HOME目次郭后之廃(温成事附)

丁謂之姦


(01)真宗の天禧三年(1019)六月、寇準を同平章事とし、丁謂を参知政事とした。

これ以前、準は謂と仲がよく、いつも李沆に薦めていた。しかし沆は謂を用いようとしなかった。準がわけをたずねると、沆、「謂は確かに才人だ。ただその性格を考えるなら、人の上に置いてはなるまい。」

準、「相公は謂ほどの男を人の風下に置いてよいとお考えですか。」

沆は「いずれ私の言葉を思い出すときがくるよ」と言って笑ったが、準は納得できなかった。謂は準のおかげで名を知られ、徐々に頭角を現していった。準と同僚になっても、恭しく従っていた。しかし中書省で食事をしていたときのこと、準の鬚があつもので汚れたことがあった。謂が丁寧にふき取ってやると、準は「参政は国の大臣。それが長官のために鬚を拭うのかね」と笑った。謂はひどく恥じ入り、このため準を怨むようになり、二人に隙が生じた。


(02)四年(1020)六月丙申(十六日)、寇準が罷免された。

当時、帝は風邪をこじらせ、皇后が政務を執っていた。寇準と李迪はこれを憂えていた。ある日、準は帝に休暇を願ったおり、「皇太子は人の嘱望するところ。陛下におかれましては、宗廟の重責に鑑みられ、皇太子に伝国の宝器を伝え、立派な大臣を選んで皇太子を輔弼させられませ。丁謂や銭惟演は佞人、とても若君を輔弼できますまい」と申し出た。帝も賛同し。そこで準は秘密裏に楊億に太子監国(皇太子が国政を見ること)の文を起草させ、ために億を宰相府に引き入れようとした。ほどなく寇準は酒に酔って密謀をばらしてしまった。

謂はこの謀略を聞きつけると、「最近は陛下の様態も良好だのに、〔皇太子を監国にするとは〕朝廷は陛下をどのように取り扱うつもりなのか」と非難した。

李迪、「太子というものは、国を出ては軍を統べ、国にいては監国する。これが古くからのやり方だ。駄目なことなどあるものか。」

しかし謂は執拗に準を批判し、宰相を罷免するよう訴えた。帝は準とのやり取りを覚えておらず、準を罷免し、太子太傅とした。


(03)七月丙寅(十七日)、李迪を同平章事とし、馮拯を枢密使とした。


(04)庚午(二十一日)、丁謂と馮拯を同平章事とした。


(05)癸酉(二十四日)、入内都知の宦官周懐政が誅殺された。


(06)丁丑(二十八日)、寇準を相州知事に左遷した。

これ以前、帝は病に倒れると、将来を不安に思うようになった。ちょうど周懐政の股に臥していたので、懐政と相談して、太子を監国にしようとした。懐政は東宮に勤めていたのである。その後、〔寇準らの〕事件が露見し、準は罷免され、丁謂らは準を帝の側から引き離した。このため懐政は不安でたまらず、こんな陰謀を練っていた。――帝を太上皇帝にして、太子に皇帝の位を譲らせ、皇后の権力を取り上げ、丁謂を殺し、再び寇準を宰相にしよう、と。

客省使の楊崇勲らがこの陰謀を謂に密告すると、謂はすぐさま服装を変え、夜中に牛車に乗ると、崇勲をともなって曹利用を訪ね、事後策を練った。明日、この事件について朝廷に報告した。詔を下し、曹瑋に訊問させたところ、懐政は罪を自白した。帝は激怒し、その問責は太子にまで及ぼうとしたが、誰一人として抗弁しなかった。しかし李迪だけは従容と進み出ると、「陛下には何人の御子があらせられますでしょう。それをご承知の上でそのような処置をなさるのですか。」(1)帝は事態を悟り、処分を懐政の誅殺に止めた。

謂は皇后と共謀し、朱能の天書偽造を暴いた。かくして〔天書偽造に関与した〕準を太常卿・相州知事に左遷した。翰林学士の盛度、枢密直学士の王曙を罷免し、準と親しい官僚はすべて朝廷から追い出された。

準の左遷が決まったとき、帝は小州を授けるよう命じたが、謂はたちまち「遠小州を授けよ」と言い換えてしまった。迪は「陛下の御言葉に『遠』の字はなかったはずだ」と言った。このため二人は対立するようになった。


(07)八月乙酉(六日)、任中正と王曾を参知政事とし、銭惟演を枢密副使とした。


(08)壬寅(二十三日)、寇準を道州司馬に左遷した。

これ以前、朱能の逮捕のため使者を派遣したところ、能は使者を殺し、民を率いて反乱を起こした。すぐに叛徒は潰滅し、能は自殺した。準はこの事件の罪に問われ、再び道州司馬に左遷された。当初、帝は準を江淮近辺に左遷する予定だったが、謂はとうとう道州司馬にしてしまった。だれも反論しない中、王曾は帝の言葉を出して謂を質したが、謂は「仮屋の旦那よ、もう何もいうな」と言った。曾はむかし準に屋敷を借りていたことを言ったのであるる。


(09)九月、帝の病が癒えた。


(10)丙辰(八日)、帝は崇政殿に赴き、みずから政務を執った。朱能一派の罪を取り調べ、数十人を死刑・配流に処した。


(11)壬戌(十四日)、給仕の朱巽と郎中の梅詢は、朱能の悪事を察知し得なかったとし、罪に問われて左遷された。


(12)十一月戊辰(二十一日)、李迪と丁謂が罷免された。

これ以前、丁謂は権力を握ると、人事までも帝に報告しなくなった。そのため迪は憤慨し、同僚には「布衣の身から宰相にまで抜擢いただいたこの私だ、国恩に報いられるというなら死んでも怨みはない。それを権力者に阿諛して身の上の安全など望むだろうか」と言っていた。

たまたま二府(宰相府と枢密院)の大臣の俸給を増やし、東宮官の兼任を求める動議があった。しかし迪はこれを認めなかった。また謂が林特を枢密副使に抜擢しようとすると、また迪が反対した。このため謂はますます迪を怨むようになった。ほどなく謂は門下侍郎兼太子太傅となり、迪は尚書左丞兼太子少傅となった。故事では、宰相として左丞を兼ねたものはいなかった。謂らは長春殿で帝に謁見した。帝は制書を取り出すと、腰掛けの前に置き、輔臣に「これは諸君等が東宮官を兼任するための制書だ。」

迪は進み出ると、「東宮の官属を増やしてはなりません。これをお受けするわけには参りません。丁謂は陛下を騙して権力を握り、林特や銭惟演と結託し、寇準を妬んでおります。特の子供は人殺しですが、事件は葬られました。準は罪もなく遠方に退けられました。惟演は皇后の親族であるのに政治に参与させ、曹利用や馮拯と結んで朋党を作っております。陛下におかれましては、臣と謂とを罷免し、御史台に下して実情をお調べ頂きたい。」

帝は怒って制書を引っ込めると、迪を鄆州知事に、謂を河南府知事に左遷した。明日、謂が謝辞のため帝を訪ねると、帝は昨日のもめ事を咎めた。謂、「私が争ったわけではありません。迪が一方的に私の悪口を言っただけです。お願いでございますから、私を朝廷に留め置きください。」退出するとすぐ帝の言葉を伝え、また中書(宰相府)で政務を執るようになった。

この時、翰林学士の劉筠は、迪と謂に対する罷免の辞令書を書いていた。ほどなくまた謂が朝廷に止まることになったので、制書を書くよう命じられた。筠は命令を拒否した。そのため翰林学士の晏殊が制書の執筆に当たった。筠は学士院から退出し、枢密院の南門のところで殊と出くわした。殊は恥ずかしくなり、顔を伏せて会釈を避けた。

謂は宰相に復帰すると以前にまして権力を握った。筠は「奸臣が権力を握ったなら、一日たりともここに居れまい」と言うと、固く地方官を求め、廬州知事になった。


(13)庚午(二十三日)、詔を下した。「これ以後、軍国(軍事と国務)の大事は旧来の如く皇帝みずから判断を下す。それ以外は全て皇太子に委ねる。宰相・枢密との協議の上、施行せよ。」

太子はこれを固辞したが許されなかった。そこで太子が資善堂で政務を執り、皇后が宮中で決裁し、そして丁謂が権力を握ることになった。このため朝廷内外に不安が広がった。王曾は銭惟演にこう伝えた。――「太子はまだお若い。もし中宮が居られねば即位できないだろう。しかし中宮もまた太子が居られねば人々の心をつかめまい。皇后が太子を愛しまれるなら太子は安泰だし、太子が安泰とあれば〔皇后の〕劉氏も安泰だ。」そこで惟演がこっそり曾の言葉を伝えると、皇后は深く頷いた。

陳邦瞻の評語。国家の存立が危ぶまれ、人々の心に疑惑の生じたとき、社稷と君主を安定させたものは、天下の大忠である。しかしそれは智がなければできぬことである。そもそも扉を回転させるには軸が必要である。智者はこの安危の状態に対処するとき、よく軸をつかんで回転させるものである。宋の真宗が病に倒れたとき、政治はすべて劉皇后の決裁を仰いだ。しかも太子は皇后の実子ではなかった。丁謂は邪悪の心で政治を乱し、銭惟演は皇后の親族として丁謂を助けた。少しの動揺でもあれば、宋の天下は失われたであろう。当時にあって、寇準や李迪は忠臣ではあったが、彼等の心は「丁謂と惟演を放逐すれば皇后の権力を抑え込めよう、皇后を抑え込めれば太子の地位も安全だ」というものだった。しかしこれでは成功したところで母子の関係に亀裂が生じるであろうし、それに対する善後策もなかったのである。ましてやこれが失敗すればどれほどの災厄をもたらしたことであろう。周懐政が死んだとき、太子が廃されなかったのは、ただの幸運にすぎなかったのである。このときにあって丁謂を放逐するのは簡単なことだった。しかし皇后の心を落ち着けるのは難しかった。皇后の心が落ち着かないことには、呂武の禍はまた起こったことであろう。邪悪なものどもがみな丁謂たらんと欲するのは、みなこのためである。そのすべてを放逐などできるだろうか。しかし皇后の心が落ち着けば、丁謂を除くことなど、わずかに孤豚や腐鼠を逐うようなものである。王曾が銭惟演に告げた言葉は正しかった。「太子はまだお若い。もし中宮が居られねば即位できないだろう。しかし中宮もまた太子が居られねば人々の心をつかめまい。皇后が太子を愛しまれるなら太子は安泰だし、太子が安泰とあれば〔皇后の〕劉氏も安泰だ。」そもそも皇后が懼れたのは、劉氏一族が危機に陥ることであった。皇后にはかつて則天が革命を願ったような心など、なかったのである。太子の地位が定まれば、これに随って己自身の地位も定まるという通りが分かれば、どうして邪謀を画策する必要があろう。王曾の発言以後、利を狙う小人どもの計略は皇后に届かなくなった。王曾の一言が深く皇后の心を動かしたのである。しかしこの言葉、銭惟演から出るのでなければ、皇后は信じなかったであろう。これまた王曾が智者たる証拠である。莱公(寇準)は能く大事を判断したと称せられる。しかしこの点については、遠く沂公(王曾)に及ばなかった。


(14)丁謂を兼太子少師とし、馮拯を兼太子少傅とし、曹利用を兼太子少保とした。


(15)五年(1021)十一月、丁謂に司空を、馮拯に左僕射を、曹利用に右僕射を加えた。

当時、丁謂の権勢は日増しに大きくなり、朝廷の官僚はみな謂のいいなりだった。ただ起居注の李垂だけは謂に拝謁しようとしなかった。その理由をたずねられると、垂は「謂は宰相でありながら、正しい方法で天下の期待に応えようとせず、権勢を恃んでおる。彼のしていることを見れば、必ずや朱崖に赴くことになろう。私は彼の一味になどなりたくない」と答えた。謂はこれを聞くと、垂を悪み、罷免して亳州知事にした。


(16)乾興元年(1022)二月庚子(一日)、大赦した。


(17)癸卯(四日)、群臣が尊号を奉った。


(18)甲辰(五日)、丁謂を晉国公に、馮拯を魏国公に、曹利用を韓国公に封じた。


(19)甲寅(十五日)(2)、帝は病に倒れた。重篤の中、近臣に「長らく寇準を見ていないが、どうしたのだ」と問いかけたが、みな謂の権勢を畏れて、なにも答えなかった。


(20)戊午(十九日)、帝が崩じた。遺詔に従い、太子の受益が霊前で皇帝の位に即き、名前を禛に変えた。

王曾は遺詔を草すべく、宿直所に入ると、「皇后をして権(かり)に軍国の事を処分せしめ、太子を輔けて政を聴かしめよ」と書いた。丁謂は「権」の字を削るよう要求した。しかし曾が「皇帝はまだお若く、太后が政務を執られている。これだけでも国家の不運なのです。『権』とすれば後世の手本となりましょう。ましてや制書を増減するには決まりがあります。人の模範たるべき地位にいながら、人に先んじて典礼を乱すわけにはまいりますまい」と答えたため、ついに謂も折れてしまった。

太子は即位したが、まだ十三歳だった。皇后を尊んで皇太后とし、淑妃の楊氏を皇太妃とした。両府(中書省と枢密院)で太后臨朝の儀礼を議論した。曾は東漢の故事に従い、太后は帝とともに五日に一たび承明殿に赴き、太后は帝の右に坐し、御簾を垂れて政務を聴くべきだと言った。謂は権力を掌握すべく、同列の官僚が政治の機密に関与できぬように、秘かに入内押班の雷允恭と結託して太后に手書を降させた。その手書に曰く、「帝は朔日と望日に臣下らに見える。朝廷の重大事項は、太后が輔臣を召して決裁する。重大事項でなければ、允恭に禁中まで報告させ、それを見てから可否を下す。」曾は「皇太后と皇帝が違う場所におれば、政権は宦官に帰し、災禍が兆すことになろう」と言った。こうして允恭は権勢を恃んで威張りだし、謂の権力は朝廷内外を傾けるほどになり、もはや対立するものはいなくなった。ただ曾だけは毅然として朝廷におり、天下の期待を一身に引き受けていた。


(21)庚申(二十一日)、丁謂を山陵使とした。


(22)戊辰(二十九日)、寇準を雷州司戸参軍に、李迪を衡州団練副使に左遷した。

これ以前、先帝は崩御のときにあたり、寇準と李迪に後事を託していた。丁謂は準を怨んでおり、太后もまたかつて迪が自分の執政を諫めたことを怨みに思っていた。(3)そこで〔準と迪は〕朋党だと誣告し、二人を左遷した。多数の者がこの事件に連坐し、曹瑋も莱州知事に左遷された。

準らの左遷が結審する前、王曾は処罰が重すぎると言って疑問を呈した。謂はじろりと曾を見つめ、「仮屋の旦那、まだ言うのかね。君もただではすまんよ。」曾もついに口をつぐんだ。学士が辞令の草案を提出すると、謂はその文字を改めて「醜悪な逆徒が禁を犯したとき、先帝は病に倒れられた。そしてこの事件に恐懼され、ついに重き病に至られた」とした。また人を派遣し、迪に出発を急がせた。

ある人が「迪が左遷の地で死んだりすれば、貴方は世論をどうなさるおつもりです。」

謂、「後世の学者どもが『天下、これを惜む』と書くだけさ。」

謂は是が非でも二人を殺そうと、中使(宮中の使者)を送り、勅書を準のもとに運ばせた。錦の袋に剣を入れ、これを馬前に掲げ、誅殺の意向を示した。中使が道州に到着すると、人々は恐怖のあまり手足の置き場もなかったが、準は州の官僚と宴会を開き、平静と変らぬ様子だった。準は中使にこう伝えた。――「朝廷がもし準に死を賜るというのなら、願わくは勅書を拝見しよう。」中使はどうすることもできず、勅書を授けた。準は庭で礼拝して受け取ると、部屋にもどり、日暮れになるまで宴会を続けた。

丁謂は蔡斉を自分の一派に引き入れようと、知制誥を条件に出した。斉は謂の前から退くと溜息をつき、「先帝の知遇を得たれなこそ、今の私があるのだ。権臣に脅しに乗ってよかろうか。処罰など懼れはしない。」とうとう丁謂の申し入れを拒んでしまった。


(23)〔六月〕己酉(十一日)、参知政事の王曾に山陵を調査させた。


(24)庚申(二十二日)、内侍の雷允恭が誅殺された。丁謂と任中正が罷免された。

これ以前、先帝の山陵(墓所)を造営したとき、允恭は都監(4)になった。判司天監の邢中和が允恭に言うには、「山陵の上に百歩あれば、子孫に恩恵がありましょう。汝州の秦王の墳墓のようにするのです。ただ下に石もあるし水も出ますからねえ。」

允恭、「先帝には他にお子様がおられぬ。秦王の墳墓をまねるのに何がだめなものか。」

中和、「山陵は重大事ですから、実地に調査をすれば時間もかかり、七月の期日(埋葬の時間。ここでは九月を指す)に間に合わないと思います。」

允恭、「掘る場所を移せばよい。私は急いで太后に申し上げる。」

允恭には力があったので、誰も反対しなかった。そこで場所を変え、上の穴を掘った。允恭は宮廷にもどってこれを報告した。

太后、「これほどの重大事、なんと軽々しいことを。」

允恭、「先帝の子孫を思ってのことです。なぜいけないのですか。」

太后は納得せず、「もう一度行って、山陵使と相談しろ」と言いつけた。

允恭は〔山稜使の〕丁謂に相談すると、謂はただ頷くだけだった。允恭は太后の下にもどり、「山陵使にも異議はありませんでした」と答えた。そこで夏守恩に命じ、人足数万人を率いて地に穴を掘らせた。土と石が相半ばし、さらに水が出て来た。人足らの不満は日ごとに募っていった。守恩は失敗を懼れて工事を止め、意見書を提出して朝廷の指示を待った。

丁謂は允恭を庇って判断をためらっていた。内侍の毛昌達が山陵からもどり、事態を報告した。太后からの問い合わせで、謂はようやく使者を派遣し調査させた。するとみながもとの計画地にすべきだと言った。そこで太后は馮拯と曹利用に命じ、丁謂の自宅で議論させる一方、王曾を派遣して再調査させた。曾は山稜から帰還すると、太后と二人きりで報告したいと願い出ると、「丁謂は邪心を抱き、允恭を用いて先帝の墓室を絶地に移動させております」と言った。

太后は驚愕し、怒りのあまり〔允恭のみならず〕謂までも処刑しようとした。馮拯は進み出ると、「謂にも確かに罪はあります。しかし帝は新たに即位されたばかり。かくも性急に大臣を誅殺されては、世を騒がせることになりましょう。」太后の怒りは少しく解け、允恭らだけを誅殺することにした。

二日、太后は宰相を呼び、次のように申しつけた。――「丁謂は宰相でありながら宦官と結託していた。允恭から伝えられていた謂の発言には、いつもどの案件もあなた方(他の宰執)と協議して決定したことです、とあった。だから私はすべて許してきたのだ。ところが先帝の陵墓を造営しようというとき、勝手に墓室を移動させ、もう少しで大事を誤るところだった。」

拯らは進み出ると、「先帝がお隠れになって以来、政治はすべて謂と允恭の二人が決めておりました。しかし禁中の許可を得ていると言うので、私共には虚実のほどが判断できませんでした。聡明なる陛下が彼等の奸悪を察せられましたこと、まことに社稷宗廟の幸福にございます。」

しかし任中正だけは、「謂の任用は先帝の遺言を受けてのこと。罪があるとはいえ、その功績も考慮に入れねばなりません。」

曾、「丁謂は不忠をもって皇室に罪を得たのだ。これ以上もはや何を論ずる必要があろう。」

そこで謂を太子少保に降格し、西京分司とした。また中正を罷免し、鄆州知事とした。故事では、宰相の罷免には制書を用いていた。しかしこのときばかりは、すぐにも謂を罷免すべく、中書舎人に文章を作らせるだけで、それを朝堂に貼り付け、天下に布告した。

むかし謂が進士になったばかりのころ、許田に身を寄せていたが、胡則に世話になっていた。謂が貴顕となるや、則はすぐに重用された。しかし謂や失脚するや、則もまた地方に出され、西京転運使となった。


(25)山陵使を馮拯に改めた。


(26)七月辛未(三日)、王曾を同平章事とした。


(27)丙子(八日)、銭惟演を枢密使とした。


(28)辛卯(二十三日)、丁謂を崖州司戸参軍に左遷した。

これ以前、劉徳妙なる女道士がおり、占い師として丁謂の家に出入りしていた。謂が失脚すると、徳妙も逮捕された。内侍が訊問したところ徳妙は次のようなことを白状したという。――

丁謂は徳妙に向かって、「お前はただの占い師にすぎぬ。それよりか老君のことに託して世の因果を説き、人の関心を買った方がよかろう」とそそのかし、家に神像を設け、夜中に園中で祈祷させた。雷允恭もしばしば来訪し、祈祷を頼んでいた。真宗が崩御すると、〔謂は徳妙を〕禁中に引き入れた。また土の中から亀と蛇を見つると、徳妙をつかって禁中に運ばせ、家の山洞で見つけたと嘘を言わせた。そこでまたこうそそのかした。――「もし帝がお前に『老君に仕えているとなぜ分るのだ』と問われたら、『相公は凡俗の人ではありません。御存知のことと思います』と答えるのだ」と。丁謂は功徳文を作り、そこに「混元皇帝が徳妙に賜う」と書き込んだ。

左道に関わる発言だったので、謂を崖州司戸参軍に左遷した。謂の財産を没収すると、数えきれぬほどの賄賂が見つかった。

謂は崖州に赴く途中、雷州に立ち寄った。寇準は蒸羊(羊を煮たもの)を州の境界に運ばせた。謂は準に面会を求めたが、準は堅く断った。準は報復を企む家人がいるのを知ると、家門を閉ざして賭博を開き、家のものの外出を禁じた。謂が他州に出たのを確認してから、ようやく止めさせた。

謂は機敏で知謀があり、その狡猾なこと常人を過ぎていた。崖州にいたとき、浮屠の因果の説を学んだ。謂の一族が西京(洛陽)に寓居していた。丁謂はこんな手紙を書いた。――自分の罪を責め、国恩に感謝し、家人には軽々しく怨みを抱くなと諭している、と。人をつかって洛陽長官(5)の劉燁に近づかせた。使いの者には「燁が同僚といるときに手渡せ」と言い含めていた。燁は勝手に書簡を開くこともできず、そのまま朝廷に報告した。太后と帝は手紙を読むと謂を不敏に思い、雷州に移すことにした。


(29)十一月丁卯(一日)、銭惟演が罷免された。

これ以前、丁謂が宰相として絶大な権力を握ると、惟演は謂に阿附し、これと姻戚になろうとした。寇準の排斥には惟演も尽力した。歴代の枢密直学士の姓名を石に刻んだとき、惟演は準の名前だけ削り去り、〔その由来書には〕「大逆の準の名は書かぬ」と記した。御史中丞の蔡斉は、帝にむかって、「寇準の忠義は天下に知れわたっております。社稷の臣と申せましょう。邪悪なものたちに覆い隠せるものではありません。」帝はすぐに〔準を批判した文字を〕削らせた。

謂が失脚すると、惟演は責任が及ぶことを懼れ、謂を売って罪を逃れようとした。馮拯はその人となりを悪み、太后に「惟演はその妹を劉美の妻にしております。ならば太后の姻戚です。祖宗の法――姻戚は政務に関わらせるな――を無みしてはなりません。罷免なさいませ。」このため惟演は保大節度使・河陽府知事に改められた。

年を越え、惟演は〔河陽から亳州に移るついでに〕朝廷に立ち寄ると、またも宰相の座を狙った。御史の鞠詠は意見書を提出してこれを弾劾した。太后は内侍を派遣し、その意見書を惟演に見せた。惟演はそれでも様子見を決め込み、都から立ち去ろうとしなかった。詠が右司諫の劉隨に「もし惟演が宰相になれば、白麻(宰相の任命書)を手に、朝廷で争うつもりだ」と言ったのを聴き、ようやく立ち去った。

惟演は貴族の生まれで、文辞流麗、その名は楊億や劉筠と拮抗していた。あらゆる書物に目を通し、後進の推薦を無常の喜びとしていた。しかしいつも「わが生涯で足らぬのは、黄紙に署名できなかったことだけだ」(6)と発言し、いじましく中書(宰相府)を夢見ていた。このため時人の笑いを買うことになった。


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(1)真宗の子は男子一人しかいなかった。
(2)底本は甲辰に作る。
(3)『続資治通鑑長編』は李迪が劉氏を処分するよう皇帝に訴えたのを、劉皇后が聴いていたとする。

(4)都監は総監督のこと。『続資治通鑑長編』には同管勾山陵一行事とある。
(5)河南府知事のこと。
(6)宰相になれなかったということ。



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