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至道建儲


(01)太宗の雍煕二年(985)九月辛亥(十日)、楚王の元佐を廃して庶民とした。

元佐は帝の長男である。幼少より聡明で、顔つきも帝に似ており、帝は特に愛していた。廷美が房州に遷されたとき、元佐は必死になって救った。廷美が死ぬと発狂してしまい、近臣にわずかな過失があると、梃刀で傷つけるようになった。病が少し癒えたので、帝は天下に恩赦を下した。

重陽の日、〔帝は〕諸王を呼んで苑中で射礼の宴を催したが、元佐は病気になったばかりだったので宴に参加させなかった。宴が終わると、諸王は暮れに元佐を訪ねた。元佐は怒って「君等は宴に行ったのに、私だけ参加できなかった。これは私を棄てたということだ」と言うと、怒気を露わに酒を飲み、夜中に火を放って宮中を焼いた。帝は激怒し、〔王を〕廃して庶民にし、均州安置とした。宋琪は百官を率いて三たび上表し、京師に留めるよう求めた。帝は訴えを許し、〔元佐が〕黄山まで行くと、呼び戻して南宮に住まわせた。


(02)淳化五年(994)九月壬申(二十三日)、襄王の元侃を開封尹とし、封を壽王に進めた。

帝は長らく帝位にあったが、まだ太子を立てていなかった。むかし馮拯らが〔立太子を〕求めたことがあった。しかし帝は怒って〔拯らを〕嶺南に追放したので、誰も言わなくなった。ここに至り、寇準は青州から左諫議大夫として呼び戻さ、帝に謁見した。

帝、「私の子供らの中で誰が神器を授けるにふさわしいだろうか。」

準、「陛下が天下のために君を選ぶ場合、婦人や宮中と謀ってはなりません。近臣と謀ってもなりません。ただ陛下が天下の望みにかなうと思ったものを選ばれませ。」

帝は久しく頭を垂れた後、近臣を斥けてから、「襄王はどうか」とたずねた。準、「子を知るものに、父親以上のものはおりません。陛下がよいとお決めなら、どうぞご決断くださいませ。」

そこで元侃を開封尹とし、壽王に封じた。元侃は帝の第三子である。

呂中の評語。東漢や唐朝に女主・宦官・外戚の禍があったのは、太子を立てる力が全く彼らの手中にあったからである。李固・杜喬・裴度・鄭覃らでさえも、これを正すことはできなかった。準の言葉はまことに万世の法たるべきものである。


(03)至道元年(995)八月壬辰(十八日)、詔を下した。――壽王元侃を皇太子とし、名を恆に改め、天下に大赦した。

唐の天佑以来、中国は多難で、立太子の礼が廃されること殆んど百年になろうとしていた。ここに至り、ようやく〔立太子の礼が〕挙行され、天下の人々はみな悦んだ。壽王は太子になると、報告のため宗廟を詣でてから宮廷に戻った。〔帰路、〕京師の民が道を塞いで、「若い天子だ」といって喜びあった。帝はそれを耳にして不機嫌になった。寇準を呼び出して、「人の心があっという間に太子に向かってしまった。私をどこに追いやろうというのだろう。」準は再拝して慶賀すると、「これは社稷の福です。」帝は悟り、〔内廷に〕入って后嬪に語ると、宮中の人々もみな慶賀した。帝は喜び、また〔外廷に〕出て来て、準を招いて酒を出し、酔いが回るまで飲み続けた。


(04)李至と李沆に太子賓客を兼ねさせ、太子に命じて至らに師傅の礼を以て仕えさせた。太子は至と沆に出会うと、必ず先に礼拝した。至らは上表し〔辞退を申し出〕たが、許さなかった。そこで詔を下した。――

朕が古訓を調べたところ、太子を立てたときには、端正な人を選び、輔導に当たらせている。君等の人望に藉り、輔導の頼りとしたい。思うに、謙虚な心で励み勤むからこそ、外に現れる敬意も異なるのだ。適任であるにも関わらず、敢えて謙譲を示すようなことをせず、子を知る親の心を助けよ。

至らは謝意を示した。

帝、「太子が聡明で心優しければ国は安泰だ。諸君は心を尽くして導かねばならぬ。なすことすべてが礼に適っておれば、手助けしてやってくれ。もし礼に違うことがあれば、必ず力を尽くして説得してくれ。礼・楽・詩・書には裨益するものがある。これらは諸君が聞き知ったもの、朕の言葉を用いるに及ぶまい。」


(05)三年(997)二月辛丑(六日)、帝が病に倒れた。宣政使の王継恩は、太子が聡明であることを嫌い、ひそかに参知政事の李昌齢や知制誥の胡旦と共謀し、楚王の元佐を〔皇帝の位に〕立てようとした。

三月癸巳(二十九日)、帝が崩じた。享年五十九。

この時、皇后は王継恩を遣わして呂端を宮中に呼ばせた。端は事変を察知し、継恩を騙して書庫に入らせると、鎖で封して閉じ込めた。そして急いで宮中に入った。

后、「陛下の宮車は既にお隠れになった。後嗣ぎには長子を立てるのが順序であるが、今回はどうしたものか。」

端、「先帝が太子を立てられたのは今日のためです。これ以上なにを論ずるというのです。」

后は黙り込んでしまった。そして太子を奉じて福寧殿で即位させ、御簾を垂れて群臣に見えた。端は殿の階下に立ったまま拝礼しなかった。御簾を捲きあげるよう求め、殿に升り、つぶさに観察した後、階段を下り、群臣を率いて拝礼した。

帝が端を宰相に抜擢しようとすると、「端は思慮が浅い」と言うものがいた。帝は「端は小事には凡庸かもしれぬが、大事には深慮がある」と言い、意を決して用いることにした。

当時、同僚の上奏や謁見に異論が多かった。しかし端のみ建白することが少なかった。ある日、帝はこう通達した。――「今後、中書のことは必ず呂端の判断を待って奏聞するようにせよ。」


(06)五月甲戌(十一日)、楚王擁立の罪を裁いた。

李昌齢を忠武行軍司馬とし、王継恩を右監門衛将軍に降して均州安置とし、胡旦を除名の上、潯州に配流とした。



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