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礼楽議


(01)太祖の建隆三年(962)夏四月、太常寺博士の聶崇義が『三礼図』を上呈した。

これ以前、周の世宗の時代、禘祭を太廟で行おうとしたことがあったが、「宗廟に祧室がなければ、禘祭と祫祭はできない」と言うものがいた。崇義は次のように弁駁した。その概略に曰う――

魏の明帝は景初三年正月に崩じ、五年二月に祫祭を行い、明年にまた禘祭を行っております。これ以後、五年に一度、禘祭を行っております。魏は武帝が太祖ですから、明帝でようやく三人目の皇帝となります。〔太廟の〕位牌を毀ってから禘祫の祭を行うことなどありませんでした。これが第一の証拠です。

宋の文帝の元嘉六年、祠部が十月三日に大祫の祭を行うことを決定したとき、太学博士は「禘祫の祭は、三年に一度、五年に二度」と論じております。宋は高祖から文帝に至るまで、三人の皇帝しかおりません。位牌を毀ってから禘祫の祭を行うことなどありませんでした。これが第二の証拠です。

梁の武帝は謝広の発議を用い、三年に一度禘祭を行い、五年に一度祫祭を行い、それを大祭と呼んでおりました。夏に禘祭を行い、冬に祫祭を行ったのです。梁の武帝は王朝の創始者ですから、禘祫の祭は四代前の親を後から尊んだにすぎません。祭りというものは、子孫が祖先に感謝を示すものです。時が流れ季節が移ると、親を憶う子の心が生じます。ですから供養には〔四時の〕第一月を用い、祭りには第二月を用い、四時の祭りの間に禘祫の祭を行って、〔太廟の位牌を〕昭穆に並べる。――これが礼のあり方です。宗廟に〔位牌が〕揃っているかどうかは、関係ないことです。これが第三の証拠です。

崇義の主張に従った。世宗は郊廟で用いる祭玉について調べさせた。そこで崇義は三礼を研究し、この時(太祖の建隆三年)になって上奏した。帝はそれを見て喜び、詔を下した。――

礼の器具や図は代々受け継がれてきたものだが、時間の経過にともなって誤りも生じるものである。聶崇義は、太学に奉職し、儒者の学問を修め、故実を研究し、〔伝来の〕誤りを是正し、職責を全うしており、まことに讃美すべきである。崇義には労に応ずる褒美を与えよ。上呈した『三礼図』については、太子詹事の尹拙に命じ、儒学者三五人とともに、さらなる調査をさせよ。より正確詳細を求めるべく、〔聶崇義の意見と〕異同があれば、適否を明らかにせよ。


(02)尹拙が『三礼図』を駁正すると、聶崇義は再び経文を引いて弁解しので、工部尚書の竇儀に裁定させた。儀は次のように報告した。

謹んで考えますに、聖人は礼を作り、それを永久の未来に伝えましたが、儒者が経書に拠って伝えたところには、時として異同が生じました。年月が〔聖人から〕遠くなればなるほど、図絵に欠落が生じ、矛盾は徐々にひどくなり、確かな根拠がなくなります。聶崇義は伝来の学説を研究し、礼経に心を潜め、旧図に比べてまことに斬新な見解をもっております。尹拙は陛下の命令を受け、従来の成果を十分に尽しております。尹拙の駁論と聶崇義の反論文の各四巻。臣が再調査した上、適宜に是正増損を加え、注釈を施したもの、全十五巻。以上を上呈いたします。

詔してこれを頒布させた。

拙と崇儀は再び祭玉と鼎釜の異同について申し立てたので、中書省に意見をまとめさせた。吏部尚書の張昭らは次のように上奏した。

聶崇義の意見には、「天を祭るときは、九寸で中央に穴のある円形状の蒼璧を用いる。地を祭るときは、八寸で中央に穴のない黄琮(八角柱)を用いる。圭・璋・琥は、いずれも長さ九寸」とあります。崇義が言うには、周の建徳三年に田敏らと、『周官』玉人の職および阮諶・鄭玄の旧図を調査したとき、この制度が載っていた、と。

我々の調査によりますと、『周官』玉人の職には、ただ「璧琮は九寸、瑑琮は八寸」、および「璧の直径は度尺、璧の穴は三尺、これを単位とする」との文があるだけで、蒼璧・黄琮についての記載はありません。注文には『爾雅』の「辺が穴に倍する」ことが引かれておりますが、これは「璧の直径は度尺」に対する注で、蒼璧についてのものではありません。また、鄭玄は自身が『周礼』に注を施したときには尺寸を記載しておりません。それが別に画図を作ったとき、かえって経文に違えて異説を立てるでしょうか。

『四部書目』には『三礼図』十二巻があります。これは隋の開皇年間に礼官に編修させた勅撰物です。その図の第一と第二の表題には「梁氏」とあり、第十の後題には「鄭氏」とあります。梁氏や鄭氏の身分は不明であるとされています。現在、書庫に『三礼図』があり、その表題にも「梁氏」「鄭氏」とありますが、身分は書かれておりません。後世、梁正なるものが――彼は前代の図記を集めて研究したのですが――、『三礼図』について「陳留の阮士信は、礼学を穎川の綦冊君に受け、その学説を用いて『礼図』三巻を作った。しかし礼経の文を調べず、漢代の礼論を引いており、鄭君(鄭玄)と相違がある。わたくし正は、〔三巻の本図を〕つづめて二巻とした」と記しております。文中にいう阮士信は諶のことです。梁正の言う通りならば、諶に誤釈のあったことも明らかです。さらに三巻の『礼図』を二巻につづめたのなら、現行の『礼図』の中にあるはずですが、祭玉を改めたとする説はありません。

我々が検討したところ、周公が礼を定め、叔孫通が再定して以後、礼に緯書が生まれ、漢代の諸儒にも極めて多くの著述がありました。しかし祭玉の尺寸について調査しても、どこにも書かれておりません。魏晉以後、鄭玄や王肅の学問にはそれぞれに弟子がおり、三礼・六経についても随分研究されました。しかしそれらの書物を調べても、祭玉の尺寸については書かれておりません。我々が画図本書を調査したところ、周公所説の経文には尺寸の記述がありませんでした。もし現在伝わる尺寸が後世の人間の誤釈であるならば、周の図に入れてよいものでしょうか。崇義崇らは諸侯が入朝したときに天子や夫人に献納される琮・璧のことを祭玉とし、それに「直径の尺度」や「辺と穴」の言葉を結びつけ、強いて尺寸を作っております。古今の大礼について、誤解に順いながら誤解を正すというのは、道理として通じません。

また尹拙の学説ですが、礼神の六玉について、拙みずから言うところによれば、梁の桂州刺史の崔霊恩の手になる『三礼義宗』の所説――昊天および五精帝の圭・璧・琮・璜はどれも長尺二寸と十二時に倣ったものである。地を祭る琮は、長さ十寸、地の数に倣ったものである――と、『白虎通』の所説――中が四角で外が円形のものを璧といい、中が円形で外が四角のものを琮という――を根拠としたものです。崇義はこれを批判して、「霊恩には周公の才もなければ周公の位もない。一王朝の撰述でもって、直ちに六玉の闕文を補うなどは、最も礼に合致しない」と言っております。

我々が考えるところによりますと、劉向が『洪範』について論じ、王通が『元経』を作ったのは、決して聖人になぞらえて上公の位に居ろうとしたものでなく、教化に有益であれば、またそれも美事だとしたまでです。我々は霊恩の著書から古訓を案じ、祭玉が十二の数である理由を考えてみました。

天に十二次あり、地に十二辰あり、日に十二時あり、封山の玉牒(玉製のふだ)には十二寸あり、圜丘の籩豆には十二列あります。「天子は鎮圭で外を守り、王后は大琮で内を守る」ときの鎮圭や大琮は十二寸です。王者が宗廟を守るために用いる祼圭は十二寸となっております。君主みずから行う〔天地を祭る〕郊祭では、壇に登って酒を献じ、大裘を着込み、大圭を夾んで祭を行います。そこで〔聶崇義のいうように〕十二寸の圭を手に九寸の璧を献じるとなると、これでは宗廟に献ずるとき用いる〔十二寸の〕祼圭より短くなります。天を父とし地を母としているのですから、人情として穏当ではありません。

つまり霊恩の議論は道理として誤っておりません。そのため『義宗』が世に出てからというもの、梁・陳・隋・唐を経た四百年、礼に言及するものは、『義宗』を規準として来たのです。今の『五礼精義』『開元礼』『郊祀録』はいずれも『義宗』を規準としております。近代の晉漢両朝は、なお旧制に依拠しておりました。周の顕徳年間、田敏らは妄りに穿鑿を加え、勝手に改変を加えました。唐の貞観以後、みたび五礼の大改訂がありましたが、いずれも隋朝の典故に依拠しておりました。礼制の諸規定を改訂することがあっても、祭玉を改めることはありませんでした。

以上から、『白虎通』『義宗』『唐礼』の制度を規準とすべきであると進言いたします。

また尹拙は旧図には釜が画かれているが、聶崇義は釜を削除して鑊を画いていると言っております。我々が旧図を調査したところ、いずれも釜の図はあるものの、鑊の図はありませんでした。調べてみますと、『易』の説卦伝には「坤を釜と為す」とあり、『詩』にも「維れ錡及び釜」や「之が釜鬵を漑(そそ)がん」とあり、『春秋伝』(左伝)にも「錡・釜の器」とあり、『礼記』にも「黍を燔(や)き豚を捭(さ)く」とあり、『礼記』の文は「古にはまだ甑釜がなかったので、黍を燔き豚を捭いて祭った」と解釈されています。釜の来歴は古いのです。ですから『礼図』にも入っているのです。

今、崇義は『周官』の祭祀に「鼎鑊に省す」「鼎鑊に供す」とあり、また『儀礼』に「羊鑊」「豕鑊」の文があることから、「釜を画くよりは鑊を画くべきである」と言っております。他の経書に釜の記載があるのですから、確かに削除すべきではありません。しかし『周礼』『儀礼』に「鑊」が記載されているのですから、両者ともに図示すべきでしょう。また諸家の祭祀の画と現行の礼制とを調査したところ、大祀の前の一日に光禄卿が鼎鑊を視察しております。鑊の図を鼎の図の下に画くべきです。

詔を下し、これに従った。


(03)乾徳元年(963)二月、太常の竇儼が訴えた。

三王五帝が王朝を創設したとき、礼や楽は引き継ぎませんでした。偉大なる聖宋が天子の位に立った以上、宋朝一代の楽を立てねばなりません。楽章を新たな言葉に変え、古くからの道理に従われますように。

これに従い、儼に任せた。

儼は周の楽の中、文舞である「崇徳」の舞を「文徳」の舞に改め、武舞である「象成」の舞を「武功」の舞とした。楽章の十二の「順」を改めて十二の「安」とした。これは「治世の音は安くして以て楽しむ」から取ったものである。天を祭るときには「高安」を、地を祭るときには「静安」を、宗廟には「理安」を、天地宗廟の登歌には「嘉安」を、皇帝の臨軒には「隆安」を、王公の出入には「正安」を、皇帝の飲食には「和安」を、皇帝の受朝と皇后の入宮には「順安」を、皇太子の軒県出入には「良安」を、正冬(十一月)の朝会(皇帝謁見)には「永安」を、郊廟で俎豆を用いるときには「豊安」を、祭享・酌献・飲福・受胙には「禧安」を、文宣王と武成王を祭るときには「永安」を、籍田や先農の祭りには「静安」を用いた。

五月、有司から「僖祖の文献皇帝の室(宗廟の部屋)では「大善」の舞を奏し、順祖恵元皇帝の室では「大寧」の舞を奏し、翼祖簡恭皇帝の室では「大順」の舞を奏し、宣祖昭武皇帝の室では「大慶」の舞を奏したい」と言ってきたので、それに従った。

翰林学士承旨の陶穀らは、詔を奉じて感生帝を祭るときの楽章と曲名を撰定した。降神(神を迎える。以下、祭礼の順序)には「大安」を、太尉の礼には「保安」を、玉幣を献納するときには「慶安」を、司徒の奉俎には「咸安」を、酌献には「崇安」を、飲福(神に酒肉を捧げ終わること)には「広安」を用い、亜献には「文安」を、送神には「普安」を用いた。

五代以来、楽工(楽人)に不備があったので、この歳の秋に行われる郊享の礼(天地と山川百神を祭る礼)のため、開封府の楽工八百三十人を選び、臨時に太常寺で雇い、鼓の打ち方や笛の吹き方を教えさせた。


(04)四年(966)春、拾遺の孫吉を遣わし、成都にあった孟昶の宮県(楽器の配置のさま)を京師に取り寄せた。太常に調査させたところ、楽器が音律に合っていないことが分ったので破棄させた。


(05)六月、判太常寺の和峴はこう訴えた。――「大楽署の旧制では、宮県の三十六柱を庭に設け、登歌(楽器。大朝会に用いる)の両架を殿上に設けておりました。有司に命じて造らせて下さい。また徐州に泗川の石を持ってこさせ、それを磬(打楽器)の材料に充てることをお許し下さい。」これを許可した。

これ以前、晉の開運末年に礼楽の器具が失われた。ここに至り、ようやく有司に命じて二舞十二案の制度を整えさせた。二舞郎と引舞一百五十人については、教坊(楽工などを管理する部署)の開封所属の楽工を調査し、楽工の子弟を選び、楽隊を整えた。冠や衣服は旧制に準じた。鼓吹十二案の制度は、十二の氈牀を設け、熊羆の踊り立った形状を作って下を承けた。案ごとに大鼓・羽葆鼓・金錞を各一人、歌・簫・笳を各二人、総計九人を揃えた。冠服は引舞と同じにした。


(06)十月、峴はまた上奏した。――

楽器の中に叉手笛があります。楽工が調査したところ、どれも雅音(正しい音楽)と相応しておりました。調べてみますと、唐の呂才は「白雪」の琴の歌を作り、馬滔は「太一」の楽を用い、当時にあっては宮県の席に与り得ました。ましてやこの笛は十二旋宮に相当しているのですから、八十四調に通すこともできます。形状は雅笛に似て、それより小さく、長さ九寸。黄鐘管に等しく、左に四つ右に二つ、穴が六つあります。楽人が手に取るときは、両手を交わらせ、拱揖(両手を前に組んで会釈すること)したようになります。拱宸管と名づけたいと思います。十二案・十二編磬・登歌両架に一つずつ設置することを法規に定めて下さい。

これを許した。


(07)太祖はいつも雅楽は音が高くて悲哀な感じが漂い、中和に合っていないと感じていた。王朴・竇儀は音楽に詳しい人物であったが、両人とも既に亡くなっていた。そこで和峴に原因を調べさせた。峴は「朴が定めた律呂の尺は、古制である西京銅望臬の石尺に比べて四分短くなっております。音が高いのはこれが理由です」と答えた。そこで古法により、別に新尺を作らせ、律呂を定めさせた。これ以後、雅音は和やかで伸びやかになった。これについては〔『宋史』の〕「律暦志」に記載されている。


(08)国初以来、〔帝が〕正殿に臨み朝賀を受けるときには宮県を用い、別殿で群臣の祝寿に臨むときには教坊楽を用いていた。この年の冬至、帝は乾元殿に臨んで慶賀を受けると、群臣は大明殿に詣でて長寿を祝ったが、始めて雅楽・登歌の二舞を用いた。


(09)この月(十月)、和峴がまた上奏した。――

郊廟の殿庭では「文徳」と「武功」の舞を用いております。しかし舞人の陣容が武功・文徳を表しておりません。古訓によりますと、禅譲によって天下を得たものは、まず文舞を用い、放伐によって天下を得たものは、まず武舞を用います。陛下は禅譲を受けたのですから、さきに文舞を用いるべきです。

『尚書』によりますと、舜が驍の禅譲を受けたとき、「玄徳升聞し、乃ち命ずるに位を以てす(奥深い徳が天朝に聞こえ、天子の位を命じた)」とあります。殿庭で用いる文舞を「玄徳升聞」の舞に改められますよう請い願います。その舞人は唐の太宗の舞図に拠って、八佾の数(六十四人)の倍である一百二十八人とし、それを八行に分け、行ごとに十六人とします。みな履物で、払(塵払いの器具)を執り、袴褶を着け、進賢冠をかぶります。引舞は二人、各々五采纛(舞の道具)を持ちます。その舞状・文容・変数については、いくつか改変を加えます。

さらに陛下は神武で以て天下を統一されたのですから、〔文舞に〕続いて武舞を用いるべきです。『尚書』によりますと、周の武王は「一たび戎衣して天下大いに定まる(一たび軍服を身にまとうと、天下は統一された)」とあります。〔従来の武舞を〕「天下大定」の舞に改められますよう請い願います。舞う人の数や行例については、全く文舞と同じにします。舞人は黄金の鎧をまとって戟を持ちます。引舞は二人、各々五采旗を持ちます。舞は六舞です。一変は六軍の挙兵を象り、二変は上党平定を象り、三変は淮揚平定を象り、四変は荊胡の帰復を象り、五変は邛蜀の帰順を象り、六変は六軍の帰還とその整備を象ります。また別に舞曲と楽章を撰定します。鐃鐸・雅相・金錞・鼗鼓、そして二舞などを引く工人の衣冠は楽令に拠ります。「文徳」「武功」の舞は郊廟でもと通り行って下さい。

また唐の貞観四年のことを調べてみますと、景雲(瑞祥の一つ)が現れ、黄河が透き通ったとき、張文収は古代の「朱雁」「天馬」の義を採り、「景雲河清歌」を作り、「燕楽」と名づけました。元会第二奏はこれを指します。謹んで考えますと、今年、荊南から甘露(瑞祥の一。以下も同じ)が献上され、京兆と果州から嘉禾が奉られ、黄州から紫芝が進められ、和州から緑毛の亀が上せられ、黄州から白兎が納められました。月律により、「神亀」「甘露」「紫芝」「嘉禾」「玉兎」の五瑞につき各々一曲を作り、朝会の登歌ごとにまずこれらの楽曲を奏して下さい。

詔を下した。――「二舞の人数と衣冠は旧制に拠れ。楽章については請願の通りにせよ。」


(10)六年(968)(1)、峴がまた言った。――

漢朝では天馬・赤雁・神鼎・白麟の瑞祥があれば郊歌を作りました。国朝になって、合州は文字を著した瑞木を進呈し、象は遠方から贈られ、秦州は白い烏を献じ、黄州は白い雀を納めております。いずれも音楽によって褒め称え、郊廟に奉納すべきものです。

そこで峴に瑞文・馴象・玉烏・皓雀の四つの瑞楽章を作らせ、登歌として備えさせた。


(11)すぐにまた峴は訴えた。――

『開元礼』を調べますと、郊祀の車駕が宮殿に還ったとき、嘉徳門に入ると采茨の楽を用い、太極門に入ると太和の楽を用いております。今、郊祀の礼が終わり、恩赦を下した後、宮殿に還ると、宮県は「隆安」を用いるだけで、「采茨」を用いておりません。そもそも「隆安」の楽章は本来朝廷に臨むときの言葉です。礼の本旨を考えますと、「隆安」の楽は内から出たときに用い、「采茨」の楽は外から戻ったときに用いるものです。併用しなければ旧典に悖ることになります。今、大楽署丞の王光裕は唐の「采茨曲」を暗誦しておりますので、月律によって別に言葉を撰定させ、郊祀が終わり、車駕が初めて入れば奏でさせ、恩赦が終わり宮に還れば、「隆安」の楽を奏でさせますように。

すべてそれに従った。


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(1)六年:乾徳は六年十一月に改元。『会要』楽四によると、この上奏は六年十月二十七日に繋る。



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