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郭后之廃(温成事附)


(01)仁宗の天聖二年(1024)十一月乙巳(二十一日)、郭氏を皇后とした。

后は平盧軍節度使の崇の孫娘である。これ以前、帝は張美人を寵愛しており、これを皇后にと望んでいたが、太后が許さなかった。そのため郭氏は皇后になったが、いつも冷遇されていた。


(02)明道二年(1033)夏四月、呂夷簡・張耆・夏竦・陳堯佐・范雍・趙稹・晏殊が罷めた。

これ以前、夷簡は八項目の意見書を提出した。――朝廷の綱紀を正すこと、奸邪の侵入を防ぐこと、収賄を禁止すること、佞人を見分けること、後宮の要請を絶つこと、近習を遠ざけること、力役を罷めること、冗費を省くこと。その帝に勧めた言葉は忌憚のないものだった。

帝はそこで夷簡に相談し、太后に阿附した張耆らをすべて罷免したいと言うと、夷簡も頷いた。帝は内廷に退くと、これを皇后に話した。后、「夷簡だけが太后に阿っていなかったのですか。ただ身の処し方がうまいだけですよ。」このため夷簡も罷免された。

制が下ったとき、夷簡は宮中の席次に向かっていたが、自分の名前が呼ばれた。突然のことで意味もわからず、平素から親交のあった内侍都知の閻文王に探らせたところ、郭后の差し金だと分かった。これ以後、夷簡は后を憎むようになった。


(03)八月戊午(二十五日)、また呂夷簡を平章事とした。


(04)十一月、美人の張氏が死んだ。皇后を贈った。


(05)十二月乙卯(二十三日)、皇后の郭氏を廃した。

当時、尚美人と楊美人が寵愛を受けており、いつも皇后と諍いを起こしていた。ある日、尚氏が帝の前で皇后を侮辱した。后は我慢まらず、頬をぶとうとした。しかし帝が間に入ったため、間違って帝の頸をぶってしまった。帝は激怒した。内侍の閻文応は帝から廃后を打診されると、爪の痕を執政に見せてはどうかと言った。

帝は呂夷簡に疵痕を見せ、その理由を言うと、夷簡はかつての憾みから廃后を支持した。帝はまだためらっていたが、夷簡は「光武帝は漢の明主でした。しかし郭后が恨みごとを口にしただけで廃后しました。まして陛下の頸を傷つけてはもう」と勧めた。このため帝はついに廃后を決意した。

夷簡はあらかじめ有司に台諫(諫官と御史台)の訴状を受け付けないよう命じると、「皇后が出家を願い出たので、浄妃玉京沖妙仙師に封じ、長寧宮に住まわせることにした」と詔を下した。そのため台諫の訴状は受理されなかった。

かくして御史中丞の孔道輔は、諫官の范仲淹・孫祖徳・宋庠・劉渙、御史の蒋堂・郭勧・楊偕・馬絳・段少連の十人を引き連れて垂拱殿に赴くと、平伏して訴えた。――「皇后は天下の母。軽々しく廃してよいものではありません。どうか我々に発言の機会をお与え下さい。」しかし宮殿の門は閉ざされ、通ることができなかった。道輔は門環(門の装飾部分)を叩き、「皇后が廃されるのに、なぜ台諫の訴えが聞けないのですか」と大声で叫んだ。すぐに詔が下り、夷簡に廃后の理由を説明させることになった。

道輔らは中書に到着すると、夷簡にこう言った。「大臣と皇帝・皇后の関係は、子が父母に仕えるに等しい。父母に不和があれば、諫めるのが筋。なぜ父に順い、母を追い出したりするのか。」

夷簡、「廃后は漢唐にも故事がある。」

道輔、「人臣は主君を堯や舜にお導きしなければならないもの。それを徳の少ない漢唐に範を採ろうとは、どういうことか。」

夷簡は答えることができず、すぐに「宮殿に平伏して帝との問答を求めるなど、太平の世にあるべからざること」と帝に訴えると、ついに道輔を泰州知事とし、仲淹を睦州知事として朝廷から追い出し、祖徳らには罰金を処すことにした。さらに今後台諫が連れだって帝に答問を求めてはならぬと詔を下した。

明日、道輔らは朝廷に出向くと、百官の班列を留め、宰相と論争するつもりでいた。待漏院まで来ると、〔処罰の〕詔が下ったことを聞き、そのまま朝廷を後にした。

道輔はひどく剛直な男で、事件の弾劾には忌憚なかった。そのため正直者として天下に知られていた。簽書河陽判官の富弼は「朝廷は一度に二つを失った。復后がかなわないなら、せめて仲淹らだけでも引き戻されよ」と訴えたが、聞き入れられなかった。


(06)景祐元年(1034)、詔を下した。「浄妃の郭氏は瑤華宮に出居せよ、美人の尚氏は出家せよ、楊氏は別宅に蟄居せよ。」


(07)九月甲辰(十八日)、曹氏を皇后とした。彬の孫娘である。

これ以前、郭后が廃されたとき、帝は宋綬に命じ、「人徳と家柄ともに婦道にかなうものを求めよ」と詔書を書かせた。すぐに近臣が富豪陳氏の娘を後宮に入れようとした。

綬、「陛下が賤しい身分のものを皇后になさるおつもりなら、前の詔書と齟齬が生じましょう。」

王曾も面と向かって反対したため、陳氏を罷め、曹氏を皇后にした。

御史裏行の孫沔は、荘献明肅皇太后(正しくは章献明肅皇太后)の喪が終わってから皇后を立てるべきだと訴えた。秘書丞の余靖も同様の訴えを起こしたが、聴き入れられなかった。


(08)二年(1035)十一月戊子(八日)、后の郭氏が急逝した。

后は瑤華宮に住んでいた。帝は気をつかい、人をやって慰問させ、楽府(漢詩の一種)を授けた。后はそれに応えて歌を作ったが、言葉は切々として悲しげであった。このため帝は後悔するようになった。

あるとき、こっそり人をやって后を呼び出したが、后はこれを断わり、「もし再びお召し頂けるのでしたら、百官が立ち並ぶ中、皇后としてお迎えください。それならお受けいたします。」

閻文応はいつも后を批判していたので、その復后を懼れていた。后の体調が優れないというので、帝は文応を遣わし、医者に問診させた。数日の後、后が急逝したと報告された。朝廷内外のものは文応が毒を進めたのではないかと疑ったが、証拠はなかった。

帝は深く哀れみ、皇后の礼で葬儀を行ったが、諡冊と祔廟の礼だけは取り止めた。

開封府知事の范仲淹は文応の罪を弾劾し、これを嶺南に配流させたが、文応はその途上で死んだ。


(09)三年(1036)春正月壬辰(十三日)、郭氏を皇后の地位にもどした。


(10)丁酉(十八日)、皇后の郭氏を葬った。


(11)慶暦八年(1048)、帝は閏正月十五日の晩というので、ふたたび灯火をつけようとしたが、曹后はこれを諫めた。

越えて三日、衛兵の顔秀ら四人が謀叛を計画し、夜、禁中に押し入り、延和殿(1)を越えて進み、寝殿を叩いた。皇后は帝に侍っていたが、謀叛を聞くやすぐに起きあがった。帝が逃げようとすると、后は寝室の門を閉ざして帝を抱きかかえ、すぐに都知の王守忠を呼び、兵を連れて守るよう言いつけた。

賊が宮殿の下で女官を傷つけると、その声が帝のところにまで届いた。宦官は乳母が女児を叩いたのですとごまかしたが、后は「賊が近くにいて人を殺しているのです。いい加減なことを言ってはなりません」と叱った。こっそりと人を遣わして水を持たせ、賊の後に追わせた。賊は、案の定、松明で御簾を焼いたが、そのつど水をかけた。このとき遣わした宦官には、后みずからその髪を切り、「これを褒美としよう」と言ったので、みな死力を尽くした。

守忠の兵が到着すると、賊は取り押さえられた。皇城司の責任者はすべて処罰され、副都知の楊懐敏にまで累が及んだ。夏竦は懐敏と結託し、曲げてこれを庇うと、禁中において御史と宦官とで訊問したいと願い出た。丁度は「禁中の衛兵に謀叛があった以上、事は社稷に関わります。御史台に訊問なされますように」と、帝の前で言い争った。しかし帝は竦の言い分に従った。このため懐敏は官を降されただけで、職務はもとのままだった。


(12)十二月丁卯(三日)、美人の張氏を貴妃とした。

衛兵の謀叛があたとき、帝は美人陳氏に随従の功があったとした。夏竦が張氏を尊ぶべきだと建議すると、同知諫院の王贄は「賊は皇后の殿前から起こりました。事実を究明しとうございます」と訴えた。皇后に揺さぶりをかけ、その位を美人陳氏のものにしようと企んだのである。

帝はこれについて御史の何郯にたずねると、郯は「いずれも邪悪な連中の謀略です。深く見定めなければなりません」と答えた。帝はその意味するところを悟り、ついに取り止めになった。しかし美人はその功績によって貴妃に進められた。


(13)皇祐二年(1050)〔閏〕十一月己未(六日)、詔を下し、外戚の二府(宰相府と枢密院)就任を禁止した。

この当時、張貴妃は後宮で寵愛を専らにしていた。堯佐はその伯父であったが、にわかに宣徽使・節度使・景霊宮使・群牧使の四使を授けられた。殿中侍御史の唐介と知諫院の包拯・呉奎らは必死に止めるよう訴えた。中丞の王挙正は百官の班列を留めたまま、公然と批判した。かくしてこの詔が下り、堯佐の宣徽使と景霊宮使の二使も取り止めとなった。


(14)三年(1051)冬十月、また張堯佐を宣徽使・河陽知事とした。

侍御史の唐介は、同僚にむかって、「これでは宣徽使を与えるべく、河陽知事にしたようなものだ」と語ったが、同僚らは態度を決めかねていた。介はひとり抗議の声を上げた。

帝は「人事は中書が決めたものだ」と言った。当時、文彦博が首相であった。そのため介は彦博を弾劾し、こう言った。――「彦博は益州知事のとき、宦官によって内廷にわたりをつけ、執政になりました。いままた堯佐を重用して自己の地位を盤石のものにしております。彦博を罷免し、富弼を宰相にしてもらいたい。」

あまりに思いきった物言いに帝は怒り、介の意見書を見ようとせず、「遠方に放逐せよ」と言った。それでも介はゆっくりと意見書を読み終え、「忠義に駆られてしたこと。たとえ釜ゆでに処されても避けは致しません。放逐など懼るるに足らりません」と言った。

帝はすぐに執政を呼び、意見書を見せると、「介はものを言うのが仕事だ。彦博が妃嬪によって宰相の位を得たとは何のことだ。とはいえ、宰相の進退には関わりないこと。まして弼を薦めるとは何事だ。」

このとき彦博は帝の前にいた。

介、「彦博は反省せよ。もし事実であれば隠してはならぬ。」

彦博はただただ平伏するばかりで、帝の怒りはより激しくなった。梁適は介を叱りつけ、宮殿の外に追い出したが、介はなおも抗議を繰り返した。帝の怒りは甚だしかった。

修起居注の蔡襄はあわてて進み出ると、「介はまことに尋常でありません。しかし諫言を納れるのは人主の美徳。寛容に処分なされませ」と言った。そこで介を春州別駕に左遷した。王挙正が重すぎると言ったので、帝は思い直し、次の日には介の意見書を受諾し、英州別駕に改めた。彦博を罷免して許州知事とした。

帝は、もし介が道中で死ぬようなことがあれば、直士を殺したと言われるのではないかと心配し、宮中から使者を派遣して介を護衛させた。これ以後、介の直声は天下に響き渡り、真の御史はと問われれば、必ず唐子方(唐介のこと)と言われるようになった。


(15)至和元年(1054)(2)春正月癸酉(八日)、貴妃の張氏が卒した。

貴妃は愛嬌があり、頭もよく、人の心に寄り添うのがうまかった。父の堯封を郡王に贈封させ、伯父の堯佐を太師に進めるなど、縁戚はみな貴顕の地位を授けられた。しかし帝は守るべきものは守り、何事につけてもすべて外廷に是非を議論させた。内廷からの要求に対しても、一度許可しながら、途中で撤回することもあった。貴妃はその寵愛を一身に集めたとはいえ、政治を壟断すことはできなかった。

貴妃が死ぬと、帝はひどく哀しみ、朝政を停止すること七日、京城で奏楽を禁ずること一ヶ月に及んだ。温成皇后を贈り、皇儀殿で喪礼を行った。知制誥の王洙は内使(宦官)の石全斌と結託し、華美な礼を帝に勧めると、孫沔に皇后追贈の冊書を読ませ、宰相に葬儀を護らせようとした。帝はその意見に従った。沔は「私に冊書を読めとおおせなら従いますが、枢密副使として冊書を読むことはできません」と撤回を求めた。当時、陳執中が首相で、温成皇后の喪礼には唯々として従っていた。また王洙を翰林学士に取り立てた。このため士大夫は争って執中を批判した。


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(1)『続資治通鑑長編』により増補する。
(2)正確には皇祐六年。



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