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平北漢


(01)太祖の建隆元年(960)夏四月、北漢の君主の劉鈞はみずから兵を率いて潞州の李筠のところに赴いた。筠の軍が敗れたので、北漢の君主は怖じ気づいて兵を引き上げた。


(02)九月、昭義軍節度使の李継勲は北漢の平遥県を焼き討ちし、数多くの捕虜を獲た。晉州鈐轄の荊罕儒も兵を率いて汾州を攻めたが、北漢の大将の郝貴朝に襲撃されて戦死した。罕儒は勇猛な将軍だったので、帝は痛く悲しみ、命令を聞かなかった麾下の武将二十余人を斬首にした。


(03)三年(962)二月、北漢が潞州と晉州に侵入したが、守備の将軍が撃退した。


(04)乾徳元年(963)秋七月、北漢の宿衛殿直の王隠・劉昭・趙巒が謀叛を起こして誅殺された。告発が枢密使の段常にまで及んだため、北漢の君主は常を汾州刺史として追い出し、すぐに絞殺してしまった。

これ以前、北漢の君主は側室の郭氏を寵愛していた。郭氏は僧侶――神通力をもっていたが――と未亡人の不義の娘で、色気のある女性だった。北漢の君主は郭氏を寵愛し、后にしようとした。常が〔郭氏の〕出生が適切でなく、隣国の笑い物になるというので、北漢の主は取り止めにし、姫の兄弟姻戚たちも斥けられた。そのため郭氏らは常を怨み、謀叛に託けて讒訴して殺したのである。罪なくして殺されたので、人々は常を憐れんだ。


(05)八月、王全斌が北漢の楽平を攻め取ったので、そこを平晉軍とした。契丹が〔北漢の〕救援に来たが間に合わなかった。


(06)九月、北漢が契丹とともに平晉軍を攻めた。洺州防禦使で西山巡検の任にあった郭進が救援に駆けつけて斥けた。

進は部下を厳しく統率していた。帝は兵卒を戒めて、「諸君らは軍法を遵守せよ。私が諸君らを許しても、郭進は諸君らを殺すだろう。」軍校に西山から上京して進の不法行為を誣告したものがいた。帝は実情を察知し、〔軍校を〕進に送付して殺させることにした。ちょうど北漢の侵攻があったので、進はその軍校に向かって、「お前は私を訴えたほどの男だ。今はお前の罪を見逃してやる。お前が敵兵を撃砕すれば、陛下に推薦してやろう。もし負ければ、自分で河東に身を投げよ。」将校は雀躍して戦いに赴いて敵を大破した。進はすぐに〔その軍校を〕もとの地位に戻して欲しいと訴えたので、帝もそれに従った。


(07)北漢の君主は、潞州の敗北以来、日々宋軍の来襲を懼れていた。趙文度を宰相とし、さらに抱腹山人の郭無為と五台山の僧侶継顒を呼びよせて国政に参預させた。すぐに文度と無為が対立したので、北漢の君主は文度を汾州に出し、無為ひとりを宰相にすると、国政の機密を一任した。


(08)契丹の君主は北漢の君主に書簡を送り、「お前は私の命令を聞かず、勝手に年号を改め、李筠を助け、段常を殺した。三つの罪がある」と言ってきた。北漢の君主は「父は子のために罪を隠す」の故事を引いて謝罪した。従来、北漢と契丹は毎年の訪問を欠かさなかった。しかしこれ以後、契丹からの使者は絶え、北漢の使者が赴くと抑留された。群臣はみな契丹に使者として出向くのを懼れるようになった。そこで北漢の君主は、従子の侍衛親軍使継文を使者に遣わしたが、これも拘束された。継文は崇の嫡孫で、体躯剛強、冷静沈着で、勇気もあり寡黙であった。契丹の君主も継文を厚遇した。


(09)二年(964)二月、昭義節度使の李継勲が北漢の遼州に進撃し、これを打ち破った。

これ以前、継勲はしばしば北漢の兵を破っていた。そのため帝は曹彬の軍を継勲に合流させ、北漢国境に侵入させると、周辺地域と遼州・石州を攻撃させた。継勲は北漢の軍を遼城で撃砕した。北漢の遼城刺史の杜延韜は、危機が迫ると、部下の兵三千人を率いて継勲に投降した。契丹は六万騎で救援に駆けつけたが、それも追い返した。


(10)三月、北漢の耀州団練使周審玉らが投降した。


(11)四年(966)、北漢がまた遼州を奪った。


(12)五年(967)、北漢の将軍の閻章と樊暉が砦とともに投降した。


(13)開宝元年(968)秋七月、北漢の君主の鈞が没し、養子の継恩が後を継いだ。

これ以前、世祖の娘は薛釗に嫁いで継恩を生み、何氏と再婚して継元を生んだ。二子ともに幼くして孤児となった。世祖は鈞に子がなかったので、これを養子とした。鈞はむかし郭無為に「継恩は臆病者。世を治める才などなく、おそらく我が家のことを全うできまい。どうしたらよかろう」と尋ねたことがあったが、無為は応えなかった。〔鈞は〕病が篤くなると、無為を呼んで後事を託した。継恩は位を嗣ぐと、無為がかつて自分を助けた成ったことに怨みを抱き、さらに無為の専横を悪んだ。そのため〔無為に〕守司空を加えて手厚く報いたように装いつつも、実際には無為を疎んじていた。


(14)八月戊辰(十二日)、李継勲に軍を授けて北漢を討伐させた。

これ以前、帝は諜者を用いて北漢の君主に伝えさせた。――「君の家と周家とは代々仇同士ゆえ、〔周に〕屈服もできなかっただろう。しかし私と君とを遠ざけるものはない。どうして当地の人民を苦しめるのだ。もし中国のことを考えるなら、太行の地から下り、勝負を決すべきではないか。」

北漢の君主も諜者を用いて返辞をよこした。――「我が河東は土地も兵卒も中国にかないますまい。しかし我が家は叛逆したことなどなく、細々とこの地を守ってきました。我が一族の祭祀が途絶えるのを懼れるのみです。」

帝はこの言葉に哀れみを覚え、諜者に「鈞に伝えてくれ、お前の一生を全うするがいいと」と伝えさせた。そのため鈞が没するまで兵を加えなかった。鈞の死が伝えられると、李継勲に禁軍を授けて北漢を伐たせた。


(15)北漢の君主(継恩)が即位したとき、宋の兵はすでに国境に侵入していた。そこで劉継業・馬峯らに軍を授けて団柏谷を守らせた。峯が銅鍋河に到着すると、李継勲の先鋒の将軍の何継筠がこれを撃破し、敵軍の三千余の首を斬った。ついに汾河橋を奪取し、太原の城下に迫ると、延夏門を焼き討ちした。


(16)九月、北漢の君主は郭無為の追放を謀ったがら、臆病風に吹かれて決断できないでいた。一ヶ月ほどして、供奉官の侯覇栄は十数人を引き連れ、抜き身で官庁に乱入して門を閉じた。継恩は一人で喪に服していたが、乱入を見て驚愕し、屏を逃げ回った。しかし覇栄が刀で胸を刺して殺した。無為は梯子を掛けて中へ人を送り込み、覇栄を殺させた。継恩は即位してわずか六十四日だった。并州(北漢)の人々は、無為が覇栄に策を授け、すぐにこれを殺して口を噤んでしまったのではないかと疑った。

無為は群臣と継恩の弟の継元を立てる相談をした。参議中書事の張昭敏だけが、「少主(継恩)は劉氏でなかったため、位を嗣いでも天命を全うできませんでした。今度は宗家のものを立て、民の期待に応えるべきです。世祖嫡孫の継文は長く契丹に抑留され、荒地におられます。継文を迎えて国の結束を図り、契丹の援助を求めるべきです」と忠言したが、無為は従わずに継元を君主に立てた。


(17)十一月、北漢の君主は使者を遣わし、契丹に〔新君主の〕即位を伝えると、さらに来援も求めた。契丹の君主は撻烈に諸道の兵を与えて救援に向かわせた。帝もまた使者を遣わして北漢の君主に投降を求め、平盧節度使を授けると約束した。また別に郭無為に詔勅を与え、邢州節度使を約束した。無為は〔帝の〕詔勅を手に入れると動揺し、北漢の君主に〔宋との〕親交を勧めたが、北漢の君主は聞き入れなかった。

これ以前、帝は諜者の恵璘なるものに、殿前指揮使と偽らせた上、〔宋に〕処罰されて北漢に逃亡したふりをさせた。無為はそれが諜者であることを見抜いたが、供奉官として用いていた。宋の兵が国境に入ると、璘はすぐさま逃亡したが、嵐谷で偵察隊に捕まり、太原に送り返された。北漢の君主は無為に調査させたが、無為は無罪放免とした。李超というものがおり、璘の罪状を察知して訴え出た。無為は怒って、超とともに斬り殺して口を塞いだ。

李継勲らは契丹の来援を知り、軍を引き上げた。このため北漢は晉と絳の二州で掠奪を擅ままにした。


(18)北漢の君主の継元の妻である段氏は、いつも僅かのことで孝和后の郭氏に詰られていた。このためすぐに病気で死んでしまった。継元は后が殺したのではと疑い、后が縗服で孝和帝の柩前に哭礼を行っているとき、寵臣の范超に絞殺させた。宮中の女官は災難に遭遇したものの、たがいに疑うことはなかった。世宗には十人の子がいた。鎬・鐃・錫は立派な人々であったが、継元は小人の讒言を間に受け、彼らを幽閉した。そしてその年も終えぬうちに、すべて死んでしまった。


(19)二年(969)三月、李継勲らが帰還した。戦功がなかったので、帝は再び〔北漢を〕攻撃すべく魏仁浦に相談した。――「私みずから太原に遠征するというのはどうか。」仁浦、「性急であれば事は成功しません。陛下は自重なされよ。」帝は聴かず、継勲らをまず太原に向かわせ、光義を東京留守にし、自身も軍を率いて汴都を出発した。

三月、太原に到着した。長連城を造って取り囲み、砦を城の四方に立てた。継勲を南に、趙賛を西に、曹彬を北に、党進を東に陣取らせた。北漢の劉継業らは日暮れに乗じて裏門から出撃して東西の砦を攻めたが、敗れて遁走した。帝が汾水と晉水を塞ぎ、水を城に流し込むと、北漢の人々の間に動揺が広まった。郭無為は再び北漢の君主に投降を勧めたが、北漢の君主は従わなかった。ある日、〔北漢の主は〕群臣と宴を開いたおり、無為は庭で痛く泣きくずれ、「どうやってこの空城で宋の百万の軍に対抗するのです」と言うと、刀を抜いて自殺を謀った。これで群臣の心を動かそうとしたのである。北漢の君主は急いで階段を下り、無為の手を取って座席に引き上げて〔自殺を〕思いとどまらせた。


(20)夏四月、契丹がまた北漢を救援した。

帝はきっと契丹が鎮州・定州を経由して太原に向かうと考え、韓重贇に強行軍でその地に向かわせた。また一隊が石嶺関から侵入したことを知り、何継筠を呼び、迎撃のための方策を授けた。継筠は陽曲で契丹の兵に遭遇すると、これを大破し、千余の首を斬った。重贇もさきに嘉山に陣取った。契丹の兵が定州の西から侵入すると、軍旗を見て驚愕し、逃げ出そうとした。重贇はこれを急襲して大破し、首領三十数人を捕虜にした。帝は捕縛した契丹兵を〔太原〕城下で見せ物にすると、城内は戦意を失った。憲州判官の史昭文と嵐州刺史の趙文度が城とともに投降した。


(21)閏五月壬子(六日)、帝は撤兵した。

当時、契丹の君主は韓知璠を遣わし、北漢の君主の即位を見届けさせたていた。知璠は軍事に熟練しており、包囲された城内にあっても昼夜警備を怠らず、方策を尽して防備を固めていた。帝は水軍に石弓を運ばせ、城を包囲して攻撃させた。驍将の石漢卿など戦死したものも多かったが、北漢の兵もしばしば敗北した。夜半、「漢の君主が降伏する」と急報があった。帝は城壁の門を開けようとしたが、将作使の趙璲が「投降を受けるのは敵を受けるに同じです。夜中、軽々しく出撃してはなりません」と止めた。はたして諜者であった。

契丹はまた南大王なるものに兵を与え、北漢を救援させた。東西班都指揮使の李懐忠が「敵は既に劣勢。もし精兵を率いて急襲すればすぐにも破れるでしょう」と言うと、都虞候の趙廷翰が先鋒として城壁に登りたいと言った。帝は血気盛んだといって、城を攻めさせた。戦況は不利に傾き、懐忠は流れ矢に当たって瀕死の重傷を負った。

当時、帝の軍は甘草地に駐屯していたが、蒸し暑く雨も降りだし、軍卒の間に病気が広まった。太常博士の李光賛は軍の帰還を求めた。帝は趙普にたずねると普も同意した。そこで鎮州と潞州に兵を駐屯させ、北漢の民一万余戸を山東・河南に連行して帰還した。

北漢の君主は、宋軍が捨てていった三万の米や茶・絹、数万の軍糧を手に入れ、わずかに敗戦の傷を癒すことができた。


(22)太原が囲まれたとき、南城が汾川の水によって水没した。郭無為は〔自分だけ宋に〕降伏しようと、みずから軍を率いて宋軍に夜襲を掛けたいと願い出た。北漢の君主はこの申し出を信じ、精鋭千人を選んで無為に与え、みずから延夏門に登って見送った。無為が出撃して北橋に到着するや否や、風雨で暗闇になったので、〔進軍を〕取り止めた。こうなると宦官の衛徳貴は事実を密告し、さらには「無為は領土返上の謀略を練っておりました。行いは明瞭、謀叛の罪状は明白です。赦してはなりません」と訴えた。北漢の君主は無為を殺して見せしめとした。


(23)三年(970)春正月、契丹の韓知璠が太原から〔契丹に〕帰国すると、晉陽には災難が多く、劉継元には補佐がいないと報告した。政事令の高勲も「我が国と晉陽は父子の国。先君は一度の怒りであの国の使者をすべて抑留しました。全く無意味なことです」と言った。そこで契丹の君主は北漢の使者全十六人を探し出し、手厚く遇して帰国させた。そこで劉継文を平章事とし、李弼を枢密使として、継元を補佐させることにした。継文らは長く契丹に抑留されていたのみでなく、契丹の命令を受けて帰国し、国政を執るということで、〔継元の〕近臣はみな批判した。そのため北漢の君主は、継文を代州刺史とし、李弼を憲州刺史として、外に出すことにした。


(24)この年、北漢の君主は僧侶の継顒を太師兼中書令とした。

継顒はもと劉氏の庶子であった。そこで宗室の人間ということで鴻臚卿を授けられていた。むかし『華厳経』を講じて諸方を放浪していたとき、宝の臭いのする土地を見つけた。そこで団柏谷に銀の採掘場を設け、民を集めて山を掘らた。四割を官が収めることにしたが、継顒は自分で監督し、民の倍を懐に入れていた。当時、北漢の君主には寵姫が多かったので、継顒は数百にのぼる首飾りを献上した。北漢の君主は大いに喜び、継顒を太師兼中書令としたのである。


(25)六年(973)十二月、北漢の君主は弟の劉継欽を殺した。

北漢の君主が大内都点検であったころ、父の鈞は〔継元の〕病弱を理由に、劉継欽を副官に命じて禁衛の軍を指揮させていた。北漢の君主が即位すると、多くの親族や旧臣が誅殺や放逐に処されたため、継欽は病気を理由に辞任を願い出た。北漢の君主は、「継欽のやつは、先帝には仕えられても、私のためには尽力できぬそうな」と言って交城に追放し、すぐに人を遣わして殺させた。

北漢の君主は残忍な性格で、反抗的な臣下がおれば、必ず一族もろとも殺していた。帝の親征や諸将の討伐が始まって以来、これを理由に殺されたものは数えきれぬほどであった。大将の張崇訓・鄭進・衛儔や、宰相だった張昭敏、枢密使の高仲曦などは、みな讒言によって殺された。


(26)九年(976)八月、帝は党進・潘美・楊光美・牛思進・米文義に兵を授け、五方向から太原を攻めさせた。また郭進らにも忻州・代州・汾州・遼州・石州を攻めさせた。諸将は向かうところ勝利し、進は太原城で北漢の兵を破った。北漢の君主は危急を契丹に知らせたので、契丹の君主も宰相の耶律沙を救援に向かわせた。帝は軍を引き上げさせた。

これ以前、帝はこっそり趙普を訪ね、北漢攻略の策を練ったことがあった。普、「太原は西側と北側に面しております。太原が降伏すれば、我等だけが西北両側に直面することになります。しばらく他の〔南方の〕諸国を平定した方がいいでしょう。ほんのわずか土地のこと、どこにも逃れはしませんよ。」帝はその通りだと思い、連年北漢を攻めながら、その城下まで達するとすぐに兵を引き返していた。


(27)太宗の太平興国四年(979)春正月庚寅(十日)、帝は北漢攻略を謀ったところ、薛居正など多くのものは反対したが、曹彬だけは強く賛成した。帝は意を決し、潘美を北路都招討使とし、崔彦進・李漢・劉遇・曹翰・米信・田重進の軍を指揮させ、四面から太原城を攻略することにした。また郭進を太原石嶺関都部署とし、〔契丹領である〕燕州・薊州からの来援を防がせた。


(28)二月甲子(十五日)、帝は北漢親征を決行した。


(29)三月己未(1)、北漢は契丹に救援を求めた。契丹は耶律沙を都統とし、敵烈を監軍として救援に向かわせた。〔沙らが〕白馬嶺に到着すると、都部署の郭進と遭遇した。沙は山間の水流を楯に後軍の到着を待とうとしたが、敵烈は命令を聴かず、谷川を渡って迎え撃とうとした。まだ隊列を組む前に郭進が攻撃して来たため、契丹は大敗し、敵烈らは討ち死にした。たまたま耶律斜軫の兵が到着し、進が兵を引き返したおかげで、沙は逃げることができた。

田欽祚は石嶺駐屯軍を統率していたが、不正に利益を掠め取っていた。進は止めさせられず、よく不平を言っていた。欽祚はこれを怨んでいた。進は剛腹な武人であり、戦功も多かった。そのため頻りに加えられる欽祚の侮蔑に堪えきれず、首を括って死んでしまった。欽祚は〔進が〕急死したと報告した。帝は深く〔進の死を〕悼み、安国節度使を贈った。周囲の者はみな事実を知っていたが、誰も発言しようとしなかった。すぐに牛思進を後任にした。


(30)夏四月、帝は鎮州を出発した。

行衛都監の折御卿は兵を分けて岢嵐軍を攻略し、ついに嵐州を奪った。隆州では北漢が険難の地に城を構えて抵抗していた。帝は先発として軍使の解暉と折彦贇を遣わして包囲させ、続いて尹勲を送り込んだ。かくして隆州城は陥落した。


(31)庚午(二十二日)、帝は太原に到着した。

潘美らは既に何度も北漢の兵を破り、長連城を築いて太原を包囲し、雨の如く矢や石を射かけていた。北漢は契丹の援軍が到着せず、糧道も絶たれ、城中は混乱に陥っていた。帝は〔太原城に〕到着すると、さらに厳しく攻め立て、無傷の城壁がなくなるほどであった。帝は城の陥落後に多くの殺傷者が出ることを考え、継元に降伏を勧めた。しかし使者が城に到着しても、城壁を閉ざして中に入れようとしなかった。そこで帝は諸将を指揮して太原城下に迫り、陣を城壁の前に張り、甲兵を集めて射撃させるた。城はまるで針鼠のようになった。


(32)五月、北漢の指揮使の郭万超が城壁を乗り越えて投降した。継元にはもはや信頼できる臣下がほとんどおらず、城中も手のつけられない状態だった。帝は再び継元に速やかなる降伏を勧め、終生の富貴を約束した。かくして城内に突入させたが、諸将の猛攻は止められなかった。帝は城が落ちたとき、無辜の民が殺害されることを懼れ、兵を少し退かせた。

甲申(六日)の夜、継元は客省使の李勲に降伏文書を持たせた。帝は降伏を許すと、城の北部に移動し、楽器を設け、城の物見台で従臣らと宴を開いた。明日、継元は群臣を率いて縞衣・紗帽の姿で罪を台下に待った。帝は罪を許し、襲衣・玉帯を授け、台に升らせた。継元は首を垂れて罪を謝した。かくして〔継元に〕特進・検校太師・右衛上将軍を授け、彭城郡公に封じ、手厚く贈物を与えた。劉保勲を太原府知事とした。全十州一軍四十一県を手に入れた。帝は「平晉詩」(2)を作って近臣に唱和させた。また北漢の宰相李惲以下にも各々にふさわしい官を授けた。

帝は太原の旧城を破壊させると、〔太原を〕平晉県に改め、楡次県を并州とした。また太原の民を各地方に分けて住まわせた。旧太原城下に火を放った。この時、老人や子供などが逃げ遅れ、多くのものが焼け死んだ。

陳邦瞻の評語。宋が夷狄の制圧を受けたのは、燕州と薊州を失ったことによる。燕州と薊州を取り返せなかったのは、先に太原を降したことによる。むかし王朴と周の世宗が天下統一を謀ったとき、まず南方を平定し、ついで燕州に向かい、最後に太原に及ぶ算段であった。燕州が平定されたなら、太原はただ網の中の兎にすぎない、どこに逃げられるというのだ。太祖と趙普が雪夜に語ったのも、朴の遺志を受け継ぐものだった。太宗は本来の謀略を忘れ、性急に漢を討伐し、堅固な城塞に全ての精鋭をぶつけたが、ただ勝っただけで、軍は疲弊してしまった。ふたたび燕州攻略を謀ったときには、所謂強弩の末で、〔宋の軍勢は〕魯の縞(2)でさえ破ることができぬほどだった。一敗して太宗の世ではもはや兵を整えられず、再挙してまた利益を失った。これはみな太宗が天下の向かうところを知らず、前後を逆に行い、失敗に導いたからである。


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(1)己未:この月に己未は存在しない。乙未の誤ならば十六日のこと。
(2)平晉詩:晉を平らげたる詩の意。晉は北漢の所在地。
(3)強弩の末は、強弩であっても射程の最後には力が衰えるという意味。魯の縞は、薄い布のたとえ。さしもの精鋭の宋の軍隊も、北漢を破って力が落ち、燕州攻略のときにはへろへろな軍隊に成り果てていたとの意。なお縞の原文は「絵」に作るも、四庫本は「縞」に作る。



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