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平荊湖


(01)太祖の建隆元年(960)八月、荊南節度使の高保融が卒し、弟の保勖が後を継いだ。

保融はもともと鈍い男で、国の政治はすべて母弟の保勖が仕切っていた。保融が卒したので、保勖は権知軍府となり、帝に命を請うてきたので、節度使を授けた。


(02)三年(962)冬十月、武平節度使の周行逢が卒し、子の保権が後を継いだ。十一歳だった。


(03)十一月、荊南節度使の高保勖が卒し、兄の保融の子の継沖が後を継いだ。

周行逢は病が重くなると、将校を呼び寄せ、子供の保権を頼んでこう言った。――「領内の兇徒はほとんど誅殺した。あとは張文表だけだ。もし私が死ねば、文表はきっと叛乱を起こすだろう。諸君はしっかりと私の子供を助けて、領土を失わぬようにせよ。どうにも仕方がなければ、みなで〔宋に〕降伏せよ。虎口に陥ってはならぬ。」

保権が跡を嗣ぐと、文表はこれを聞いて怒って言った、「私と行逢はともに貧賤の身からのし上がり、功績を上げたのだ。それを今さら小僧に仕えられるか。」

十二月、保権は兵を率い、永州の軍卒を交換すべく衡陽に出発すると、文表はそれを追い払い、潭州を襲った。知留後の廖簡はもともと文表を軽んじており、何の備えもなかった。文表の兵は直ぐに府に入ったが、簡は客のもてなしで酔っており、殺された。文表は潭州を占拠すると、さらに郎陵を取り、周氏を滅ぼそうとした。保権は楊師璠に攻撃させ、さらに〔宋に〕来援を求めた。

これ以前、帝は盧懐忠を荊南に遣わすと、事前にこう言っておいた。――「江陵の情実や去就、地理の状況など、それらを全て知りたい。」懐忠は帰還すると、「高継沖の軍隊は整っておりますが、三万程度に過ぎません。年々の穀物は入っておりますが、民は暴政に苦しんでおります。南は長沙に接し、東は建康に達し、西は巴蜀に迫り、北は朝廷(宋のこと)を奉じており、国勢は日一日と弱まっております。容易に取れましょう。」周保権の使者が来たので、帝は范質らに、「江陵は四分五裂の国。今、軍を湖南に出すにあたり、軍路を荊渚(荊南のこと)に借り、ついでに平定してしまうのが、万全の策だろう。」


(04)乾徳元年(963)春正月庚申(十九日)、慕容延釗を〔湖南道行営〕都部署とし、枢密副使の李処耘を都監とし、十州の兵を率いさせ、軍路を継沖に借りて文表を討伐させた。まだ〔延釗らの軍が〕到着する前に、楊師璠は平津亭で文表を破り、これを捕縛すると、体を切り刻んで食用に供し、郎陵の刑場でさらし首にした。

処耘は襄州に到着すると、丁徳裕を遣わして継沖に〔軍の到着を〕伝えさせた。孫光憲が継沖に言うには、「中国は周の世宗以来、すでに天下統一の機運があります。今、宋主の意気込みは宏大です。早く所領を帰す方がよろしい。そうすれば災禍を免れるでしょうし、公も富貴を失わずにすみましょう。」継沖は叔父の保寅を遣わし、荊門で牛肉と酒で軍をもてなすと、延釗らの強弱を調べさせた。処耘は手厚くもてなした。継沖はそれを聞いて安心した。

この日の夕方、延釗は保寅を呼び、帳の中で宴会を開いたが、処耘は陰密に軽騎数千を〔継沖のもとに〕急行させた。継沖は保寅が帰るのを待ってたが、突然の宋軍の来攻に恐怖し、江陵の北十五里のところで処耘を出迎えた。処耘は継沖に会釈すると、延釗の到着を待たせ、〔自身は〕軍を率いて先に城に入った。継沖が〔城に〕戻ったときには、宋軍が要衝を占拠していた。

継沖は恐怖に堪えられず、客将の王昭済を通じて、帝に領内全三州十七県を奉納した。帝はそれを受け取ると、王仁贍を荊南都巡検使とし、継沖をもとのまま荊南節度使とした。高氏の親族や官僚には、各々ふさわしい官を与えた。光憲を黄州刺史とした。


(05)三月戊寅(二十六日)、延釗は〔周氏の地を平定すべく〕潭州を攻略し、郎への進撃を開始した。保権の牙将軍の張従富らは、文表が誅殺されたにもかかわらず、宋軍の進撃が止まないことを見て、攻撃されるのを恐れてみなで守りを固めた。延釗は軍を進めたが侵入できなかった。帝はそれを知り、従富らを説得させたが、言うことを聞かなかった。

兵を進めて澧江で〔従富らを〕破ると、李処耘は捕虜の中から肥えたもの数十人を択び、周りのものの食用に供すと、〔捕虜の中から〕やや健勝の者に入れ墨を加え、先に朗に戻らせた。入れ墨をされた兵は城に戻ると、捕らわれたものが宋軍の食用に供されたと言いふらした。これを知った兵らは恐怖し、自滅してしまった。延釗は長駆して城を破ると、従富を捕らえて殺した。

周氏側の大将の汪端は、保権と周氏一族を脅して江南の寺院に潜伏した。処耘は田守奇に軍を率いて渡江させ、〔保権を〕捕虜にして帰還した。帝は保権の罪を許し、右千牛衛上将軍とした。それでも汪端は人々を駆り立てて掠奪を続けたので、王師(宋軍のこと)は端を討伐してこれを殺した。

かくして湖南は平定され、十四州一監六十六県を手に入れた。帝は戸部侍郎の呂餘慶を遣わし、権知潭州とした。


(06)湖南の辰州は、唐のとき、錦・渓・巫・敍の四郡に分かれていた。唐末に蛮族が方々を占拠し、険難の地であることを頼んで防備を固めるようになると、いつも掠奪にさらされていた。

帝は湖南を平定した後、蛮族の風習や地勢を知り、さらに勇猛や知謀ある人に〔この地を〕治めさせることにした。辰州の猺の人である秦再雄は、筋力あり、機略に富み、蛮族に畏れられていた。帝は再雄を汴都に呼び、任用に堪えることを確認すると、刺史に任命し、人の任用を自由にさせ、好きに租税を処理させた。再雄は感激し、死を以て報いると誓った。

〔再雄は〕州に到着した日から、兵士に訓練を施し、鎧をまとって川を渉り、猿のごとく山を越え堀を渡るもの三千人を見出した。また二十人の精鋭を択び、朝廷に慰撫の意向のあることを蛮族に伝えさせたところ、〔蛮族らに〕なびかぬものはなく、みな降伏してきたので、それを報告した。これ以後、荊・湘に蛮族の憂いはなくなった。



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