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収兵権


(01)太祖の建隆二年(961)閏三月、慕容延釗を山南東道節度使とした。

これ以前、帝は禅譲を受けたが、このとき延釗は精鋭を率いて真定府に駐屯しており、韓令坤は軍を率いて北方を巡回していた。帝は人を遣わして意向を伝え、臨機応変の処置することを許し、二人とも命令に従った。そこで延釗に殿前都点検を加え、令坤にも侍衛都指揮使を加えた。ここに至り、延釗は真定府から帰還し、令坤も李重進討伐から帰還したので、両人とも節度使を罷めさせた。これ以後、殿前都点検が任命されることはなかった。


(02)秋七月、侍衛都指揮使の石守信らが禁軍を統べるのを罷めさせた。

これ以前、石守信や王審琦らは、帝と旧知の仲で、功績もあったため、禁軍を統べさせていた。趙普はよくこれについて指摘していた。

帝、「彼等は絶対に私に背かない。何をそんなに心配しているのだ。」

普、「私も彼等が背くとは思えません。しかし彼等をよく観察してみれば、誰もかれも部下を統率する能力がありません。部下を統制できないようでは、万一、兵卒の中に悪事を働くものが出た場合、思うように処断できますまい。」

帝は〔普の言わんとすることを〕理解した。

また普を呼びよせ、じっくりと天下について語り合ったときのこと。

〔帝は〕溜息をついて、「唐末以来、数十年間、八姓十二君が相継いで天下に臨み、戦争は止まず、人々は塗炭の苦しみを味わった。天下から戦争を除き、長久の計を設けたいのだが、どうしたものか。」

普、「陛下がかく仰せられたのは、天地神人の幸福です。節度使の力はあまりにも強大です。少しくその力を削いでやれば、天下は自然と治まるでしょう。」

帝、「もう何も言うな。言いたいことは分った。」

ほどなく帝は夕方の政務の後、石守信らと酒を飲むことがあった。宴も酣のころ、左右のものを退かせてこう言った。――「諸君のおかげで今がある。しかし天子もなななか難儀なもの、節度使の気楽さには及ばないよ。一日とて気楽に寝ることもできないのだ。」

守信らは理由を尋ねた。

帝、「簡単なことだ。みながみな、皇帝の位を狙っているのだから。」

守信らは首を垂れ、「陛下はなぜそのようなことを仰るのです。もう既に天命は定まっております。異心あるものなどおりますまい。」

帝、「諸君らは当然そうだろう。しかし諸君らの部下は富貴を求めないだろうか。一旦、諸君らの身に黄袍をまとわせたなら、諸君らが望まずともどうにもなるまい。」

守信らは泣いて詫びると、「私どもは愚かゆえ、そこまで考えておりませんでした。我らを哀れみたもうなら、どうぞ生きるべき道をお示し下さい。」

帝、「わずかの人生、富貴を求める理由はといえば、多くの金銭を得て、自身には娯楽を、子孫には貧乏なきことを求めるにすぎない。軍権を捨て、裕福な所領を治め、滋味豊かな土地を買い、子孫のために永久不変の財をこしらえる。そして歌姫や舞姫を囲い、日夜酒宴に興じて天寿を全うしようとは思わないか。私は諸君らと姻戚になろうと思っている。そうすれば君臣の間に少しの疑いもなく、上下ともに信頼できる。これ以上に善いことがあるだろうか。」

守信らは感謝して、「陛下がこれほどに私達のことをお考え下さっていたとは。死者を生き返らせ、骨に肉を与えるとはこのことです。」

明日、みながみな病気だといって兵権を返還したいと申し出た。帝はこれを聞き入れると、守信を天平節度使、高懐徳を帰徳節度使、王審琦を忠正節度使、張令鐸を鎮寧節度使、張彦徽を武信節度使に命じた。いずれも禁軍の兵権を解かれて任地へ赴いたが、頗る手厚い賜物を授けられた。石守信だけは従来のまま職を兼ねさせたが、実際の兵権を握ることはなかった。

ほどなく天雄節度使の符彦卿に禁軍を統べさせようとした。

趙普は諫めて、「彦卿の名位は充分高いのに、なぜまた兵権を与えなさるのです。」

帝、「私は彦卿を手厚く遇してきた。背くようなことはなかろう。」

普、「陛下はなぜ周の世宗に背かれたのです。」

帝は黙ってしまった。そしてこれも沙汰止みになった。

数年の後、王彦超と諸々の節度使らが謁見に訪れた。帝は後苑に酒席を設けた。宴も酣になると、〔帝は〕おもむろにこう言った。――「諸君らはみな国家の宿老。長いあいだ要所を治め、政務も多忙であろう。これでは賢者厚遇の意志に反するというものだ。」

彦超は〔帝の〕意向を察し、すぐこう申し上げた。――「私はもともと見るべき功績もなく、永いあいだ栄誉を忝なくしておりました。もう年老いましたので、引退して田野にお返し下さいませ。これこそ私の願うところです。」

安遠節度使の武行徳、護国節度使の郭従義、定国節度使の白重賛、保大節度使の楊廷璋らは、競って自身の戦功や苦労を述べ立てた。帝、「それは前代の話しだ。論ずるに足らぬ。」明日、〔行徳らは〕みな節度使などを罷免され、奉朝政〔として帝への謁見の資格〕を与えられた。

胡一桂の評。太祖は深く天下を思い、中唐末以来、生民塗炭の苦しみを鑑み、藩鎮の兵権を収める術を知っていた。酒宴において石守信らの兵権を解き、また後苑の宴において王彦超らの節度使を罷めさせ、かくして除くことのできなかった禁軍・節度使という疾病は、一朝にして除かれた。


(03)乾徳元年(963)春正月、はじめて文官に州を治めさせた。

五代のころは、諸侯に力があり、朝廷では制禦できなかった。そのため節度使を替えるごとに、事前に近臣に意向を伝え、兵を動かして万一に備えさせた。それでも命令を聞かぬものがあった。帝が即位したとき、異姓の王や宰相の印を帯びたものは数十人を下らなかった。このため趙普の謀略を用い、〔節度使の〕死亡や引退、他地への転任などを理由に、徐々にその権限を削り、すべて〔州の統治を〕文臣に代えた。


(04)夏四月、諸州に通判を設け、軍事と民事を統括させ、その専断を許し、州知事と同身分とした。大州には二人〔の通判〕を置いた。また節度使管轄下の地域は、すべて国都に直属させ、政務の報告をさせ、節度使の管轄から外した。これによって節度使の力はようやく軽くなった。

これ以前、符彦卿は長く大名府の節度使だったが、自分勝手に振る舞い、管轄地域は乱れ勝ちだった。そこで特別に常参官で豪腕のものを択んで送り込んだ。以後、これが前例となった。


(05)三年(965)三月、はじめて諸路に転運使を置いた。

唐の天宝以来、節度使は軍隊を抱え、手に入れた租税は、留使や留州として私し、ほとんど国都に納めていなかった。五代のころは、節度使の力が強く、つねに側近に業務を管轄させ、重税を布いては自分の懐に入れ、わずかしか朝廷に納入しなかった。帝はこの弊害を知っていた。趙普はこう献言した。――諸州の必要経費以外のすべての税を汴都に送らせ、節度使の下に留めない。節度使が缺乏を訴えた場合は、文官に便宜的に業務を管理させる。一路の財政は、転運使を置いて担当させ、節度・防禦・団練・観察の諸使や刺史であっても、金銭米穀の書類に関わらせない、と。かくして財政は完全に朝廷のものとなった。


(06)八月、諸道の兵卒を択び、禁軍に編入した。

これ以前、帝は殿前と侍衛の二司に、管轄下の兵卒を検査させ、勇猛なものを択んで上軍に格上げした。今度は諸州の知事に、本道の兵卒から勇猛なものを択んで都に送らせ、禁軍の欠員を補った。また強精な兵卒を択んで模範生とすると、これを諸道に送り、新兵を募集して訓練を施し、鍛え上げてから国都に送り返させた。また更戌の法を設け、禁軍を辺境に各々派遣し、路上に往来させ、労苦と逸楽を均しくさせた。これによって将軍は麾下の兵卒を勝手に用ることができなくなり、兵卒に臆病者はなくなった。すべて趙普の謀によるものである。


(07)帝は宰相らにこう言った。――「五代には諸侯が跋扈し、法を曲げて人を殺しながら、朝廷はこれを不問に付してきた。人命は最も重いものだ。このまま節度使らの行いを見過ごしてよいものだろうか。今後、諸州が死刑を決定する場合、案件を上奏させ、刑部に送って審査させよ。」


(08)帝は文官として軍才あるものを趙普に問うたところ、普は左補闕の辛仲甫を推薦した。そこで帝は仲甫を四川兵馬都監とした。普に言うには、「五代のころ、節度使は残虐で、民はその災禍を受けてきた。今、儒臣の中から有能なものを百人ほど用い、方々の大国を治めさせた。彼等の全てが貪婪であっても、〔その災禍は〕武臣の十分の一にも及ぶまい。」

呂中の評。天下が四分五裂したのは、藩鎮が土地を占有したためである。武器を取って方々に戦争したのは、藩鎮が兵を占有したからである。民が重税に苦しんだのは、藩鎮が利益を占有したからである。民が厳酷な法律に苦しんだのは、藩鎮が独断で殺戮を行ったからである。朝廷の命令が天下に行われなくなったのは、藩鎮が〔その地位を〕世襲していたからである。太祖と趙普はよく過去に鑑み、天下の害毒の源がここにあることを知った。だからこそ文臣に州を治めさせ、朝官に県を治めさせ、京朝官に財物を監督させ、転運使を置き、通判を置いた。これらはどれも藩鎮の権力を徐々に取り込もうとしたものである。朝廷は紙切れ一枚を郡県に下すだけで、体が腕を動かすように、腕が指を動かすように、滞ることなどなくなり、天下は全くの等一になったのだ。


(09)帝は計略を定め、諸々の宿将の兵権を収め、節度使の権力を削った。しかし辺境を守らせるため、将軍の選択には慎重で、どれも要領を得たものだった。

趙賛に延州を守らせ、姚内斌に慶州を守らせ、董遵誨に環州を守らせ、王彦昇に原州を守らせ、馮継業に霊武を守らせて、西夏の備えに充てた。李漢超に関南を守らせ、馬仁瑀に瀛州を守らせ、韓令坤に常山を守らせ、賀惟忠に易州を守らせ、何継筠に棣州を守らせて、北狄を防がせた。また郭進を西山に置き、武守琪を晉州に置き、李謙溥に隰州を守らせ、李継勲に昭義軍を守らせて、太原を防がせた。

家族が国都にいるものは厚遇し、所管の地域で得た専売の利益をすべて与え、物品の売買を自由にさせ、通行税を免除し、勇猛な者をその手足にさせた。また軍中の出来事は、便に応じて処断することを許した。彼等が朝廷に来ることがあれば、必ず呼んで座席を許し、飲食を与え、賜物も格別であった。

このため国境を守る将軍らは財産に富み、決死の猛者を間者として使い、夷狄の実情を察知することができた。夷狄の侵略があれば、必ず予かじめ防備を設け、待ち伏せして撃破し、勝利をもたらすことが多かった。このため数年の間、西北から侵略される恐れはなく、〔帝は〕全力で東南と事を構え、荊・湖・川・広・呉・楚の土地を取ることができたのである。


(10)〔李〕漢超が関南にいたとき、その地の民に「娘を奪われた上に妾にされ、借りた金も返さない」と訴え出たものがいた。

帝はこの民を呼び寄せると、「お前の娘が嫁ぐとすれば、どんな人間だ。」

民、「農家です。」

帝、「漢超が関南に行く前、契丹はどうであった。」

民、「年々侵略に苦しんでおりました。」

帝、「今も同じか。」

民、「いいえ。」

帝、「漢超は私の愛する臣下。お前の娘が妾になったとて、農民の妻になるよりはよかろう。まして漢超が関南におらねば、お前たち一家は財産を守ることすらできたかどうか。」

〔帝は〕この民を咎めて追い返すと、内密に漢超に伝えさせた。――「すぐにその娘と借りた金を返せ。今回は許してやるから、二度とするな。それに金がないなら、どうして私に言ってこないのだ。」

漢超は感激し、これ以後は政治に励み、人々に愛されるようになった。


(11)これ以前、遵誨の父の宗本は、漢に仕え、随州刺史だった。帝はまだ身分の低いとき、客として漢の東部に遊び、宗本のところに身を寄せたことがあった。遵誨は父親の威勢を借り、帝を馬鹿にしていた。ある日、帝に言うには、「いつも城の上に紫色の雲が覆い被さっている。そればかりじゃない。夢の中で、高殿で長さ百尺余りの黒蛇に会ったのだが、突如龍に変ると、飛んで東北の方へ行ってしまい、雷雲もそれについていった。これは何の予兆だろう。」帝はなにも応えなかった。別の日、兵について議論をしたが、遵誨は言い負け、いきり立ってしまった。そこで帝は宗本の下を辞したが、すると紫の雲も霧散してしまった。〔帝は〕即位してから遵誨を呼びよせ、「君はまだ先日の紫の雲や黒い龍のことを覚えているかい」とたずねた。遵誨は恐れおののき再拝した。

ある時、部下の兵卒に遵誨の不法行為を十余り訴えるものがいた。遵誨は罪を認めて死を求めた。帝は「私は過失を赦し、功績を表したいのだ。昔の悪事など気に止めていない」と答えた。

遵誨の母は幽州におり、混乱の際に離ればなれになっていた。帝は幽州の民に厚く褒美を与え、遵誨の母親を呼び寄せると、〔母親にも〕手厚く賜物を授けた。

環州や夏州の蛮族が国境付近に現れたとき、〔遵誨に〕通遠軍使を授けた。遵誨は任地に到着するや、諸部族の長を集め、朝廷の威徳を伝えた。このため〔当地の〕人々はみな心を動かされた。数ヶ月の後、また蛮族が国境を犯したので、遵誨は兵を率いて境内奥深く侵入し、おびただしい数の敵軍を捕縛・殺戮し、数万にのぼる羊や馬を捕獲した。かくして〔この地を〕平定した。

陳邦瞻の評。宋の太祖時代の君臣は、五代末期の災禍に懲り、ことごとく節度使の軍権を収め、ようやく征伐の命令が天子から出るようになった。時勢を知り、よく決断したもので、英主の雄略といわねばなるまい。しかし将を任ずること李漢超や董遵誨のようであってみれば、兵権を人に与えなかったと言えるだろうか。後々の子孫はこれを深く考えず、ただ酒宴にて兵権を収めたことを美談としただけであった。南渡の後、奸臣が太祖の故事に仮託して三大帥兵を罷め、仇敵と和平することになった。これが太祖や趙普の誤りだと言えるだろうか。しかし当時は君主の勢力を強めるのに必死で、是正も行き過ぎ、兵卒をすべて国都に聚め、境域は日々削られた。だから君主の力は強くなったが、国は却って弱くなったのである。これまた禍根を遺したといわねばなるまい。



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