HOME目次西夏叛服(継遷・徳明)

契丹和戦


(01)太祖の開宝八年(975)三月、契丹の君主の賢は涿州刺史の耶律琮を遣わし、雄州知事の孫全興に書簡を渡すと、宋との通好を要請した。全興がこれを上奏すると、帝は返書を与えて契丹の申し出を許した。そこで契丹は克妙骨慎思を遣わして同盟を結ばせ、別に北漢に人を遣わし、「宋と通好したので、理由なく侵伐せぬように」と通達した。


(02)秋七月、閣門使の郝崇信と太常丞の呂端を返礼として契丹に遣わした。


(03)太宗の太平興国二年(977)夏四月、契丹は耶律敞を遣わし、太祖の陵墓に会葬させた。そこで〔帝は契丹に〕辛仲甫を遣わし、感謝の意を伝えさせた。

契丹の君主は仲甫に、「中国の朝廷には党進というものがおり、まことの名将と聞き及ぶ。進に比肩するものは如何ほどおるのか。」

仲甫、「名将は相当ございます。進ていどの人才など、数え切れきれません。」

契丹の君主は仲甫を留めようとすると、仲甫、「誠にそのおつもりなら、道義として留まることはできません。殺されませ。」契丹の君主は無理だと分り、手厚くもてなして帰国させた。帝は「仲甫は遠く契丹に使者となり、君命を辱めなかった。このような人が数人おれば、なんの憂いもないのだが」と評した。


(04)四年(979)春正月、帝が北漢を伐つと、契丹は撻馬長壽を遣わした。

曰く、「いかなる罪名で漢を伐たれるのか。」

帝、「河東(北漢)は我が命に逆らった。これがその罪だ。もし北朝(契丹)が〔漢を〕援助せぬなら、〔我等の〕同盟は今まで通り。違えるなら戦うだけだ。」

これ以後、同盟は中絶した。

帝は北漢を滅ぼすと、勝利に乗じて幽州や薊州を奪取しようとした。諸将は北漢征伐が終わり、兵粮も缺乏しているといって、遠征に消極的であった。崔翰だけが「乗ずべきものは勢い、失ってはならぬのは時。〔二州の〕奪取は容易でしょう」と言った。帝は意を決し、五月庚子(二十二日)、ついに太原を出発した。


(05)六月丁卯(二十日)、東易州に到着。契丹の刺史劉宇は城とともに投降した。千余人の兵を留めて守備にあてた。

戊辰(二十一日)、涿州に到着。判官の劉厚徳も城とともに投降した。

庚午(二十三日)、幽州城の南方に進撃。契丹の将軍耶律奚底は城の北側に陣取った。帝は軍を率いてこれを撃破した。

壬申(二十五日)、宋渥・崔彦進・劉遇・孟玄喆に兵を授け、四方から城を攻撃し、三重に取り囲んだ。潘美を知幽州行府事とした。契丹の将兵は投降するものが多かった。


(06)秋七月、契丹の順州・薊州が投降した。耶律学古は燕州を守り、死力を尽くして防禦したが、支えきれず、城中は戦々恐々だった。契丹は耶律休哥に燕州を救わせた。

癸未(六日)、帝は諸軍を率いて契丹の将軍耶律沙と高梁川で戦った。沙は敗北して逃走を図ったが、ちょうど休哥の兵が到着した。そこで耶律斜軫と左右の翼に分かれて進撃した。帝は大敗し、死者は万余を数えた。

甲申(七日)、帝は南方に軍を引き上げた。休哥は追撃して涿州まで到達した。帝は急ぎ驢車(ロバの車)に乗って逃げ去り、おびただしい数の物資を失った。

庚寅(十三日)、孟玄喆に定州を守らせ、崔彦進に関南を守らせ、劉廷翰と李漢瓊に真定府を守らせてから帰還した。石守信と劉遇が従軍中に軍律を乱したとして処罰した。

乙巳(二十八日)、帝は范陽から帰還した。


(07)九月丙午(三十日)、契丹が鎮州を侵したので、都鈐轄の劉廷翰らが応戦し、これを大破した。

当時、契丹は燕州戦役の報復として、南京留守の韓匡嗣、耶律沙、耶律休哥を遣わして鎮州に侵略させ、満城の西方に方陣(四角の陣)を布いていた。官軍(宋軍)が偽って投降すると、匡嗣は迎え入れようとした。休哥は「彼等には気迫がある。恐らく、我々をおびき出そうとしてのことだ。陣容を整えてから対応すべきだ」と忠告したが、匡嗣は従わなかった。突如、劉廷翰が前に陣取り、崔彦進が軍を伏せて後に続き、李漢瓊・崔翰・趙廷進らの兵が相継いで殺到した。かくして戦争が始まり、契丹の軍は壊滅した。〔宋軍は〕さらに追撃して遂城の西方にまで到着し、そこでまた〔契丹軍を〕大破した。一万三百余りの首を斬り、三人の将軍捕虜にし、万匹の馬を奪取した。匡嗣は旗鼓を捨てて逃げ去ったが、休哥は整然と撤兵した。


(08)五年(980)三月、契丹の兵十万が雁門を侵した。代州刺史の楊業は麾下数百騎を率いて西陘から出撃し、雁門の北口に到達、南方から迎え撃った。契丹の兵は大敗し、駙馬侍中の蕭咄李を殺した。これ以後、契丹は業を畏れ、業の旗を見るとすぐさま撤退した。

業はかつての北漢の節度使の劉継業のことである。北漢の君主の継元のため、太原城の東南を防ぎ、いつも王師(宋軍)に損害を与えていた。継元が降伏しても、継業はまだ城で苦戦していた。帝は業の勇名を知っており、なんとか招き寄せたいと思っていた。そこで継元に中使を遣わし、〔継元から〕継業を招かせた。継元は馴染みのものを遣わすと、継業は北面再拝して慟哭し、戦いを止め、帝に謁見した。帝は業をいたわり、楊姓に戻し、業と名を与え、代州刺史を授けた。この当時、業はその戦争のうまさから、「楊無敵」と呼ばれていた。


(09)冬十月、契丹の君主の賢は〔宋の〕領内に入り瓦橋関を包囲した。官軍(宋軍)は川の南に陣取った。耶律休哥は精鋭の騎兵を率い川を渉り戦った。官軍は大敗した。休哥は莫州まで追撃した。


(10)十一月己酉(十日)、帝はみずから兵を率いて契丹の防禦に赴いた。

戊午(十九日)、大名府に到着した。ちょうど契丹の君主が兵を引き上げた。このため帝は再度幽州を討伐しようとしたが、李昉が時期ではないときつく止めた。帝は劉遇と曹翰を幽州部署にすると、そのまま汴京に帰還した。

当時、朝廷では帝の意向に迎合するものが多く、すぐにでも幽州・薊州を取るべきだと主張していた。張斉賢は次のような意見書を奉った。――

当今、海内は統一され、朝野に戦いはなくなりました。聖慮を煩わすのは、河東が新たに平定されたものの、守備兵はなお多く、幽州・燕州もまだ平定されておらず、〔穀物の〕運搬に困難のあること以外にはないでしょう。しかしこれらは顧慮するに足らぬものと存じます。

河東が平定された後、私は忻州を治めておりました。そこで穀物を持ち運ぶ契丹の下役人を捕縛したところ、みな「山後から契丹に持っていくのだ」と申しておりました。私見によりますと、契丹がもし自力で兵粮を用意できるなら、太原で力を尽くさぬはずはありませんでした。しかし結局、太原は我が有となりました。力が足らなかったからです。また、河東が平定されたばかりで、人心にいまだ動揺があり、嵐州・憲州・忻州・代州に要塞もなかったとき、もし契丹が侵入すれば、田畑は瞬く間に失われたでしょうし、国境に事変があれば、警護に憂いが生じたでしょう。しかし我が国が要害の地を守り、城塞を増やし、左を防ぎ右を守り、国境を厳しく守り、恩徳・信義が行われ、民心が安定するようになってから、ようやく〔契丹は軍を出して〕雁門や陽武谷でわずかな利益を争いました。契丹の智恵や力量のほどが知れるというものです。

聖人の事業は、万全を期し、百戦して百勝、戦わずして勝つことを最上とします。もしこの点を注意深く鑑みるなら、契丹など併呑するに足らず、燕州・薊州など取るに足りません。古より国境に問題が生じるのは、敵国が起こすばかりでなく、多くは国境を守る者が騒擾を引き起こすからです。もし国境付近の城塞にふさわしい指揮官を得て、防塁を高くし、溝を深くし、鋭気を養い、我らが安逸に暮らすようになれば、むしろ相手から慕ってくるでしょう。これこそ李牧が趙に名将であり得た理由です。古諺にいう「兵卒を選ぶよりも将軍を選ぶ方が重要で、力に任せるよりも人に任せる方が重要だ」とはこれを意味します。かくして辺境は安定し、辺境が安定すれば運搬の労も減り、運搬の労が減れば河北の民は休息を得られます。天地四方を家とするものは、天下のことを心にとどめると聞いております。わずかの土地を争い、強弱の勢を競い合うようなことを致しましょうか。

聖人は根本を先にして末節を後にし、内を安んじて外を養うものです。陛下が徳を以て遠方を懐柔し、恵みを以て民をねぎらうならば、国内は治まり、遠方のものはすぐにも帰順いたしましょう。

帝は喜んで聞き入れた。

呂中の評語。斉賢の論は根本を弁えたものである。しかしそれでさえ、遼討伐の不可を知るのみで、燕州・薊州は必ず取らねばならぬことを知らぬ。ひとり斉賢のみではない。趙普・田錫・王禹偁といえども、これを知らなかったのだ。蓋し燕州・薊州を必ず取らねばならぬ理由は二つある。一つは、中国の民が夷狄に陥っているからである。一つは、中国の険難が夷狄に移っているからである。燕州・薊州を我が方に取り戻さねば河北の地は固からず、河北が固からざれば河南の地も枕を高くして寝ることができぬ。太宗の時、まだ取るべき機運でなかったというに過ぎない。


(11)契丹の君主は帰国すると耶律休哥を于越とした。于越というのは、契丹の最高位を意味する。休哥は知謀が広く、敵を知り、戦えば必ず勝ち、功は人に譲る人間だった。そのため兵卒は喜んで休哥のために働いた。


(12)六年(981)春正月癸卯(四日)、平塞軍と静戎軍を置いた。辛亥(十二日)、易州が数千の契丹兵を破った。また静戎軍を安静軍に改めた。


(13)秋七月、〔帝は〕使者を渤海に遣わした。

渤海は高麗の別種である。契丹は高麗の扶余城を奪って東丹府を置いた。帝は大軍を動かして契丹討伐を謀っていた折りがら、高麗の王に詔書を送り、高麗兵を呼応させようとした。そこで遼を滅ぼした日には、幽州・薊州の土地は中国にもどすが、北方の砂漠地帯はすべて渤海に与えると約束した。しかし結局〔渤海の兵は〕やって来なかった。後、帝は再び使者を高麗に遣わし、西方で挙兵するよう求めたが、高麗からの応答はなかった。


(14)七年(982)九月、契丹の君主の賢は雲州に行幸した。焦山に到着すると病に倒れた。韓徳譲と耶律斜軫に遺詔を授け、長子の梁王の隆緒を世継ぎに決めると死んでしまった。

隆緒は幼名を文殊奴といい、まだ十二才の子供だった。後を継ぐと、賢に孝成皇帝と諡し、廟号を景宗とした。母の蕭氏を尊んで太后とした。〔太后は〕国政を専断し、国号を大契丹にもどすと、元号を統和に改めた。太后は徳譲を政治令枢密使として宿衛軍(禁軍)を統べさせ、渤古哲を総領山西諸道州事とし、耶律休哥を南面行軍都統とした。


(15)雍煕三年(986)春正月庚寅(二十一日)、曹彬・田重進・潘美を都部署とし、兵を授けて契丹を伐たせた。

これ以前、賀懐浦は三交を守っていたが、辺境のことをあれこれ言っていた。そこで息子で雄州知事の賀令図とともにこう訴えた。――「契丹の君主は幼く、母后が政治を壟断し、寵臣が力を握っております。この隙を衝いて燕州・薊州を奪い返されませ」と。帝はこれを信じ、曹彬を幽州道営都部署、崔彦進をその副官とし、米信を西北道都部署、杜彦圭をその副官とし、雄州から出撃させた。田重進を定州都部署とし、飛狐から出撃させた。潘美を雲応朔等州都部署、楊業をその副官とし、雁門から出撃させた。


(16)三月癸酉(五日)、曹彬が涿州に到着。李継隆を先鋒とし、契丹の兵を破って固安・新城の二県を奪った。軍を進めて涿州を攻略し、将軍の賀斯を殺した。契丹兵が再び結集し始めると、米信は麾下三百人を率いて戦ったが、数重にも包囲された。信は大刀を振り回して大声で怒鳴り散らし、包囲を突破した。ちょうと彬の派遣した兵が到着したので、新城の東北で契丹の兵を破った。


(17)丁丑(九日)、田重進が飛狐の南に出撃。契丹の兵に遭遇したが、これを破った。契丹の西南面招安使の大鵬翼は兵を繰り出して防戦した。重進は東に陣取ると、武将の荊次に西方から出撃させた。日暮れに乗じて崖に迫り、短兵(接近戦用の武器)を手に戦った。契丹の兵は崖から身を投じ、多くのものが戦死もし捕縛もされた。戦うこと数日、契丹の指揮があがってきた。この時、譚廷美が小沼を守っていた。嗣は廷美に命じ、川づたいに兵を並べさせると、別に二百人を動かし、白幟を手に道路沿い配置した。そして嗣は麾下を率い、疾駆して戦場に赴いた。契丹の兵は連綿と伸びる旗幟を見て、大軍の到来かと勘違いを起こして逃げ出そうとした。重進がこの機に乗ずると、契丹兵は瓦解した。〔契丹の将軍〕大鵬翼を生け捕りにした。飛狐・霊丘が降伏した。


(18)丁亥(十九日)、潘美が西陘から侵入。契丹の兵に遭遇すると、寰州まで追撃して撃破。刺史の趙彦章が城とともに投降した。朔州まで進撃して城を包囲した。節度副使の趙希賛も城とともに投降した。かくして応州・雲州に転戦し、すべて勝利した。


(19)夏四月己酉(十一日)、田重進が飛狐の北部で戦い、再び〔契丹の兵を〕破り、将軍二人を殺した。


(20)趙普が上奏した。――

恐れながら、今春の出兵、幽薊回復を企図したこと、しばしば勝利の報に接し、真に世論に好評にございます。しかし日夜は交互に代わるもの。既に季節は初夏に及びながら、まだ失地回復を続いております。炎天下になれば、兵粮の運搬も甚だ困難となり、戦争が長びけば、我が軍も除々に疲弊し、我が民も苦しみましょう。日夜思案いたしましたが、どうしても疑念を払拭できません。戦は危事にして万全を期し難い。兵は凶器にして撤兵の困難を戒めております。古書には「軍旅久しければ変を生ず」とあります。この点を熟慮せねばなりません。もし戦争が長びき、〔撤兵の〕時宜を失うなら、一ヶ月も経てばはや季節は秋になります。かくなれば内地がさきに疲弊し、国境の兵が続いて空腹に陥りましょう。敵は弓強くして馬は肥え、我等はかえって民疲れ軍弱るのです。この時、もし指揮を誤ればどのようなことになりましょう。請い願いますには、速やかに兵を帰還させ、妄りに争いを続けられませぬように。

〔帝は〕聞き入れなかった。


(21)五月庚午(三日)、曹彬が兵を引き返した。契丹の耶律休哥と岐溝で戦い、敗北した。

契丹との戦争が始まる前、諸将が帝に謁見すると、帝はこう言った。――「潘美はすぐにも雲・朔に行け。他の諸将は十万の兵を率い、幽州を取ると言いふらしながら慎重にゆっくり進軍せよ。功を焦ってはならぬ。契丹は大軍の到来を聞けば、必ず全軍で范陽を救援する。山後を助ける余裕などあるまい。」

彬らは勝利に乗じて進撃を続け、至るところで勝利を収めた。勝利の報が届くたびに、帝は進軍が速すぎると訝しんでいた。

彬が涿州に到着したとき、契丹の南京留守の耶律休哥の手勢は少なかった。そのため休哥は敢えて出撃せず、夜には騎兵を出して〔宋の〕孤立した軍隊を襲って大軍を脅かし、昼には精鋭を繰り出して勢力を伸ばし、伏兵を草林に隠して糧道を絶った。彬は十日ほど涿州に止まると兵粮が尽きてしまい、兵を雄州まで撤退させて食料の補充を待った。

帝はこれを聞くと、「敵兵が前にいるのに軍を引いて食料を待つやつがあるか。失策も甚だしい」と言って、すぐに彬に前進を止めさせ、急いで兵を白溝河まで引き返させ、米信の軍と合流させた。そして潘美が山後を攻略し、重進が東側から進軍するのを待たせ、三軍を合せて幽州を取るよう言い聞かせた。

彬の指揮下の諸将は、美や重進が勝利を重ねているのを知り、精鋭を率いながら戦功なきことに恥じ、敵軍への突撃を謀った。彬はやむを得ず、兵粮を集め、米信と再び涿州へ前進した。休哥はこれを知ると、軽兵(軽装備の兵)を率いて接近し、〔宋軍の〕就寝や食事のころを探り出しては、孤立した軍隊を攻撃した。休哥は兵の進撃と撤退を繰り返したため、〔宋の〕将兵はどうにも動きがとれなくなり、方陣を組んで両辺に塹壕を掘りながら進んだ。この時分、気温は暑く、喉が渇いても井戸はなく、〔宋軍は〕泥水を濾して飲み水としていた。四日経ってようやく涿州に着いたが、既に将兵は困窮し、食料もほとんど尽きていた。折しも契丹の君主の隆緒と太后が駝羅口から大軍を率いて救援に駆けつけ、涿州に到着した。このため彬と信はまた兵を引き上げた。

休哥は〔大軍が到着したので〕兵を出して追撃し、岐溝関で〔宋軍を〕戦った。彬と信は敗れ、隊伍も維持できないまま夜中に拒馬河を渉った。休哥が精鋭を率いて追撃したので、〔宋軍の〕無数の兵卒が溺れ死んだ。彬と新は南方の易州に逃走し、沙河の前まで到着して〔軍を止めて〕飯を焚いていた。すると休哥が兵を率いてまたやって来たと伝えられ、驚愕のあまり軍は崩壊し、半数以上のものが〔河で溺れ〕死んだ。このため沙河の流れが塞がるほどであった。武器や防具が棄てられ、山のようであって。知幽州行府事の劉保勲もここで戦死した。休哥は勝利に乗じて土地を奪い、黄河を国境にしようと願い出たが、太后は言うことを聞かず、兵を連れて燕州に戻り、休哥を宋国王に封じた。

丙子(九日)、帝は曹彬・米信および崔彦進らを呼び戻し、田重進に定州を守らせ、潘美を代州にもどらせた。雲・応・朔・寰の四州の吏民、吐谷渾部族を河東と京西に住まわせた。


(22)当時、契丹の耶律斜軫は十万の兵を率いて定安の西方に到達していた。賀令図は斜軫の兵に遭遇し、敗北して南方に逃れた。斜軫は追跡して五台で戦い、〔宋軍の〕死者は数万人に上った。明日、蔚州を攻め落とした。令図と潘美は兵を率いて救援に赴き、斜軫と飛狐で戦ったがまた敗れた。このため渾源と応州の将軍はみな城を捨てて逃げ去った。斜軫は勝利に乗じて寰州に入り、千人あまりの守備兵や役人を殺した。

潘美が飛狐で敗北すると、副将の楊業は兵を率いて雲・応・寰・朔の官僚と人民を守り、内地に移動させた。この頃、耶律斜軫はすでに寰州を陥落させ、指揮は漲っていた。このため楊業は斜軫の兵に遭遇すると、兵を率いて大石路に出て、すぐに石碣谷に入り、斜軫軍の鋭鋒を避けようとした。護軍の王侁らは〔兵を避けるのは〕臆病者のすることだと言い、雁門の北川中腹から進軍させようとした。業は聞き入れなかった。

侁、「貴方は『無敵』などと呼ばれているのに、今、敵を見て尻込みして戦わない。何か別の考えがあるのではないか。」

業、「死を恐れはしない。まだ時機でないだけだ。無意味に兵卒を殺しても何にもなるまい。とはいえ、死を恐れていると言われた以上、貴公らの先陣を切らねばなるまい。」

そこで〔業は〕兵を率いて石跌路から朔州に向かった。進軍に先だち、泣いて潘美に言付けた。――「この進軍が不利なことは明白。私は太原の降伏者にすぎず、当然にして死ぬべきものでした。しかし陛下は私を殺さず、指揮官にまで抜擢し、兵権を与えられました。ならば敵を好き勝手にさせてよいはずがありません。隙を見て少しでも功績を挙げ、国家に奉公しなければなりません。今、諸君らは私が敵を恐れている非難している。我が身を愛するなどあり得ないことです。」そこで陳家谷口を指差し、「諸君らはここに歩兵と強弩を置いて援護してほしい。私はここまで転戦してくるので、挟み撃ちにしましょう。さもなければ、誰も生きては帰れますまい。」そこで美と侁は麾下を率いて谷口に陣取った。

斜軫は業が来たのを知り、副部署の蕭撻覧を遣わして通路に兵を伏せさせた。業が到着すると、斜軫は大軍を率いて応戦した。業が幟を振って進撃すると、斜軫は負けを装って撤退した。そこに伏兵が四方から湧き上がった。斜軫は手勢を返して前方から襲った。業は大敗して狼牙谷まで退いた。

侁は寅の刻(二時)から巳の刻(五時)まで〔谷口で〕待っていたが、業からの伝令がなかった。托邏台に登って探させても見当たらなかった。そのため契丹が敗走したのだと思いこみ、功績を争うべく、兵を率いて谷口を離れてしまった。美もこれを制止できず、交川の西南から進軍した。しかし行くこと二十里ほどで業の敗北を聞き、すぐさま兵を率いて逃げてしまった。賀懐浦はここで戦死した。

業は午の刻(六時)から日が暮れるまで、戦っては進み戦っては進み、ついに谷口に到着した。しかし辺りを見渡しても人はいなかった。悲憤のあまり胸を撫でると大声で泣いた。再び麾下を率いて力戦し、自身に数十の傷を負い、兵卒のほとんどを失っても、まだ刀を手に数十百人を斬って進んだ。馬が傷つき進めなくなると、森林の中に身を潜めた。耶律奚底が〔業の〕影を発見して弓を射ると、業は落馬して捕らえられた。息子の延玉はここで討ち死にした。

業は溜息をつき、「陛下は私を厚遇してくれた。賊を討ち国境を守り、期待に応えるはずだったのが、逆に奸臣に迫られ、我が軍を敗北に導いた。何の面目があって生きながらえよう。」こうして食を断つこと三日で死んだ。

業が戦いに負けたとき、麾下にはまだ百人あまり残っていた。業は「お前達には父母も妻子もいる。私とともに死んでも無益なこと。逃げ帰って天子に報告せよ」と言ったが、みな心を動かされて討ち死にし、生きて還ったものは一人もいなかった。

雲・応・朔の三州および諸城の将兵や官吏は、業の死を知り、城を捨てて逃げた。斜軫は再びそれらの地を陥れた。

戦況が報告されると、帝は深い哀しみに襲われた。そして業に太尉を贈り、美から三任を削り(身分の降格を意味する)、侁を除名に処した。


(23)これ以前、〔帝が〕北伐を練ったとき、ただ枢密院とのみ事を謀り、中書は関与できなかった。敗退してから、帝はこれを悔い、枢密使の張斉賢らに言った。――「諸君等はみな見ておけ、もはや二度とこんなことはすまい。」


(24)秋七月庚午(三日)、曹彬らを軍律に反した罪に問うて処罰した。これ以前、米信の軍が壊滅したとき、李継隆の率いた部隊のみ整然と帰還した。田重進の軍も無傷だった。そのため重進を馬歩軍都虞候とし、継隆を定州知事とした。


(25)丁亥(二十日)、張斉賢を代州知事とした。

帝は楊業が死んだので、代州知事にふさわしい人間を近臣にたずねた。ちょうど斉賢は帝との意見の相違から出向を求めていた。そこで〔斉賢に〕潘美とともに周辺の軍隊を統率させた。


(26)十二月壬寅(八日)、契丹の君主の隆緒と蕭太后は大軍を率いて南下し、耶律休哥を先鋒都統とした。

当時、劉延譲は数万の兵を率いて海に沿って北進し、李敬源と兵を合わせ燕州に向かっていた。休哥はこれを知ると、兵を要害の地に送って警護させ、君子館で迎え撃った。時節は極寒、〔宋の〕軍隊は弓弩を張ることもできなかった。隆緒の兵が到着したので、〔休哥は〕廷譲の軍を幾重にも包囲した。廷譲は前もって李継隆に精鋭を授け、後援としていた。しかし継隆は楽壽まで撤退した。廷譲は力戦するもかなわず、一軍は全滅し、数騎を駆って脱走した。李敬源と楊重進は討ち死にした。

これ以前、休哥は諜者を放ち、賀令図にこう嘘を伝えていた。――「我が国で罪を得ました。すぐにでも南朝に帰順したい」と。令図はこれを信じ込み、こっそり高価な綿を十両ほど送っていた。廷譲が敗北すると、休哥は「雄州の賀使君に謁見したい」と言いふらした。令図は投降すると思いこみ、功績を独り占めにしようと、数十騎を率いて出迎えた。〔令図が〕幕下に来ると、休哥は腰掛けに身を任せ、「お前はいつも好んで国境のことを口にしていたらしいが、今度はお前が殺されに来ることになったのだ」と罵った。側近に騎兵を殺させ、令図を捕縛した。これ以後、河朔の守備兵は戦意を失った。契丹は勝利に乗じて南方に長駆し、ついに深・邢・徳の三州を陥れ、官吏を殺し、住民を捕虜にし、金品を奪って帰還した。魏博以北の民は特に苦しめられた。

帝はそれを聞き、詔書を下してみずから懺悔を示し、敗軍将士の罪を許し、河北の未納税を免除し、三年の税を免除した。令図は功を求めて紛争を起こし、軽率で遠謀がなかった。はじめ父の懐浦と北伐を謀り、たった一年で父子ともに死に、中国に害悪をもたらした。


(27)壬子(十八日)、契丹が代州城に迫った。副部署の盧漢贇は臆病もので、城に立てこもっていた。張斉賢は防衛のため二千の廂軍を選んで出撃した。兵卒を発奮させると、一騎当千、契丹の兵は少しく退いた。

これ以前、斉賢は潘美に并州の軍を率いて合流するよう使者を遣わしていた。しかし〔使者は〕契丹に捕らえられた。すぐに美の使者が到着し、「柏井まで出撃したものの、『東方の軍が敗退したので、并州の軍は出撃するな』と密詔を得たので、并州に帰還した」と報告した。この時、契丹の兵は川(滹河)を塞いでいた。斉賢は「敵は美の来援を知ってはいるが、美が撤退したことは知らぬ」と言い、美の使者を部屋に閉じ込め、夜に二百の兵を出撃させると、みなに幟とわらの松明を持たせ、州城から西南三十里離れたところに幟を立てて松明を燃やさせた。契丹が遠目に眺めると、炎の中に旗幟があるのを発見した。そのため并州の軍が到着したと思い込み、驚いて北方に逃げ帰った。斉賢は前もって歩兵二千を土鎧砦に隠していたので、〔逃走する契丹兵を〕攻撃して大打撃を与えた。契丹の国舅詳穏の撻烈哥と官使の蕭打里を殺し、数百の首を斬り、馬二千と無数の兵器を手に入れた。


(28)四年(987)春正月丙戌(二十三日)、詔を下した。――「出征の将士につき、敗戦の責任は一切問わぬ。周辺城塞の警護に功績のあったものは名前を上奏せよ。戦死した文武官の子孫を官に任用せよ。河北は雍煕三年以前の未納税を免除せよ。敵が蹂躙した地方は三年の税を免除せよ。軍の通った場所は二年の税を免除せよ。それ以外は一年の税を免除せよ。」


(29)二月、河北の諸州軍の城壁を修復させた。


(30)帝は大軍で契丹を討伐しようと、使者を遣わして河南・河北四十余郡から兵を募り、成年男子八人から一人をとり、義軍に補充しようとした。京東転運使の李維清は「これでは天下に農民がいなくなってしまう」と言い、三度も上奏して抵抗した。李昉らも群臣を率いて、「河南の民は戦争を知りません。人心に動揺が生じ、〔逃亡して〕盗賊にでもなれば得策ではありません」と批判した。そこで河北のみから兵を集め、諸路〔の募兵〕は取りやめた。


(31)端拱元年(988)冬十月、契丹の君主の隆緒が涿州を攻めた。州城が陥落し、ついに長城に侵攻した。兵卒は壊滅して南方に逃走した。隆緒はこれを迎え撃ち、殺戮捕縛を擅ままにした。


(32)十一月、契丹は満城・祁州・新楽を攻め落とした。


(33)己丑(六日)、郭守文が契丹を唐河で破った。


(34)当時、帝は北方との戦争に心を悩ませ、群臣に国境策定の意見を求めた。拾遺の王禹偁が「禦戎十策」を献じた。概略、漢代の事に仮託して方策を論じたものである。

漢の十二帝の中、賢君とされるのは文帝と景帝であり、暗君とされるのは哀帝と平帝です。しかし文景の時代、〔北方の夷狄たる〕軍臣単于は最も盛強で、偵察の騎馬は雍の都にまで到達し、〔夷狄の〕松明が甘泉宮を照らすほどでした。しかし哀平の時代になると、〔同じく北方の夷狄である〕呼韓単于は毎年来朝し、漢帝に臣従し、〔敵の攻撃を示す〕辺境の烽火が用いられることはありませんでした。これは何故でしょうか。

文景は軍臣という盛強の時代に遭遇しましたが、外地に優れた将軍を任じ、内に立派な政治を修め、〔夷狄の盛強を〕深く憂慮するに至りませんでした。それは徳があったからです。哀平は呼韓という〔夷狄の〕衰微した時代に遭遇しました。外に良将なく、内に賢臣はありませんでしたが、それでも単于は来朝しておりました。それは時勢がそうさせたのです。

現在、国家の広さは漢朝に下らず、契丹は盛強で国境の城塞に侵略しております。しかし、それでも偵察の騎馬が雍都まで到達し、松明が甘泉宮を照らすようなことはありません。〔陛下がなさねばならぬのは〕外地に人を得、内地に徳を修めることです。

請い願いますには、外地の軍を集めて将軍の権限を重くし、辺境の人々を奮い立たせ、幽州・薊州旧領の奪回は土地を貪欲に求めるためでないことを知らせ、朝廷の官僚を省いて経費の削減を計り、文官を抑えて武人を重んじ、大臣を信頼して謀議を図り、遊惰を禁じて民力を蓄えられますように。

帝は深く賛意を示した。


(35)二年(989)春正月、契丹が易州を陥れ、その地の民を燕州に移した。癸巳(十一日)、北伐を画策した。

張洎、「中国が夷狄を防ぐのは、険阻の地をのみ頼みとしております。現在、飛狐以東は契丹の所有であり、すでに地の利を失っております。河朔(黄河以北)の地は城壁を列ね、城ごとに自衛し、出撃できる状態にありません。これは兵を分けた過失によります。境界周辺に三大鎮を作り、各々十万の兵を授け、鼎立して守らせます。そこで親王を魏府に出御させて要害に控えさせれば、契丹がいかに精兵とはいえ、敢えて南には攻めてこないでしょう。敵を防ぐ方策はこれに尽きております。」

宋琪、「我が国が燕州を取ろうとする場合、雄州・覇州からの直進は、避けねばならぬ土地です。もし大軍を派遣する場合、易州の孤山から涿水を渡り、桑乾河に進み、安祖塞に出れば、東に燕州城を見下ろすことわずか一舎(三十里。一日で到達する)。これこそ周徳威が燕を奪ったときの行路です。眼下にある孤立した燕州城など、十日もあれば必ず落とせるでしょう。山後の八州は、薊門の突破を聞けば、必ず降伏するはずです。大勢がそうさせるのです。しかしながら兵は凶器、聖人はやむを得ずして用いるもの。もし〔契丹と〕友好を選び、戦いを止め、民の息災を計るのであれば、それが得策です。」

李昉と王禹偁も友好関係を築くよう進言したので、帝もそれを聞き入れた。


(36)八月、尹継倫が契丹の兵を徐河で大破した。

これ以前、朝廷は契丹の来襲を聞き、李継隆を派して真(1)・定の兵一万余りを動かし、兵粮数千乗を威虜軍まで護送させていた。耶律休哥はこれを知ると、精鋭の騎兵数万を選び、〔兵粮の〕運搬途上に迎え撃とうとした。北面都巡検使の尹継倫はちょうど兵を指揮して巡回していたとき、〔休哥の軍に〕遭遇した。しかし休哥は〔継倫の軍を〕無視して南下していった。

継倫は「契丹は我等を軽視している。彼等が勝って帰れば、勝利に乗じて我等を伐ち、北方に連れて行くだろう。もし勝てなければ、怒りを我等にぶつけ、皆殺しにするだろう。今すべきことは、一丸となって奇襲をかけることだ。彼等の鋭気は前方にあり、我等の追撃など予想していない。力戦して勝てば我等は生き延びられよう。負けても忠義たることを失わない。このまま黙って死んで夷狄の地の霊魂になどなってたまるか」と励ますと、全軍激憤して命令に従った。

継倫は馬に餌をやって夜を待ち、兵に短兵(接近戦の武器)を持たせ、こっそり休哥軍を追った。進むこと数十里、唐河と徐河の中程に到着した。未明、休哥の軍は宋軍から四五里離れたところに待機し、食事を終えてから戦いを始める様子だった。継隆は前方に陣を組んで待機していた。継倫は後方からこれを急襲し、契丹の大将一人を殺すと、契丹兵は狂乱に陥った。休哥はまだ食事をしていたが、なす術もなかった。短兵が腕に当って深手を負い、馬に乗って先に逃げ去った。残された兵卒もあとを追って敗走した。

契丹はこの戦いに怖じ気づき、以後、大規模な侵略は控え、いつも「黒面の大王とは戦うな」と戒めていた。継倫の顔が黒かったからである。


(37)至道元年(995)二月、契丹の大将の韓徳威は、党項・勒浪などの種族を誘い出し、一万騎を率いて振武から侵略した。折御卿が遊撃し、子河[氵义](2)で破った。勒浪などの種族は〔契丹軍の〕混乱に乗じて徳威に攻撃を加え、将軍の突厥合利などを殺した。徳威はその身一つで逃げ帰った。


(38)夏四月、契丹が雄州を侵した。

何承矩は子河[氵义]の戦利品を並べ、雄州の民に見せつけ、市場で晒しものにしていた。契丹は諜者によってこれを知り、恥辱に怒って、承矩を襲って雪辱しようとした。夜、〔契丹は〕数千騎を率いて城下を侵した。承矩は兵を出して防ぎ、夜明け頃に契丹と激戦を繰り広げた。契丹はまた敗走した。帝はこれを知ると、「承矩は軽率に紛争を起こしている」と言って罷免した。


(39)十二月、契丹の韓徳威は諜報によって折御卿が病に倒れたことを知った。そこで兵を率いて辺境を侵し、子河[氵义]の敗北の報復に赴いた。御卿は無理をおして防戦に出た。徳威は御卿の到着を知ると進軍を止めた。すぐに御卿の病が篤くなると、母がこっそり帰郷するよう言ってきた。御卿、「代々国恩を受けながら、紛争が未だ収まらぬのは私の罪。今、敵に臨みながら、士卒を捨てて己の利を図れるだろうか。軍中で死ぬのは本分。太夫人に申し上げよ、私のことは忘れてくれ、忠孝は両立できぬものだ、と。」言い終わると涙が流れ落ちた。明日、〔御卿は〕軍中で死に、契丹の兵も退いた


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(1)真:『宋史』作鎮。
(2)[氵义]:もとは一字。漢字が出なかったので便宜上用いたもの。以下同じ。



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