。河東(北漢)の来援に頼るといっても、その助力を得られぬのではないかと畏れるばかりです。大梁(宋)の精鋭は力があり、先鋒を争い難いものがあります。西に進んで太行を下し、ただちに懐州・孟州を襲い、虎牢を塞ぎ、洛邑を占拠して、東面して天下を争うのが、上策です。」筠は用いることができなかった。

北漢の君主はみずから兵を率いて筠のところに赴いた。筠は出迎えて太平駅で謁見すると、「周の太祖の恩を受けた以上、死をも厭わぬ」と言った。北漢の君主は、周と仇敵の間柄だったので、これを聞いて不機嫌になった。そこで宣徽使の盧賛に軍を監視させることにした。筠は、北漢の兵が弱小であるばかりか、賛が来て〔筠の動きを〕監視するのを知り、心中甚だ悔やみ、謀議は対立することが多かった。そこで〔息子の〕守節に潞州を守らせ、自身は軍を率いて南に向かった。

北漢の君主は、賛と筠の対立を知り、平章事の衛融を遣わして和解させた。帝は石守信・高懐徳・慕容延釗・王全斌に各方面から〔筠の勢力を〕撃破させることにした。そこで守信らにこう言いつけた。――「筠に太行を取らせてはならぬ。急ぎ兵を率いて要害を防ぎ、必ず撃破せよ。」守信らは筠の兵を長平で破った。


(07)六月辛未(三日)、帝はみずから大軍を率いて筠を討伐した。山路は険しく、石に埋もれていた。帝は率先して馬上から数個の石を背負ったので、兵卒も争って石を背負い、その日のうちに山路は平たい大道になった。かくして守信らと合流し、筠の軍を沢州の南方で大破し、盧賛を殺した。筠は逃げて沢州を守った。帝はみずから督戦し、柵で囲んだ。大将の馬全義は決死隊数十人を率いて城壁をよじ登り、ついに敵城に入った。筠はみずから火を放って死んだ。

衛融を捕らると、死を求めた。帝は怒って鉄で〔融の〕頭を打ち付けたため、血は〔融の〕顔面を覆うほどに流れた。それでも融は「こここそ私の死に場所だ」と叫んだので、帝は「忠臣である」と言ってこれを許し、太府卿とした。北漢の君主は懼れて軍を引き返した。帝はさらに潞州を攻撃すると、守節は城ごと降伏した。帝はその罪を許し、単州団練使とした。


(08)秋七月、潞州から帰還した。


(09)大梁を東京とし、洛陽を西京とした。


(10)己未(二十一日)、周の淮南節度使の李重進が揚州で挙兵した。

重進は周の太祖の甥で、帝とともに周室に仕えて兵権を握っていた。このため常に心では帝を畏れていた。帝は即位すると、重進に中書令を加え、青州の節度使に移した。重進はますます不安に陥り、謀叛を考えるようになった。李筠が挙兵したので、重進は側近の翟守珣を潞州に遣わして筠と結託しようとした。守珣はもともと帝と面識があったので、都に潜伏して謁見を求めた。

帝が問うには、「私は重進に鉄券(鉄の割り符。特権を保証するもの)を与えようと思うが、これなら彼は私を信用するだろうか。」

守珣、「重進に帰順の心は芽生えますまい。」

帝は守珣に手厚い褒美を与えると、重進を説得させ、〔筠との〕謀議を遅らせることで、二人の凶漢が同時に乱を起こし、宋側の兵力が分断させられないようにしむけた。

守珣は〔重進のもとに〕戻り、軽々しく挙兵せぬよう戒めると、重進もこれを信じた。すぐに帝は六宅使の陳思誨を遣わして鉄券を与えた。重進は旅支度を調え、思誨とともに汴都に向かおうとしたが、側近らに阻まれ、決心できなかった。重進は、自身が周室と近い関係にあるため、天寿を全うでぬのではないか恐れ、ついに思誨を捕らえると、城の守りを固め、軍備を整え、人を遣わして唐に救援を求めた。唐の君主もこれを許した。〔帝は〕石守信・王審琦・李処耘・宋偓らに各方面から〔重進を〕討伐させた。趙普は帝みずから出陣するよう勧めた。

冬十月、帝は汴都を出発した。

十一月丁未(十一日)、広陵に到着し、その日のうちに撃破した。

城が陥落する間際、〔重進の〕側近らは思誨を殺そうとしたが、重進は「これから一族とともに火に巻かれて死ぬつもりだ。あれを殺しても何にもならん」と言い、そのまま一族を引き連れて焼け死んだ。思誨も殺害された。帝は城に入ると、謀略に加担したもの数百人を殺戮した。かくして揚州は平定された。

史臣の評。韓通は宋が禅譲を受ける前に死んだのだから、忠義の志は明白である。李筠と李重進は、旧史は謀叛だというが、謀叛か否かそう簡単に決められない。洛邑の所謂頑民、殷の忠臣ではなかろうか。ある人は、三人はむかし唐と晉と漢に仕えたという。それに対しては、こう答えられよう。――智氏に対する豫譲は誤っていたのだろうか、と。


(11)三年(963)冬十月、鄭王の宗訓を房州に遷した。王はこの後、開宝六年(973)の春に死んだ。諡を恭帝という。

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