HOME目次呉越帰地(陳洪進附)

金匱之盟


(01)太祖の建隆元年(960)二月乙亥(五日)、母の杜氏を尊んで皇太后とした。

太后は定州安喜の人。家内を治めること、厳格で筋が通っていた。匡済、匡胤、光義、光美、匡賛の五人の子供を儲けたが、匡済と匡賛は早くに死んだ。陳橋の変の起こったとき、后はそれを知ると、「我が子にはもともと大志があった。今、その通りになった」と言った。皇太后となり、帝が殿上に拝礼すると、太后は憂え顔で喜ばなかった。周囲の者が「母は子供によって貴くなると聞き及んでおります。今、子が天子となったのに喜ばれぬのはなぜです」と尋ねると、太后は「私はこう聞いている。君主とは難事である、と。天子はその身を億兆の民の上に置くもの。もし彼等を正しく導き得たなら、天子の位は尊ぶべきもの。しかし導きを誤れば、〔天子の位を捨てて〕匹夫となることを求めても、得られぬもの。これが憂えうる理由だ。」帝は再拝すると、「謹んで教えを承りました」と申し述べた。


(02)二年(961)六月甲午(二日)、皇太后の杜氏が崩じた。

太后が病に倒れると、帝は看病のため側を離れなかった。〔太后は〕病が篤くなると、趙普を呼び入れて遺命を授けた。また帝に問うた。――「お前はなぜ自分が天下を手に入れられたか分っているか。」

帝、「すべて祖考と太后のたまものです。」

后、「いいや、柴氏が天下を幼児に託したからだ。もし周に大人の君がいたなら、お前は天子の地位など得られようはずがあるまい。お前にもし万一のことあがれば、天子の位を光義に伝えよ。光義は光美に伝えよ。光美は〔帝の子の〕徳昭に伝えよ。違えてはならぬ。」

普は寝台の前で誓書を作り、紙の最後に「臣である普が記した」と署名して金匱に収め、宮人に厳重に管理させた。かくして〔太后は〕崩じた。諡を昭憲といった。


(03)秋七月、弟の光義を開封府の尹(長官)とし、光美を興元府の尹とした。


(04)乾徳二年(964)六月、皇子の徳昭を貴州防禦使とした。

故事では、皇子の封国は王に封じることになっていた。しかし徳昭はまだ元服していなかったので、帝は恩典を減らしたのである。


(05)三年(965)六月、弟の光義に中書令を加え、光美を同平章事とし、子の徳昭を貴州団練使とした。


(06)開封六年(973)八月、趙普が宰相を罷め、河陽三城節度使となった。

普は河陽に着くとこう訴えた。――「事情を知らぬ者どもは、私が軽率に皇弟の開封尹について発言したと言っております。ですが皇弟は忠孝有徳の人、隠し事など決してありませぬ。ましてや昭憲皇太后の危篤のおり、私も陛下とともに遺命を拝聴しました。私の無実を知るのは陛下だけです。どうか御配慮くださいませ。」帝はみずから書簡に封をすると、金匱に収めた。


(07)九月、弟の光義を晉王に封じ、席次を宰相の上にした。また弟の光義に侍中を兼ねさせ、子の徳昭を同平章事にした。


(08)九年(976)三月、子供の徳芳を貴州団練使とした。


(09)九月、帝は晉王光義の私邸に行幸した。

帝は光義を愛していた。頻繁にその邸宅に出向き、手厚く遇していた。光義が病に倒れたときには、帝みずから灸をすえてやった。光義が痛がると、帝もよもぎを取って自分に灸をすえてみたほどであった。いつも近臣に「光義には帝王の威厳がある。後日、きっと太平の世の天子となろう。運のめぐり合わせでいえば、私の及ぶところではない」と言っていた。


(10)冬十月、帝は病に倒れた。壬午(1)、大雪の夜、帝は晉王光義を呼び、後事を託した。これには近臣も立ち会うことができず、ただ遠くから窺うだけだったが、灯火の影に晉王が席を離れたり、遜ったりする様子が見えた。すると帝は柱斧(水晶でできた小斧)で地を斬りつけ、「好きにしろ」と大声で晉王に言った。間もなく帝は崩じた。漏刻は四鼓を指していた。宋皇后は晉王を見て愕然とし、あわてて「私ども母子の命は貴方様におまかせします」と言いつくろった。晉王は「一緒に富貴を守ろう。憂えずともよい」と言って涙を流した。

甲寅(二十一日)、晉王光義が皇帝の位に即き、名前を炅に改めた。宋皇后を開宝皇后とし、西宮に遷した。皇弟の廷美を開封府の尹とし、斉王に封じた。兄の子の徳昭を永興軍節度使兼侍中として武功郡王に封じ、徳芳を山南西道節度使・同平章事・興元尹とした。廷美は光美のことである。ついで太祖・廷美の子女を皇子・王女と呼ばせ、趙氏が一体であることを示した。


(11)太宗の太平興国四年(979)二月、帝はみずから漢を討伐するべく、斉王の廷美に後事を託した。開封判官の呂端は廷美に忠告して、「君主が風雨に曝されながら非道のものを討伐されるとき、王は〔陛下の〕一族として、みずから模範となってお仕えしなければなりません。後事を託されるなどとんでもないことです。」廷美が随行を願い出ると、帝はこれを許した。


(12)八月、皇子の武功王徳昭が自殺した。

これ以前、徳昭が帝に従って幽州に出征したときのこと。夜半、軍中に騒動があった。帝が行方不明となると、徳昭を担ごうとするものがいた。帝はそれを聞いて不機嫌になった。帰還後、〔帝は〕「北伐は不成功だった」と言って、長らく太原遠征の恩賞を与えなかった。徳昭が諫言すると、帝は「お前が〔皇帝になって〕褒美を与えてやれば充分だ」といって激怒した。徳昭は帝前を退くと、みずから首を切って死んだ。帝は徳昭の自殺を聞いて驚き悔み、遺体を抱きしめて、「馬鹿な奴だ、なんでこんなことを」と大声で泣いた。〔徳昭に〕中書令を贈り、魏王に追封した。諡を懿といった。


(13)冬十月、北漢平定の論功を行い、斉王の廷美を秦王に進めた。


(14)六年(981)三月、皇子の興元尹の徳芳が死んだ。中書令・岐王を贈った。諡を康恵といった。


(15)当時、〔朝廷では〕盧多遜が権力を握っていた。趙普は朝廷の儀式に参列すること数年に及んだが、多遜はしきりに普を批判して、「普にはもともと上を皇帝にする気持ちなどありませんでした」と謗っていた。このため普は鬱々として志を得られなかった。

たまたま晉王の旧僚であった柴禹錫・趙鎔・楊守一が、「秦王廷美は驕り高ぶり、陰謀を企てている」と密告した。帝は疑念を抱いて趙普に問うた。普は「機務に参じ、謀略を察知しとうございます」と願い出ると、「私は旧臣の身でありながら、権臣に阻まれております」と訴え、昭憲太后の遺命を直に聞いたことや、前朝(太祖)のとき訴えたことを事細かに申し立てた。帝は金匱をあけて誓書を手にし、普の書簡の存在も確認した。そこで普を呼んで、「人に過ちのないものなどいない。私は五十を待たずして、すでに四十九年の過ちを知った。」

九月、普に司徒兼侍中を授け、梁国公に封じた。


(16)七年(982)三月、密告があった。――「帝の西池行幸を狙い、廷美が乱を企てている」と。このため廷美から開封尹を取り上げた。また西京留守とし、襲衣・犀帯・銭万緡、絹・綵各万匹、銀万両、西京の甲第一区を与えた。枢密使の曹彬を遣わし、瓊林苑で廷美を餞別させた。

太常博士の王遹を判河南事、開封府判官の閻挙を判留守事とした。柴禹錫を枢密副使、楊守一を枢密都承旨、趙鎔を東上閤門使とした。廷美の陰謀を報告した功績を褒めてのことである。

左衛将軍・枢密承旨の陳従守を左衛将軍、皇城使の劉知信を右衛将軍、弓箭庫使の恵延真を商州長吏、禁軍列校の皇輔継明を汝州馬歩軍都指揮使、定人の王栄を濮州教練使とした。いずれも廷美と親交をもち、贈賄を受けた罪に問われたのである。あるものが「王栄は廷美の近臣に『俺はいずれ節度使を与えられる』と放言していた」と密告したため、〔栄は〕免官の上、海島に配流された。


(17)これ以前、昭憲太后の遺命に、太祖は帝(太宗)に皇帝の位を伝え、帝は廷美に伝え、そして〔廷美は〕徳昭に伝えよとあった。そのため帝が即位した当初には、廷美を開封の尹とし、徳昭と徳恭を皇子と呼ばせたていた。徳昭が天寿を全うせず、徳芳が後を追うように死んだため、廷美は不安に駆られた。そこで柴禹錫は謀叛を訴えて〔廷美を〕動揺させたのである。

後日、帝は後継者について趙普に意見を求めたところ、普は「太祖は誤りを犯されましたが、陛下は同じ轍を踏まれてはなりません」と言った。このため廷美は処罰されたのである。


(18)趙普が宰相にもどると、盧多遜は心中不安に陥った。普はそれとなく引退を勧めたが、多遜は地位に固執して決めかねていた。普は、多遜が堂吏(中書省の役人)の趙白を用い、秦王と親交のあったことを巧みに探り出した。帝は激怒して〔多遜を〕守兵部尚書に責授した。

越えて二日、御史の獄に下し、中書守堂官の趙白、秦王府孔目官の閻密、小吏(下級官吏)の王継勲を逮捕し、翰林承旨の李昉、学士の扈蒙、衛尉卿の崔仁冀、御史の滕中正に調査させた。

多遜は罪を認めたが、それは次のような内容だった。――〔多遜は〕頻繁に趙白を廷美に遣わして中書の機密を報告し、「天子がお隠れになれば、全力で大王(廷美)にお仕えします」と言っていた。廷美も小吏の樊徳明を遣わして、「承旨(盧多遜)の言葉は我が意を得たものだ」と伝えて弓矢を与えたが、多遜もそれを受け取っていた。

閻密は横暴で不法行為を働いており、たびたび〔帝の名を〕名指しで批判していた。王継勲は〔廷美のために〕歌姫を探したとき、権勢をたのんで賄賂を受け取っていた。彼等はすべて罪に伏すことになった。

刑罰が決まると、帝は文武官を朝堂に集めた。太子太師の王溥など七十四人は次のように上奏した。――「多遜および廷美は、左右を顧みては〔帝を〕呪咀するなど、大逆不道の行いがありました。〔彼らに〕誅殺を加え、正しく刑罰を執行しなければなりません。趙白らを斬首に処されますように。」かくして多遜の官を剥奪し、崖州に配流とし、家族と近親は遠方に転居とした。趙白・樊徳明・閻密・王継勲は、家財没収の上、国都門外で斬首となった。廷美は蟄居を命ぜられた。

〔詔を下した。――〕「廷美の子供らの名称を改めよ。徳恭は以前のまま皇姪とせよ。皇姪女で韓崇業に嫁いるものについては、公主と〔崇業の〕駙馬の号を省かせよ。西京に廷美を居住させよ。」

閻矩を涪州司戸参軍に、孫嶼を融州司戸参軍に左遷した。いずれも廷美の近臣として輔導失敗の責を問われたのである。


(19)趙普は、廷美の西京在住に不都合を感じ、知開封府の李符に勧めて、「廷美は悔い改めることなく不満を抱いております。遠方に住まわせ、万一のことを防がれますように」と上奏させた。そこで廷美を涪陵県公に降し、房州安置とた。〔廷美の〕妻の楚国夫人張氏から国封を省いた。閻彦進を知房州に、袁廓を通判にして、〔廷美を〕監視させた。普は、符が事実を洩らすのを恐れ、他の事件に託けて符を罪に陥れ、春州に配流した。〔符はその後〕一年余りで死んだ。


(20)八年(983)冬十月、趙普が罷めた。

廷美は房州に着くと、憂鬱のあまり悸病を起こし、雍煕元年(984)の春正月に房州で死んだ。三十八年であった。

帝は廷美の死を知ると、哀しみに涙をみせ、宰相の宋琪と李昉にこう言った。――「廷美は幼いときから剛腹であったが、年数を食うにしたがい兇悪になってしまった。同じ血を分けた兄弟として、あれを法で処罰するに忍びなかった。だから房陵に住まわせ、自身の過ちを知って欲しかったのだ。ちょうど許してやろうと思っていた矢先、こんなにも早く死んでしまった。なんと哀しいことではないか。」かくして〔帝は〕悲しみのあまり涙を流し、近臣をも感じ入らせた。

〔廷美を〕涪王に追封した。諡を悼といった。〔喪礼として〕発哀・成服を行い、廷美の子の徳恭と徳隆を刺史とした。廷美が罪に問われたのは、趙普によるものである。

真宗が即位すると、〔廷美を涪王から〕秦王にもどし、妻の張氏を楚国夫人とした。仁宗は太師・尚書令を贈り、徽宗は〔秦王を〕改めて魏王に封じた。

普は、太祖を輔弼した功績により、范質らに代わって宰相になった。帝は心から信頼をよせ、どんなことでも相談して決めていた。普がある官職に人を推薦したところ、帝は認めなかった。明日、再び申し立てるが許さない。明日、また申し立てると、帝は激怒して上申書を破って投げ捨てた。普は顔色を変えず、跪いてそれを拾うと帰ってしまった。後日、その時の上申書をつづりあわせ、また同じように申し立てた。帝は意味するところを悟り、ついにその人を任用した。

また、昇進の決まった臣僚に対し、帝はその人を嫌っていたので、〔昇進を〕許さなかったことがあった。普が強く昇進を求めると、帝は怒って「私が許さなければどうするつもりだ」と言うと、普は「賞罰は天下のもの。陛下の気分で勝手にしてよいものはありません」と言い捨てた。帝はかんかんに怒って立ち去ると、普もそれに従った。帝が宮廷に入ると、普はその門前で立ったままいつまでも帰ろうとしなかった。結局、〔この昇進を〕許すことにした。〔普の〕剛気果断なさまはこのようであった。しかし人をねたむことも多く、よく身分が低いときの些細なことを訴えたりした。そのため帝は「塵芥の中から天子や宰相を見つけられるなら、誰でもそれを探すだろう」と言っていた。

普は独相(単独の宰相)を務めること十年余り、自分勝手に振る舞うこともあった。私怨で馮瓉・李美・李檝を誣告し、贈賄の罪に問うて死刑にしようとしたこともあった。このため朝廷では〔普を〕嫌うものが少なくなかった。

帝は頻繁に普の私邸に出向いていた。たまたま呉越の使者が書簡を普に渡し、十瓶ほど海の物を持ってきた。出入り口に放置して開けないうちに帝がやって来たので、隠す暇もなかった。帝が何かと聞くので、普は正直に答えた。帝は「海のものならきっと旨かろう」と言って開かせると、瓜状の黄金だった。普は恐れかしこまって、「私はまだ書簡を開いておらず、本当に知らなかったのです」と言って謝罪した。帝、「受け取っておけ。彼等は我が国はお前の手になると思っているのだ」と。

〔太祖の在世〕当時、朝廷では秦州や隴州の大木の密売を禁じていた。普を嫉む多くのものは、普が都で売買していると口にしていた。三司使の趙玼が訴えると、帝(太祖)は激怒してすぐに普を追放しようとした。王溥の取りなしで処分は取り消された。また盧多遜は普と仲が悪く、しばしば上前で普の欠点を指摘したので、帝はいっそう煙たく思うようになった。

これ以前、〔太祖の〕開宝の初めごろ、判大理寺の雷徳驤は、大理寺の官吏が普に迎合し、刑に手加減を加えていることに憤慨していた。帝に謁見してそれを訴えたのだが、そのときの言葉遣いや態度が猛々しかった。帝は怒って〔徳驤を〕引きずり出し、商州司戸参軍に降格した。しばらくして商州知事の奚嶼は普に迎合し、「徳驤は不満を抱いている」と上奏したので、〔徳驤は〕免官の上、霊武に配流された。徳驤の息子の有鄰は、登聞鼓を打って〔父・徳驤の〕冤罪と、中書の役人らによる不法行為を訴えた。帝は御史の獄に下すと、申し立て通りであった。帝はさらに普を疑い、ついに参知政事の呂余慶・薛居正に押班(朝廷の序列)の印を交互に管理させ、権限を分担させた。普が罷めると、帝の世を終えるまで、召し出されることはなかった。〔普は〕しばらくの間、鬱々として志を得なかったが、太宗の太平興国五年、〔廷美の〕謀叛の件で召し出され、司徒・侍中となった。結局、秦王廷美の獄は普によるものであった。

八年、〔普は宰相を〕罷めて武勝郡節度使となった。帝は詩を作って餞別として与え、長春殿に宴を催した。普は詩を奉ると、涙して「陛下が私に下さった詩は、石に刻み、私の老骨とともに泉下(地中のこと)に葬る所存です」と言った。このため帝は心を動かされた。明日、宰相に言うには、「普は国家に功績があった。むかしあれと一緒に遊んだものだが、今や歯も髪も衰えてしまった。朝廷の機務を煩わせたくなかったので、詩にて思うところを伝えたのだ。普が感激して涙を流したので、私もつられて涙が零れてしまった。」宋琪、「昨日、普は中書にやって来ますと、陛下の詩を手にして涙を流し、私にこう申しました。――『私も衰えた。朝廷にあって期待に応えることもできない。請い願わくは、来世もまた〔陛下のために〕犬馬の労をおりたいものだ』と。今また陛下の御言葉を伺いました。君臣の間、終始ともに欠けるところがなかったと言えましょう。」


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(1)壬午:無し。壬子または癸丑。



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