HOME目次郭后之廃(温成事附)

明肅荘懿之事


(01)真宗の景徳四年(1007)四月、皇后の郭氏が崩じた。諡を荘穆(正しくは章穆)といった。


(02)大中祥符三年(1010)四月甲戌(二十五日)、皇子の受益が生れた。後宮の李氏が生んだ子供である。

李氏は杭州の人で、後宮に入ると劉徳妃の侍女となり、〔その人となりは〕荘重寡黙であった。帝は夜の伴を命じた。妊娠の後、帝とともに砌台に赴いたとき、玉釵(かんざし)が落ちた。帝は、もし玉釵が壊れなければ、男子が産まれはずだと心に占いを立てた。近習のものが玉釵を拾って差し出すと壊れていなかった。ほどなく果たして男子が産まれた。劉徳妃が取り上げて自分の子としたが、李氏は何もいわず、朝廷内外のものも事の真相を知らなかった。


(03)五年(1012)十二月丁亥(二十四日)、徳妃の劉氏を皇后とした。

これ以前、皇后の父の通は虎捷都指揮使となったが、太原征討の中で戦死した。皇后は幼児にして孤児となり、母方の祖父の家で育てられた。太鼓を打つのがうまかった。蜀の人に龔美というものがいた。銀工を生業としており、銀を携えて京師に売りに出ていた。〔皇后は〕年十五で襄王の邸に入った。帝が即位すると、美人から徳妃に進められ、後宮で寵愛を受けた。郭皇后が崩ずると、帝は劉氏を皇后にしようとした。翰林学士の李迪は、劉徳妃は微賤の出身であるから、天下の母としてはならないと言ったが、帝はこれに従わず、ついに皇后とした。劉氏は皇后になったが、宗族がなかったので、美を兄とし、その姓を劉に変えさせた。李迪の諫言を耳にすると、たいそうこれを憾んだ。皇后は生まれながら機敏で、史書に明るかった。朝廷の政治を耳にしては、その顛末をよく覚えていた。帝は外廷から退くと、四方から送られる意見書に目を通していたが、それは夜中に及ぶことも多かった。このとき皇后はいつも側で相談に乗っていた。宮中に問題があると、そのつど故事を引いて答えた。帝は深く皇后を頼みとするようになった。このため皇后は徐々に政治に関与するようになった。

はじめ帝は劉氏を皇后に立てようと思い、丁謂に命じて楊億に立后の制書を書かせたが、億は難色を示した。

謂、「無理してでも書けば、富貴は思いのままだぞ。」

億、「そんなことで富と地位を手に入れるくらいなら、こちらから願い下げだ。」

そのため他の学士に書かせることになった。


(04)乾興元年(1022)二月戊午(十九日)、帝が崩じ、太子が即位した。皇后を尊び皇太后とし、淑妃の楊氏を皇太妃とした。


(05)三月庚寅(二十一日)、帝ははじめて崇徳殿に赴いた。太后は幕を設けて承明殿に赴き、垂簾(1)して輔臣と対面した。


(06)八月乙巳(八日)、太后は帝とともに承明殿に赴き、垂簾して政務を執った。


(07)仁宗の天聖元年(1023)五月庚寅(二十八日)、皇太后の儀仗と護衛の方法を議論した結果、制により皇帝と同じものとなった。


(08)三年(1025)春正月辛卯(八日)、長寧節(皇太后の生辰)のため、近臣と契丹の使者は崇政殿で太后の長寿を祝った。


(09)五年(1027)春正月壬寅朔、帝は群臣を率いて会慶殿で太后に朝見した。

これ以前、帝が太后に言うには、「元日になれば、まず太后の長寿を祝い、その後で朝見を受けとうございます」と。太后はこれを許さなかった。王曾は「陛下は孝行をもって母に仕えるあり方を示され、太后は謙譲の徳でもって国のあり方を全うされました。どうか太后の仰せのままに」と進めたが、帝は従わなかった。


(10)太后はあるとき参知政事の魯宗道にこんなことを聞いた。「唐の武后(則天武功)とはどのような御方じゃ。」

魯宗道、「唐の罪人です。社稷を滅ぼすところでした。」

后は黙って頷いた。

小臣の方仲弓というものが、劉氏のために七廟を立ててはどうかと申し出た。后はこれを輔臣に諮ったところ、だれも答えなかった。しかし宗道だけは進み出ると、「もし劉氏の七廟を立てるとおおせなら、若君をどうなさるおつもりです。」そのため沙汰止みになった。

后が帝と慈孝寺に出向いたときのこと、后は帝の前に車を出そうとした。しかし宗道が「夫が死ねば子に従う」という夫人のあり方によって批判したため、后は帝の後に車を付けさせた。これ以後、后の近臣らは宗道を憚り、「魚頭の参政」とあだなするようになった。


(11)七年(1027)十一月癸亥(九日)、冬至の日、帝は百官を率いて会慶殿で太后の長寿を祝うと、ともに天安殿に赴き政務を執った。

秘閣校理の范仲淹は前もって意見書を提出していた。――「天子が内廷にあって親に孝行を尽くす場合は、おのずから子供としての作法があります。しかし百官とともに北面して朝礼なさるというのでは、君主としてのあり方を欠き、君主としての威勢を損ねることになり、後世に範を垂れられるものではありません。」意見書は受理されたが、聞き入れられなかった。

これ以前、晏殊は仲淹に館職を授けてはどうかと言っていた。ところが仲淹の意見書を知って慌てふためき、仲淹を呼んで怒鳴りつけた、「軽率なことをして売名行為のつもりか。推薦した私にも累が及ぶんだぞ」と。しかし仲淹は毅然とこう言い放った、「私は公の推薦を忝なくしたにも関わらず、いつも相応しからぬ振る舞いばかりで、知己の恥になることを懼れていた。しかるにかえって忠誠実直な振る舞いのため、貴方に罪を獲ることになろうとは。」殊は答えることができなかった。

仲淹はすぐにまた意見書を提出し、太后に政権を返還するよう願い出たが、聞き入れられなかった。ついに地方官を求めると、河中府通判として都を出て行った。


(12)八年(1030)二月、范仲淹は意見書を提出し、太后に政権を返還するよう願い出た。その概略はこうである。――「太后陛下は皇帝陛下の御身を守り、大政を裁断されること、既に日月久しう御座います。既に皇帝陛下は成長され、睿哲聡明に御座います。しかるに君権を母に捧げるとあっては、皇帝陛下の福と申せません。太后陛下は長楽宮で長寿を保たれ、大権をあるべき主君に還し、天下の扶養を受けられてはいかがでしょうか。」


(13)明道元年(1032)(2)二月丁卯(二十六日)、真宗の宸妃の李氏が死んだ。

李氏は帝の実母であった。太后は帝を取りあげて自分の子とすると、楊太妃に帝を守らせた。李氏は黙々と先朝の嬪御(妃の一つ)の列におり、特別な振る舞いはなかった。周囲のものも太后を畏れ、あえて事実を口にするものはなかった。そのため帝は大きくなっても、李氏の子であることを知らなかった。

ここに至り、李氏の病が篤くなると、順容(妃の一つ)から宸妃に進められた。李氏が死ぬと、太后は宮人として扱い、宮廷の外で喪礼を行わせようとした。呂夷簡が手厚く喪礼を行うよう申し出た。太后は急いで帝を連れ出した。しばらくして戻ってくる都、一人で御簾の後に立った。

太后は夷簡を呼び出すと、「宮人が一人死んだだけのこと。相公がどうこう言うとは何事だ。」

夷簡、「臣は責を宰相に任じておれば、事に内外の区別なく、すべてに責任がございます。」

后は怒って、「相公は我が母子を引き離そうというのか。」

夷簡、「太后は劉氏の保全をお考えにならぬのですか。劉氏のことを思えばこそ、喪礼は厚くおこなうべきです。」

司天監(天文や暦数を担当した部署)の官僚は、太后に媚び、葬儀の歳月に適していないと言ったが、夷簡はそれを握りつぶし、発哀・成服の礼(喪礼の一つ)行うよう申し出た。さらに入内都知の羅崇勲には、「宸妃は皇帝陛下をお生みになった。もし喪礼を行わなければ、後々必ずその罪を受けることになろう。いま私に何の献言もなかったとは言わないでくれよ。皇后の喪服でつつんで棺桶に納め、水銀を満たしておくのだ。」

后は事の重大さを理解し、一品の礼でもって棺桶に納めた。この時、太后は宮城の垣に穴を開け、そこから喪を送り出そうとした。

夷簡、「垣に穴を開けるなど、喪礼ではありません。西華門から喪を送り出されませ。」

太后はこれに従い、洪福院に喪を安置した。


(14)二年(1033)二月乙巳(九日)、皇太后は天子の礼服と冠を付け、太廟に供物を献じようとした。

薛奎は強く諫め、「太廟でどのような礼拝をなさるおつもりですか」と申し出た。后は聴きいれず、儀天冠をかぶり、天子の礼服をまとって初献をし、皇太妃が亜献をし、皇后が終献をした。(3)礼が終わると、群臣は太后に尊号を奉った。

丁未(十一日)、帝は東郊で先農(農業の神)を祭り、みずから耤田を耕した。宰相の張士遜に『謝太廟』と『躬耤田記』を作らせた。検討の宋祁が「皇太后の宗廟謁見は後世の法になりません」と言ったので、『躬耤田記』だけを作らせた。


(15)三月庚寅(二十五日)、皇太后の病が篤くなった。大赦し、通常の恩赦で赦さぬものを除き、乾興以来の貶死者(4)を復官し、左遷されていたものを内地に移した。


(16)甲午(二十九日)、皇太后が崩じた。

后は称制十一年、後宮から政務を執ったが、政令は厳密明白で、恩威を天下に加え、側近にも手を緩めなかった。宮殿をむやみに増改築することなく、朝廷内外への賜物にも節度があった。一族に食事を授けるときも、必ず金食器に変え、「宮廷の食器を我が家に入れてはならぬ」と言っていた。

三司使の程琳が『武后臨朝図』を献上すると、后は地面に投げ捨て、「私は祖宗に背くようなことはせぬ」と言った。漕使の劉綽は京西から帰還したとき、「倉に余った米が千余斛あります。三司に申しつけください」と報告した。すると后は「お前は王曾・張知白・呂夷簡・魯宗道を知らぬのか。この四人が余剰米を宮中に収めると思うておるのか。」

晩年は外祖父の家人を重用した。また宦官の羅崇勲や江徳明などを用いて外廷の事を調べさせた。このために崇勲の権勢は天下を傾けるほどだった。

ここに至り、后が崩じた。帝は近臣を見ては涙に暮れ、「太后は病を患われ、ものも言えなかった。それでもしばしば私の衣を引っ張られ、なにか思うところがおありのようだった。何だろう。」

薛奎、「天子の衣と冠をお望みだったのです。しかしそれを許せば、地下で先帝に見えることはできますまい。」

帝は諦め、皇后の服をまとわせて棺桶に納めた。諡を荘献明肅(正しくは章献明肅)といった。旧制では、皇后は二字の諡だった。称制した場合に四字の諡を加えようになったのは、このときから始まったものである。

太后の遺詔には「太妃を尊んで皇太后とし、皇帝とともに軍国の事を処置させよ」とあった。閤門官は朝廷の百官に〔称制のための〕慶賀の礼を勧めたが、御史中丞の蔡斉は目で御史台の官僚の朝列を止め、後殿に入り、執政に訴えた。――「上は充分に経験を積まれ、天下の実情をよくご存知のこととて、今後はみずから朝政をお執りにになるべきです。女后が前後相続いて称制する必要などありません。」殿中侍御史の龎籍も、閤門官に命じて垂簾を焼き捨てさせるよう申し出た。そこで太妃を尊んで皇太后とするに止め、「ともに軍国の事を処置せよ」という言葉は削ることにした。


(17)夏四月壬寅(七日)、近臣は帝のために申し出た。――「陛下は李宸のお生まれです。ですが妃は非業の死を遂げられました。」

帝は数日にわたって泣き叫び、詔を下して自己の罪を責め、妃を追尊して荘懿という諡を与えた。洪福院に出向いて礼拝し、梓宮を取りかえ、みずから棺を開いて検分した。妃は水銀に浸されていたおかげで、姿形は生きていたときのままであったが、冠や衣服は皇后のものを用いていた。帝は溜息をついて「人の言葉は信用できたものでない」と言い、ますます劉氏を手厚く遇するようになった。


(18)壬子(十七日)帝は親政をはじめると、寺院や道観の造営を罷め、法外の賜物を削減し、宋綬と范仲淹を呼び戻し、内侍の羅崇勲などを退けたため、朝廷内外は歓喜した。


(19)范仲淹を右司諫とした。

仲淹は遺詔に「楊太妃を皇太后とし、軍国の事を処置する」なる文句があったと知るや、すぐに申し出た。――「太后とは母の呼び名です。皇帝を保育したことにより、その位に立ったものは、誰一人としておりません。いま一人の太后が崩ぜられ、また一人の太后を立つとあっては、天下のものは疑いましょう、陛下はいつも母后に助けられている、と。」

このとき既に「軍国の事を処置する」という言葉は削られていた。しかし結局は太后の号は改められず、ただその冊命を罷めただけだった。


(20)そのむかし太后は帝を我が子のように愛し、帝もまた孝行を尽くし、ほんのわずかな隙間もなかった。帝がみずから政務を執るようになると、太后の時代のことを悪く言うものが多く出てきた。

范仲淹、「太后は先帝の遺命を受け、陛下をお守りになること十余年。わずかな過失には目をつむり、太后の大徳を全うさせるべきです。」

帝、「太后の悪口は、朕も聞くに堪えない。」

そこで朝廷内外に詔を下し、皇太后垂簾の得失を論じてはならぬと戒しめた。


(21)冬十月丁酉(五日)、荘献明肅(章献明肅)と荘懿皇后を永定陵(真宗の陵墓)に葬った。

祔廟の礼(位牌を廟に納める方法)を決めさせたところ、翰林侍読学士の宋綬は『春秋』の「仲子の宮を考す」(5)と唐の坤儀廟(6)の故事を用い、別に宮を作るよう申し出た。そこで奉慈廟を作り、二人の神主(位牌)を奉納した。


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(1)垂簾聴政のこと。御簾を垂れて群臣の政務を見ること。皇太后や皇后が皇帝にかわって政治を行うとき行われる政治形態。
(2)正確には天聖十年。
(3)初献などは礼拝の方法を指す言葉。
(4)地方に左遷され、その地で死んだもの。
(5)考仲子之宮は、隠公が弟(後の桓公)の母のために新たに廟を立てたことを指す。
(6)坤儀廟は儀坤廟のこと。唐の睿宗の時代、肅明皇后劉氏と徳妃竇氏(昭成皇后)のために作った廟。『資治通鑑』巻210などを参照。



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