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太宗致治


(01)太平興国元年(976)十二月己未(二十七日)、群臣に〔軍政について〕訴えるものがおれば、直ちに上前で論じさせた。

富弼の評語。太宗は政治に切実であった。帝に直言せんとする臣僚がおれば、直ちに上前で論じさせた。だからこそ言路に滞りがなかったのである。後来、臣僚は差遣で上殿を許されたものでもなければ、帝に直接意見できなくなった。また上殿して国境の問題を訴えようにも、月を越えてなお返事が得られなかった。国境の問題ですら平時と同じ扱いを受けるのである。まして他のことではどうであろう。


(02)二年(977)春正月戊辰(七日)、帝みずから礼部の挙人に試験を施した。

これ以前、太祖が洛陽に行幸したとき、張斉賢は布衣の身で意見を奉った。十の論策の中、四つは帝の意に適った。斉賢は残りの論策も大事だと言い張ると、太祖は怒って追い払った。〔汴都に〕帰還すると、帝に言った。――「西都に行ったが、張斉賢という男を見つけた。私はあいつに官を授けようと思わぬ。いつの日か、お前の宰相として用いよ。」

この度の試験では斉賢も挙人の中にいたが、有司は誤って下位の合格とした。帝はそれを知り、試験合格者の全てに進士及第を授けた。また礼部に命じて十五回以上の〔進士科〕および諸科の受験者全員に出身を授けさせた。邢昺を呼び出し、〔『易』の〕師と比の二卦を講義させ、経書の趣意を問うた。帝はその精確博識を褒めたたえて九経及第を授けた。また九経科の七人が不合格だったので、特別に同三伝出身を授けた。帝は近臣に、「私は俊英のものを科挙によって求めはするが、なにも十人の中から五人も見つけようと思っていない。一二の人を得るだけでも、施政の手助けになろう。」


(03)辛未(十日)、詔を下した。――「『虞書』には三年で政績を査定するとあり、『漢官』には査定は九等に分けるとある。すべての諸州府の幕職官、および県令・簿・尉について、従来は吏部南曹が印紙や暦子などの評定書を給付し、州県の長吏(長官)に功過を記録させ、任期満了にともない、所定官庁が審査して政績の高下を決めていた。これが古くからのやり方であった。担当官は十分にこれを理解し、隠蔽や詐欺によって施政を乱さぬようにせよ。」


(04)三年(978)二月丙辰(朔)、崇文院を立て、あらゆる古今の書籍を収蔵した。


(05)六月癸未(三十日)、詔を下した。――「官人の収賄は、恩赦の列に加えることを認めぬ。法令として記しおけ。」


(06)五年(980)二月、差役法を定めた。

これ以前、太祖は前代の制度により、〔労役として〕衙前に官物を管理させ、里正・戸長・郷書手に賦税を督促させ、耆長・弓手・壮手に盗賊を捕縛させ、承符・人力・手力・散従官を使用人としていた。後、〔衙前らの〕貧富に変化があれば、随時〔割り当てる労役を〕高下させていた。ここに至り、京西転運使の程能の意見に従い、諸州の戸を九等に分け、上の四等を労役にあて、下の五等は免除した。


(07)六年(981)二月、詔を下した。――「朝廷は勧戒の道理を明らかにし、長久の法規を立てるため、外州で従事している群臣に、すべて御前印紙を給付させていた。善悪に隠蔽がなく、政績の高下は必ず書されることを尊ぶが故に、任期満了において、考査の法を行わしめたのである。しかるに近来聞き及ぶところによると、官吏は頗る綱紀を乱し、朋党が蔓延り、互いに隠蔽しあっている。米や塩の煩瑣なことを妄りに指摘し、巨大な害悪は却って彰かにせず、労あるものは僅かでも必ず記してある。必ずや戒告を下し、因循を戒めさせねばならぬ。今後、あらゆる出使臣僚の在任時の政績は、特別なものでなければ勤務を評定する必要はない。以前に勤務違反があれば隠蔽してはならない。それ以外の経常事務については勤務を評定する必要はない。」


(08)九月、左拾遺の田錫が封書を奉り、そこには国家の機務が一つ、朝廷の大綱が四つ指摘されていた。――機務とは、北漢平定の功績を論じ、軍卒をうまく操ることを指す。そして「徳を修めて遠方のものを招くべく、交州の兵を罷めるべきこと」が、大綱の第一。「昨今、諫官は朝廷で論争せず、給事中は封駁せず、左右史は上殿して帝の言動を記さず、御史は不正弾劾の職務を全うしようとせず、中書舎人は〔帝から〕政事を問われたことがなく、集賢院には書籍があっても官職はなく、秘書省には官職はあっても書籍がない。才能ある人材を選び、各々その官庁を任せるべきであること」が第二。「尚書省の建物は一時の便宜で作られたものに過ぎず、太平の時代の建物ではない。だから省や寺といった官庁を新しく整えるべきであること」が第三。「刑罰の法令や獄具にはみな規定があるが、枷に鉄を用いるなどは書かれていない。むかし唐の太宗は『明堂図』を見て、五臓が背中に繋がっていることを知り、背中を鞭打つのを禁じ、徒刑を緩くした。まして刑罰を用いる必要などなくなろうという隆平の今、法令にないことはやめるべきであること」が第四。

帝は封書を読むと、これを褒めたたえた。


(09)京朝官の差遣院を置いた。

旧制では京朝官〔の任用〕は吏部に属していたが、国初以来、中書から任用されていた。ここに至り、京朝官で奉使して地方に赴き、〔任が終わり新官僚に〕交替して帰還したものは、すべて中書舎人に政務を審査させ、人物と能力を考査の上、中書の示す欠員に引き比べて〔官を〕授けさせた。これを差遣院といった。


(10)雍煕元年六月、〔天下に〕直言を求めた。

睦州知事の田錫が疏を奉った。――「時勢は太平へと歩みはじめ、天下は統一されました。そのため左右のものは御機嫌をうかがい、陛下には多くの功業あると申しております。しかし〔陛下が〕天下に臨まれること九年、四方安寧とはいえ、刑罰が全くなくなったわけではなく、水害や旱害も全くないわけではありません。しかし陛下が太平だと仰れば、誰が敢えて太平だと言わぬものがおりましょう。陛下が天下は完全に治まっていると仰るれば、誰が敢えてそういわぬものがおりましょう。」

またこうも言った。――「〔現在、〕宰相は人を任用できず、制度にない人間を使っております。近臣は正当に聴用されず、却って地方官吏の訴状を求めております。」

またこうも言った。――「聞き入れる〔訴状〕が広ければ、法令は必ず煩瑣になります。法令が煩瑣になれば、従うものは少なくなります。今後、上奏に対しては、大臣に検討させてから施行するようにし、空言を用いて信用をなくさせぬようにしなければなりません。」

またこうも言った。――「宰相がもし賢者であれば、信任しなければなりません。もし賢者でないのなら、任用に堪える者を選んで用いなければなりません。宰相の数を揃えるだけで、あたかも凡夫であるかの如く疑ってはなりません。」

帝はこれらの意見に賛意を示した。


(11)あるとき帝は侍臣に向かって、「唐の太宗と比べてどうだ」とたずねた。参知政事の李昉はこっそり白居易の「七徳賦」を暗誦してみせた。――「怨女三千放ちて宮を出し、死囚四百来たりて獄に帰る。」(1)帝はそれを耳にすると、きっと立ち上がって、「だめだ、だめだ、及びもしない。耳に痛いことだ。」


(12)二年(985)秋七月、諸道の転運使および長吏に命じた。――「豊作の余剰分を倉庫に貯蓄しておき、水害や旱魃に備えよ。」


(13)端拱元年(988)春正月乙亥(十七日)、みずから藉田を耕し〔人々に農業の重要性を示し〕た。


(14)五月辛酉(五日)、崇文院の中に秘閣を建て、三館の書籍をその中に納めた。吏部侍郎の李至に秘書監を兼ねさせた。

帝は李至に、「君主はさっぱり無欲でなければならぬ。嗜好が外に出なければ、奸邪の人も取り入れまい。私には格別嗜好はないが、本を読むのは好きだ。古今の成功と失敗を多く学び、善いものに従い、悪いものは改める。これだけだ。」

至が同僚と宮中に書籍を見にくると、帝は必ず人を遣わして宴を与えた。また三館の学士も宴に参加させた。


(15)虞部郎中の張佖が左史と右史を置くよう建議した。そこで梁周翰と李宗諤に分担させた。周翰は起居郎を兼ねていたので、こう申し上げた。――「今後、朝廷における皇帝の御言葉と近臣の発言については、旧制に従い、中書に時政記を修めさせて下さい。枢密院の軍務に関するものは、枢密院に編纂させ、月末に史館に送らせて下さい。今後、封拜・除改・沿革・制置〔といった人事や制度の改変〕についも、すべて整理した上で送付させ、〔史館の〕記録に備えさせて下さい。また起居郎と舎人をそれぞれ崇政殿に宿直させ、〔陛下の〕言動を記録させ、別個に起居注を作らせ、陛下のご観覧に供した後、史館に送付下さいませ。」起居注を帝に見せるようになったのは周翰からである。


(16)内侍の侯莫陳利用は幻術ができるというので帝の寵愛を得ていた。しかし勝手な振る舞いが多く、不法を働いていた。趙普はその罪科を調査し、誅殺するよう申し出た。帝、「万乗の主でありながら、たった一の人間も庇えぬのか。」普、「陛下が誅されねば、天下の法を乱したことになります。法は手放せぬものですが、こんな青二才など惜しむに足りません。」帝はやむを得ず処分させた。


(17)淳化元年(990)十二月、内外の上書文、および帝に直接に訴え出たもので、帝の許可を得た案件については、中書・枢密・三司に下し、重ねて調査させた上、施行することにした。


(18)帝は宰相に「国を治める方法は、寛容と峻厳の調和を得ることにある。寛容であれば綱紀は緩むだろうし、峻厳であれば民は何もできなくなる。」〔また「安静にしておくことは、黄帝・老子の深い教えだ。あらゆることは有為から無為となる。無為こそ、朕が努力せねばならぬところだ」と言った。〕

呂蒙正は進み出ると、「『老子』に『大国を治めるのは、小魚を煮るようなものだ』とあります。つまり魚は〔こちらが〕掻き回せば、かえって乱れるのです。〔民もこちらが掻き回せば、かえって乱れてしまうものです。〕昨今、官僚からの訴状は、制度の改変を求めるものが大変多いようです。陛下におかれましては、しばらく制度に手を触れないように〔して、訴えを鎮め〕なさいませ。」

上、「私は人の発言を閉ざしたくないのだ。狂った男のたわごとでも、聖人はそこから選び取るものだ。これも古くからの教えだ。」

趙昌言、「昨今、朝廷にもめごとはなく、国境も安寧にございます。今こそ人助けをなさるときです。」

上は喜び、「日夜、諸君とこうして相談しておれば、天下の乱れもなかろうに。もし天下の官吏がみなこれを心掛けておれば、刑罰を用いる必要もなく、訴えごとも止むだろうに。」(2)


(19)二年(991)、帝は旱害と虫害のことで近臣を呼び出し、〔政事の〕得失をたずねた。多くのものは天の巡りあわせだと答えた。しかし寇準だけが、「『洪範』には『天と人との関係は影と響きのようなもの』とあります。大旱魃の戒めがあったのは、恐らくは刑に不平があるからです。」帝は怒って宮中に帰ってしまった。

しばらくして〔帝は〕また準を呼んで不平の意味をたずねた。

準、「宰相らを呼んでいただければ、すぐにでも申し上げます。」

宰相らがやって来た。

準、「近頃、祖吉と王淮が法を曲げて賄賂を取っておりました。吉の賄賂は少額でしたが誅殺されました。淮は参政の沔の弟だったので、法を犯し千万もの財を貯め込んでいたのに、ただ杖刑だけで済まされ、もとの官にもどりました。これが不平でなくて何でしょう。」

帝は沔にたずねると、沔は首を垂れて陳謝したので、沔を厳しく咎めた。そこで準の大抜擢を計り、ついに枢密直学士から枢密副使を授けた。

準が参内して意見したときのこと。帝と意見が合わず、帝は怒って立ち上がった。しかしそのつど準は帝の衣服を掴んで坐らせ、事案が決定してから退いた。帝は「私が寇準を得たのは、文皇(唐の太宗)が魏徴を得たようなものだ」と喜んだ。


(20)あるとき王禹偁がこう訴えた。――「今後、群臣が宰相に謁見するときには、朝政が終わった後、政事堂(宰相府)で枢密使とともに接見させ、〔官僚らの〕請託を防がれますように。」詔を下し、これに従うことにした。

左正言の謝泌が反論して曰く――

謹んで詔書を読みますと、宰相と枢密使が賓客に見えるのを許さぬとあります。しかしこれでは大臣に私事ありと疑うことになります。『尚書』には「賢者を任じては疑ってはならぬ。奸邪を去るのに疑ってはならぬ」とあります。〔唐の〕張説は、姚元崇について、「外に向かってはいい加減に人と付き合っているが、内に向かっては謹厳に君主にお仕えしている」と言いましたが、これこそ本当の大臣の姿というものです。現在、天下は極めて広く、政務は極めて煩瑣です。陛下は〔天下を知るための〕耳目を宰相らに頼られておられますのに、その宰相が下々に接見できぬとあれば、どうやって〔宮廷の〕外のことを全てお知りになるのでしょうか。もし都堂(政事堂)で群臣に接見して諮問するというなら、〔宰相には〕衣服を脱ぐ暇さえないでしょう。幸いに現在は世の中が清らかで、朝廷に巧言の士はおらず、地方にも姑息の臣下はおりません。それなのに何故に宰相を疑い、衰世の仕方にならわれるのです。

帝は〔泌の〕上奏を見て、すぐに前の詔書を取り返すと、泌の上奏文を史館に送った。


(21)八月己卯(十三日)、審刑院を置いた。

帝は大理寺や刑部の官吏が法律を濫用し、過度な処罰を加えることに心を痛めていた。そこで審刑院を禁中に設け、詳議官六人を置いた。

獄が上奏されると、先に審刑院の印を得てから、大理寺・刑部に送付し、そこで判断審査したものを上奏させた。そして審刑院に戻して再審した後、皇帝の決裁を得、それを中書省に送って施行させた。〔決裁が〕妥当でない場合は、宰相がまた上奏し、はじめて結審することにした。


(22)四年(993)二月、審官院を置いた。

これ以前、帝は天下の官吏の清濁混合に悩み、官僚を任命して政績の査定させていたが、それを磨勘院と言っていた。ここに至り、梁鼎が次のように上奏した。――

『虞書』には、「三年で〔政績の功過を〕考え、それを三回(九年)行い、賢能を進めて暗愚を退ける」とあります。三代以来みなこの方法を用いました。唐には功績を考査する官庁があり、そのための法令もありました。下は主簿・県尉より、上は宰相に至るまで、いずれも年ごとに功過を査定し、優劣を比較しておりました。そのため全ての官僚が精を出して働き、成果も挙がったのです。五代には兵乱が相継ぎ、それらの名前はあっても、実体はなくなっておりました。

そもそも今の知州は昔の刺史に当ります。しかし政績顕著なものでも朝廷に知られることなく、無能とされるものでも他と同様に任用されております。これは勧善懲悪の本道を全く失ったもので、積み重なって姑息の風潮が蔓延っております。これでは水害や旱害の到来、訴訟の横溢を呼び込むようなものです。天下の承平を望んでも、得られるものではありません。陛下におかれましては、特に有司に詔を下し、功績査定の方法を明らかにされますように。官には人を得て、民にはその福が与えられますことを請い願う次第です。

かくして磨勘院を審官院に改めて京朝官を審査させ、幕職・州県官については、別に考課院を置いて審査させた。


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(1)若い未婚の女三千を宮中から出し、死刑囚の四百人はまた獄にもどったの意。
(2)本条、『名臣言行録』に同文あり。『長編』巻34に同趣旨の文を引くも異同あり。訳文中〔〕は『長編』から適宜節略したもの。



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