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天聖災議


(01)仁宗の天聖四年(1026)六月庚寅(十六日)、大雨があり、京師の浸水は数尺に及び、家屋は倒壊し、溺れるものも出た。京東・京西および河北と江淮以南の各地に洪水が起こった。


(02)五年(1027)六月、京師に旱害があった。常州通判の謝絳は次のような意見書を提出した。

去年、京師に洪水があり、民の家屋を破壊し、河川は氾濫し、その水が都の城郭にまで及ぼうとするほどでした。今年は旱害があり、百姓は伝染病に斃れ、田畑は枯れ果て、秋の実りは絶望的です。これらはいずれも大いなる災異と申せましょう。『洪範』や京房の『易伝』にはこうあります。――祭祀を簡略にし、天時に逆らえば、水は物を潤さない。政令があるべき時を失えば水はその性質を失い、国邑を破壊し、農作物を損なう。国政を執るものが道理を曲げて誅罰を行えば、大水によって人が殺される。有徳者を求めながら任用しないこと、これを「張」と言うが、この場合の災異は凶作となる。上も下も隠蔽されること、これを「隔」と言うが、この場合の災異は旱害である、と。天はこのように人の行為に応じて訓戒を下されるのです。

陛下は朝から晩まで心を悩ませられ、ここに下情が塞がり天の運行が狂ったことに対し、災異を告げ、常時に転ずべく、己を罪する詔を下し、気節に応じた政令に改め、人々の訴えに耳を傾けて阻害物を取り除き、善からぬ近習を追放して陰を減らそうとなさっておられます。しかし陛下の心は芯が定まらず、改正を重んじながら、出された号令は、まだ天の御心に適っておらぬところがあります。

そもそも風雨や寒暑が適切なのは、全く欺くところがないからです。ところが陛下の誠実さは人々に及ばず、恩沢は下々に行きわたらぬようでは、水害や旱害が降りかかりましょう。昨今下された命令も、数日もたてば改められ、施行されたと思いきやすぐに廃止されております。これでは時宜に応じた風雨を求めても得られるはずがありません。

宏大なる天下や万余の民について、内廷におりながら、いかにしてその全てを知ることができましょう。外廷の臣下はわずかの時間も陛下と対面できず、少しの善言も申し上げることができません。朝夕侍っておるのは、恩沢によるものでなければ、佞人です。かくも上下みな塞がっておれば、天が災異を下したのも故なきことではありません。

むかし両漢のとき、日食・地震・水害・旱害の天変地異があれば、三公を罷免して戒懼の態度を示しました。陛下は宰執を信用し、最も優れた人間を選ばれたはずです。しかし政道は治まらず、天の運行はままなりません。これは宰相らが不明だからでしょうか、それとも陛下の信任が篤くないからでしょうか。任用するのであれば、心を尽くして責務を全うさせ、その成果を尽くさせねばなりません。さもなくば、他の賢者を選ばねばなりません。昨今、奸邪は易々と貴顕の地位を手にいれ、正しきものは上達し難くなっております。命令が多方から出るようになると、流俗のものは近道を選ぶようになります。陛下は天下の優れた人間をすべて用いるべく、各々に職務を授けておられるのに、宰相は実績の能否や任用に対して、なんら意見を申し上げようとしておりません。これは有徳者を求めながら任用しないことに対する天の応報でありましょう。

いま〔陰陽の〕陽は少しも衰えず、虫害は甚だしく、黄河は氾濫を起こしております。旧時に因循し、いつも通りの政治を行うだけでは、天の霊意を回らし、その訓戒に適うことはできません。そのむかし穀物が実らなければ天子の食膳を減らし、しばしば災害が起これば平服を着て戒懼し、凶年であれば土木工事を止めました。陛下におかれましては、詔を下し、咎を認め、食膳を減らし、内廷の関与を退け、士大夫の忌憚ない発言を許し、時弊を率直に指摘させ、不急の力役を罷め、故なき徴税を省き、私恩を重んぜず、剛直の人を任用し、徳を第一とした政治を行い、天下に休息をお与えいただきたい。至誠が上天を動かし、大恵が下民に遍く行き渡るならば、時事に艱難などなくなりましょう。

帝は喜んでこれを受け入れた。


(03)七年(1029)六月丁未(二十日)、夜に雷雨があり、玉清昭応宮に火災があった。御史中丞の王曙は意見書を提出した。

むかし魯の桓公と僖公の廟に火災があったとき、孔子は「桓公と僖公はすでに祭るべき期限を過ぎており、廟を毀たねばならぬ」と言いました。漢の遼東の高廟と高園陵の便殿に火災があったとき、董仲舒は「高廟は郡国にあってはならず、便殿の傍らに高園陵があってはならない。だから火災があったのだ」と言いました。魏の崇華殿に火災があったとき、高堂隆は「高殿や宮室に垂れたもうた天の訓戒です。もはや修復してはなりません」と言いました。文帝はこれを聴きいれなかったところ、明くる年にまた火災がありました。今時の玉清昭応宮の建設は、聖人の教えに沿うものではありませんでした。災異があったのは、天から警告されたようなものです。請い願いますには、宮殿の地を取り除き、諸々の祭祀を罷め、天の御心に応えて頂きたい。

滎陽県尉の蘇舜欽は登聞鼓院に訪れて意見書を提出した。

今年度、春から夏にかけて長雨が続き、災害を受けた農田は十に九に及んでおります。恐らくこれは不適切な人間を用い、政令に過誤が多く、賞罰が適切でないことによるものと思われます。天が災害を降すのは、陛下に悟らせるためですが、大臣は咎を刑罰の多さに帰しております。陛下はそれを聞き入れ、天下に大赦し、災害を除こうとされています。しかしこれは、人を殺しながら死刑にならず、人を傷つけながら罪に問われず、それでいて天意に適おうとするものです。滞った裁きを処断することで、水害や旱害を治めたとは伝え聞きますが、恩赦によって治めたとは聞いたことがありません。ですから恩赦を下しても、空は曇ったまま今に及んでおります。

前志(『漢書』五行志上)には「陰気が積もると陽が生じ、陽は火を生じ、火災が現れる」と言います。夏の気に乗じ、玉清昭応宮に漏れ出ると、雷雨が降りそそいで(1)炎が四方に起こり、高き楼閣も数刻にして燃え尽きました。これは火災の備えが不十分だったからではありません。これこそ天の戒めなのです。陛下におかれましては、平服に着替え、食膳を減らし、正殿を避け、みずからの責任をお示しになり、哀痛の詔を下し、不要の工事を止め、職を失った民を救い、国体に裨益することのない宰相や近習を罷め、権力を壟断するものを除き、政治や刑罰の失敗を顧慮し、賤しい人々の意見を聞き入れられたなら、災異を幸いに転ずることができましょう。

この旬日の間、まだこれらの実行を聞かず、かえって宮殿修復を計画していると伝え聞きます。城下の人々でこれを耳にしたものは驚き、集まってはあれこれ騒いでおりますが、みなおかしいと言っております。曰く、「章聖皇帝(真宗)は十余年の勤倹を行われ、天下は富み栄え、国庫は満ち溢れた。かくしてこの宮殿をお作りになったが、工事が終わるころには、天下の財は尽き果てていた。陛下は即位されてまだ十年にもならないのに、しばしば水害や旱害があった。税が減らされても百姓は困窮している。もし土木工事を興せば、費用は計り知れず、材料は内に尽き果て、百姓は外に疲弊するだろう。内には財が尽き、外には疲弊する。これでどうして国を治めるのだ。まして天は災異を降されたのに、自身でそれに違おうとされる。これは天と競い合おうとするもので、反省の色がないということだ。天に逆らうものは不祥。安逸も得がたく、大きな福も望めまい」と。いま陛下のなすべきことは、正しい人を招き、佞人を除き、徳を修めて政治に勤しみ、百姓の生活を保証し、税を緩めることです。そうすれば天意に謝意を示すことになり、また民情を安んずることもできましょう。そもそも賢君たるもの災異を見れば道を修めて凶を除きます。乱世に災異の跡がないのは、天が譴責しないからです。いま幸いに天は天変を示しました。いまこそ陛下が己を治めるべきときです。ゆるがせにしてよいものではありません。

そのむかし、漢の宣帝(2)の三年、茂陵(武帝陵)の白鶴館に火災がありました。詔を下して、「先だって火災が孝武の園館に降った。朕は戦慄恐懼している。災異の理由は明らかでないが、罪は朕の身にあろう。有司らは朕が過失を極言しようとせず、ここに立ち至った。いかにして天意を悟ったらよかろう」と言いました。そもそも茂陵は国都に及ばず、白鶴館はこの玉清昭応宮に及びません。しかし宣帝は詔を天下に降して己の過失を求めました。帝王の危機を憂い政を治めたこと、これほど汲々たるものだったのです。臣はまた『五行志』を調べますと、「賢者と佞人が分別し、人の任官に順序があり、古くからのしきたりに従えば、火はその本性を得る。もし道を信じること篤からず、あるいは虚偽を顕示し、讒言を入れるものが栄え、邪が正に勝てば、火はその本性を失う。上から降りてみだりに炎が起こり、宗廟を燃やし、宮室を焼く。軍隊を出しても救いようがない」とあります。魯の成公三年、新宮に火災がありました。劉向は「成公が三桓の子孫の讒言を信じ、父である宣公の臣(3)を放逐したことの報いである」と言っております。襄公九年の春、宋に火災がありました。劉向は「宋公が讒言を聴き入れ、その大夫の華弱を放逐し、〔華弱が〕魯国に出奔したことの報いである」と言っております。いま宮殿に火災があったのは、このために他なりません。陛下におかれましては、心ひそかに内省し、宮殿の修復を取り止めていただきたい。宮殿修復の労力を罷め、前世の法に従われるならば、天下の幸福です。


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(1)『国朝名臣奏議』巻27により改訂す。
(2)元帝の誤。以下、同じ。
(3)公孫帰父のこと。公孫帰父は成公の父・宣公の寵臣だった。



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