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平南漢


(01)太祖の乾徳二年(964)春正月、南漢が潭州に侵入したので、防禦使の潘美が撃退した。

この当時、南漢の君主の劉鋹は凡庸で、政治を宦官の龔澄枢や才人(女官の一つ)の盧瓊仙に任せていた。鋹は後宮でペルシアの娘と遊戯に耽り毎日を送り、宦官は七千人以上も蓄え、三師や三公になるものまでいた。

宦官の陳延壽は鋹に、「先帝が位を陛下に伝えられたのは、弟どもを皆殺しにしたからです」と言い、諸王を排除するよう勧めた。鋹はその通りだと思い、弟の桂王の璇興を殺した。このため上下ともに怨嗟に包まれ、綱紀が崩壊した。

内侍監の許彦真は、讒言で尚書右丞の鍾允章を殺すと、龔澄枢と二人で政治を取り仕切ったが、権力を競い反目していた。たまたま彦真は先君の李麗姫(長編、麗妃に作る)と内通していると訴えるものがいたので、澄枢が調査を始めた。彦真はこれに懼れをなし、子供らともに澄枢の暗殺を画策した。澄枢は彦真が謀叛を企てていると訴えさせ、獄に繋いで許氏一族を皆殺しにした。南漢の君主は李託を内太師・六軍観軍容使としたが、これ以前に南漢の君主は託の長女を貴妃とし、次女を美人として後宮に入れていた。このため国政は全く託の命を受けてから行われるようになった。


(02)九月、潘美と尹崇珂は軍を進め、南漢の郴州を打ち破った。

これ以前、南漢の内常侍の邵廷琄は南漢の君主にこう進言していた。――「わが漢は唐の乱を承けて後、今日まで五十余年。幸いに中原多難の折り、戦火は及ばず、漢は太平に慣れきっております。今日、兵は〔戦争に用いる〕軍器や太鼓を知らず、君主は国家存亡の道理を心得ておりません。天下が乱れること久しうございます。乱れは久しくして必ず治まるものです。どうぞ軍備を備えた上、さらに使者を宋に送って好みを通じられませ。」南漢の君主は困惑して何も考えられなかった。ここに至り、〔南漢の君主は〕ようやく恐怖に駆られ、廷琄を招討使に命じ、恍口を守らせた。

帝は郴を破ると、南漢の内侍の余延業を捕らえた。帝は南漢の国政について問うたところ、延業は事細かに答えた。――南漢の主は焼・煮・剥・剔・刀山・剣樹などの刑を設けており、罪人を虎や象と戦わせることもある。税はあまりに重く、近辺のものが城に入るには、一人ごとに一銭を払わなければならない。瓊州の斗米税は四五銭である。媚川都というものを作り、割り当てを決め、五百尺ほど海に潜って真珠を取らせている。宮殿は真珠や玳瑁(海亀。その甲羅のこと)で飾られている。内官の陳延壽は淫靡な技術を考案し、数万金を費やしている。宮城の左右には離宮が数十あり、遊興に出かけるといつも一ヶ月か十日ほど滞在している。富裕な民を課税対象とし、遊興の費用を出させている。――帝はその奢侈と残酷なさまを聞くと驚愕し、「この地の民を救わねばならぬ」と口にした。ただ当時は蜀伐の計画中だったので、まだ〔南漢に兵を向ける〕余裕がなかった。


(03)三年(965)六月、南漢の招討使の邵廷琄は恍口を守り、宋軍の到来を待ち構え、逃亡や背反したものを呼び戻し、訓練を施し、戦争に備えていた。南漢の民はこれを頼りとし、少しく心を休めていた。ところが匿名で投書するものがあり、廷琄は謀叛を企てていると訴えた。南漢の君主はこれを信じ、使者を遣わし廷琄に死を与えた。兵卒らは軍門に押し入り、使者に面会を求めると、廷琄に謀叛の心のないことを訴え、審議をやり直すように求めたが、許されなかった。兵卒らは恍口に廟を立てて廷琄を祭った。


(04)開宝三年(970)九月、鋹は軍を出して道州を侵した。刺史の王継勲から、「鋹は際限なく暴虐を行い、しばしば国境を侵しております。南伐を行っていただきたい」と要請があった。帝は南唐の君主に命じ、南唐の方から鋹に向かって、〔宋に対して〕臣といい、奪った湖南の旧地を帰すように通達させた。鋹は唐の使者を捕らえると、駅伝にて唐の主に返辞をしたが、その言葉遣いは甚だ不遜だった。唐の君主はその書状を〔帝に〕送った。そこで帝は潘美を賀州道行衛都部署に、尹崇珂を副官にして南漢を伐たせた。

この時、南漢の古参の将軍は陰謀で多くが誅殺され、宗室もほとんど殺戮されており、兵権を握るものは宦官数人にすぎなかった。南漢はその君主の晟以来、遊興に耽り、城壁や堀は華美な宮殿や池となり、戦艦は全て破壊され、兵器は腐っていた。宋の進軍を聞き、国内は震駭した。龔澄枢を賀州に向かわせて防衛させたが、〔宋軍の〕先鋒が芳林に到達すると、澄枢は逃げ帰り、賀州は潘美によって包囲された。南漢の諸大臣は老将の潘崇徹を派遣するよう求めたが、鋹は聞き入れず、伍彦柔に兵を授けて賀州救援に向かわせた。

潘美は彦柔の到着を聞きくと、南郷の岸に伏兵を潜ませた。夜間、彦柔は南郷に停泊し、舟を岸辺に備えさせた。夜明け、〔彦柔は〕玉(射撃用の武器)を持って岸に登り、腰掛けにすわって指揮した。そこに伏兵が躍り出たため、彦柔の軍は混乱に陥り、十人に七八は死んだ。彦柔を捕縛した後に惨殺すると、さらし首にして賀州城へ見せ物とし、城を破った。美は戦艦を指揮し、流れのまま広州に行くぞと言いふらした。南漢の君主は危急に心を痛めたが、何の計略もなかった。そこで潘崇徹を都統とし、三万の兵を与えて賀江を守らせた。ちょうど美が昭州に向かっていたが、崇徹は兵を率いて守りに徹した。

美は勝利に乗じて昭州を破り、桂・連の二州を陥れた。鋹はこれを知ると、左右のものにこう言った。――「昭・桂・連・賀の諸州はもともと湖南のものだ。今、北師(宋軍のこと)はそれらを取ったのだから、もう十分のはずだ。私には分る、もう南下して来まい。」


(05)十二月、鋹は李承渥を都統とし、十余万の兵を与え、蓮花峯に陣取らせた。南漢の人は象に陣を組ませ、象一匹ごとに武器を持った十数人を載せていた。戦いには必ず〔象を〕前列に並べて〔敵軍を〕威嚇させていた。

潘美は強弩隊を集めて〔象に向かって〕射らせると、象は暴れ回り、上にいた兵卒を振り落とし、逆に承渥の軍に突進した。承渥の軍は壊滅し、承渥はその身一つで逃げ去った。美は韶州を攻略した。韶州は漢の北門である。

鋹は韶州が破られたのを聞き、もはやなす術を知らず、はじめて広州の東部の堀をほらせた。使えそうな将軍達を探しても見当たらなかった。後宮の老女の梁鸞真は、養子の郭崇岳が使えると勧めたので、南漢の主は崇岳を招討使とし、大将の植廷暁とともに六万の軍を授け、馬逕を守らせて王師(宋軍のこと)を防がせた。崇岳には知謀勇略などなく、いつも鬼神に祈るばかりだった。


(06)四年(971)二月、潘美は南漢の英・雄の二州を破ると、潘崇徹は軍ごと投降した。美は瀧頭に進撃した。漢の君主は使者をよこして和平を請い、軍を引くように求めた。美は許さず、兵を馬逕に進め、広州城まで十里のところに迫ると、双女山に砦を築いた。漢の主はこれを知り、十双ほどの船舶を取り寄せ、財宝や妃嬪を載せて海に逃れようとした。出発する前、宦官の楽範と千人余りの衛兵が船を盗んで逃走した。漢の君主は懼れて、左僕射の蕭漼に書簡を与え、降伏を求めた。美はすぐさま漼を汴都に送った。

漢の君主は弟の保興に百官を率いて〔潘美を〕迎えさせようとしたが、郭崇岳はそれを止め、再び防禦の計を張り、保興に国内の兵を与えて戦わせようとした。植廷暁が崇岳に言うには、「北軍は勢いに乗っている。鉾先を止めることはできまい。我等の兵卒は多いとはいえ、みな負傷兵だ。労して進まずとも、坐して死を待つまでのこと。」

廷暁は前軍を率いて川沿いに陣を張り、崇岳は後方に控えた。ほどなく王師が川を渉ると、廷暁は力戦したが、かなわずに陣中に没した。崇岳は柵の中に逃げ帰った。潘美は諸将に、「あれは竹と木で作った柵だ。かがり火で焼いてやれば必ず混乱に陥るだろう。そこを挟み撃ちするのが、万全の策だ。」そこで壮士を二分し、一人につき二つの松明を持たせ、間道から柵に近づかせた。日も落ちた頃合い、万余の松明が一斉に投げ込まれると、大風が吹いて火炎が巻き起こり、南漢の軍は大敗し、崇岳も乱兵の中に死んだ。

龔澄崇と李託は二人して考えた。――「北軍(宋軍のこと)が来たのは、我が国にある珍奇な宝を求めてだろう。全て焼き捨てて城を空っぽにしてしまえば、長く駐屯しはすまい。」そこで府庫や宮殿に火を放ち、一夕にして〔南漢の宝物は〕灰燼に帰した。

次の日、鋹が〔潘美の軍に〕出頭して降伏すると、美は城に入り、宗室や官僚を捕らえて汴都に輸送した。宦官百人ほどが着飾って謁見を求めた。美は「宦官風情が多いもんだ。私は命令を受けて〔南漢の〕罪を伐ちに来たのだ。それはこやつらのことだ」と言って、全て斬り殺した。全六十州、二百四十県を手に入れた。


(07)潘美に山南東道節度使を加えた。


(08)三月丙申朔日、詔を下した。――「広南には人を買って奴婢とし、利益を上げているものがいるが、みな釈放せよ。偽朝(南漢)の政治で民に害のあるものはすべて上奏させて止めさせよ。」


(09)鋹は汴都に到着すると、帝は呂餘慶を遣わし、鋹に〔降伏の〕約束を破ったことと、府庫を焼いたことを問責させた。鋹は罪を龔澄崇と李託になすり付けた。

翌日、役人が帛でもって鋹と〔南漢の〕官僚を繋ぎ、太廟と太社に献上じた。帝は明徳門に臨み、刑部尚書の盧多遜に詔書を読ませ、鋹を問責した。鋹、「臣は十六歳のときに勝手に王を名乗りましたが、澄崇などはどれも先朝以来の家来たち、臣の勝手にできることなどありませんでした。国にいるときには、臣が臣下で、澄崇は君主でした。」こう言うと、地に頭を付けて罪を待った。帝は大理卿の高継申に澄崇と託を引き渡し、千秋門外で斬らせた。

鋹の罪を許し、着物と冠帯、器幣(身分を表す礼物)、鞍馬(馬と鞍)を与え、検校太保・右千牛衛大将軍を授け、恩赦侯に封じた。

鋹は体躯豊麗、眉目秀麗、弁舌爽やかで、人に取り入ることが極めて巧かった。真珠で鞍と革紐を結び、戯れた龍の模型を作って献上したが、それは精妙を極めていた。帝は周囲のものに、「鋹の手先が器用なのは、長い鍛錬がそうさせたのだろう。これを政治に移したなら、国を滅ぼすことなどなかったろうに。」

鋹は国(南漢)にいたとき、いつも臣下を毒殺していた。帝と一緒に講武池を遊覧した日のこと、お付きのものが集まる前に鋹がやって来たので、〔帝はさきに鋹に〕酒杯を与えた。鋹は毒だと思い、泣いて訴えた。――「臣は祖父の事業を受け継ぎながら、朝廷に背き、王師の討伐を煩わせましたこと、まことに誅殺に当たります。しかし陛下は臣に対して死なずともよいと仰せられました。なにとぞ大梁(宋のこと)の一庶民となり、太平の世に生きることをお許しくださいませ。この酒を飲みとうございません。」帝は笑って、「私は真心で人に接している。そんなことをするものか」と言うと、鋹の酒を手に取って自分で飲み、別に酒を汲んで鋹に与えた。鋹は恥じて謝った。

鋹はこの後、太宗の太平興国五年に卒した。

(太宗)は北漢討伐を考えていたとき、近臣と禁中に宴を催したことがあった。鋹は進言して、「朝廷の威光は遠方まで及び、王号を僭称していた四方の君主は、今ではこの座におります。すぐに太原も平定され、〔北漢の〕劉継元もやって来るでしょう。臣は真先に朝廷に馳せ参じましたので、どうぞ梃(棒のこと)を手に、諸国降王の長にして下さいませ。」帝は大笑いした。



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