HOME目次太祖建隆以来諸政

平江南


(01)太祖の建隆元年(960)、南唐の君主の李景は、御服・錦綺・金帛を持参して〔帝の〕即位を慶賀した。

十一月、帝は李重進を平定すると、迎鑾鎮にて海戦の訓練を催した。景は震え上がり、使者を遣わして軍を労わせ、さらに子供の従鎰を揚州まで遣わして謁見させた。唐の臣下の杜著と薛良は、〔唐で〕罪に問われて〔宋に〕亡命し、「平南策」(南唐平定策の謂)を献じた。帝は彼等の不忠を悪み、著を下蜀で斬首にし、良を廬州の牙校に配流すると、そのまま汴都に引き上げた。


(02)二年(961)二月、唐は都を予章に遷した。

これ以前、唐の君主の景は父の位を嗣いだとき、中原は多難であった。〔唐は〕江・淮の三十余州を背景に、塩と魚の利益を握り、鉱山によって銭を鋳造し、財物も豊富であったため、中原を狙う気配すらもっていた。しかし淮水流域(南唐江北部分)が周(後周)に奪われてからというもの、衰微の一途をたどった。

帝は揚州を平定すると、唐の〔杜著ら〕裏切り者を殺した。しかしそれでも景は安心できず、予章に〔都を〕遷し、太子の従嘉に建康を守らせた。予章の地は手狭だったので、群臣はいつも帰ろうとし、景も〔田舎の地が面白なくて〕怒ってしまい、予章遷都を計画したものを誅殺しようとした。


(03)八月甲辰(十三日)、唐の君主の景は東部(洪州)への遷都を謀ったが、病気のため南都(予章)で死んだ。ちょうど太子煜が建康にいたので、そのまま後を継いだ。

戸部侍郎の馮謐を〔帝に〕遣わして父の遺言を伝えさせ、帝号を贈らせて欲しいと願い出た。帝はこれを許した。そこで煜は景に文孝皇帝と諡し、廟号を元宗とし、陵墓を順陵と名づけた。

煜は初名を従嘉といった。聡明好学、文を綴るのが巧く,図画を得意とし、音律にも通じていた。


(04)三年(962)六月、〔帝は〕唐の主煜に命じた。――「朝廷のことにかかわる渡航・渡河・海戦・帰順の軍人が長江以南にいた場合、すべて長江を渡らせるようにせよ。」

煜は朝廷に戦勝や慶賀があれば、必ず使者を遣わして軍を労い、友好を保っていた。大きい慶賀があれば、貢宴と称して別に珍奇な宝物を献上していた。


(05)秋七月、南唐は翟如璧を遣わして千万余の金銀・錦綺を貢納した。

この月、〔帝は〕南唐の投降兵の中、弱小のもの数千人の帰国を許した。


(06)十一月、〔帝は〕唐に建隆四年の暦を与えた。


(07)唐の君主は仏法を盲信し、禁中から金銭を出して、僧侶を募集していた。当時、都には僧侶が一万人以上おり、みな県官に給与をもらっていた。唐の君主は朝廷から〔内廷に〕退くと、皇后とともに僧衣をまとい、仏書を読み、手足を投げださんばかりに拜跪していた。僧侶が罪を犯しても、仏を敬うためと称して許していた。帝はその惑溺を聞くと、口達者な若者を択び、長江を越えて唐の君主に謁見させ、性命の道理について説かせた。唐の君主はこれを信じ込み、この世に仏が現われたと言って、これ以後は国政や国防に意を措かなくなった。


(08)開宝元年(968)五月、唐は韓煕載を中書侍郎とした。

煕載は顕徳年間に南唐に亡命した。唐の君主の景が中原の大臣を問うと、煕載は言った。――「趙点検(趙匡胤のこと)は常人と異なっております。どう化けるか想像もできません。」

〔煕載の発言どおり〕帝が禅譲を受けると、景はますます煕載を重んじ、宰相への任用を考えたが、情事の乱れを理由に止めにした。ここに至り、〔宰相に〕任用された。


(09)唐の君主は周氏を〔后に〕立てた。

〔周氏は〕亡き后の妹で、容姿端麗であった。〔亡后の〕妹であるのを理由に〔宮中に〕往来し、さきに唐の君主の寵愛を得ていた。皇后が死んだので、ついに〔その妹を〕后にしたのである。唐の君主は音楽に凝っており、長らく不明であった「霓裳羽衣曲」について、后は楽譜を調べてその声調を明らかにした。

唐の君主は、あるとき戸部侍郎の孟拱辰の邸宅を教坊使の袁承進に与えようとした。御史の張憲は上書して強く反対したが、聞き入れなかった。

これ以前、唐の宰相の厳続は誠実で真面目な男であったため、他の執政たちといつも意見を異にし、ために職を辞したいと言ってきた。唐の君主はこれを許した。このため国中の政治はみな枢密院に帰した。枢密副使の陳喬は優柔で臆病だったので、狡賢い役人たちは蔭で権力者と結び、不法を働き、綱紀は崩壊してしまった。

また張洎は文章がうまいからと寵愛を得て、清輝殿学士を授けられた。〔洎は〕太子太傅の徐遼や太子太保の徐遊とともに〔枢密院とは〕別の澄心堂に集まり、国政に参画するようになった。君主の命令がいつも澄心堂から出され、遊の甥の元楀らがそれを布告するようになると、中書と枢密院も名前だけの役所になった。


(10)四年(971)十一月、唐の君主は弟の従善に謁見させ、地方の産物を貢納した。帝は従善を泰寧軍節度使とし、邸宅を与え、都に住まわせた。唐の君主はみずから文章を綴り、従善の帰国を求めたが、〔帝は〕慇懃に断った。

この時、唐の君主は中国(宋)に仕えていたが、外面は服従したように見せかけ、実際には備えを怠らなかった。南漢が滅ぼされると恐懼し、国名を捨てて「唐国主」を「江南国主」とし、「唐国の印」を「江南国の主の印」に代え、さらには詔書では名前を使って欲しいと願い出たので、帝はこれを許した。そこで唐の君主は国政でも〔宋への〕恭順を示し、〔国内への〕命令には「教」といい、中書章と門下省を改めて左内史府・右内史府とし、尚書省を司会府とし、それ以外の官庁も多く変更を加えた。

これ以前、唐の君主は銀五万を趙普に贈ったが、普は帝に報告した。帝は「受け取らぬわけにはいくまい。書簡だけを返し、使者には少し金銭を渡しておけばよい」と言ったが、普は辞退した。帝、「大国の体裁としてケチなことはできまい。知られぬようにすればよい。」後日、従善が謁見したとき、いつもの賜物のほかに、こっそり普に与えた〔銀の〕数と同じだけの白金を与えた。唐の君臣は恐れおののき、帝の偉大なことに敬服した。


(11)五年(972)二月、江南の江都留守林仁肇は〔その君主に〕密書を差し出した。――「〔宋の〕淮南の守備兵は多くありません。宋は前に蜀を滅ぼし、今また嶺南(南漢)を取りました。軍路は遠く、兵は疲弊しております。私に数万の兵をお与え下されば、寿春から急ぎ江河を渡り、江北(江河以北。南唐の旧領)を回復して見せましょう。もし宋が救援に来れば、私が淮の地で防禦いたします。宋に敵わないようであれば、〔陛下は〕挙兵の日に私が謀叛を起こしたと北朝(宋)に申し開きください。うまくいけば国は利益を得られますし、失敗しても私の一族を皆殺しにし、陛下に二心のないことを弁明されればよろしい。」江南の君主は許さなかった。

沿江巡検の盧絳は、亡命者を集めて水戦を教え、しばしば呉越の兵を海門で破っていた。彼もまた江南の君主に言った。――「呉越は仇敵です。後日、〔我が国は〕必ずや北朝との挟み撃ちにあうでしょう。一計を案じますに、宣州と歙州が反乱を起こしたと誤報を流し、陛下は私を討伐すると仰せになるのです。私は援軍を呉越に乞います。〔陛下が宣州と歙州に〕到着なされたなら、私も後を追って〔呉越を〕攻めます。さすれば呉越を取ることができましょう。」江南の君主はまたも用いなかった。

帝は仁肇の威名を危険に思い、従者に賄賂を与えて仁肇の画像を取り寄せると、別室に掛けておいた。江南の使者を連れてこれを見せ、「これは誰でしょうか」と尋ねた。使者が「林仁肇です」と答えると、「仁肇は投降するからといって、まずこれを持ってきて証拠としました」と言い、「これを仁肇に与える予定です」と空き家を指差した。使者は帰国すると江南の君主に報告した。江南の君主は謀略だと気付かず、仁肇を毒殺した。


(12)七年(974)春正月、江南の君主は常州刺史の陸昭符を遣わして貢物を献上し、弟の従善の帰国を求めた。帝は許さなかった。

江南の君主は生まれながらに愛情が深く、従善が抑留されてからというもの、いつも悲嘆に暮れ、毎年の宴会もすべて罷めていた。


(13)九月癸亥(十八日)、曹彬などに兵を率いて江南を伐たせた。

帝は江南を討伐するにも名分がなかった。そこで知制誥の李穆を遣わし、江南の君主に〔東京まで〕謁見に来るよう要求した。江南の君主は行こうとしたが、門下侍郎の陳喬は「私と陛下はともに元宗(先帝)の遺命を受けました。今行けば必ず抑留されます。社稷をどうなさるのです。私は死んでも、あの世で元宗に合わせる顔がありません」と言うし、内史舎人の張洎も行かないように勧めた。

当時、喬と洎が機密を握っていた。そのため江南の君主も彼らの言葉を信じ、病気だからといって断ると、「大朝(宋)にお仕えするのですから、体が全快になってからを願いたい。今、仰せに従いますと死んでしまいます」と答えた。穆は「謁見するかどうかは、国主ご自身が判断なされよ。しかし我が朝廷は軍隊盛強、物資は豊富、互角というわけにはいきますまい。熟慮の上、遺恨のないようにされよ」と言ったが、江南の君主は従わず、使者を遣わして冊封を求めた。帝は許さず、再び梁迥を遣わし、謁見を勧めさせた。江南の君主の返答はなかった。

迥が戻ると、帝は曹彬を西南路行衛都部署に、潘美を都監に、曹翰を先鋒にし、将兵十万をもって〔江南を〕伐たせた。王全斌が蜀を平定したとき、多くの投降兵を殺戮して以来、帝はいつも悔やんでいた。ここに至り、曹彬らが出陣のために謁見すると、帝は彬を戒めて、「江南のことはすべてお前に任せる。絶対に住民に掠奪暴行を加えてはならぬ。威信を広め、みずから帰順させるよう務めよ。急く必要はない」と言い、さらに「城を落としたら、殺戮のないよう気を付けよ。もし最後に激戦となっても、李煜一門には危害を加えてはならぬ」と言った。そして剣を彬に授けると、「副将以下、お前の命令に従わぬものは斬れ」と付け加えた。このため〔副将の〕潘美らはみな色を失った。

彬は荊南から戦艦を出して東に下った。江南の守備兵は恒例の宋の派遣軍だと考え、門を閉じて守るだけで、牛肉や酒を出して宋の軍を労おうとした。しかしすぐに事態の異常に気付き、池州の将軍の戈彦は城を棄てて逃げてしまった。彬は池州に入ると、江南の兵を銅陵で破り、采石磯まで進撃した。


(14)これ以前、江南の池州出身の樊若水は、進士に合格できなかったことから、〔宋に〕行くことにした。そこで采石江で釣りをし、縄をつんで小舟に乗り、南岸に糸をつなぎ、急ぎ舟を北岸に着け、往復すること十数回――こうして采石江の形状をつかんだ。かくして汴都に行くと、〔帝に〕江南攻略の方法を説明し、浮き橋を作って軍を渡すよう進言した。

帝は納得し、使者を荊胡に行かせ、数千艘の黄黒龍船を造らせた。また大船に巨大な竹縄をつんで、荊渚から運ばせた。「采石江は広く深い。浮き橋を造って渡ったものなど誰一人おりません」と批判する人もいたが、帝は耳を貸さず、若水を右賛善大夫とした。軍を南下させたときには若水を導き手とした。池州を攻略すると、そのまま〔若水を〕州知事とした。

十一月、若水は舟を試験するよう求めたので、まず石牌口で試験し、それを采石江に移した。三日で完成したが、寸分も誤りがなかった。潘美が歩兵を率いて采石江を渡ったが、まるで平地を進むようであった。

この当時、江南は兵を用いぬこと久しく、老将はみな死んでいた。軍を指揮するものは新進のものばかりで、功名を立てられると自負していた。戦争が始まると、喜び勇み、日々数十もの人間が戦略を訴え出た。

江南の君主は鎮海節度使・同平章事の鄭彦華に水軍一万を指揮させ、都虞候杜真に歩兵一万を指揮させ、二人に王師(宋軍)を迎撃させた。出軍の際、江南の君主は「水陸両軍が一体となれば勝てぬものはない」と戒めた。彦華は戦艦に乗ると、太鼓を叩いて流れを遡り、急ぎ浮き橋に向かったが、潘美は兵を指揮してこれを撃退した。真が部下の歩兵を率いて〔宋軍と〕戦っても、〔水軍の〕彦華は救うことができず、また敗北した。

金陵(南唐)は臨戦態勢に入ると、〔宋の年号である〕開宝の年号を除き、民から兵を募集し、金銭や穀物を献上するものがいれば官爵を与えた。


(15)八年(975)二月、曹彬は白鷺洲と新林港で江南の兵を続けざまに破ると、田欽祚に溧水を攻撃させた。江南の統軍使李雄は子供らに、「私は国難に殉ずるつもりだ。お前達も健闘せよ」と言うと、父子八人みな陣中に没した。かくして欽祚は溧水を破った。

彬の大軍が秦淮に進撃すると、江南の水陸十万の兵が城下に陣を張っていた。まだ船頭が揃わなかったので、潘美は兵を率いて先に出撃すべく軍令を下した。――「私は剛勇の軍数万を率い、戦えば必ず破ってきた。この河だけが渡れぬことなどない。」ついに〔美が〕河を渉ると、大軍もそれに従い、江南の兵は大敗した。

馬軍都虞候の李漢瓊は部下を率いて大船を奪うと、葦を積み上げ、風に乗せて火を放った。かくして城南方の砦を破り、さらに関所の砦をも破った。〔江南の〕城の守備兵は争って逃げ出し、溺死したものは千人あまりもいた。


(16)これ以前、陳喬と張洎は江南の君主のために、城郭を固く守り、宋軍を疲弊させるよう勧めていた。江南の君主は聞き入れず、後苑に退いて、僧侶や道士とともに経典を唱え、『易』を読み、高尚なことばかりいって政治を省みなかった。軍の急報が来ても、徐元楀らでなければ〔君主に〕通達できず、王師(宋軍)が数ヶ月にわたって城下を囲んでいても、江南の君主はまだこの事態を知らなかった。

当時、軍政を握っていたのは神衛都軍統指揮使の皇甫継勲だった。継勲は驕り高ぶっており、もともと死を賭して戦おうなどと思ってもおらず、主君がはやく降伏してくれないかと思いつつも、なかなか言えないでいた。いつも人に語っては、「北軍(宋軍)は精強、誰があんなものと戦えるんだ」と。敗戦を聞くと、「私ははじめから勝てないと思っていた」と喜んでいた。将軍の中に決死隊を募って夜間の出撃を求めるものがいると、継勲は必ず〔罪人として〕背中を杖で打ち据えて獄に下していた。

ある日、江南の君主が城を出歩いてみると、宋軍が柵を張り、多くの軍旗が城外に立てられていた。このため始めて側近に騙されていたことに気づいて慌てふためき、継勲を獄に下して殺し、使者を遣わして神衛軍都虞候の朱令贇に命じて長江上流の駐屯兵を引き返させた。


(17)冬十月、江南の都虞候劉澄が潤洲ごと投降した。

江南の君主は危機を感じ、学士承旨の徐鉉を遣わして宋軍の停止を願い出た。徐鉉は〔汴都に〕到着すると帝にこう申し開きをした。――「李煜に罪はなく、陛下に出兵の大義はありません。煜が小国として大国に仕えること、子が父に仕えるようであり、今まで過失などありませんでした。それをなぜ討伐されるのです。」しかし帝が「お前は〔同姓である〕父子を〔異姓である〕両家と考えているようだが、それでよいのか」と反問すると、鉉は答えることができずに帰国した。

翌月、江南はまた鉉を遣わして軍の停止を求め、国命を全うしたいと申し開きをした。鉉は帝に見えると、喋りつづけて止めなかった。帝は怒って剣を抜き放ち、「多言無用。江南に何の罪があろう。ただ天下は一家のものだ。ベットで寝ているその横で、他人のいびきを許せるものか」と怒鳴りつけた。鉉は恐怖し、謝辞して江南に帰った。


(18)朱令贇は湖口から援護に駆けつけると、十五万〔の軍勢だ〕と自称していた。水流に乗って下降し、采石江の浮き橋を焼き捨てようとした。彬はそれを聞きつけ、戦櫂都部署の王明を送り込み、こっそりと中州に長木を植えさせ、帆船があるように装わせた。令贇は遠目に何かのあるのではと疑い、立ち止まって進めなかった。そこで明は諸将に檄を飛ばして令贇を挟撃した。令贇は巨船に乗り、大将旗を立てて鼓を打ちながら皖口までやってくると、明は歩軍の将軍の劉遇とこれを急襲した。令贇は事態の逼迫を知り、火を放って戦いを避けようとしたが、ちょうど北風が巻き起こり、火勢が反転して〔令贇の軍〕は壊滅した。かくして〔明は〕令贇を捕らえた。金陵(南唐)は令贇の来援だけを恃みとしていたため、ますます孤立無援になった。


(19)曹彬は使者を遣わして江南の君主にこう告げた。――「事態がこうなった以上、惜しむべきは城の人々の命。帰順するのが上策です。某日(二十七日)に城は必ず落ちましょう。早くになされませ。」江南の君主は聞き入れなかった。

ある日、彬は急病だといって軍務を見なかった。諸将が見舞いに訪れると、彬はこう言った。――「私の病は薬では治せぬ。諸君らが城を落としたとき、わけもなく人を殺さぬと心から誓ってくれるなら、おのずと病も癒えよう。」諸将は頷くと、みなで香を焚いて誓いあった。明日に彬の病は癒え、次の日に城は落ちた。

これ以前、陳喬と張洎は二人して社稷のために死のうと誓っていた。しかし洎に死ぬつもりなどなかった。城が落ちると、喬はすぐさま江南の君主を訪ね、「今日、国が亡びました以上、私の罪を問うて誅殺し、国の人々に謝罪なさいませ」と言った。江南の君主は「これも運命。君が死んでも意味はない」と答えたが、喬は「仮に殺されずとも、何の面目があって人々に顔を合わせられましょう」と言って、みずから首をくくって死んだ。

勤政殿学士の鐘倩は正装して私邸に待機していたが、〔宋の〕軍が国門に到達すると、一族とともに死んだ。

江南の君主は高官を率いて〔宋の〕軍門に下り、罪を謝罪した。彬は〔江南の君主を〕慰め、賓礼(客人をもてなす礼)を用いて遇し、煜に宮殿に入って正装するよう勧めた。彬は数人の騎兵とともに宮殿の門外で待っていた。彬の側近が「煜を宮殿に入れては不測のことがあるかも知れませんが」と囁くと、彬は「煜はもともと優柔不断、既に降伏した以上、決して自決などできぬ」と言って笑った。煜は正装し終わると、そのまま宰相の湯悦ら四十三人とともに汴都に赴いた。

彬が出軍してから凱旋するまで、士卒は心から〔彬の命令に〕従い、勝手なことをしなかった。〔南唐の〕国都を落としたときも、民を殺すものはいなかった。全十九州、三軍(行政単位)、一百八十県を手に入れた。〔汴都に〕勝利の報が伝わると、群臣は慶賀した。しかし帝は「中国が分裂し、人々はその災禍を受けてきた。城を攻めたときには、必ず罪なくして殺されたものがいたであろう。全く哀しむべきことだ」と言って涙を流し、米十万を出して救済に充てさせた。


(20)九年(976)春正月乙亥(八日)、曹彬は南唐の君主の李煜を捕らえて汴都にもどった。帝は明徳門に臨むと、既に煜が正朔(宋の暦)を奉じていたとして戦勝の宣言はさせず、ただ煜ら君臣に白衣・紗帽(ぼうし。官服の一つ)を着せ、楼の下で処罰を待たせた。帝は南唐の君臣の罪を許すと、各々にふさわしい冠帯・器幣・鞍馬を与えた。煜には検校太傅・右千牛衛上将軍を授け、違命侯に封じた。一族や臣僚はみな〔宋の〕臣下として用い、天下に恩赦を与えた。

帝は張洎を責め、「お前が煜に降伏せぬよう勧めたため、事態が今日〔のような戦争〕にまで至ったてしまったのだ」と言って、張洎の手になる長江上流からの援軍要請の密書を差し出した。洎は謝罪し、「書いたのは全くもって私です。しかし犬は主人でなければ吠えるのです。これも一例にすぎません。他にも多くおりましょう。ここで死ねるのなら、臣の本望です。」帝は得がたい人間だと認め、太史中允とした。


(21)二月庚戌(十三日)、曹彬を枢密副使とした。

これ以前、彬が江南討伐に出向いたとき、帝は「李煜に勝てば、君を使相にするつもりだ」と言っていた。〔戦勝の後、〕潘美が事前に祝辞を述べた。

彬、「それはあるまい。今回は皇帝の威令を手に、朝政に従ったが故に成功しただけのこと。私には何の功績もない。ましてや使相のような最上位などを。」

美、「その心は?」

彬、「太原がまだ平定されていない。」

〔彬らが〕都にもどると、帝は「君を使相にするつもりだったが、劉継恩がまだ降伏していない。すこし待ってくれ」と言った。美は彬の方を見て微笑んでみせた。帝が理由をたずねると、美は包み隠さず答えた。帝は大笑いし、彬に銭五十万を与えた。彬は退出すると、「人生、使相になる必要などない。美官を求めるのは、ただ多くの銭を得るためだけだ。」かくして枢密使を授けられた。


(22)江南の州郡はみな降伏したが、江南の指揮使の胡則だけは、刺史の謝彦実を殺し、人を集めて守りを固めていた。曹翰はこれを包囲すること四ヶ月、則は力屈して捕らえられた。翰は則を殺し、兵卒が金品を強奪したり民を殺戮するのを放っておいた。


(23)太宗の太平興国三年(978)の秋七月壬辰(九日)、隴西公の李煜が死んだ。



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