HOME目次丁謂之姦

天書封祀


(01)真宗の景徳三年(1006)二月、平章事の寇準を罷免し、陝州知事とした。

準は宰相になると、年功序列で人事を決めなかった。このため多くの同僚にが不満に思っていた。人事査定あったとき、同僚らが人事案に目を通しているのを見て、準は「宰相の仕事は、賢者を進め、不肖者を退けることだ。慣例に従うだけなら胥吏でもできる」と言い放った。澶淵から帰還すると、準は己の功績を鼻にかけ出し、帝も準を優遇するようになった。王欽若はこれを深く妬んでいた。

朝礼の日のこと、寇準が先に退出すると、帝はこれを目で見送った。欽若はすかさず進み出て、「陛下は準を大事にされておられますが、彼に社稷の功があったとお思いなのでしょうか。」

帝、「もちろんだ。」

欽若、「陛下は澶淵の役に恥じられぬどころか、かえって『準に社稷の功あり』などと仰せになる。また何故そのように思し召されるのでしょう。」

帝は愕然としてその理由をたずねた。

欽若、「『春秋』の教えによりますと、『城下の盟を恥である』とあります。澶淵の役は、万乗の君主が城下の盟を取り結んだことに等しい。これがどれほど恥ずかしいことか。」

帝はむすっとしてしまった。

欽若、「陛下は賭博を御存知でしょうか。賭博打ちは全財産をつぎ込もうとします。持て全てを注ぎ込むのを孤注と申しますが、陛下は寇準の孤注でございます。これでは陛下の身はどうなることやら。」

これ以後、帝は準を疑い出し、とうとう宰相を罷免してしまい、刑部尚書・陝州知事として都から追い払った。

これ以前、張詠は成都で準の宰相就任を聞くと、その部下に「寇公は逸材ではあるが、惜しいことに学術がない」と言った。準が陝州知事になると、ちょうど詠も成都からの都に戻ってきた。準は郊外で出迎えると、「なにかご教授を」詠はおもむろに、「必ず〔『漢書』の〕霍光伝を読まれよ。」準は意味が分からず、もどって霍光伝を繙いてみると、「学術がない」との言葉に出くわした。そこで笑って、「張公が私に言いたかったのはこれか」と言った。

それから時をおかず準は天雄軍知事に移った。契丹の使者が大名府を通過したとき、準にこう言った。――「貴公ほどの重鎮がなぜ中書(宰相府)におられぬのです。」準、「主上の思し召し。朝廷に混乱なきいま、北門の守護は準でなければ駄目だとね。」


(02)大中祥符元年(1008)春正月乙丑(三日)、承天門で天書が発見された。大赦し、元号を改めた。

帝は王欽若の言葉を聞いてからというもの、澶淵の盟を深く恥じ、いつも悶々と鬱ぎ込んでいた。欽若は帝の厭戦を見て取ると、ざわとこう進言した。――「もし兵を率いて幽州・薊州をお取りになれば、この恥を雪ぐことができましょう。」

帝、「やっと河朔の民は戦乱から免れたのだ。戦争するのは忍び難い。他の方法を考えよ。」

欽若、「封禅はどうでしょう。天下をなびかせ、外国に誇れるものといえば、これしかありますまい。しかし封禅というのは、むかしから天瑞や希有の出来事があったればこそ行ったものです。」すぐにまた「ではその天瑞はなぜ生まれたのでしょう。むかしの天瑞の中には、人手によって作られたものがあったはずです。しかし君主が心から信じて天下に示したことで、天瑞と同じ効き目がありました。陛下は『河図』や『洛書』が本当にあるとお思いですか。聖人があの不思議なものを利用して、教化の手助けになされただけです。」

帝は考え込むと、「王旦は反対しないだろうか。」

欽若、「陛下のご意向を伝えましょう。きっと反対しません。」

欽若はこっそり旦に言い含めた。そこで旦も協力することになった。しかし帝はなおも決心できなかった。たまたま秘閣に出向いたとき、ふと直学士の杜鎬に聞いてみた。――「伝説にある『河は図を出し、洛は書を出す』というのは、どういうことだろう。」鎬は碩学であったが、上の意図を理解できず、「聖人が不思議なものを利用して、教化の手助けになされたのです」と安易に答えた。帝はついに腹をくくり、旦を酒宴に招いて楽しく酒を飲み過ごすと、「帰って妻子と飲むがよい」と言って禁中所蔵の酒を与えた。旦は帰宅してから包みを開けると、そこには宝石ばかりが入っていた。旦は帝の意向を悟り、この後は異議を挟まなくなった。

ここに至り、帝は群臣にこう宣言した。――

去る冬の十一月庚寅(二十七日)の夜半、朕は床に就いたところ、たちまち部屋が照り輝き、星冠絳服の神人が現れ、「来月、正殿に天書を授かるための礼拝場を設け、一ヶ月待つがよい。『大中祥符』の天書三篇を降さん」と告げた。朕は驚いて起きあがったが、すでに神人は消えていた。そこで十二月の朔日から朝元殿で斎戒し、礼拝所を設けて神人の賜与を待っていた。そして今日だ。皇城司からこう報告してきたのだ、黄布帛が左承天門の鴟尾(しゃちほこ)南方に掛かっている、と。中使に調査させたところ、布帛の長さは二丈ばかり、封のある書簡の形状であり、また青糸が巻き付き、封上にかすかに文字が見えたという。恐らくは神人の宣うた「天が降した書」であろう。

旦らは再拝して慶賀した。帝はすぐに徒歩で承天門に向かうと、〔天書を〕仰ぎ見て再拝し、内侍二人を屋根に登らせ、地上に奉じさせた。旦は跪いて進呈すると、帝は再拝して受け取り、みずから御輿に奉納した。御輿を礼拝所に運び、陳堯叟に授けて封を啓かせた。布帛の上には「趙受命、宋を興し、慎に付し、其の器に居り、正を守り、世七百、九九定まる」と記されていた。

帝は跪いて受け取ると、堯叟にこれを読ませた。黄色の字で書かれたものが三幅、文章は『洪範』や『道徳経』に似ており、まず帝が孝行と道義によって天下を受け継いだこと、次に寡欲にして節倹を貴ぶべきこと、最後に末永く天下が受け継がれるであろうことが書かれていた。読み終わると、帝はまた跪いて両手で奉じ、もとの布帛で包み、金匱に納めた。

群臣が崇政殿で慶賀すると、宴を与えた。帝と宰相は粗食ですませた。官僚を派遣し、天地・宗廟・社稷に報告させた。大赦して元号を改め、群臣に褒美を取らせ、京師に五日間の酺(さかもり)を与えた。左承天門を承天祥符と改名した。天書儀衛扶侍使を設け、大礼のときには宰執(宰相と執政)や近臣にこの職を兼任させた。

欽若の計略が行われると、陳堯叟・陳彭年・丁謂・杜鎬らは経書を用いて天書に箔を付け、天下の人々は我先にと祥瑞の発見を報告し出した。しかし龍図閣待制の孫奭だけは「私の聞くところによりますと、天は何も申さぬもの、まして書物などは」と帝に忠告した。しかし帝は黙然と聞くだけだった。


(03)三月、詔を下し、封禅について議論させた。

宰相の王旦らは、文武百官、諸軍の将校、官吏、夷狄、僧侶や道士、長老など二万四千三百余人を率い、五たび意見書を提出し、帝に封禅の挙行を勧めた。帝は心を固め、丁謂に必要経費を打診した。謂は「財政には充分余裕があります」と答えた。封禅の議は定まった。翰林院と太常礼院に儀式の次第を決めさせた。

これ以前、西北で戦争していたころ、帝は便殿での政務に追われ、食事もままならなかった。王旦はこれに嘆いて「労せずして太平を招き、安穏無事にのんびりと暮らすことなど、我々にはできそうにありませんなあ」と言うと、宰相の李沆は「外に強敵がおればこそ身が引き締まるのだ。後々、天下が安寧になっても、朝廷は決して暇にはならんよ」と言った。旦はそう思えなかった。

また、沆は天下の水害や旱害、盗賊のことについて、毎日のように帝に上奏していた。旦はそのような些細なことで帝の耳を煩わせるのはどうかと思っていたが、沆は「人主はまだお若い。天下の人々の苦労を知らねばならぬ。さもなくば血気盛んなお年頃にでもなれば、きっと女色や宝石に関心をお持ちになろう。さもなくば宮殿の造営や戦争、祭祀といったものに乗り出されるに違いあるまい。」ここに至り、沆の言葉は現実のものとなった。


(04)夏四月乙未(五日)、王欽若を参知政事とした。


(05)丙申(六日)、王旦を封禅大礼使とし、王欽若などを経度制置使とし、馮拯と陳堯叟をそれぞれ礼儀使とし、丁謂などに費用を算出させた。謂は権三司使だった。そこで『景徳会計録』を編纂し、これを献上した。封禅大礼の経費を算出し、その参考に供したものである。帝は大いに褒め称えた。


(06)六月乙未(六日)、王欽若は〔兗州〕乾封県に到着すると、「泰山には醴泉が湧きあがり、錫山には蒼龍が現れました」と報告した。時をおかず、木工の董祚が醴泉亭の北で黄木に掛かった黄布帛を見つけた。文字があったが識別できず、皇城使の王居正に報告した。居正は布帛の表面に御名があるのを発見し、急ぎ欽若に報告した。欽若は布帛を奉じて社首山まで運び、跪いて中使に授け、急ぎ宮城に向かわせた。

帝は崇政殿に赴くと、群臣を集めてこう言った。――

朕は五月丙子(十七日)の夜、夢にかの神人が現れ、「来月の上旬、天書を泰山に賜うであろう」と言った。すぐさま欽若らに密命を与え、瑞祥や災異があればすぐ上奏させるよう配慮していた。ここに至り、確かに夢の通りになった。もしこれが上天の御加護であるなら、ただただその御心に違うことを畏れるばかりだ。

王旦らは再拝して慶賀し、天書を含芳園の正殿に奉迎した。帝は斎戒し、法駕(天子の車駕)で御殿にむかい、礼拝してこれを受け取ると、陳堯叟に授けて封を啓かせた。天書には「汝、孝を崇び吾れを奉じ、民を育み福を広ぐ。爾(なんじ)に嘉瑞を錫(たま)う。黎庶(みなのもの)(み)な知れ。斯の言を秘守し、善く吾が意を解せ。国祚延永し、壽歴遐歳(ながいき)ならん」と書かれてあった。読み終わると、またこれを奉じて御殿に納めた。

ここにおいて群臣は意見書を提出し、帝に崇文広武儀天尊道宝応章感聖明仁孝皇帝なる尊号を献上した。すぐに欽若は〔瑞祥として〕芝草八千本を献上した。趙安仁も五色の金玉丹と八千七百余本の紫芝を献上した。他の地方からも芝草・嘉禾・瑞木・三脊茅など多くの献上された。


(07)九月、有司に大辟(死刑)案件の上奏を禁じ、太廟に天書の降臨を報告した。


(08)乙酉(二十八日)、帝は崇政殿で封禅の儀の作法を習った。


(09)玉清昭応宮を建てて天書を奉納した。知制誥の王曾と都虞候の張旻は意見書を提出してこれを諫めたが、聞き入れられなかった。


(10)冬十月辛卯(四日)、帝は京師を出発した。天子の車馬に天書を載せ、先に進ませた。十七日かかって泰山に到着した。王欽若らは芝草三万八千余本を献上した。斎戒すること三日にして山に登った。険難な道のりだったが、帝は車を降りて前に進み、鹵簿儀衛は山下で待機した。

昊天上帝を圜台に祭り、天書を左に置き、太祖と太宗を配した。群臣に命じて五方帝と諸神を山下に祭り、祀壇に封じた。帝は福酒を飲むと、摂中書令の王旦は跪いて、「天は皇帝に太一神符を賜った。一回りしてまた始まり、ながく兆人を綏靖たらしめんことを」と言葉を副えた。三たび献じ終わると、天書を金玉匱に封じた。王旦は玉匱を奉じて石函に置いた。摂太尉の馮拯らは金匱を奉じて降ろし、将作監が受け取って石函に封じた。帝は圜台に登り、見聞を終えてから、御座所に戻った。宰相は従官を引き連れて慶賀した。明日早朝、封祀の儀式と同様のやり方で、皇地祇を社首山に祀った。

大礼が終わると、帝は壽昌殿で群臣の朝賀を受けた。天下に大赦し、文武官は増俸された。開封府および大礼のため通過した州と軍に科挙を行った。天下に三日間の酒盛りを許した。乾封県を奉符県に改めた。穆清殿に大宴を開き、また泰山の父老に殿門で宴を開くことを許した。


(11)十一月戊午(一日)、帝は曲阜県を通過し、孔子廟に謁見した。酒を献じて再拝し、近臣には七十二弟子を各々祀らせ、ついに孔林に行幸した。孔子に諡を加えて玄聖文宣王とした。祭祀には太牢(牛羊豚の三種の生け贄)を用いさせ、銭三十万、帛三百匹を与えた。また斉の太公望に昭烈武成王なる諡を加え、周文公旦にも文憲王なる諡を加えた。太公の廟を青州に立て、周公の廟を曲阜に立てた。また孔子廟に従祀された人々に諡を加えた。――顔回を兗国公、閔損・曾参および漢の儒者や左丘明以下を郡公・郡侯・郡伯とした。


(12)丁丑(二十日)、帝は泰山封禅の儀式から宮廷にもどった。

群臣は先を争い帝の功徳を称えたが、進士の孫籍だけは意見書を提出して、「封禅は帝王の盛事です。陛下におかれましては、極盛の日にこそ我が身を引き締められ、みずから事足れりとお考えなさいませぬように」と訴えた。知制誥の周起もまた、「天下に対処する場合、常に安逸に流れること、脅威を疎遠に考えること、この二つに心を砕かねばなりません。天下太平に泥まれませぬように」と発言した。


(13)十二月辛卯(五日)、帝は朝元殿に赴き、尊号を受けた。宰相の王旦らは各々増俸された。


(14)二年(1009)二月、術者の王中正を左武衛将軍とした。

これ以前、汀州の王捷は「南康の地で道士にあいました。姓を趙というもので、仙丹の術と小鐶神剣を授かりました。司命真君ではないかと思われます」と報告し、〔その家の堂に真君が降りたので〕これを聖祖とした。(1)宦官の劉承珪がこれを上奏すると、捷に中正なる名を授け、龍図閣で帝との面会が許された。泰山での封禅が終わると、聖祖に司命天尊なる号を加えた。中正は左武衛将軍を授けられ、頗る恩寵を受けた。


(15)十二月辛丑(二十一日)、権三司使の丁謂は『封禅祥瑞図』を献上し、朝堂で百官に披露した。

封禅以後、士大夫は争って祥瑞を言い立て、帝の功徳を褒め称えた。しかし崔立だけは「徐州と兗州に洪水があり、江淮の地に旱魃があり、無為軍は烈風に襲われ、金陵には大火事がありました。これらは天が訓戒を垂れたもうたものです。しかるに天下の人々はみながみな雲霧や草木といった瑞祥を献上しております。これらが治世に役立つものだとでもいうのでしょうか」と指摘したが、無視された。


(16)三年(1010)六月、河中府進士の薛南、長老、僧侶、道士ら千二百人が、汾陰に后土を祭るように訴え出た。


(17)八月丁未(一日)、詔を下した。――「明年の春、汾陰で祭事を執り行う。」


(18)戊申(二日)、知枢密院事の陳堯叟を祀汾陰経度制置使とし、王旦を大礼使とし、王欽若を礼儀使とした。


(19)冬十月庚申(十五日)、丁謂は『大中祥符封禅記』を献上した。


(20)十二月、陝州から黄河の水が澄んだと報告があった。集賢校理の晏殊は『河清頌』を献上した。帝は『奉天庇民述』を作って宰相に示した。


(21)四年(1011)春正月辛巳(七日)、汾陰で祭祀を行うべく、担当官僚に怠惰があれば厳罰に処すよう詔を下した。

当時、旱害がひどく、京師近辺の穀貨は高騰していた。龍図閣待制の孫奭は意見書を提出してこのように言った。――

古代の偉大なる王たちは、征討に先だって占うこと五年、年々吉が重なり、吉が〔五年の間〕重なれば征伐に行き、〔一年でも〕吉でなければ、改めて徳を修め、その上で改めて占いをしたものです。陛下は東方で封禅を終えられるや否や、また西方に行幸を計られておいでですが、これは偉大なる王たちが征討に先だち五年も占いを続けられた慎重な心遣いとは申せません。これが止めるべき一つ目の理由です。

そもそも后土を汾陰に祀ることは経書に書かれておりません。むかし漢の武帝は封禅を計ったとき、先に中嶽を封じ、汾陰を祀り、郡県を巡幸し、最後に泰山で封禅を行いました。ところが陛下は封禅を行われた後で、また汾陰に行幸しようとされておいでです。これが止めるべき二つ目の理由です。

そのむかし円丘や方沢は天地を郊祀するものでした。今の南郊と北郊がこれにあたります。漢初は秦の制度を承け、ただ五畤を設けて天を祀り、后土には祀りがありませんでした。ですから武帝は汾陰に祠を立てたのです。元帝・成帝以来、貴族らの議論に従い、ついに汾陰の后土を北郊に移しました。後の王たちにも汾陰を祀らぬものが多くおりました。いま陛下は既に北郊を立てながら、それを捨て、遠方の汾陰にて祀りをなさろうとしておいでです。これが止めるべき三つ目の理由です。

西漢は〔長安近郊の〕雍を都としておりました。ですから汾陰までは至って近うございました。ところが陛下は要害の関所を通り、険阻を越え、軽々しく京師の根本を棄てて西漢の虚名を慕うておいでです。これが止めるべき四つ目の理由です。

河東は唐の礎となった大地です。唐もまた雍に都を置きました。ですから明皇(玄宗)はまま河東に行幸し、后土を祀っておりました。我が聖朝の興りは唐とは異なります。それにも関わらず、陛下は理由もなく汾陰を祀ろうとしておいでです。これが止めるべき五つ目の理由です。

むかし周の宣王は災禍に遭遇するや、身を恐懼させました。そこで詩人は宣王の中興を褒め称え、賢主と見なしたのです。しかるにここ数年というもの、水害や旱害が相継いでおります。ならば陛下は恐懼して徳を修め、天譴にお答えしなければなりません。ところが奸邪の者共の発言に従い、遠方の庶民を苦しめ、遊興を繰り返し、社稷の大計を忘れておいでですが、これでよいのでしょうか。これが止めるべき六つ目の理由です。

そもそも雷は二月の啓蟄に始まり、八月に雷鳴が収まります。万物を育むことは君主の責務ですが(2)、しかるべき時を失えば天は災異を下します。いま雷が冬に起こるのは、災異の甚だしきものです。天が繰り返し陛下を戒めているのです。ところがこの御心に気づかぬというのであれば、ほとんど天意を失うことになりましょう。これが止めるべき七つ目の理由です。

そもそも民は神の根本です。そのため聖人は民の生を全うさせ、それが終わってから神への奉仕に勤しみました。ところがいま国家の土木工事は累年止まず、水害や旱害は頻りに起こり、飢饉は多く起こっております。それにも関わらず、民を苦しめて神に奉仕しようとされていますが、はたしてこれで神は陛下の心をお享けなさるでしょうか。これが止めるべき八つ目の理由です。

陛下が強く汾陰の祀りをお望みなのは、漢の武帝や唐の明皇のまねごとをし、行幸の所々で石にその功績を刻み、虚名を飾り立てて後世に誇示するためと思われます。しかし陛下は天性聡明であらせられるのです。〔漢や唐ではなく、むしろ古代の偉大なる〕二帝や三王に心を馳せられるべきなのです。それをなぜ卑しき漢や唐の虚名をまねる必要がありましょう。これが止めるべき九つ目の理由です。

唐の明皇は邪悪な臣下を寵愛しました。そのため内外こもごも争乱が起き、その身は逃亡し、その国は危機に瀕し、兵は宮城に入り乱れました。その亡乱の跡はこのとおりです。承平に泥み、肆ままに非義をなしたため、少しずつ廃滅の道を招き寄せたのです。いま汾陰の祭祀を主張するものは、明皇の開元の故事を引き合いに出し、それをもって盛世のことだと言い、陛下が因襲されるよう導こうとしております。私は決して陛下のためにこれを認めるわけに参りません。これが止めるべき十番目の理由です。

私にはまだ言い足りないところがございますが、陛下におかれましては、臣の言葉に取るべきものがあるとお思いなら、願わくは少しく御下問を賜い、私の発言を終わらせていただきとうございます。

帝は内侍の皇甫継明を派遣し、奭の真意を調べさせた。奭はまた意見書を提出してこう述べた。

陛下は汾陰に行幸のご予定ですが、京師の民は心安らかならず、江淮の民は調発に苦しんでおります。本来ならば彼等を安心させ、哀れみを垂れ賜わらねばなりません。また土木工事は息まず、掠奪盗賊は横行し、外国の軍は国境近辺にたむろしております。使者を派遣したからといって、彼等の心を繋ぎ止めることはできますまい。

むかし陳勝は徭役の中から起こり、黄巣は飢饉から出で参りました。隋の煬帝が遠征に心を奪われていたとき、唐の高祖は晉陽に兵を挙げました。晉の若君が小人に心惑わされていたとき、耶律徳光は中国に長駆しました。陛下は姦佞に従われ、遠く京師を捨てて累年飢饉の地に向かい、経書に違え、久しく廃れた祠を修復なさろうとしておられます。民の疲弊を考えず、辺境の人々に憐憫の情を向けられておられぬのです。果して今日の兵卒の中に陳勝がおらず、飢えた民に黄巣が居らず、英雄が陛下近辺で隙を伺っておらず、外敵が辺境の隙を探っておらぬと言い切れますでしょうか。

先帝はかつて封禅を計画なされましたが、天の災異を畏れ賜れ、すぐに詔を出して計画を止められました。いま姦臣どもは、陛下に強く東方への行幸を勧め、それをもって先帝の志を継承するものだと申しております。先帝はむかし北方には幽州・朔州の平定を、西方には継遷の奪取を望まれながら、大功を成就することなく、後を陛下に任されました。ところが群臣は一つの謀を献じ、一つの策を画し、陛下が先帝の志を継承なさる手助けをせず、かえって卑しくも賄賂を送っては契丹に和平を求め、国爵を卑しめては継遷に姑息の計をなしております。「主が辱めらるれば臣は死す」ことを戒めとし、「下を誣い上を罔する」ことを恥ずべきものと考えておらぬのです。祥瑞を作為し、鬼神に仮託し、東方で封禅が終わるやいなや、西方に行幸を願い、軽々しく車駕を労し、飢えた民を苦しめ疲れさせております。陛下の車駕が無事に往来できただけで、大功績などと言う始末です。これでは祖宗艱難の事業を奸邪僥倖の餌にしたようなものです。これこそ私が長嘆し痛哭する所以です。

そもそも天地神祇は聡明正直であり、善をなせば百の祥瑞を降し、不善をなせば百の災禍をもたらします。籩豆簠簋(祭祀の用具)でもって福を求めるなどとは聞いたこともございません。『春秋伝』には「国が隆盛するときは民に聴き、滅亡するときには神に聴く」とあります。私はあえても妄言を吐いたわけではありません。ただ陛下の御採択を請い願う次第です。

当時、群臣は先を争って祥瑞を報告していた。奭はこれについても意見書を提出し、こう言った。

昨今、野鵰(ワシ)や山鹿が報告されると、秋の旱害や冬の雷があるにも関わらず、祝賀を称しております。しかし誰もかも陛下の前を退いては、心で非難し、せせら笑っているのです。だれが上天から逃れらましょう。だれが下民をだましおおせましょう。だれが後世を欺き得ましょう。人心がこのようであれば、損なうものは決して少なくありません。陛下はこの点を深く御明察いただきたい。

帝は奭の忠誠に気づきはしたが、その発言に従うことはできなかった。


(22)乙酉(十一日)、帝は后土祭祀の儀の作法を習った。


(23)丙申(二十二日)、詔を下し、六月六日の天書再降の日を天貺節とした。


(24)丁酉(二十三日)、天書を奉じて京師を出発した。


(25)二月壬子(八日)、帝の車駕が潼関を出発し、渭河を渉った。近臣を派遣し、西嶽を祭らせた。


(26)癸丑(九日)、河中府に到着した。


(27)丁巳(十三日)、宝鼎県に到着した。


(28)辛酉(十七日)、后土地祇を祀った。


(29)壬戌(十八日)、大赦し、天下に三日間の宴を許した。『汾陰配饗銘』『河瀆四海賛』を作った。

地元の李瀆と劉巽を招いた。瀆は足の病を理由に辞退し、再拝した。帝は使者を派遣して慰問させると、世々儒家や墨家のごとく人里を離れ静かに暮らしているのだと答えた。(3)瀆は平素から酒を嗜んだ。人が止めると、「病を治すにはこれが一番だ。好きなことをして余生を終える。これほど楽しいことはない」と答えた。巽は招きに応じ、大理評事を授けられた。


(30)己巳(二十五日)(4)、華州に到着した。隠者の鄭隠と李寧を招き、茶果と粟帛を与えた。


(31)辛未(二十七日)、閿郷に到着した。道士の柴又玄を招き、無為の要諦をたずねた。


(32)三月甲戌(一日)、陝州に到着した。

陝州の長官王希に在地の魏野を招かせたが、病気を理由に断られた。上は「下賎のもののすることだ。世俗の掟で縛ればおかしくなろう。どうしても従えぬというなら、そのままにしてやれ。」そこで長吏に後事を委ね、大工に魏野の住居を図示させた。

野は陝州東郊の草堂に住み、景勝の地にあって、気の向くまま、琴を弾き、詩を作り、清廉困苦をもって知られていた。いつも寇準や王旦に詩を贈っては引退を勧めていた。このため帝は強いて会おうとしなかったのである。


(33)己卯(六日)、西京に到着した。


(34)丙申(二十三日)、太祖らの陵墓に拝謁した。


(35)夏四月甲辰朔、帝は汾陰から帰還した。宰相・親王以下は各々増俸された。


(36)九月辛卯(二十一日)、向敏中らを五嶽奉冊使とし、五嶽に帝号を加えた。帝は朝元殿に赴き、冊文を発布した。


(37)五年(1012)八月、会霊観を建て、五嶽を奉祀した。


(38)〔九月〕戊子(二十三日)、王欽若と陳堯叟を枢密副使とし、丁謂を参知政事とし、馬知節を枢密副使とした。

天下安泰の当時、王欽若や丁謂は帝に封禅や祭祀を勧め、日々寵愛の度を増していた。欽若は道教に造詣があり、帝に意見することが多かった。謂は欽若に附会し、陳彭年・劉承珪らと古代の遺物を蒐集し、多くの宮殿を造営した。林特が金勘定にめざといと言っては、三司使に任命し、財務を担当させた。五人は影ながら行動を同じくし、「五鬼」と呼ばれていた。王旦は諫言しようにも、自分も同じことをしていたし、去ろうとしても上が引き止めた。そこで李沆の先見の明を思い出し、「李文靖はほんとうの聖人だった」と嘆いた。

欽若は小柄な男で、うなじにコブがあったので、人々は「こぶ宰相」と呼んでいた。人に媚びるのがうまく、平気で嘘をつく人間だったが、知謀だけは人一倍あった。朝廷になにか事があれば、うまく調子をあわせ、いつも帝の望み通り振る舞っていた。知節は祥瑞献上の喧しいおりも、一切それを認めず、帝にはいつも「天下安泰だといっても、戦争を忘れてはなりません」と発言していた。


(39)冬十月戊午(二十四日)、帝は宰相らに言った。

夢に神人が現れ、玉皇の命令を伝えた。――「先だって汝の祖の趙玄朗に命じ、汝に天書を遣わせた。また汝に見えしめん。」明日、また夢に神人が現れ。聖祖の言葉を伝えた。――「私は西に座るので、斜めに六席を設けて待っておれ。」この日、延恩殿に礼拝所を設けると、初更(午後八時)ころ、異香が漂い始めた。しばらくすると黄色い光が御殿を満たし、聖祖がお出ましになった。朕は殿下に再拝すると、すぐに六人もおいでなされ、聖祖に会釈して座席に着かれた。聖祖は朕を前に呼ばれると、こうおっしゃった。――「私は人皇九人の中の一人であり、趙氏の始祖だ。二度目に地上に降りたときは軒轅皇帝となった。後唐のときにまた地上に降り、趙氏の族を治めることになった。それからもう百年にもなろうか。皇帝はよく人民を撫育し、前志を怠ってはならぬ。」こう仰ると、すぐに席から離れて雲に載って去ってしまわれた。

王旦らはみな再拝して慶賀した。天下に詔を下し、聖祖の諱を避けさせ、玄の字を元に改め、朗を明に改めさせた。諱を犯した書籍があれば、その点画を省かせた。ついで玄と元は音声が近いというので、玄を真に改め、玄武を真武に改めた。己未(二十五日)、大赦した。


(40)閏十月己巳(五日)、聖祖に尊号を奉り、聖祖上霊高道九天司命保生天尊大帝とした。聖母の懿号を元天大聖后とした。太廟の六室に尊号を加えた。群臣は帝に尊号を奉り、崇文広武感天尊道応真佑徳上聖欽明仁孝皇帝と言った。


(41)戊寅(十四日)、壽丘に景霊宮と太極観を建て、聖祖と聖母を奉じた。また天下の全ての天慶観に聖祖殿を増設させた。


(42)辛巳(十七日)、建康軍に玉皇・聖祖・太祖・太宗の尊像を鋳造させた。丁謂を奉迎使とし、これを玉清昭応宮に奉安させた。帝は百官を率いて郊外で奉迎した。また天書を宮に刻ませた。王旦を刻玉使とし、王欽若と丁謂をその副官とした。


(43)戊子(二十四日)、帝は配享の楽章および二舞の名を作った。文〔の楽章と舞〕を「発祥流慶」、武〔の楽章と舞〕を「隆真観徳」と言った。


(44)十一月丙申(三日)、帝は朝元殿に玉皇を祀った。


(45)甲辰(十一日)、王旦に門下侍郎を、向敏中に中書侍郎を加え、内外の官僚にも褒美を与えた。玉清昭応宮使を設け、王旦をこれに充てた。


(46)丁未(十四日)、『汴水発願文』を作った。


(47)十二月戊辰(五日)、京師に景霊宮を建て、聖祖を奉安した。


(48)六年(1013)春正月癸巳朔、司天監からの報告があり、五星が同じ色であると言ってきた。


(49)六月、亳州の官吏や長老三千三百人が宮城に訪れ、太清宮に拝謁したいと申し出た。


(50)八月庚申(一日)、詔を下した。――来春、みずから太清宮に拝謁する。庚午(十一日)、太上老君混元上徳皇帝の号を加えた。孫奭が意見書を提出した。

陛下は泰山で封禅をなされ、汾陰を祀られ、みずから諸陵に拝謁なさりながら、いままた太清宮を祭ろうとされておられます。宮廷の外ではしきりにこう囁かれております。――陛下は何事にもつけても唐の明皇を慕っておいでだ、と。

そもそも明皇を美徳の君主とお思いだとすれば、それはまったくの間違いです。明皇の遭遇した災害や戦乱の深く戒めとすべきことは、臣のみ知るところではありません。近臣でありながら諫言せぬ者は、悪を抱いて陛下に仕えているのです。明皇が無道をなしたときも、諫言するものは誰もおりませんでした。馬嵬に逃亡したおり、軍卒は楊国忠を殺して矯詔の罪(詔勅偽造の罪)を追求しましたが、このときようやく道理に暗かったこと、国を任せる者を間違えていたことを覚ったのです。しかしそのときになって己の罪を口にしても、事態を悟ること余りに遅うございました。もはやどうにもならなかったのです。

陛下におかれましては、事の次第を早くお悟りになり、虚美を抑え、邪悪な者を遠ざけ、土木工事を止め、危乱の迹を襲わず、明皇のごとき遅きに過ぎる後悔のないことを願って止みません。これこそ天下の幸、社稷の福にございます。

帝はこのように答えた。――「泰山に封禅を行い、汾陰を祀り、諸陵を礼拝し、老子を祀るのは、明皇に始まったことではない。〔明皇の作った〕『開元礼』はいまなお用いている。天宝の乱があったからとて、〔明皇のなしたこと〕すべてが間違っていたと言ってはならぬ。秦は甚だしき無道をなしたが、いまの官名・詔令・郡県などは未だに秦のものを踏襲している。人でもって言を廃してよかろうか。」かくして『解疑論』を作って群臣に示した。しかし奭の忠誠も分かっていたので、文字に急迫なものはあったが、退けるようなことはしなかった。


(51)七年(1014)春正月、帝は亳州で老子に拝謁するため、王旦を兼大礼使に命じ、丁謂を兼奉祀経度制置使とし、陳彭年を副官とした。


(52)壬寅(十五日)、天書を奉じて京師を出発した。


(53)丙午(十九日)、奉元宮に到着した。亳州判事の丁謂は、白鹿一匹と芝九万五千本を献上した。


(54)戊申(二十一日)、王旦は混元上徳皇帝に冊書と宝璽を奉じた。


(55)己酉(二十二日)、太清宮で老子に拝謁した。亳州を集慶軍節度に昇格し、歳賦の十分の三を減らした。太史から報告があり、〔瑞兆である〕含誉星が現れたと言ってきた。庚戌(二十三日)、三日間の宴を与えた。


(56)二月辛酉(五日)、帝は亳州から帰還した。


(57)壬申(十六日)、天地を祀り、大赦した。


(58)十一月乙酉(三日)、玉清昭応宮が完成した。

玉清昭応宮の造営計画では、竣工まで十五年はかかると言われていた。しかし修宮使の丁謂は昼夜を通して造営させ、一壁を描くごとに二本の蝋燭を与えた。このため七年で完成したのである。全二千六百一十の柱のある宏大壮麗な宮殿だった。建物に少しでも計画と違う部分があれば、たとえ金碧の装飾が施されていようと、劉承珪は必ず破壊して作り直させた。官僚のだれ一人としてこの費用を計算しようとしなかった。


(59)八年(1015)春正月壬午朔、玉清昭応宮に拝謁し、宝符閣に宝玉と天書を奉納し、帝の御容を側に立てた。帰還し、崇徳殿に赴いて慶賀を受けた。天下に恩赦を施し、十悪・枉法・収賄の罪を除き、すべて赦免した。帝は誓文を草して石に刻み、宝符殿に置いた。『欽承宝訓述』を作り、朝廷内外に示した(5)


(60)九月、陳州知事の張詠が死んだ。その遺言にはこうあった。――「宮殿や寺観を造営せんがため、天下の財を搾り取り、人民の命を傷つけてはなりません。これはすべて賊臣丁謂が陛下を惑わせしこと。乞い願わくは、謂の首を斬って国門に置き、天下の罪を謝し、その後に詠の首を斬って丁氏の門に置き、謂に詫びられますことを。」帝は詠の忠誠に感嘆した。


(61)九年(1016)春正月丙辰(十一日)、会霊観使を設け、丁謂をそれに充てた。


(62)天禧元年(1017)春正月辛丑朔、元号を改めた。玉清昭応宮に詣で、供物を献上し、玉皇大天帝に宝玉と冊書、袞服(天子の礼服)を奉じた。壬寅(二日)、聖祖に宝玉と冊書を奉じた。己酉(九日)、太廟に詣で、諡と冊書を奉じた。辛亥(十一日)、南郊で天地を拝礼し、大赦した。天安殿に赴き、尊号を受けた。乙卯(十五日)、『欽承宝訓述』を作り、群臣に示した。


(63)三月、〔参知政事の〕王曾に会霊観使を兼任させたが、曾はこれを辞退した。

王欽若は祥瑞を利用して帝の寵愛を独占し、己に楯突く人間を陰ながら排除していた。たまたま曾を会霊観使とする辞令があった。曾は欽若を推薦した。帝は不機嫌そうに曾にこう言った。――「国務に励むべき貴方が、なぜ足並みを乱そうとするのだ。」曾は頭を下げて、「君主が諫言に従うこと、これを明と申します。臣下が忠誠を尽くすこと、これを義と申します。陛下におかれましては、臣を愚鈍であるとお見捨てにならず、責を宰府に任されました。ならば臣は義をもって陛下に仕えるだけのこと、足並みを乱そうというのではありません。」


(64)九月癸卯(八日)、王曾が〔参知政事を〕罷めた。

曾が会霊観使を辞退したというので、帝の心は穏やかでなかった。王欽若はしばしば曾を批判した。曾が賀皇后の旧宅を購入したときのこと、まだ賀氏が立ち退く前に、門前に土を運ばせたことがあった。賀氏がこれを朝廷に訴えたので、ついに曾の参知政事を罷めることになった。

王旦は療養中にこれを耳にし、「王君は立派なものだ。いつの日にか徳望功業ともに備わった大人物になろう。ただ私がそれを見ることはあるまいがな。」理由をたずねると、「王君は先だって会霊観使を辞退した。帝の御心に逆らったとはいえ、言葉は正しく、心は穏やかで、少しも懼れるところがなかった。参知政事になったばかりだというのに、もうこの調子だ。私などは二十年も宰相府におりながら、意見を申し上げて少しでも帝の意にそぐわないと、萎縮してしまって平静でいられない。だから王君は立派だと言うのだ。」


(65)己酉(十四日)、王旦が死んだ。

旦は、大中祥符以来、朝廷に大礼があれば、そのつど使者となって天書を奉じていたが、いつも鬱々と心楽しむことがなかった。その最期に臨み、子供に語らうには、「私にはこれといった過ちはなかった。ただ天書のことを諫言しなかったことだけは、贖うことのできぬ失敗だった。私が死ねば、髪を剃り、僧衣を着せ、棺桶に納めてくれ。」子供たちは遺言に従おうとしたが、楊億がとめたので止めにした。

評論。旦は人君の心を得、言を発すれば必ず聞き入れられ、計を画せば必ず従われた。しかるに正をもって命を終えられぬとは、これを馮道に比べられよう。


(66)二年(1018)夏、皇城司から報告があった。――「保聖営の西南の地で亀蛇を見たものがおり、そこに真武祠を建てました。近頃、その祠の側から泉が湧き、疾病者が水を飲むと病が癒えるとのことです。」その地に祥源観を建てさせた。任布は「神霊のことで愚民を惑わしてはなりません」と意見したが、聞き入れられなかった。


(67)三年(1019)六月甲午(九日)、王欽若を罷免し、杭州判事とした。寇準を同平章事、丁謂を参知政事とした。

これ以前、巡検の朱能は内侍都知の周懐政を抱き込み、天書を偽造して〔永興軍の〕乾祐山に降らせた。このとき寇準は永興軍判事だった。準の婿の王曙は朝廷におり、懐政と仲がよかった。そこで準に能と歩調を合わせるよう勧めた。こうして天書が報告された。天書が禁中に奉迎されると、内外のものはこれが偽造だと分かっていたが、帝だけは信じていた。諭徳の魯宗道は「奸臣が妄言をなし、陛下の聡明を惑わしている」と批判した。河陽知事の孫奭も意見書を提出した。

朱能は邪悪な小人で、祥瑞を妄言しておるのに、陛下はこれを尊崇され、至尊の身を遜って奉迎し、秘殿に奉納されました。上は朝廷高官から、下は庶民に至るまで、心を痛めぬものはありません。しかし彼等は口を閉ざして心で批判し、あえて発言しようとするものがおりません。

むかし漢の文成将軍は、帛書を牛に食らわせておき、牛の腹に霊妙な帛書が見つかったと訴えました。牛を殺して帛書を見つけると、天子はその筆跡から〔文成将軍のものだと〕察知しました。また五利将軍は方術を妄りに口にしておりましたが、その効験はあまりありませんでした。このため二人は誅殺されました。先帝の時代、侯莫陳利用というものがおり、方術のため俄に寵愛を受けたことがありました。しかしひとたび奸状が知られるや、鄭州に流されました。漢の武帝は雄材と言うべく、先帝は英断と言うべきものです。

唐の明皇は『霊宝符』『上清護国経』『宝券』を手に入れましたが、それらは全て王鉷や田同秀が作ったものでした。ところが明皇は彼等を処罰できず、邪説に溺れ、みずから「徳が実り天を動かしたのだ。神は必ずや我に福を賜おう」などと言っておりました。そもそも老君(老子)は聖人です。それがもし本当に明皇に言葉を授けたというなら、効験のないはずがありません。しかるに安史の乱以来、明皇は諸国を流浪し、長安と洛陽は覆滅し、天下は騒然となりました。これのどこが〔田同秀らのいう〕「天下太平」だというのでしょう。明皇はなんとか都に戻りはしたものの、またも李輔国に脅されて太極宮に移され、ついには無念の内に死にました。これのどこが〔田同秀らのいう〕「聖壽は無限、長生永久」だというのでしょう。

が習性となり、人は自分に及ばない、諫めなど聴くに足らないと心に思ったからに他なりません。心に安逸を貪り、耳は佞言に慣れ、内には寵愛に惑い、外には奸邪に任せ、曲げて鬼神を奉じ、妖妄を崇び、今日老君を宮城に見たかと思えば、明日には老君を山中に見る始末。大臣は利禄を守って迎合し、士君子は威を畏れて口を閉ざしておりました。左道に惑えば惑うほど、ますます政治は乱れ、民心は離れ、政変は倉卒の間に起こりました。このとき老君はいかに兵を禦いだというのでしょう。宝符にいかに難を排したというのでしょう。

明皇の英邁をもって、なお災禍の到来に気付かなかったのは、まことに在位久しく、驕慢 いま朱能の所行はこれと同じです。陛下におかれましては、漢の武帝の雄材を思い、先帝の英断を手本とし、明皇の災禍に鑑みていただきとうございます。さすれば災害は生じず、禍乱も起こりますまい。

しかしいずれも聞き入れられなかった。

寇準はこうして中央で用いられるようになった。当時、王欽若の寵愛は衰えていた。商州から報告があり、道士の譙文易を捕らえたと言ってきた。文易は禁書を持っており、邪術を使って六丁六甲の神(道教の神)を操ることができた。欽若は文易とつきあいだあった。このため欽若は罷免され、これに代えて寇準を宰相にしたのである。

準が帝に呼ばれたときのこと、その門生にこう忠告したものがいた。――「貴方は河陽に出向かれたなら、病気を理由に地方官を求められよ。これが上策です。もし帝にお目通りなさるなら、すぐに乾祐山の天書の偽造を明らかにされよ。これが次善の策です。最下の策は、また宰相府にもどることです。何もかも失うことになりましょう。」準は喜ばなかった。


(68)乾興元年(1022)二月戊午(十九日)、帝が崩じた。


(69)冬十月、先帝を永定陵に葬り、天書もそこに奉納した。

史官の評語。真宗は英悟の主である。即位したてのころ、その聡明ゆえに、李沆は必ずや作為多からんと思い、しばしば災異を奏して驕りの心を閉ざした。考えるところがあったのでだろう。澶淵の盟を結ぶに及び、封禅のことが起こり、瑞祥はしきりに現れ、天書もしばしば降り、奉迎奉納は相継ぎ、一国の君臣は熱病に罹ったようであった。怪しむべきことである。他日、『遼史』を修めしとき、契丹の土俗を知り、その後に宋の史官の微言を探った。宋は太宗が幽州に敗れて以後、兵を好まなかった。契丹では君主を天といい、皇后を地といった。一年の間、天を祭ること、数え切れぬほどであった。狩りをしては手づから飛ぶ雁を捕らえ、鴇(鳥の名前。ガンの一種)のみずから地に投ずることがあれば、天の賜物だといい、祭りをしては得意げに見せ合った。宋の臣僚は契丹のこの習俗を知り、また主君に兵を厭う気持ちがあるのを見て、神霊なる教えを進め、封禅祭祀でもって敵人の耳を動かそうとしたのではないか、敵国が中国を狙う魂胆を静められるならばそれで充分であると。しかし根本を修めて敵を制さず、悪事を重ねるようでは、はかりごとの末である。仁宗が天書を山陵に葬ったことは、なんと賢きことではないか。


(70)仁宗の天聖七年(1029)六月、大雨雷鳴があり、玉清昭応宮が焼けた。守衛を御史台の獄に繋がせた。

太后は泣いて大臣らに語るには、「先帝は天道を遵奉なされ、力を尽くしてこの宮殿を造られた。なのに一夕にして焼けてしまった。ただ長生殿と崇壽殿の二つが残っているだけだ。どうやって先帝の遺言に従えばよいのだ。」

范雍は語気強く、「すべて焼いてしまうべきです。先朝はこれを建てるため、天下の力を注ぎ込まれたにも関わらず、にわかに焼け落ちました。人の業とは思えません。もし残った宮殿を用いて修復するようなことがあれば、民にその力は残っておらぬでしょうし、天の戒めに遵うことにもなりません。」

王曾と呂夷簡も雍を助けた。中丞の王曙も「玉清昭応宮は聖人の教えに従ったものではありません。天は災異を下して警告しているのです。願わくは、宮殿を除き、祭祀を罷め、天変に応えていただきたい。」

右司諫の范諷もまた「これはまことに天変と申せましょう。獄に繋いではなりません。」

太后と帝は事態を悟り、守衛の罪を減じた。詔を下し、宮殿の修復を停止し、焼け残った二殿を万寿観とし、諸種の宮観使を罷めた。


****************************************
(1)〔〕内は『続通鑑』に拠って補った。
(2)以上、『続資治通鑑長編』に拠って一部増補した。
(3)以上の一文、典拠不詳につき意味不明。
(4)底本は乙巳に作る。『続資治通鑑長編』に拠り改訂した。
(5)衍文。『欽承宝訓述』は下文の天禧元年正月に繋けるのが正しい。『宋史』本紀および同書礼七・天書九鼎などを参照。



© 2008-2009 Kiyomichi eto Inc.

inserted by FC2 system