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太祖建隆以来諸政


(01)太祖の建隆元年(960)春正月乙卯(十五日)、使者を遣わして諸州を救済させた。


(02)この月、太学で学業を視察した。

祠を補修し、先聖・先賢の像と画を造らせた。自身で賛文(讃美の文章)を作り、孔子と顔子の座席の端に書き付け、文臣には他の〔先賢らの〕賛文を作らせた。〔帝は〕いつも「すべての軍人に書物を読ませ、政治のありかたを分らせたいものだ」と側近に言っていた。これ以後、人々は始めて学問を重んずるようになった。


(03)帝はいつも政治の手助けとなる人々を求め、周囲のものに言っていた。――「范質は自宅におるときも、蓄財に務めておらぬという。これこそ真の宰相である。」この日、質と王溥・魏仁浦を宰相とした。

旧制では、宰相は帝に見えるとき、座席を与えられて国政を論じあった。人事案件などは、ただ疏状(上奏文の形式)を上申するのみですませ、帝の裁可が降ると、それを執行するだけだった。質らは周朝の旧臣ということで、少しく疑念もあり、また帝の英明を憚るところもあった。そこで箚子(上奏文の形式)を用いて直接〔帝に案件の〕可否を問い、退出してから各々上奏し、同列が確認の署名をするよう求めた。これが行われてから、着座のことはなくなった。


(04)〔二月〕庚寅(二十日)、貢士の楊礪など十九人に各々及第・出身を授けた。これ以後、貢挙が行われるようになった。


(05)二年(961)春正月、田地を調査させた。

周の世宗の末年、諸州の民田を調査させたが、調査官の評判は悪かった。このため帝は侍臣に、「田地の調査は弱小農民を助けるためであるのに、かえって民は益々害を受けている。今回は厳正に調査官を選ばねばなるまい」と言い、常参官を各州に派遣した。ついで各州県の民に植物の栽培を義務づけ、長吏には春と秋に見回りをさせた。これを法令とした。また義倉を設け、〔春秋の〕二税の中から、一石ごとに一斗を出し、貯蓄して凶作に備えさせた。


(06)夏四月、諸地方に前代の帝王と賢臣の陵冢戸を置かせた。


(07)三年(962)二月甲午(六日)、詔を下した。――「今後、官僚らは五日ごとに内殿に控え、各々時政の得失を指摘せよ。急を要する場合は、いつでも上奏を許可する。忌憚なきようにせよ。」


(08)己亥(十一日)、詔を下した。――「王者は人の犯罪を禁じて法令を設けたが、実際の運用には精密を求め、必ず哀れみを本旨としていた。ところが天下が乱れると、〔犯罪の〕糾弾ばかりが強調されることになった。人として、不善を恥じる心が生じて善に移ったなら、救ってやるべきであろう。盗賊とて元来巨悪なわけではない。最近の制度は法規を重んじ、人を愛しむ本旨から外れている。今後、窃盗で五貫以上を盗んだものは、死刑にせよ。」


(09)乾徳元年(963)秋七月、帝は武成王廟に行幸して両廡を見回った。白起の像を指差すと、「起は投降したものを殺害した。これは全く武人のすべきことではない。祭祀を受けてよかろうものか」といって撤去させた。


(10)二年(964)春正月、四時参選の法を行った。

陶穀ら四十七人に各々現任の幕職京官の中から、郡守の副官にふさわしいもの一人を推薦させた。任命の日、推薦者の姓名を記し、もし不相応なものを推薦しておれば、連坐を適用することにした。


(11)夏四月丁未(朔日)、賢良方正直言極諫科の試験を行い、博州判官の穎贄を合格させた。

宋初の制科には三つあった。一つは賢良方正直言極諫科(賢良・方正であり、直言・極諫できる者)、一つは経術優深可為師法科(経術に優れ深く、師法となるべき者)、もう一つは詳閑吏理達於教化科(吏理に詳閑し教化に達している者。閑は熟達の意)である。国都内外の官僚や民間の人も推薦できた。彼らは各地の州から吏部に送られ、三つの試験に答え、廷試で一問を答えた。制科は摯から始まった。


(12)三年(965)八月、封樁庫を置いた。

帝は荊・湖・西蜀を平定すると、その財貨を没収し、別に内府を設けて〔財貨を〕貯蔵し、これを「封樁」と呼んでいた。歳末の余剰分もみなここに蓄え、戦争や飢饉の備えとした。近臣にはいつも「石氏の晉が幽州と燕州を賄賂として契丹に割譲してから、その地の人々を中国の外に追いやってしまった。私は彼らを憐れに思ってならない。この宝物庫に四五百万も蓄えられたら、契丹と相談するつもりだ。――もし土地を返すなら、これを報酬に与える。拒むつもりなら、私は二十匹の絹で一人の契丹人の首を購うつもりだ。契丹の精兵は十万に過ぎない。二百万匹の絹を出せば、〔十万の〕精兵はそれでおわりだ」と言っていた。


(13)四年(966)(1)三月甲辰(15日)、翰林学士と常参官に幕職州県官および京官の中から、常参官にふさわしいもの一人を推薦させた。〔被推薦者に〕不当なふるまいがあっても連坐を適用しないことにした。


(14)開宝元年(968)三月、はじめて貢挙の受験者に覆試(再試験)を実施した。

今次の貢挙では進士合格者が十八人いたが、陶穀の息子である邴の名が六番目にあった。帝は側近に「穀は子供の教育がなっていないと聞いている。なぜ邴が合格しているのだ」と言って、中書に命じて再試験をさせた。そこで詔を下した。――「貢挙をするのは私恩を与えるためではない。名門勢家は学問を重んぜよ。もし党与(党は党派の意味。悪い意味で用いられる)を許せば、無能者を用いることになろう。貢挙の選抜は公のもの。私事で歪めてよいはずがない。今後、貢挙に受験者で名門の出のものは、すべて中書に再試験をさせよ。」


(15)三年(970)秋七月己巳(三十日)(2)、詔を下した。――「官吏がむやみに多いと、政務は滞るばかりか、俸禄は薄くなり、廉直の美徳を求めることもできない。人員が無駄に多くて費用がかさむよりは、人員を省いて俸禄を増す方がよい。各地の州や県は、戸数を規準にして人員を減らし、もとの月俸より五千を増給せよ。」


(16)帝は生まれながらに孝行者で、友誼に篤く、驕ることもなく、質朴で飾らぬ人だった。禅譲を受けたばかりのときは、よく隠密に出かけていた。軽率な振る舞いを諫める人がいると、〔帝は〕「帝王が生まれるのは天命によるものだ。周の世宗は、角張った顔をした耳の大きい将軍を見つけると、すべて殺していた。しかし〔そんな容姿の〕私はいつも側に仕えていたが殺されなかった」と言った。

寝室にいるときは、いつも〔宮城の〕門を開かせてていたが、どれも真っ直ぐで広々としており、邪魔するものがなかった。側近に言うには、「私の心のようだ。もし邪悪なものがあれば、だれにでも分る」と。

ある日、〔帝が〕朝政を終えて便殿にいたとき、久しく面白からぬ容貌だった。側近が理由をたずねると、「お前は天子が簡単なことだと思っているのか?今朝、気分のままに間違った決定をしてしまった。だから面白くないのだ」と言った。

宮中では葦の垂れ幕をつかい、衣服の縁飾りには青布を用ていた。常用の衣服は、何度も洗い直して使っていた。あるとき永康公主が金の装飾を施した衣服をまとっていた。帝は「お前がそれを着ていると、みなもきっと真似をするだろう」といって止めさせた。ある日、公主が黄金で輿を飾ってはどうかと帝に尋ねた。帝、「私には四海の富がある。宮殿を金銀で飾ることもできるだろう。しかし私は天下の為に財を守っているだけだ。無意味に財を使うなどとんでもない。」

刑罰には細心の注意を払い、〔『尚書』の〕二典を読んだときには、「堯や舜が四人の凶徒を処罰したとき、ただ〔四人を〕遠方に追放しただけだった。昨今の法令の緻密なことといったらどうだ」と言って溜息をついた。そのため折杖法を作り、流・徒・杖・笞の刑罰を軽減した。開宝以来、死刑の罪を犯しても、特別に兇悪なものでない限り、死刑を猶予することが多かった。ただ収賄の官吏を死刑にすることだけは許したことがなかった。


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(1)四年:五年の誤。967年。
(2)秋七月己巳:『長編」は壬子(十三日)に繋ける。



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