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咸平諸臣言時務


(01)真宗の咸平元年(998)春正月、翰林学士の王禹偁は五問題について上奏した。

一、辺境の防備に謹み、友好を保ち、兵粮運搬の民に休息を与えること。昨今、北には契丹があり、西には継遷がおります。契丹は国境を侵さぬとはいえ、辺境の防備を減らすわけにはまいりません。継遷は依然として服従しておらず、兵粮運搬の困難は止め難く、関中や三輔の民の困難は最も甚だしいものがあります。そこで臣愚は次のように考えます。国境の吏に命じて遼の臣に書簡を渡し、その主君に送らせ、旧来の友好を保たせるのです。また詔を下し、継遷の罪を赦し、夏台(夏州周辺)を与えます。彼は必ず恩に感じて我等に降るでしょうし、さらには天下の人に己を屈してでも民を治めようとする陛下の姿を知らしめることにもなりましょう。

二、無駄な兵を省き、冗漫な吏を除き、山野の豊饒を下々に与えること。乾道・開宝のとき、領有地はまだ狭く、財貨もまだ少うございました。しかし河東を撃ち、北辺に備えながら、国費は足り(1)、兵も強うございました。それは何故でしょうか。兵は少数精鋭、将軍は専断を許されていたからです。それ以後、東南の数国を取り、さらに河東を平定しました。土地や財貨は広大豊饒になりました。しかるに兵威は振るわず、国費は切迫しております。これは何故でしょうか。兵に無駄が多く、精鋭ばかりでなく、将軍に専断を許していないからです。臣愚は次のように考えます。用兵の費用を開宝の時にようにすれば、枕を高くして〔天下を〕治めることができます。また開宝のときは、官僚の数が極めて少うございました。私は魯の人間で、済水のほとりを本籍としておりますが、まだ貢挙に合格していなかった当時、一州にただ刺史が一人、司戸が一人いただけでした。しかし当時、不便はありませんでした。それ以後、団練推官が一人増えました。太平興国のとき、通判・副使・判官・推官を増設し、監酒榷税算など四人を増やし、曹官のほかに司理を増やしました。その税収はといえば先日より減っており、その人民はといえば昔時より逃亡し〔て減っ〕ているのです。一州がすでにこのようです。天下についても知り得るというものです。冗漫な吏や兵が上下に国費を費やしているのです。これが〔朝廷が〕山野の利を全て徴用しながら、国費が足らない理由です。そもそも山野の利は民と共有するものです。漢以来、〔山野の利を〕国費に用いており、それを棄てるわけにはいきません。しかし、そうかと言って全てを取っていいものでもありません。茶法のようなものは、むかしはなかった税です。唐の元和のとき、斉や蔡に出兵する必要から、始めて茶に税をかけました。『唐史』には、この年、銭四十万貫を得たとありますが、今は数百万を得ております。民がこれに堪えられましょうか。臣が「無駄な兵を省き、冗漫な吏を除き、山野の豊饒を下々に与えること」と申し上げるのはこのためです。

三、選抜を厳しくして、むやみに官僚を登用しないこと。古代は郷里に推薦された人材を官吏として用いておりました。士君子は家で振る舞いを修めた後、朝廷に推薦されたのです。歴代に改廃あるとはいえ、この方法を遠く離れることはありませんでした。隋唐に始めて科目試験を設けましたが、太祖のときまでは毎年進士科〔に合格したもの〕は三十人を越えず、経学科でも五十人を越えませんでした。諸侯ですら推挙を許されぬほどに重んぜられ、士大夫が恩蔭を与えられることもまれでした。ですから一生かけて一つの科目にも合格できず、老齢になっても一つの官も得られないものがいたのです。太宗は王廷で育たれ、このような状況を御覧になり、即位の日には、完備した人を求めることなく、短所を捨てて長所を用い、十人に五人を取られました。在位ほとんど二十四年、合格したものは万人になろうとしております。英邁豪傑の人才もいるでしょうが、たやすく官を手に入れたものもいるでしょう。臣愚は次のように考えます。数百年の艱難があればこそ、先帝は広く人を取られました。二十年の恩沢があったのですから、陛下は古来のしきたりに戻されるべきです。試験のことは、昔のとおり、有司に任されるのがよろしいでしょう。吏部の人事についても、帝王みずからすることではありません。爾来、五品以下は、旨を取って官を授けると言っておりますが、今では〔有司の行う人事は〕幕職・州県官のみとなっております。京官には選限(挙人が実職を与えられるまでの期限)があるとはいえ、多くは施行されておりません。臣愚が考えますには、吏部の人事を有司に任せ、格敕によって任用すればよろしいでしょう。

四、僧尼を退け、疲弊の民を損なわないこと。太古にはただ〔士・農・工・商の〕四つの民がいただけでした。兵はその中に入っておりません。太古には井田の法があり、農はそのまま兵でした。秦以来、武人は農業に務めなくなりました。これは四民の外にまた一民を設けたことになります。そのため農はさらに困窮することになりました。しかし兵器を手に社稷を守ることは、道理として除くことができません。漢の明帝以後、仏法が中国に流入し、僧侶を増やし寺を造ること、代々増加し、養蚕に携わらずに衣服をまとい、農耕に勤しまずして米穀を食らっております。これは五民の外にまた一民を増やし、六民としたことになります。もし天下に一万の僧侶がおり、毎日米一升を食らい、毎年絹一匹を用いたとします。これは極めて質素な生活です。しかしそれでも月に三千斛を費やし、歳に一万縑を用いることになります。ましてやそのような輩が〔実際には〕五~七万もいるのです。民の害虫と言わずにおれましょうか。臣愚は次のように考えます。国が許した出家者は多く、寺の造営も多大にございます。その費用を計れば億万では済みますまい。先帝が病に倒れたとき、多くの喜捨をされました。仏法の霊験があったはずです。それなのに福寿を蒙らなかったのはなぜでしょうか。仏法に帰依しても無意味なこと、断じて知らねばなりません。陛下は深く施政のあるべき方法を鑑み、すぐに〔仏法を〕退けられませ。もし即位したばかりのことで、これらの輩を驚かせたくないとお思いなら、まずは二十年ほど人の出家と寺の造営を許さずにおかれ、〔仏法を〕自然に衰えさせればよろしい。これも弊害を救う一方策です。

五、大臣に親しみ、小人を遠ざけ、忠良正直の士を進めて疑わず、奸悪媚諂の徒を退けて懼れしむること。そもそも君を元首(あたま)とすれば、臣は股肱であり、一心同体というものです。用いる人であれば疑ってはならず、さにあらぬ人間であれば用いてはなりません。さて、盛徳の帝王といえば、誰しも堯舜を言うでしょう。その時代、契は司徒となり、咎繇は士となり、伯夷は礼を司り、后夔は楽を司り、禹は黄河を治め、益は虞官でしたが、各々に職務を全うさせました。堯には人材を知り賢者を用いる徳があったのです。しかし堯は遠いむかしの話しです。臣は近い時代について申し上げたいと思います。唐の元和のとき、憲宗は裴垍に諸官の人事を命じたことがありました。垍は申しました。――「天子は宰相を選び、宰相は官庁の長官を選び、長官みずから属僚を選ぶ。かくすれば上下に疑惑が生じず、政務も正しく行われます」と。識者はこれを聞き、垍は物事の道理を弁えた人だと言いました。ですから陛下は遠くは帝堯に取り、近くは唐室に鑑み、既に宰相を用いたなら疑うことなく、宰相に官庁の長官を選ばせ、長官に属僚を選ばせるのです。そうすれば陛下は坐したままに天下を治めることができましょう。太古のむかし、刑罰を受けたものは君主の側におりませんでした。『論語』には「淫らな鄭の音楽を止め、佞人を遠ざけよ」とあります。それ故に周の文王のまわりには貴顕を蔑視するものはなく、周囲のものはみな賢者だと言われたのです。そもそも小人は巧言令色、まず陛下の意に迎合しようとし、動けば必ずものを乱し、心はただ賢者を忌み嫌うだけです。聖帝明王でなければ明らかにし尽くせるものではありません。旧制では、南班の三品尚書となってはじめて皇帝に拝謁できました。最近では武官の三班奉職の身分でも、使者ともなれば皇帝に拝謁を許されております。陛下の聡明を乱すこと、これより甚だしいものはありません。陛下が綱紀を引き締め、聡明を尊厳にするのは今にございます。

臣愚が考えますには、昨今の急務は兵にあります。兵数を正しく処理し、道理を以て〔兵権を〕処置なされた後、吏について論ずることになります。吏の清濁を分け、品流を区分して後、〔科挙の〕選抜を厳しくして〔吏の〕源流を塞ぎ、僧尼を禁じて〔国費の〕消費を抑えるのです。そうすれば自然と国費は満ち、王道が行われるようになるでしょう。


(02)冬十月、代州知事の柳開が訴えた。――

国家の創業以来四十年、陛下は〔太祖・太宗の〕二聖の位を承け、施政に精励されるこのとき、もし旧套を守るのみならば、まだ善を尽したことになりません。新たな法令を打ち立て、なすべきことを明らかにしなければなりません。

臣は次のように考えます。益州は安静を取り戻しつつありますが、陛下には賢能の臣を選んで治めさせることを願います。名望威厳のある人によってこそ、群小は畏服するものです。また西方(西夏)は今でこそ朝廷に帰順しておりますが、他日、長く保ち続けることは困難だと思われます。もし反旗を翻すようなら、しかるべき人に制禦させねばなりません。契丹と比べてみますと、その憂患はさらに深うございます。なぜならば、契丹は君臣の分が久しく定まっており、蕃人と漢人の位置も久しく分かれております。もし南方(宋)を窺う心が萌したなら、また別に思慮せねばならぬでしょう。西方については、怨みはまだ解けず、貪欲の心は改められず、下には悪事がはびこり、兇悪を競い、人の物を奪いながらなんら足るを知らず、都合よく投降しては〔朝廷の〕恩を感ずることもありません。ですから常に予め防備を施し、良将を要害に配して守らせ、厚く賜物を授けて貪婪の心を満たし、慰撫することで彼等の心情を宥め、寛容な態度で彼等の心を休め、〔その一方で〕人を甘州・涼州に遣わし、その地の心を繋ぎ止め、我等の援護とし、もし〔西夏に〕動きがあれば、彼等に〔背後から〕襲わせ、西夏に後顧の憂をあらしめるのです。そうすれば西夏の敏捷な動きも制禦できるでしょう。今、兵数は多いといえ、太祖の時代の訓練の行きとどいた兵に及ばず、mた謀臣猛将については遠くかないません。そこで連年、西北に侵略を受け、〔兵を〕養成しても月費のみ甚だ高く、征伐しても戦勝の報は聞かれません。禁軍を訓練して往時〔の勢い〕を取り戻し、将兵には必ず勇敢なるものを求め、指揮に違えることを許さず、軍律を乱すものはすべて誅殺し、功績あるものには必ず恩賞を与え、副将・主将で威厳のないものは除くことを求めます。政務の合間には、〔帝〕みずから殿庭で視察され、さらに勇猛な将軍を召して剣戟や馬術を披露させ、朝廷の武運の盛んなさまを彰かにさせるのです。

臣はまた考えます。宰相・枢密は朝廷の大臣です。任せては決して疑わず、用いては必ず至当でなければなりません。〔大臣は〕属僚を任用し、職官に等級をつけ、内には百司を統べ、外には四海を分け治めるものです。今、京朝官〔の任用〕には別に審官院を置き、供奉殿直には別に三班院を置き、刑部は獄を断ぜず、別に審刑院を作り〔刑獄に預からせ〕、宣徽院は全くの閑地となっております。大臣は親信を得られず、小臣はそれを至公だといっております。銀台司に至っては、もともと枢密院に属していたものを、近年制度が改まり、職掌が甚だ多くなり、人員が倍ほどに増えました。しかし実際は昔のままで、別段の利害もなく、いたずらに変更があっただけでした。審官院・三班院を罷め、再び中書・枢密・宣徽院に戻し、銀台司は枢密院に戻し、審刑院は刑部に戻し、官庁の乱立を去り、その煩瑣の数を減らされますことを請い願います。

また次のように考えます。開封府は万邦の模範です。旧制によって、優れた人を〔長官に〕選ばれますことを望みます。今、皇族の諸子の多くは成人しておりますが、ただ遊ばせているだけで、材能を試されておりません。彼等を諸侯として外におらせ、文武の忠直な人を左右において輔弼させることを望みます。

また天下の州県は、官吏〔の数〕が均一でありません。冗官が極めて多いこともあれば、長年官員が補われない場合もあります。四千戸以上の県には朝官から選んで治めさせ、三千戸以上は京官から選んで治めさせ、主簿を省き、その仕事を県尉に兼ねさせ、その他の通判・監軍・巡検・監臨・使臣などは適宜省略し、無駄に充てられる利禄の費用を減らし、官職を整えることを望みます。

また世の人情は栄達を競うようになり、世態は軽薄になっております。骨肉の間柄とはいえ、権勢や利得の前には変節し、同僚の間には不和が多く、隙を窺っては窮地に陥れようとし、困難に際会しても全く救おうとせず、仁義の風潮はまったく失われております。陛下から告諭され、各々を改心させ、風俗の根本を厚くし、永く政道を醇朴たらしめんことを願います。

恭しく思いますには、太祖は神武の帝、太宗は聖文の君であらせられ、栄誉は百王を覆い、威厳は万国に加わり、用いられぬ賢人はなく、知らぬことなどありませんでした。陛下も御心を開かれ、天の如く海の如く、断ずべきは直ちに断じ、行うべきは直ちに行い、忠直の臣を惜しみ、奸悪を察知されますよう願います。臣は久しく顕官を忝なくし、恩沢を蒙っておりながら、その文辞は劣り道理は拙うございます。ただ聖明なる陛下の寛恕を請い願う次第です。(2)


(03)二年(999)春正月、入閣の儀のとき、右司諫の孫何が上奏した。――

六卿に職分があるのは国を動かす根本です。吏部は功績を弁じて人材を育て、兵部は兵車を選んで防備に備え、戸部は版図を正して財貨を増やし、刑部は規律を守って暴圧を誅し、礼部は神祇を祀って賢俊を選び、工部は宮室を繕い堤防を修めます。六職が揃うことで天下の事は備わります。ですから周の会府や漢の尚書は、庶政の根本を掌り、百司の綱紀を統べておりました。〔尚書の〕令と朴は属官を率い、丞と郎は職務を分担し、二十四司は燦然と中心を巡り、郎中と員外郎は曹(中央官庁の属官)を分かち持ち、主事と令史はその事務を承けております。四海九州がいかに大きいとはいえ、網に綱(おおづな)があるようなものです。

唐も盛時にあっては、利と権と分別し、使職を作り、軍需の十全を求めることはありませんでした。玄宗に驕りの心が萌してからというもの、徴税は広く行われているのに、国費は十分でなくなりました。そこで蕭景・楊釗は始めて地官(戸部)として度支のことを受け持ちました。また宇文融は租調地税使となり、始めて利潤の源を開き、禍の階(きざはし)を開いたのです。肅宗・代宗の世になると、有司の職はすべて廃れ、利益について発言する臣が荒れ狂いました。かくして叛乱が相継ぎ、国費は足らず、戦争の日々に追われ、国費は切迫し、時の急迫を救うため、ついに権宜に裁断するようになったのです。五代はわずかの間のこととて、これらについて考える暇もありませんでした。

今、国家は〔太祖・太宗の〕二聖が相承け、軍隊は用いられず、太平の世となりました。国家に綱紀を通すのはこの時にあります。なすべきことは、三部の使額を六卿に還し、戸部尚書一人を慎重に選び、塩鉄使のことを掌らせ、金部郎中とその員外郎に分担させます。また、戸部内の侍郎二人に度支使と戸部使の職務を分担させ、各々該当官庁の郎中と員外郎に職務を分担させます。そうすれば三司使から判官まで、除き去るとはいえ、実際には除かないようなものです。そこで〔都省の〕左右司の郎中と員外郎に帳簿を管理させ、分けて違反を審査させれば、決まった職責があることになります。規定が定まれば、厳酷な税の取り立てはなくなり、精詳熟達の名を得られ、『周官』や唐の方式を復活させることができましょう。これは難しいことではありません。ただ陛下が実行なさればよろしいのです。(3)

何はこれ以前、五議について献上していた。――曰く、「第一は、軍略のある儒臣を選び兵を統べさせること。第二は、世々俸禄を受ける家のものには太学で学問をさせ、寒門の士は州郡に推薦させ、自薦のために詩文や礼物を送るのを禁ずること。第三は、制科を復活させること。第四は、郷飲酒の礼を行うこと。第五は、有能なものに官を授け、恩恵で官を進めないこと。」上は疏を見て喜んだ。


(04)三年(1000)冬十月、黄州知事の王禹偁が上奏した。――

臣は盛時に際会し、宮中に身を忝なくしております。およそ見聞するところがあれば、みな上奏しなければなりません。しかし発言が災異に関わり、事柄が機密に渡りるとき、もし直言すべきときでなければ、禁諱に触れる恐れがあります。今、敢えて〔陛下の〕耳に逆らい、我が身の利害を考えずに申し述べたいと思います。

臣の管轄州において、去年十一月、州城南方の長圻村で二匹の虎が夜中に戦い、一匹の虎が死に、〔生き残った方が〕その半ばを食らうということがありました。当時、すぐにでも密奏しようと思いましたが、陛下のお車が北征に立たれたときでもあり、また吉祥でもなかったので、陣中に報告し難く、臣はただ盗賊を防ぎ、軍民を労ることに精力を費やしておりました。また今年の八月十三日と十四日の夜、多くの鶏が突如として鳴き始め、今に至るまで、夜になれば鳴き止むことがありません。また十月十三日、雷鳴が北西より轟き、真夏日と変らぬ状態でした。

臣は謹んで『洪範五行伝』、『春秋』の災異、『史記』の天官書、両『漢書』の五行志と天文志を読み、つぶさに考えてみました。虎は毛虫(毛で覆われた獣)で、〔五行の〕金に属すといいます。金が本性を失えば毛虫の妖となり、また虎が相食めば、その年は大飢饉にあたると言います。鶏は羽虫(羽のはえた獣)で、〔五行の〕火に属すといいます。火が本性を失えば羽虫の妖となり、また鶏が夜に鳴けば、戦争に関わるとも言います。古人が「鶏が夜に暴れるのを聞いた」というのがそれです。雷は震で、〔五行の〕木に属すといいます。木が本性を失えば冬雷の妖となり、また雷が鳴った大地は飢饉になると言います。これらはみな儒学の書から得たもので、禁書によったものではありません。しかしこれらは数年の後に的中することもあれば、結局、当たらない場合もあります。つまりは臣下は隠すことなく、帝王は全て知り、徳を修めて天の心に答え、予め困難に備えを設けておかねばなりません。ですから『詩』に「天の怒りを畏れ、敢えて戯予(たわむれ)をなさず」とあり、『易』に「天文を観て、以て時変を察する」とあります。

ただ咸平元年、彗星が現れたとき、呂端らは臣に「避位表」を作らせましたが、そのとき臣は仔細に申し上げました。――「彗星が〔二十八宿の〕虚と危の間に現れましたが、それは斉の土地に当たります。何卒、青斉の地(山東から呂寧)に備えを設け、天の戒めに答えられますように」と。端らはみな納得しましたが、その後、どのような備えをしたのかは存じません。臣も言路の職責(諫言を事とする職務)でなかったので、敢えて他官の職を侵しませんでした。去年、夷狄が国境を侵したとき、果して斉の地に入りました。これは天が星々の動きによって人に知らせたもので、人がそれに気付かなかったのです。端は既に亡くなりましたが、李沆以下はみな臣の言葉を知っております。今、黄州にこの災祥がありました。以前のように黙っておくわけには参りません。妖が徳にかなわず、結局、陛下の聖明を累わせることがなかったとしても、事変に遭遇して敢えて申し上げるのは、忠誠直実によるものです。

今年、稲はすこし実りがよく、目下(4)〔飢饉の〕恐れはありません。しかし天の思し召しは他の時にあるかも知れません。先に処置を施しておかなければなりません。陛下におかれましては、臣の拙直を恕し、臣が愚忠を察し、淮川流域に飢饉の備えをなされますことを願います。もし災祥が訪れずとも、なんの備えもないよりはましです。

臣がまた思いますには、古代の循吏の政事は神霊に感応したものです。宋均は猛虎が〔その徳を畏れて〕河を渉り〔均の地から去り〕ましたが、臣は虎が相食みました。魯恭は雉が〔その徳を慕って〕桑に集まり馴れ親しみましたが、臣は多く鶏が夜に鳴きました。百里嵩はその車の通るところ〔天に感応して〕慈雨が降り〔旱害で苦しむ人々に恵みをもたらし〕ましたが、臣は冬に雷鳴が轟きました。これらはいずれも臣の政事に功績がなく、施政に和を失っているからです。まさに刑罰に処さるべきでありますから、みずからを弾劾する次第です。また〔この上奏は、〕他者の上奏に比べましても、道理に暗いものがあり〔、聖聴を犯すことになったこと、僭越極まりないことにござい〕ます。(5)

上は疏を受け取るとうなだれた。


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(1)国費は足り:原文「国用未足」。『国朝諸臣奏議』巻145(上眞宗論軍國大政五事)の「国用亦足」により改正。
(2)以上、『河東集』巻10(上言時政表)参照。
(3)以上、『皇朝文鑑』巻43(論官制)参照。
(4)目下:原文「臣下」。『国朝諸臣奏議』巻37(上眞宗論黄州虎鬥鷄鳴冬雷之異)より改める。
(5)以上、〔〕内は同上書により増補したもの。



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