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営田之議


(01)太宗の端拱二年(989)春、陳恕と樊知古を河北東西路招置営田使とした。また代州知事の張斉賢を制置河東諸州営田とした。しばらくして全て取り止めた。


(02)滄州節度副使の何承矩がこう訴えた。――

私は幼少より亡き父の関南討伐に参加し、北辺の道路や河川の状況について熟知しております。順安砦の西から易河の蒲口を開き、河川を東流させて海に導き、その東西三百余里、南北五七十里には、沢地を利用して堤防を作り、水を貯めて屯田をつくるなら、敵騎馬の進軍を止めることができます。一年もして関南の湖沼が塞がれば、稲田にするのです。周辺の州軍の中、貯水池のあるところは、城の守備兵だけを残し、広く兵を徴用する必要はありません。地の利を収めて辺境を充たし、険阻を設けて防衛するのです。春夏は農耕をさせ、秋冬は武事を修めさせれば、民力を休ませることになり、施政の手助けにもなりましょう。数年もすれば、敵は弱く我は強く、敵には労苦あり我には逸楽あることになりましょう。これこそ辺境を守る策略というものです。順安軍以西、西山に至るまでの百里あまりは水田がありませんので、兵に守らせます。しかし精鋭を選んで無駄な兵数を省くのです。そもそも兵の憂事は、その数の少なさにはなく、驕慢でしかも精鋭でないことにあります。将の憂事は、臆病なことになく、偏った見方をして謀略のないことにあります。もし兵卒は精鋭、将軍は賢明であれば、四方の境界につていも枕を高くしておれ、心配事などありません。

帝は喜んでこの提案を聞き入れた。

長雨が続くと災害になるから失敗すると言う担当者が多かった。しかし承矩は漢魏から唐に至るまでの屯田の故事を引き合いに出し、衆論を斥け、必ず行うべきだと主張した。また雨水を溜めて池を作り、稲田を作って食料の足しにすべきだとも言った。

ちょうど滄州臨津県令の閩人の黄懋も「閩ではただ水田に種を蒔くだけですが、山から水を引くとなると労力がかさむでしょう。河北の州軍には沼湖が多く、そこから水を田に引けば少ない労力で済みます。三五年の間には公私ともに大収益を得られるでしょう」と言ってきた。承矩に調査させたところ、懋の言った通りだった。そこで承矩を制置河北縁辺屯田使とし、懋を大理寺丞として判官にあて、諸州の守備兵一万八千人を用いて従事させた。

雄・莫・覇の諸州、平戎・順安の諸軍に六百里の堤防を作り、斗門(水の出入口)を置き、泥水を注ぎ込んだ。初年は、稲を播いたが、霜のために実らなかった。懋は「晩稲は九月に実るが、河北は早くに霜が降り、また気温の上昇も遅い。江東の早稲は七月に実る」と考え、種を取りよせて蒔かせた。この年の八月、稲は実り、承矩は稲穂を車数台に載せて天子の下に運ばせた。このため〔承矩に反対していた人々の〕議論は止み、大地と水の恵みは人々の頼りとされた。


(03)度支判官の陳堯叟らもこう訴えた。――

漢・魏・晉・唐の各時代、陳・許・鄧・穎・蔡・宿・亳から寿春まで、灌漑によって墾田しており、その痕跡は今に留めております。そこで官僚に命じて屯田を開き、灌漑させることを要請します。江・淮の下軍・散卒および民から募ったものを労役に充て、官銭を給付し、牛を購入し、耕具を揃え、みぞを引き、堤防を作ります。屯田ごとに千人(1)を置き、一人に牛一匹を給付して五十畝の田を耕させます。古制は一人百畝ですが、いまはその半分を開墾させます。年月をかければ古制にもどすことができるはずです。畝ごとに三斛を収めさせれば、年に十五万斛を収容できます。七州に二十屯田を置けば三百万斛を得られます。こうして利益を重ねていけば、数年にして米倉は満ち溢れ、江・淮からの米穀運搬も省くことができるようになります。民田の開墾が進まぬところは官が手伝い、公田の開墾が進まぬところは民を集めて耕させます。毎年の取り分は、民間の主戸と客戸のやり方に従います。『傅子』には『陸田は天運による』とあります。〔陸田は〕人が労力をかけても、水害や旱害が不意に起これば、一年の努力は無駄になります。しかし水田は人の労力によるもので、人が努力すれば大地の利益を得ることができますし、陸田よりは虫による被害も少なくなります。水田が出来上がれば、その利益は今に倍増するでしょう。

帝は奏を読んで喜ぶと、大理寺丞の皇甫選と光禄寺丞の何亮に調査させた。しかし結局は行わなかった。


(04)至道二年(996)、直史館の陳靖が訴えた。――

先王は民を豊にするにあたり、まず農業による穀物の増収を第一に考え、塩鉄榷酤などは末のことでした。さて、天下の田地は江淮・湖湘・両浙・隴蜀・河東の諸路を除き、遠くにあります。督促に努めても、急には利益を得られません。今、京畿周辺の二十二州は、土地の広さこそ数千里ですが、開墾地は十に二三のみ、税収はまた十に五六もありません。加えて、家を捨てて逃亡し、農業を棄てて遊興に耽るものがおり、田賦は年々減少し、財政も逼迫しております。

詔書は度々下り、民の帰農を許し、租や調の税を除き、猶予を与えております。しかし郷県の官はこれを乱し、帰農するものがおれば理由を責めたてます。朝に寸尺の田を耕せば、暮には差役の籍に入れられ、差役の督促が相継ぎます。租の常税を免除されても、実際には貧窮を補ってはおりません。まして民の流浪は貧困に始まりますが、それは借金を逃れるためや、税を逃れるためなのです。また一度逃亡すれば、郷里ではその財産を調査し、住居や日用品、植物や材木に至るまで、すべての値段を計り、郷官は税として徴収し、債権者は補填のために取り立てます。生活の場所はすっかりなくなり、〔逃亡者に〕戻るところなどなくなります。そのため流浪して、帰農の心を棄ててしまうのです。

そこで余剰の田を利用し、浮浪の徒を募って耕作させ、すぐには賦や租の税を計上せず、別に版籍を作り、必要に応じて農業を営ませるのです。民の力の多寡、耕地の厚薄を量り、労苦を均しくして、怠らないようにさせるのです。逃亡した者の帰農、適任者への田の給付などの詳細なことは、司農寺に処理させればよろしいでしょう。耕作と養蚕の他、雑木・野菜や果物を植樹させ、羊・犬・鶏・豚を飼育させるのです。桑畑を給付し、井田を設け、住居を作り、保伍〔の連帯責任〕を設け、養育送葬の道具や慶弔贈答の資材について、一律に規定を設けるのです。三年から五年もすれば生計が成り立つようになるでしょう。そこで戸を調べて税を定め、田を量って租税を納めさせます。もし民の費用に不足があれば、官が糴銭を貸し出し、食料や耕具の購買をさせます。これらの給付は司農に任せ、秋の実りの時期になれば、費用を購わさせます。時価によって折納させ、概算を戸部に通達させるのです。

帝はこれを読んで喜び、靖に立案を上呈させた。靖はまたこう言った。――

逃亡の民および浮浪のもので耕作を求める場合、農官に調査させ、耕地を給付し、土地を与える。州県には差役の対象とさせないようにする。苗や耕牛がない場合は、司農寺に官銭を貸し出させるようにする。

田には三品の区分を設ける。肥沃な土地で水害や旱害のないものを上品とする。肥沃であっても水害や旱害があるもの、また地味が痩せていても水害や旱害のないものを中品とする。地味が痩せており、さらに水害・旱害のあるものを下品とする。上品の田は一人ごとに百畝を授け、中品の田は百五十畝を授け、下品の田は二百畝を授け、五年の後にその租税を回収する。ただし百畝に換算して、三割を収めるだけとする。一家に三人の適任者がおれば、給付の田の増加を要求できるが、その場合は人数分の田を授ける。五人の場合は三人の規定に従い〔三人分を給付し〕、七人の場合は五人分を給付し、十人の場合は七人分を給付する。二十人から三十人の場合は、十人分を限度とする。人が少なく田が多い場合は、農官に分与の判断を任せる。住居や野菜、桑・棗・楡・柳などに充てる土地は、一戸十人の適任者ごとに百五十畝を授ける。七人の場合は百畝、五人の場合は七十畝、三人の場合は五十畝、三人に満たない場合は三十畝とする。桑功については、五年の後に税を計ることを除き、それ以外はすべて税を免除させる。

宰相の呂端は「靖の田制は従来の方式を著しく改めており、費用も莫大です」と言った。そこで〔靖の〕献策を有司に送付し、塩鉄使の陳恕らに討議させたところ、靖の上奏に従うべきだと言った。そこで靖を京西勧農使とし、陳・許・蔡・穎・襄・鄧・唐・汝などの州に調査させ、民に墾田を勧めさせた。また大理寺丞の皇甫選と光禄寺丞の何亮に助けさせた。選と亮は「おそらく失敗するでしょう。事業を罷めた方がよろしい」と言ってきた。帝は農業の振興を強く願い、なお靖に計画を進めさせた。しばらくして三司が「官銭の費用が大きいのに、万一、水害や旱害でもあれば全てを失いかねません」と訴えたので、ついに事業は中止された。


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(1)千人:原文「十人」。『宋会要』食貨七水利上により改める。



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