HOME目次交州之変

西夏叛服(継遷・徳明)


(01)太祖の建隆元年(960)、定難節度使の李彝興が朝貢した。

李氏は思恭以来、唐末・五代を経て、代々夏州を治めていた。周の顕徳中、〔中国は〕彝興を西平王に封じた。建隆元年になって太尉を加えた。


(02)建徳五年(967)、李彝興が死に、子の克睿が後を嗣いだ。


(03)太宗の太平興国三年(978)、李克睿が死に、子の継筠が後を嗣いだ。


(04)四年(979)、王師(宋軍)が北漢を伐つと、継筠は李光遠と光憲を遣わし、諸部族と北漢の兵を率いて黄河を渡り、太原の境界付近に侵入して威嚇した。


(05)五年(980)、李継筠が死に、弟の継捧が後を嗣いだ。


(06)七年(982)五月、継捧が入朝し、銀・夏・綏・宥の四州の地を献じた。継捧が京師に住みたいと願い出たので、使者を夏州に送り、緦朝以上の親族を連れ、京師まで警護させた。継捧に彰徳郡節度使を授け、弟の克信ら十二人に各々官を授けた。そこで夏州管内に恩赦を出し、曹光実を四州都巡検使とした。


(07)六月、李継遷が謀叛を起こし、地斤沢に逃げた。継遷は継捧の族弟である。

この時、〔継遷は〕管内都知蕃落使となって銀州に滞在していた。朝使(宋の使者)が到着し、京師に護送されると聞き、乳母が死んだから葬式に出たいと偽って徒党数十人と地斤沢に逃げ去った。


(08)八年(983)、夏州知事の尹憲と都巡検の曹光実が継遷を襲撃した。斬首五百級、四百余帳を焼き捨て、継遷の母と妻を捕獲した。継遷は逃げ去った。


(09)雍煕二年(985)二月、継遷が銀州を陥れた。

これ以前、継遷は敗戦の後、各地を転々として豪族と連係を持ち、徐々に勢力を増していった。西方の人は李氏に代々恩徳を受けていたので、継遷に帰順するものが多かった。継遷が豪族に語るには、「李氏は代々西方の大地を領有してきたが、たった一日で断絶してしまった。諸君らは李氏を忘れず、私に従い復興に力を貸せるか。」みな承知したと頷いた。そこで弟の継沖とともに降伏を偽装して夏州に赴き、曹光実を葭蘆河を誘い出して殺した。そして銀州を急襲して占拠すると、さらに会州を攻撃し、城郭を焼いて帰った。事変が伝えられると、朝廷は秦州知事の田仁朗らに兵を授けて討伐させた。


(10)五月、田仁朗を召還した。副将の王侁が継遷を攻撃し、これを敗走させた。

これ以前、継遷は曹光実を殺して三族砦を包囲していた。砦の主将の折遇乜は監軍使を殺して継遷と合流した。田仁朗は綏州まで進むと、増援を要求し、一月ほど駐留して命令を待った。当時、継遷は勝利に乗じて撫寧砦に侵攻していた。仁朗はそれを知ると喜び、「戎人はいつもばらばらに辺境を侵す。勝てば進み、負ければ逃げ、その巣窟を発見できない。今、継遷は数万の軍勢などと嘯き、精鋭を尽して孤塁を攻めている。撫寧は小さいが堅固な砦だ。十日程度では破れはしない。連中が苦しむのを待って、大軍で戦おう。強弩三百を各地に派遣し、戎人の帰路を迎え討てば、連中を捕虜にできる。」軍の配置が定まると、仁朗は余裕を見せるため、酒を飲んでさいころで賭博を始めた。侁はこれを利用して〔仁朗の〕罪を捏造した。

帝は三族砦が陥落したのを聞いて激怒し、仁朗を帰還させて御史の獄に下すと、増援を要求したことと三族砦が陥落したことを訊問させた。

仁朗はこう申し開きをした。――「〔増援を請うたのは〕銀・綏・夏の三州の兵を城の守りとして残してきたからです。三族砦については、綏州から遠く離れており、もともと救援すべき土地ではありませんでした。私は継遷を捕縛する策を決めておりましたが、たまたま詔書が来ましたので果たせなかったのです。」さらに「継遷は在地部族の心を得ております。手厚く諭して懐柔を促し、利益で部落の酋長を抱き込んで懐柔なされませ。さもなければ、いつの日にか大惨事を引き起こしましょう」と。

帝は激怒したが、特別に死罪を許し、商州に配流した。

この月、侁は銀州の北部に出撃し、悉利の諸砦を破り、その頭領の折羅遇をさらし首にした。麟州の部族長らは「馬を差し出すので罪を見逃して欲しい、継遷を討つ手助けをするから」と言ってきた。そこで侁は麾下の兵を率いて濁輪川に進軍し、賊軍の首五千を斬った。継遷と遇乜は逃げ去った。

当時、郭守文は侁とともに辺境の紛争処理を任されていた。守文は夏州知事の尹憲とともに塩城の諸部族を攻め、千余りの帳を焼き捨てた。かくして銀・麟・夏三州の百二十五部族はすべて中国のものとなった。


(11)三年(986)、継遷が契丹に投降を願い出た。契丹は〔継遷を〕夏国王に冊封すると、義成公主を妻とさせた。


(12)四年(987)夏四月、夏州の安守忠は三万の軍を率いて継遷と王亭鎮で戦い、敗北した。継遷は城門まで来ると帰っていった。


(13)端拱元年(988)五月、再び継捧を定難節度使とし、鎮定に赴かせた。

むかし帝は継捧に「貴公が夏州におれば、どうして諸部族を統率するか」とたずねると、継捧は「羌人は勇猛です。手懐けはできるでしょうが、統率はできません」と答えた。ちょうど朝廷の謀事が継遷に筒抜けになっていると訴えるものがいたので、〔帝は〕継捧が漏洩したのではと疑い、継捧を崇信軍節度使として外に出した。

しかし継遷の侵略は日々熾烈になり、諸将の戦績も芳しくなかった。そこで帝は趙普の計略に従い、再び継捧に夏州を鎮定させることにした。〔継捧には〕趙保忠と姓名を授け、手厚い賜物を与え、継遷の帰順を促した。


(14)淳化二年(991)秋七月、李継遷が投降を願い出たので、銀州観察使とし、趙保吉と姓名を授けた。

これ以前、継捧が夏州に到着してから数ヶ月、継遷が罪を悔いて帰順したと言ってきた。そこで継遷に銀州刺史を授けた。しかし〔継遷に〕降伏の意志などなかった。このため〔継遷は〕継捧と安慶沢で戦った。継遷は流れ矢に当って逃げ去り、夏州を転戦した。継捧が増兵を求めたので、翟守素を派遣して救援させた。守素が到着すると継遷は帰順し、表書を奉じて罪を謝したので、この命(銀州観察使)があったのである。また〔継遷の〕息子の徳明を管内蕃落使行軍司馬とした。すぐに継遷は叛乱を起こした。


(15)五年(994)春正月、李継隆を河西都部署とし、李継遷を討伐させた。

これ以前、転運副使の鄭仁宝は、塩池を禁じて〔塩の流出を防ぎ〕継遷を苦しめた。そのため継遷は辺境の四十二部族を率いて環州を掠奪し、辺境の将軍は敗北し続けた。この後、継遷は綏州の民を平夏に移そうとした。麾下の高文岯らは民が嫌がるといって、逆に継遷を攻めて打ち破った。継遷は再び砦を囲むと掠奪を行い、貯蓄物を焼き払い、ついに霊州を攻めた。そのため朝廷は継隆に討伐を命じた。


(16)三月乙亥(二十三日)、李継隆は兵を率いて夏州に入った。継捧は継隆の到着を聞くと、まず母と妻と子女を城郭の外に連れだし(1)、「継遷と和解し、馬五十匹を献上するので、出兵を取り止めて欲しい」と願い出た。帝はそれを見るとすぐに中使を遣わして継隆に軍を進めさせた。軍が国境に迫ると、継遷は継捧の陣営を襲い、継捧の兵を傘下におさめようとした。継捧は寝ていたが、騒ぎを聞きつけ、一人馬を駆って城に逃げ帰った。指揮使の趙光嗣は継捧を別室に閉じ込め、門を開いて継隆を迎えた。継隆は〔継捧を〕捕らえて汴都に送った。継遷は逃げ去った。継捧が汴都に到着すると、〔帝は〕罪を赦し、宥罪侯に封じた。


(17)夏四月甲申(三日)、夏州の城を取り潰した。夏州は砂漠の奥深くにあり、逆徒に利用されるとの考えから、帝は夏州城を取り潰そうとした。宰相の呂蒙正も「赫連が城を築いて以来、いつも関右(潼関以西の地)の悩みの種となっておりました。取り潰すとあれば万世の利となりましょう」と言った。そこで〔城を〕取り潰させ、その地の住民を銀州と綏州に移住させた。この年、継遷はまた使者を遣わして馬を貢納し、罪を謝した。


(18)至道元年(995)六月、李継遷は押衙の張浦を遣わし、良馬と駱駝を貢納した。帝は後圃で衛士に射撃をさせ、浦に観覧させた。衛士らは余裕をもって二つの石弓を持ち上げた。

帝は笑って浦に、「羌人に匹敵するものはおるかね。」

浦、「羌の部族は、弓は弱く矢は短うございます。これほど長大なものを見れば、それだけで逃げ出してしまいます。匹敵するなんてとんでもない。」

帝は浦を京師に留めおき、使者を遣わして継遷に鄜州節度使を授けたが、継遷は引き受けなかった。


(19)秋七月、継遷が静遠軍を侵した。守将の張延が撃退した。


(20)二年(996)夏四月、利継隆らを遣わし、軍を分けて李継遷を討伐させた。

これ以前、帝は白守栄らに馬草と米四十万を霊州まで護送させていた。李継遷は浦洛河でこれを迎え撃った。守栄の軍は壊滅し、運んでいた物資はすべて奪われた。帝は怒り、継隆を環慶等州都部署とし、兵を率いて討伐させた。

ちょうど曹璨が河西から帰還し、「継遷は万余の軍を率いて霊武を囲み、城中が出した危急の使者も継遷に捕らえられました。まだ兵を留めております」と報告してきた。呂端は出兵を求めると、麟府・鄜延・環慶の三道から平夏を攻め、継遷の本拠地を襲えば、霊武の包囲も自然と解かれるはずだと言った。「盛暑の折、旱海に侵入しても、水は干上がり、兵粮の運搬は困難を極めるだろう。静観した方がよい」との意見もあったが、帝は聴かず、諸将をそれぞれの地に配置した。継隆を環州から、丁罕を慶州から、范廷召を延州から、王超を夏州から、張守恩を麟州から出撃させ、五方面から軍を進めて平夏に直進させた。


(21)保安軍から継遷の母を捕らえたと報告があった。帝は寇準の意見を聞き入れ、斬り殺そうとした。

呂端、「むかし項羽が太公を捕らえて煮殺そうとしたとき、漢の高祖は『私にも羮を一杯いただきたいものだ』と返答しました。そもそも大事に当たっては、親など顧みないもの。ましてや継遷は夷狄の叛逆者です。〔母親を〕斬り殺しても、ただ怨みを植え付けるだけのこと。かえって叛意を堅くするでしょう。〔母親を〕延州に留めて保護してやり、継遷の心を繋ぎ止めておく方がよろしい。」

帝はこれに従った。


(22)八月、李継遷は諸将を率いて進軍し、烏白池を侵略しようとした。継隆は弟の継和を遣わして急ぎ上奏させ、「環州からは遠いので、清岡峡から直接継遷の本拠地に赴きたい。霊武の援護には間に合わない」と言ってきた。上は怒って、「お前の兄はきっと私の計画を失敗させるぞ」と言い、みずから手紙を書いて厳しく戒めた。

使者がまだ到着しないうちに、継隆は兵を動かして丁罕と合流した。十日あまり進軍したが賊軍が見当たらず、軍を引き返した。張守恩は賊軍を発見したが攻撃しなかった。范延召と王超だけが烏白池に到達して賊軍と遭遇した。

この時、賊軍の鋭鋒は厳しく、超は自重して軍を進めなかった。その息子の徳用は年十七であったが、先鋒となって戦うことを求め、転戦すること三日、ついに賊軍が退いた。徳用は「軍の帰還は険難において必ず乱れる」といって、兵を指揮すると、率先して要害の地に入り、「進行を乱すものは斬る」と命じた。このため一軍は肅然となった。賊軍は徳用の軍が整然としているのを見て、近寄ろうとしなかった。廷召らは大小数十回戦ったが、互いに勝敗を分けあった。諸将は約束の日時を違え、士卒も困窮したので、結局賊軍を打ち破ることはできなかった。


(23)三年(997)十二月、李継遷は使者を遣わして帰順を示し、当地の節度使を求めた。たまたま帝(太宗)が崩じ、太子(真宗)が即位したばかりで、服喪中のことでもあり、申し出を許して継遷に定難節度使を授けると、夏・綏・銀・宥・静の五州を分け与え、張浦も送り返してやった。そこで継遷は弟の瑗を京師に遣わして感謝の意を伝えた。しかしまたすぐに辺境を荒らし回った。


(24)真宗の咸平五年(1002)三月、李継遷は諸部族を糾合して霊州を攻略した。継遷は霊州を西平府と改名し、そこに住みついた。

これ以前、帝は霊武の問題を李至に尋ねたときのこと。至、「河州や湟州には夷狄と中夏の民が雑居しております。ですから先王はここを捨て置かれたのです。霊州は棄てねばなりません。朔方軍を環州に移して境界の守りを固めても、結局は一時逃れの方便に過ぎません。」しかし帝は決断できなかった。当時、継遷の掠奪は甚だしく、帝は張斉賢を涇原諸路経略使に命じて継遷を禦がせた。斉賢も〔帰還すると、〕「孤立した霊武の城塞だけでは守り切るのは難しい。六七万の軍民を危地に陥れるのは無益なことです」と言った。

永興軍の通判だった何亮は「安辺書」を献上じて次のように云った。――

霊武の地は方千里(周囲一千里)、山河に囲まれております。これを棄てれば夷狄は広大で豊饒な地を利とすることになります。これが一つ目の危惧です。環州・慶州から霊武まで、およそ千里あまり。〔今、分断されている〕西域と夷狄の地が〔霊武を棄てることで〕一つに合わさればどうなるか。これが二つ目の危惧です。冀州以北は馬の産地ですが、匈奴が荒れ狂って以来、馬は南に渡来せず、ただ西域のみを頼りとしております。西域は二つに分かれておりますが、その右側は西戎の東部、つまり〔継遷ら〕夏賊の境界にあたります。その東側は西域の境界です。もし霊武を棄てれば、〔これらの地は〕一つに合わさるでしょう。夏賊は狂暴でずる賢い。諸部族に馬の売買を禁じれば、〔我等は〕どうやって軍馬を手に入れるのでしょうか。これが三つ目の危惧です。何卒、溥楽・耀徳の二城を築いて河西の糧道を通されますように。霊武は絶域の外にあります。この二城を築き、たがいに唇歯のように互いに助けあわさねば、霊武を棄てるのと同じことです。

帝は上奏を見て、再び群臣に棄るか守るかの決断を諮った。楊億は上疏し、漢が朱崖を棄てた故智にならい、霊武を棄てて環州と慶州を守るように訴えたが、これは前の李至の議論と同じだった。宰臣は「霊州は絶対に争わねばならない土地であり、もし失えば周辺地域の安全を確保できない」と言った。帝は当惑してしまった。

李沆は「継遷が死なねば、霊武は朝廷のものになりますまい。使者を遣わし、ひそかに州の将軍を呼び寄せ、軍民を指揮し、城塞を空っぽにして与えるとよろしい。こうしておけば関右の民を災害から免れさせられます」と助言したが、帝は従わず、王超を西面行衛都部署に命じ、六万の歩兵と騎兵を率いて霊州を救援させた。

折しも継遷が清遠軍を強奪し、都監の段義が投降したため、継遷の勢力はますます増大し、再び定州と懐遠軍を攻めていた。曹璨は異民族の部隊を率いて迎え撃ち、わずかに斥けただけだった。王超の指揮する大軍も結局は進行できず、霊州はついに陥落し、霊州知事の裴済が死んだ。帝は報告を受けると、李沆の言葉を用いなかったことを悔やんだ。


(25)六年(1003)六月、李継遷が麟州を囲んだ。金明巡検の李継周に撃退させた。麟州知事の衛居宝は伏兵を配して不意を衝いたので、継遷は部隊を率いて逃げ去った。


(26)十月、李継遷は西蕃に転戦して西涼府を取った。都首領の潘羅支は降伏すると偽り、六谷の諸部族を集めて継遷を襲撃した。継遷は大敗し、流れ矢にあたって死んだ。子の徳明が後を継いだ。契丹は徳明を西平王とした。

当時、環州や慶州近辺の官僚は、徳明は後を継いだばかりだからと、詔書を下して慰撫するよう求めた。そこで帝は徳明に詔書を与え、その動きを慎重に監視させた。

鎮戎軍知事の曹瑋はこう言った。――「継遷は二十年の間、河南の地を暴れ回っておりました。兵は鎧を解くことなく、中国に於いて西方の憂患でありました。今、継遷の国は危機に瀕し、世継ぎはまだ子供です。すぐにでも捕縛して滅ぼさねば、後に必ず強大となり、制禦できなくなるでしょう。私に精鋭をお貸し願いたい。不意を突いて徳明を捕らえ、京師に送って御覧に入れます。河南を郡県の旧時にもどすのは今です。」しかし帝は恩を与えることで徳明の帰順を謀り、曹瑋の申し入れを聞かなかった。


(27)景徳三年(1006)九月、李徳明が表書を奉じて帰順を求め、また劉仁勖を遣わして誓書を奉じた。十月、徳明に定難節度使を授け、西平王に封じ、手厚く賜物を与え、内地〔の節度使〕と同じ俸給を与えた。また子弟を人質に求めた。徳明は前代の故事にないことと言って断り、驢馬を献じて感謝の意を示した。これ以後、徳明は毎年朝貢してきた。


(28)大中祥符三年(1010)、夏州が飢饉になった。徳明は書簡を送って米百万を求めてきた。朝廷では途方に暮れ、「徳明は帰順すると言いながら誓約を違えている。非難の意を伝えては如何か」と言うものもいた。しかし王旦は「ただこのように徳明に伝えさせればよい。既に敕は下り、米百万を京師に用意している。人をよこして取りに来るように、と。」徳明は詔書を受け取ると、「朝廷にも人はいる」と恥じ入った。結局、この件は沙汰止みになった。


(29)九年(1016)、徳明は表書を奉り、「辺境の〔宋の〕臣僚が約束を守らず、戦功を求め、盟約に背いている」と訴えた。返答させた。


(30)乾興二年(1023)、徳明は兵を率いて麟州の柔遠砦を攻めた。巡検の楊承吉は戦ったが、勝利を得られなかった。曹瑋を環慶秦州巡検安撫使に命じて防禦させた。この年、徳明は懐遠鎮に城を造って興州とした。


(31)仁宗の天聖九年(1031)十月、徳明が死に、子の元昊が後を嗣いだ。事件は後述する。


****************************************
(1)母と妻と子女を城郭の外に連れだし:原文「女壁於野外」。『長編』巻35「乃先攜其母及妻子・卒吏壁野外」(淳化五年三月戊辰条)により増訂。



© 2008-2009 Kiyomichi eto Inc.

inserted by FC2 system