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貝州卒乱(王則)


(01)仁宗の慶暦七年(1047)十一月、貝州の兵卒の王則が城を奪って反乱を起こした。明鎬を河北安撫使とした。

則は涿州の人であった。飢饉のため、貝州まで流浪し、家畜飼いに身をやつしていたが、宣毅軍の小校になった。貝州や冀州には妖術を尊ぶ風習があり、人々は『五龍経』『滴涙経』や図讖といった予言書を学んでおり、「釈迦仏が世を去られたら、弥勒が現世をお救いになる」と言っていた。則は母親と別れる際、目印のため「福」の字を背中に彫っていた。妖術師が則の背中に「福」の字があると言いふらしたため、人々は争って則に従うようになった。そこで州の下役人の張巒と卜吉は謀略を張り巡らせ、徳州や斉州の一味と結託して、来年の正月正旦に澶州の浮橋を落として叛乱を起こそうとしていた。一味の者が密書もって北京留守の賈昌朝に訴えたので、事件が発覚して賊は逮捕された。このため則は時期を待たず、すぐさま冬至の日に反乱を起こした。

当時、貝州知事の張得一は属官とともに天慶観を詣でていた。則は一味とともに武器庫を襲い、得一を捕縛した。通判の董元亨に武器庫の鍵を探させようとしたが、元亨は声を荒げて賊徒を罵ったため、賊に殺されてしまった。また司理参軍の王奨らも殺された。兵馬都監の田斌は兵卒を率いて市街戦を繰り広げたが、敗北して城外に逃げた。城門が閉じると、提点刑獄の田京らは縄梯子によって逃げ、南方の関所を守り、驍健軍に赴いて兵を安心させた。賊に内応しようとするものがいると、京は計略を用いて全て殺した。このため城外の驍健軍はみな京に従い、南方の関所は賊の手に落ちなかった。

則は東平王を僭称し、安陽国を建て、年号を徳勝(1)とした。旗・幟・号令には「仏」を用いた。城中の一楼を一州とし、州の名を書き、一味を州知事に命じて各所に配置した。また一面ごとに総管一人を置いた。しかし城から逃げるものは日増しに多くなった。このため民を五人ごとにまとめて保とし、一人でも逃亡すれば、全員を斬り殺した。

事変が朝廷に報告されると、開封府知事の明鎬を体量安撫使とした。また貝州には「賊を捕らえることのできたものは、諸衛の上将軍を授ける」と詔を下した。

鎬は貝州に到着すると、王文慶という民が城から鎬の帳に向かって矢文を放った。そこには内応すると記されていた。夜中、文慶は縄を下ろして官軍を引き入れた。数百人ほどが城に侵入したとき、賊は官軍の潜入に気付き、一味を率いて抗戦した。官軍に利がなく、文慶らは縄をつたって逃げ去った。

鎬は貝州城の防備が堅く、攻略不可能と判断し、別に城壁を築こうとしたが、完成間近になって賊に焼かれた。鎬は南城から地下道を掘らせる一方、賊の目をそらすべく、連日城の北側を攻め立てた。


(02)八年(1048)春正月、朝廷は則の反乱が鎮定されていないため、文彦博を河北宣撫使とし、鎬を副官とした。

夏竦は鎬を嫌っており、その成功を恐れていた。そこで鎬が何事かを上奏しても、朝廷で邪魔していた。彦博は命令を受けると、軍事作戦の専断を願い出たので、朝廷はこれを許可した。彦博が貝州に到着したとき、ちょうど鎬が掘らせていた地下道が完成した。そこで壮士を選びと、夜半に地下道から城内に潜入させた。官軍が城に攻め登ると、賊は火牛を放った。官軍は槍を牛の鼻に突き立てた。すると牛は振り返って賊徒を攻撃した。かくして賊は大敗し、城の東門を開けて逃げた。総管の王信は則を追い、これを生け捕りにした。民屋の守備についていたものはみな焼け死んだ。竦から偽者を捕縛したのではないかと横槍がはいったので、則を檻に入れて京師に護送させ、市中で磔の刑に処した。賊徒が城を奪ってから敗れるまで、全六十六日であった。


(03)貝州を恩州に改めた。賊に降伏した罪に問われ、張得一は処刑された。

詔を下し、彦博を同平章事とし、明鎬に端明殿学士を加え、賈昌朝を安国公に封じた。侍読学士の楊偕は「叛乱は昌朝の管轄下で起こりました。大臣を派遣してようやく平定できたのです。昌朝を処罰するならともかく、恩賞を与えるなどとんでもない」と批判したが、聞き入れられなかった。


(04)夏四月、明鎬を参知政事とした。これは文彦博が貝州での鎬の功績を称え、大臣の資質があると推薦したからである。


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(1)『宋史』は得聖とする。



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