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儂智高


(01)仁宗の皇祐元年(1049)九月乙巳(十九日)、広源州の蛮族の儂智高が反乱を起こし、邕州を襲った。

唐初以来、儂氏は西原に勢力を持つ広源州の首領であった。交阯が強大になると、広源州はこれに服属した。唐の末期、儻猶州知事の儂全福が交阯に殺されると、その妻は商人と再婚して智高を生み、儂氏の出だと偽った。智高は成長すると、その母とともに儻猶州を奪い、大暦という国を建てた。交阯はこれを攻め、智高を捕らえたが、罪を許して広源州知事とした。しかし智高は交阯を憎むようになった。そこで隙に乗じて安徳州を奪い、その地を南天国とよび、景瑞なる元号に改めた。逃亡者を集め、貢納を中国に納めて帰属を求めたが、朝廷は許さなかった。そこで再び金と書簡を持たせて帰属を求めたが、またも許されなかった。智高はこれをに怒り、広州進士の黄師宓らと広南を襲う計画を立てた。そこで粗末な着物を食料と交換しては、領地が飢饉のため村落の者は離散してしまったと触れまわった。邕州知事の陳拱はこれを信じ、防備を怠った。ある日の夕暮れ、智高は不意に村を焼き払うと、人々をたばかりこう言った。――「日々の蓄えが火災で焼けてしまった。もう生きてはいけない。こうなったからには邕州と広州を攻め落として王になるしかない。さもなくば戦って死ぬだけだ。」人々は智高に従うことになった。そこで五千の兵を率いて河を東に下り、邕州の横江寨を攻めた。その地を守っていた張日新らは戦死した。江南・福建などの路に詔を下し、兵を出して防備させた。


(02)四年(1052)五月、智高は邕州と横州を攻め落とし、ついに広州を包囲した。鈐轄の陳曙らに詔を下し、兵を出して討伐させた。

智高は邕州を攻め落とすと、州知事の陳拱らを捕らえた。司戸参軍の孔宗旦を仲間に加えようとしたが、宗旦は屈服しなかった。そこでこれを罵って殺した。智高はその地で大南国を建てると、仁恵皇帝を名乗り、元号を啓暦に改め、官吏を置いた。当時、天下は長らく平和で、江南地方に備えはなく、智高の向かうところ、守官は城を棄てて逃げ出した。かくして智高は横・貴・藤・梧・康・端・龔・封の八州(1)を攻め落とした。封州知事の曹覲と康州知事の趙師旦はこのとき戦死した。

智高は広州に進軍して州城を包囲した。州知事の魏瓘は奮闘して城を守った。そこで英州知事の蘇緘は強者数千人を集めて救援に赴き、黄師宓の父を斬って見せしめとした。また転運使の王罕も外から駆けつけ、民兵を募って防備を堅めた。このため城は陥落を免れた。

事変が朝廷に報告されると、朝廷は陳曙に命じて賊を討伐させた。また余靖を広西安撫使とし、広西提刑の李枢および曙とともに賊徒の処分を委ねた。また楊畋を広南体量按撫使とし、広東所属の兵を援軍に向かわせた。


(03)六月丁亥(十六日)、狄青を枢密副使とした。

これ以前、尹洙は兵について青と語り合い、その所論に感心させられた。そこで韓琦と范仲淹に「彼は本当にいい将軍だよ」と薦めたところ、二人も青を厚遇するようになった。仲淹は「将軍たるもの、古今の事を知らねば匹夫の勇になってしまう」と言って、青に『左氏春秋』を与えた。これ以後、青は心を入れかえ読書に勤しみ、秦漢以来の用兵術を修得した。こうして馬軍副都指揮使にまで昇進した。

狄青は軍卒から身を起こし、十余年にして貴顕の地位を手に入れたが、顔の入れ墨は残したままであった。帝が薬で消すよう勧めると、青は自分の顔を指差し、「陛下が抜擢くださったのは私の功績によるもの、門地を問われませんでした。臣が今日ありますのは、この入れ墨のお陰です。引き続き軍中で働きとうございます。どうか御命令を受ぬことをお許し頂きたい。」このため帝の以前に増して青を信頼するようになった。

ここに至り、青を延州知事からよびよせ、枢密副使を授けた。台諫の王挙正らは諫めたが、帝は聞き入れなかった。


(04)秋七月、儂智高が昭州を攻め落とした。


(05)九月、孫沔を広南安撫使とした。

これ以前、沔は秦州知事となり、帝に謁見した。このとき帝は秦州をうまく治めるよう特に指摘した。すると沔はこう答えた。――「秦州は陛下の御心を煩わせるに足りません。陛下は嶺南(広南のこと)を憂いとなさらねばなりません。臣の観るところによりますと、賊の勢力は漲り、数日のうちにも官軍敗戦の報告が参りましょう。」すぐに昭州鈐轄の張忠から敗北の報告があった。そこで帝は沔を湖南江西安撫使とした。

沔が騎兵を出撃させ、武庫から良質の甲冑を出すよう求めた。梁適が「大袈裟なことをするな」と批判した。すると沔は、「備えがなかったからこうなったのだ。それを鎮定しようというのだ。そもそも準備を怠って鎮定に向かうなど、負けに行くようなものだ」と応えた。そこで七百の兵を授けた。

沔は賊が五嶺を越えて北進することを憂慮し、湖南と江西に檄を飛ばした。――「大軍がもうじき到着する。軍を整えて防塁を堅め、ねぎらいの準備をしておけ。」賊は大軍の到来を疑い、北に進むのを止めた。抃は鼎州に到着すると、広南安撫使を加えられた。


(06)智高の叛乱は日一日と激しさを増し、嶺外は騒動に巻き込まれたが、楊畋らはなんの功績を挙げられなかった。帝はこれを憂慮していた。そこで智高は書簡を朝廷に送り、邕桂節度使(邕州と桂州の節度使)を求めた。帝はその条件を受けようとしたが、梁適は「もし受ければ、嶺外は朝廷の手から離れるでしょう」と反対した。たまたま青から出軍の申し出があった。そこで青に宣撫使を与え、提挙広南経制盗賊事とした。

青は帝に謁見すると、「臣は軍卒から身を起こしました。戦いでなければ国恩に報いることはできません。異民族の騎兵数百に禁軍を加えていただきたい。さすれば賊徒の首を宮城にお持ちいたしましょう」と申し出た。帝はこの言葉に勇気づけられた。

入内都知の任守忠を青の副官にしようとした。すると知諫院の李兌が「唐が政治を誤ったのは、宦官に軍を監視させ、主将を掣肘させたからです。同じ轍を踏まれてはなりません」と諫めたので、守忠の任用を取り止めた。

また諫官の韓絳は「青は武人。専断の権を与えるべきではない」と訴えた。そこで帝は龎籍に問うたところ、籍は青を強く推し、「専断を任せないくらいなら、派遣しない方がましです」と付け加えた。そこで嶺南諸軍に詔を下し、すべて青の指揮下に入らせた。


(07)儂智高は賓州を攻め落とし、また邕州に入った。

当時、交阯から智高討伐の援軍の申し出があった。余靖はとりあえず許可しておいて、朝廷に判断を仰いだ。狄青は上奏してこう言った。――「兵を外国から借りて国内の反乱を鎮めるのでは、我等の利益にはなりません。わずか智高一人が二広(広南と広西)の地を闊歩するのを止められず、かえって蛮夷に兵を借りるとあらば、蛮夷は欲望のままに振る舞い、中国への恩義を忘れましょう。こうなってからもし兵乱でも起ころうものなら、防ぐ方法がありません。交阯の援軍を拒否して頂きたい。」帝は青の申し出に従った。


(08)十二月、狄青は賓州に兵を進めた。陳曙の兵が賊に敗れると、青はこれを斬って見せしめとした。

青は兵を進めるとき、隊列を整え、命令を厳守し、野宿には必ず冊を設けて防備を固めた。広南に到着すると、孫沔と余靖の兵を合わせて賓州まで進軍した。諸将には「勝手に賊と戦ってはならぬ。私の命令にだけ従え」と戒めていた。

江西鈐轄の陳曙は、青がまだ到着しないのを好機と捉え、歩兵八千を率いて賊を攻撃した。しかし崑崙関で隊は潰え、殿直の袁用らも逃げてしまった。青は「軍令が行き届かねば敗北を招くことになる」と言うと、明け方に諸将を庁舎に集めた。曙に会釈して立たせ、さらに用ら三十二人も呼び寄せた。そして敗北の罪状を数え上げると、彼等を軍門に駆り立て、斬り殺した。沔と靖は顔を見合わせて愕然とし、諸将もまたこれに震え上がり、だれも青を見上げるものはいなかった。


(09)五年(1053)春正月、夜中、狄青は崑崙関を越え、邕州で儂智高を撃破した。智高は大理に逃走した。かくして広南は平定された。

青は陳曙を処刑すると、閲兵して軍を止め、十日の休息を与えたが、命令の意味はだれにも分からなかった。賊の密偵は一味のもとに戻ると、「すぐには進軍しないようだ」と報告した。

翌日、青は兵を整え、自身は前軍を、孫沔は次軍を、余靖は殿軍を指揮し、夕暮れには崑崙関に到着した。明け方、大将旗と鼓を準備すると、諸将は帳を囲み、軍令を待って出発した。青はひそかに先鋒とともに関所を調べていたが、諸将のところにもどると関所の外で会食した。

賊軍はようやく事態を悟り、全軍を繰り出して迎え撃った。右将の孫節が賊と戦って山麓で死ぬと、賊軍の勢は増し、沔らは色を失った。青は白旗を握って異族の騎兵を率い、左右両翼から縦横無尽に軍を進めたが、隊列が乱れることはなかった。賊軍はなすところを知らず、大敗して敗走した。追撃すること五十里、斬首すること数千。賊の黄師宓・儂建中、および智高の属官などは死者百五十七人、生け捕り五百余人。全体の死者は万をもって数えた。

夜中、智高らは城下に火を放って逃げ去り、合江口から大理に入った。明け方、青は兵を率いて城に入り、巨万の金帛を収用すると、賊軍に徴発されていた七千二百人の老人や青年を安心させた。城下で師宓らをさらし首とし、勝利を記念して屍を州城の北に積み上げた。このとき金龍の着物をまとった賊の死体が見つかった。みな智高が死んだといって帝に報告しようとした。しかし青は「賊の奸計でないとは言い切れぬ。朝廷を欺いて功績を手に入れるより、智高を逃した方がよい」と言った。かくして広南は平定された。

勝利の報が朝廷にもたらされると、帝は喜び、「青が賊軍を破ることができたのは、龎籍の力添えがあったからだ」と言い、「さきに梁適の発言がなければ、南方の安危は計り知れなかった」とも言った。

余靖に詔を下して広西の後始末をさせ、智高を追撃させた。また青と沔を都に呼び戻した。二年後、靖は都監の蕭注を特磨道に送り込み、智高の母と弟の智光、子の継宗と継封を生け捕りにした。また決死隊を集め、大理に潜入して智高を追い求めさせた。彼等は通訳を重ねてたどり着いたが、既に智高は大理で死んでいた。そこで智高の首を箱詰めにして京師に送り、智高の母と弟および子を処刑した。


(10)五月、狄青を枢密使とし、孫沔を副使とした。広南平定の功に報いるためである。

龎籍をはじめ、台諫や朝廷の官僚は、青を中央官庁の長にしてはならないと批判したが、帝は聞き入れなかった。


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(1)『宋史』はこの八州に潯州を加えて九州とする。



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