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英宗之立


(01)仁宗の景祐二年(1035)春二月、宗室の子の宗実を宮中で養育させた。宗実は太宗の曾孫で、商王の元份の孫、江寧節度使の允譲の子である。帝にまだ世継ぎがなかったので、〔允譲の子を〕取りよせ、皇后に養育させた。生後四年目のことだった。


(02)嘉祐元年(1056)五月、知諫院の范鎮を罷免した。

これ以前、帝が急病に倒れたとき、宰相の文彦博は後継ぎを立てるよう申し出た。帝もそれを許した。しかしたまたま疾病が癒えたので、世継ぎの件は取りやめになった。ここに至り、范鎮は勇気を奮い起こし、「天下の事として、これより重大なものはありません」と言うと、次の意見書を提出した。

諫官は宗廟・社稷の計ために設けられました。諫官として宗廟社稷の計を陛下に申し上げぬとあらば、これは死を惜しみ利を好む人間のすることであり、臣にできかねることです。陛下がお倒れになったとき、世の人々は恐れおののき、なすところ知りませんでした。ただ陛下だけは祖宗の後裔を念慮となされましたが、それは宗廟社稷を顧慮すること極めて深甚明白であらせらたからで御座いましょう。むかし太祖はその子を措いて太宗を立てられましたが、これは天下にとってまことに正しいことでした。真宗は周王が薨ぜられたとき、宗子を宮中に養われましたが、これは天下のために大いに顧慮するところがあったからです。願わくは太祖の心を以て真宗の故事を行い、近親の中で最も優れたものを選んで優遇し、そのものを陛下の左右に置き、政事を執らせ、億兆の人心を繋げられませ。陛下のお子様がお生まれになった曉には、また宗室に還されたなら宜しいと存じます。

鎮は意見書を何度も提出したが、聞き入れられなかった。文彦博が「なんたる売名行為だ」と言うと、鎮は書簡を送ってこう言った。――「天の動きに変化がありました。突然の兵乱があるやもしれません。ならば鎮のすべきことは職に殉ずることであり、乱兵の中に死ぬことにはありません。いまこそ鎮が死を覚悟するときなのです。売名行為などに気を取られておる暇はありません。」また「陛下は臣の訴えを御覧になり、御自分の手許に留め置かれず、中書に送付されました。これは大臣に問題を処理させようとされたからです。臣は二回中書に出向きましたが、大臣は理由をつけて臣を拒みました。大臣が畏避する理由を考えますと、もしこれを実行に移しても、陛下が途中でお考えを変えられるのではないかと恐れてのことでしょう。しかし途中でお考えを変えられたときの災禍は、一人の死にすぎません。しかし国の根幹が立たぬとき、万一にも天の告げるが如き、突然の兵乱がありましたなら、死してもなお罪があります。それでは計略を画すものとして既に疎漏にございます。どうか臣の奏書を大臣に示し、私の死に場所としていただきたい。」これを聞いた者は震え上がった。

鎮は兼侍御史知雑事を授けられたが、意見の不採用を理由に固辞した。彦博は鎮を諭して、「既に讒言が陛下の耳に入ったとのこと。実施に移すのは難しかろう。」

鎮、「物事はその是非をこそ論ずべきであり、難易を問題とすべきではない。諸公は『今は前より難しい』とおおせだが、なぜ後日が今日より簡単だと言えるのです。」

帝に直接訴えること三回、ために涙を流した。帝もまた涙し、「朕は卿の忠義を知っておる。二三年まってくれ。」鎮は前後十九回にわたって上奏し、命令を待つこと百余日、鬚や髪は真っ白になった。鎮の心を曲げられないと判断した朝廷は、知諫院を罷めさせ、糾察在京刑獄に改めた。

当時、并州通判の司馬光も世継ぎについて意見したが、鎮には死を賭して争うよう助言していた。翰林学士の欧陽脩も次のように訴えた。

陛下は臨御以来三十余年、しかるに世継ぎの住まう宮殿はまだ建てられず、典礼は久しく欠いております。漢の文帝が即位したとき、群臣は太子を立てるよう求めました。群臣は疑念を抱かずに敢えて求め、文帝もまた臣に二心あるを疑いませんでした。後唐の明宗は人が太子について意見することを最も憎んでおりました。しかし文帝は太子を設けて以後、国を享けること長く、漢の太宗となりました。明宗は世継ぎをすぐに定めず、秦王が非命の大望を抱いたがため、大禍に陥り、後唐はついに乱れました。陛下は何を疑われて久しく世継ぎを定められぬのです。

殿中侍御史の包拯、呂景初、趙抃、知制誥の呉奎、劉敞などもみな意見書を提出し、世継ぎの選定を力説した。このため宰輔の文彦博、富弼、王堯臣らも相継いで帝に大計を定めるよう求めたが、みな聞き入れられなかった。


(03)三年(1058)六月、韓琦を同平章事とした。

当時、群臣は世継ぎを立てるよう求めていたが、帝はなかなか決心できなかった。琦は宰相になると、機会を見てこう進言した。――「世継ぎは天下の安危に関係するところ。昔から禍乱が起こるのは、みな早くに世継ぎを定めなかったことによります。陛下はなぜ宗室から優れた者を選び、宗廟・社稷のことをお計りにならないのです。」

帝、「後宮に〔分娩のため〕館に移った女がいる。しばらく待て。」

しばらくして女児が生まれた。琦は『漢書』孔光伝を手に進言した。――「成帝は世継ぎがなく、弟の子を皇太子としました。成帝は平凡な君主であったにも関わらず、これほどでした。ましてや陛下におかれましては申すまでもありません。請い願いますには、太祖の心をご自身の心となさりませ。さすればうまくいかぬものはありません。」

帝は返事をしなかった。


(04)包拯を御史中丞とした。

拯、「東宮がおかれぬこと久しく、天下は憂えております。そもそも万物にはみな根本があります。太子は天下の根本です。根本が立たぬこと、これほど大きい禍はありまますまい。」

帝、「卿は誰がよいと思う。」

拯、「臣は非才にもかかわらず、この地位を与えられました。太子を立てるよう申しましたのは、宗廟のため万世の計をなせばこそ。陛下は臣に誰を立てればよいかと問われましたが、これは臣をお疑いということです。臣は年七十、また子も御座いません。後々の利得を求めるものではありません。」

帝は喜んで、「そろそろ考えねばなるまい」と答えた。


(05)四年(1059)十一月、汝南王の允譲が死んだ。濮王を追封された。

允譲は生まれつき重厚な人柄だった。心は寛容でありながら、振る舞いは荘厳であり、喜怒哀楽を表に出すことはなかった。知大宗正寺を勤めること二十年、宗室の子弟に好学のものがおれば善を進めた。もし教導に従わなければ、悪事を戒めて善を進めた。それでも変化がない場合に限り、その者を処罰した。そのためみな允譲に畏服した。死ぬと安懿なる諡を与えられた。子の宗実が宮中で養育されていたので、優遇されたのである。


(06)六年(1061)六月、司馬光を知諫院とした。

光は帝に謁見すると、まずこう言った。「私は并州通判でありましたとき、三つの意見書を提出いたしました。陛下におかれましては、あのことを果断に実施していただきたい。」

帝は長らく考え込んだ後、「宗室から世継ぎを選べというのだろう。たしかに忠臣の発言だ。ただ誰もこれに言及しなかっただけだ。」

光、「私はこれを発言するため、死を覚悟いたしておりました。陛下にご嘉納いただけるとは思いもよらぬことにございます。」

帝、「なんの問題がある。むかしからあることだ。」


(07)十月壬辰(十三日)、〔喪中の〕宗実を知宗正寺に復帰させた。

帝は続けて三人の王を失うと、至和(年号)以来、病に伏せって正殿に足を運べなくなった。このため世の人々はみな不安に戦いていた。臣下は世継ぎを立て、国の根本を固うすべきだと発言し、包拯や范鎮は特に強く迫った。しかし五六年が過ぎてもなかなか世継ぎは立てられず、意見する者も少なくなった。前年、韓琦が宰相としてはじめて謁見したとき、機会を見て世継ぎに言及し、孔光伝を手に進言したが、帝は答えなかった。曾公亮、張昪、欧陽脩らも強く迫った。ここに至り、司馬光は意見書を提出した。

先だって私は太子を立てるよう進言したところ、すぐに行うとの仰せでした。しかるに今に至るまで何の音沙汰もございません。これは必ずや小人がこう申したものと思われます。曰く、『陛下はまだまだお若い。どうしてそんな不吉なことを急かれるのです』と。小人には遠謀がありません。万一のとき、自身に都合のよいものを帝にしようと思っているだけです。『定策の国老』や『天子を門生とする』などの禍について、くどくどしく申し上げる必要もございますまい。

帝は大いに心を動かされ、「中書に送ろう」と言った。光は韓琦らに見えると、「諸公らは今日まで世継ぎを定められなかった。夜に禁中から寸紙が出され、そこに『某人を世継ぎとせよ』とあるでしょう。そうすれば天下に敢えて異論もありますまい。」琦らは両手を組んで感謝の意を示し、「力を尽くす所存だ」と答えた。この時、江州知事の呂誨もこの件についての意見書を提出した。

琦は帝に謁見すると、光と誨の二つの意見書を進読した。

帝は不意に、「朕も久しく考えていた。誰がよかろう。」

琦は恐懼し、「これは私などが論ずべきものではありません。陛下の御心から御判断いただきたい。」

帝、「宮中に二人を養っておる。小さいほうは純粋だが、軽薄で智慧がない。大きいほうがよかろう。」

琦が名前をたずねると、帝は「宗実だ」と答えた。琦らはこれに賛意を示し、かくして世継ぎが決まった。宗実は生まれつき篤実で、孝行者であり、読書を好み、軽薄なところがなく、衣服も儒者のように質素だった。当時、濮王の喪中だったが、復帰させて知宗正寺を授けた。

琦、「一旦決定した以上、途中で止めてはなりません。陛下は御心から決断されたのです。どうか宮中より中批(皇帝の言葉)を頂きたい。」

帝は宮中に知られるのを厭い、「ただ中書が行えばよい」と言った。命が下ると、宗実は固辞し、喪を終わせて欲しいと願い出た。帝はまた琦にたずねた。

琦、「陛下はかの方を賢者とお認めになられた上で世継ぎにお選びになられました。かの方が敢えて慌ただしく太子の位を望まれぬのは、まことに器量見識ともに遠大なることで、賢者の証にございます。どうか強く復帰させられますように。」

帝はこれに賛同した。十八回の申し出があって、ようやく許された。


(08)七年(1062)八月己卯(五日)、宗実を皇子とし、名を曙とした。


(09)九月乙巳朔、皇子の曙を鹿郡王に昇格した。

宗実の喪が終わると、韓琦は「知宗正寺の命が下ったことで、あの方が皇子になられることは明らかになりました。名実の伴った名前を与えた方が宜しいでしょう」と言っ。帝はそれに従った。

琦は中書に赴くと、翰林学士の王珪に詔書を書かせようとした。

珪、「これは一大事。陛下から直接可否をいただかねば書くわけにまいりません。」

翌日、珪は帝に謁見し、「天下は長い間今日のことを待っておりました。しかし本当に陛下の御心によるものでしょうか。」

帝、「朕が意は定まっておる。」

珪は再拝して慶賀し、御前を退いてようやく詔書を書いた。欧陽脩はそれを聞いて、「王珪は本物の学士だ」と感嘆した。

詔は下ったが、宗実はまた病を理由に固辞し、通計十余回にものぼった。記室の周孟陽が理由をたずねた。

宗実、「福(1)を求めぬのは、禍を避けたいからだ。」

孟陽、「既に形に現れてしまったのです。もし固辞して受けられず、宮中が別の人を選ばれたところで、はたして安穏無事ということになりますかな。」

宗実はようやく事態を悟った。司馬光も帝に「皇子が計り知れぬ富を辞退されてから、すでに一ヶ月になります。その賢なること遠く人に過ぎております。しかし父が召して応じずとも、君として召されたならすぐにもやって参りましょう。臣子の大義でもってお申し付けなさませ。必ずや宮中に御出になります。」帝は光の意見に従うと、宗実はようやく命を受けた。

宗実は宮中に入るにあたり、館の者に「我が邸宅を守っておれ。上に嫡子が生まれたら、私は帰ってくるから」と戒めた。輿に乗って宮中に出向いたが、伴の者は三十人に及ばず、調度品もわびしく、わずかの書物を持参しただけだった。世の人々はみなで慶びあった。


(10)八年(1063)春二月癸未(十一日)、帝は病に倒れた。丙戌(十四日)、中書と枢密は福寧殿の西閣で政務の報告を行った。


(11)三月辛未(二十九日)、帝は福寧殿で崩じた。年五十四。遺制には、皇子を皇帝の位に即け、葬儀は節約に従うようにとあった。

皇后は宮城の門をすべて閉めると、鍵を前に置き(2)、翌朝を待って皇子を呼び、皇帝の位を嗣がせた。皇子は驚いて、「私がなぜそのようなことを」と言って逃げ出したが、韓琦らがつかまえて連れ戻した。


(12)夏四月壬申朔、皇子が皇帝の位に即いた。

帝は三年の喪に服したいと言って、韓琦に冢宰となり政務を見るよう命じたが、宰相らは従わず、この件は取りやめになった。


(13)乙亥(四日)、帝が病に倒れた。


(14)丙子(五日)、皇后を尊んで皇太后とした。


(15)己卯(八日)、皇太后に権同処分軍国事(3)を要請した。后は内東門の小殿に赴き、御簾を垂れて政務を執り、宰相らは毎日政務を報告した。

太后は天性慈愛に溢れ、質素であった。経書や史書に通暁しており、いつもそれらを参考に物事を決めていた。朝廷内外から届けられる意見書は毎日数十を数えたが、一々その要点を押さえていた。疑問があれば、「諸公らはもう一度よく考えよ」と言い、自分の意見をさきに出すことはなかった。一族の曹氏や近臣に対しても、少しも仮借するところがなく、宮中は肅然としていた。


(16)庚子(二十九日)、高氏を皇后とした。

后は侍中の瓊の孫娘である。母が太后の姉の曹氏だったので、幼いころから宮中で育てられた。帝とは同い年であり、二人して太后に育てられた。仁宗はいつも「いつの日かきっと娶せてやろう」と言っていた。成長して宮廷を出て、濮王の邸(英宗のこと)に嫁ぎ、京兆郡君に封ぜられ、三人の子を生んだ。ここに至り、皇后となった。


(17)秋七月、帝の病が癒えた。

これ以前、帝の病がひどいとき、常軌を逸した振る舞いが多々あったが、特に宦官に対しては辛くあたった。このため近臣の多くは帝を嫌がった。そこでみなで讒言し、帝と太后の間に隙が生じた。世の人々はどうなることかと恐れていた。知諫院の呂誨は帝と太后に意見書を提出し、大義を開陳し、忌憚ない発言を行った。しかし両者のわだかまりは解けなかった。

ある日、韓琦と欧陽脩が政務の報告に御簾の前にやって来ると、太后は嗚咽して涙を流し、切々とそのわけを話した。

琦、「それはご病気だからです。病が癒えられたら、きっとそのようなことはなさいません。子が病んでしたことを、母として許せないと仰せですか。」

太后がまだ許せずにいると、脩は進み出て、「太后は先帝にお仕えになること数十年、その仁徳は天下のともに知るところです。むかし温成が寵愛を得たとき、太后はこれに対して泰然としておられました。いま母と子の間のことですのに、かえって許せぬと仰せでしょうか。」

太后は少しく気持ちを和らげた。

脩はさらに言葉を続け、「先帝は位にあること久しく、徳沢は人に及んでおります。ですから突然のお隠れにも、天下は世継ぎの君を奉り、敢えて異論を挟むものがおりませんでした。いま太后は一人の女性、臣等は五六人の書生にすぎません。先帝のご遺志がなければ、天下の誰が聴き従うでしょう。」

太后が黙りこんでしまうと、琦は進み出て、「私共は宮廷の外におります。陛下のお体に万一のことがあれば、太后はその責任を避けられますまい。」

太后は驚いて、「なにを言うか。心から心配しておる。」

そばで聞いていた同僚らは一様に冷や汗を流した。

数日後、琦はひとりで帝に謁見した。

帝、「太后は私につらくあたる。」

琦、「むかしから聖帝や明王と呼ばれる人は少なくありませんが、ただ舜だけが大孝と言われております。もちろんそれ以外が不孝者だったわけではありません。父母が慈愛に満ちており、子が孝行であること、これは当り前のことです。父母に慈愛がなく、それでいて子が孝行を失わない。これこそ褒め称えられる理由です。思うに、陛下のお仕えに至らぬところがあるのではありますまいか。父母として慈愛のないものはおりません。」 帝は大いに心を動かされた。


(18)帝は六月以来、この月の壬子(十三日)に至るまで、正殿に赴かなかった。ここに至り、はじめて紫宸殿に赴き、百官に見えた。琦は輿に乗って雨乞いを行うよう求めた。帝は素服(白い粗末な衣服)で赴いた。これを見て人々は安堵した。


(19)冬十月甲午(二十七日)、仁宗を永昭陵に葬った。


(20)十二月己巳(二日)、経筵を開いた。

翰林〔侍読〕学士の劉敞は『史記』を進読した。堯が舜に天下を譲った件まで読み進むと、恭しく手を重ね合わせ、「舜は極めて賤しい身分の者でしたが、堯は王の位を譲り、天地は舜を認め、百姓は舜を上に戴きました。それは他でもありません、ただ舜の孝行友愛の徳が天下に満ち溢れていたからです。」帝は恐懼して身をすくめた。太后もこれを耳にして大いに喜んだ。かくして二人の対立も少しづつ解けていった。


(21)英宗の治平元年(1064)夏五月、帝の病が癒えた。

韓琦は太后に、御簾を取り払い、政務を帝に返還するよう求めた。そこで十余りの政務を帝に示したところ、帝の決裁はみな正しかった。琦はすぐさま太后を詣でて報告した。太后は案件ごとに正しい判断だと褒めた。そこで琦は后に〔政務を帝に還して〕後宮に戻るよう求めた。

后、「相公は去ってはならぬ。私は後宮にもどろう。ここにいたのは、やむを得なかっただけのこと。」

琦、「前代の太后は、馬氏や鄧氏ほどの賢才であっても、権勢に恋々たるを免れませんでした。今日、太后が速やかに帝に政権をお還しになられたこと、誠に馬氏や鄧氏ですら及ばぬところにございます。つきましては、いつ御簾を除きましょうか。」

太后はそのまま立ち退いてしまったので、琦はすぐに御簾を除かせた。御簾が落とされたとき、まだ御屏の後に太后の衣が見えていた。帝はみずから政務を執るようになると、琦に尚書右僕射を加えた。

呂中の評語。国家が疑心暗鬼にとらわれているとき、大臣として責を果たすに必要なものは、一に徳望、二に才智である。才智があっても徳望の重みがなければ、天下の心を服すに充分でない。徳望があっても才智に裏付けられておらねば、天下の事を捌くに充分でない。だから「幼君を頼むこともでき、国務を執らせることもでき、重大事に臨んでその心を奪うことのできぬもの」と言われるのである。韓魏公(韓琦のこと)は慶暦・嘉祐以来、国家の大事を任せられ、その重々しさは周勃のようであり、その徳望信頼は久しかった。事を断じ変に応ずる際にも、その胸中の才智は天下を治めるに充分だった。これこそ英宗の始まりを正しく導けた理由であろう。真宗の初めには呂端がおり、仁宗の初めには王曾がいた。これはみな国家・社稷を守った名臣である。


(22)丙辰(二十一日)、皇太后の宮殿の名を尊んで滋壽殿とした。


(23)秋八月、内侍都知の任守忠を蘄州に配流した。

そのむかし章献太后が政務を執っていたころ、守忠は都知の江徳明らと結託して利権を貪り、巨大な権力を握っていた。その後、宣政使・入内都知になった。仁宗にまだ世継ぎがいなかったとき、帝にあれこれ吹き込んでいた。守忠の考えでは、庸暗の幼君を皇帝にして、巨利を我が物にしようとしていたのである。帝が即位すると、帝の病気に乗じて両宮に溝をつくった。

知諫院の司馬光は「守忠には両宮離間の罪があり、国家の大賊である。民のまえで斬首していただきたい」と訴えた。呂誨も意見書を提出した。帝はこれらの発言を受け入れた。

明日、韓琦が署名のみの勅書を一枚出した。そこには既に欧陽脩の署名があった。趙概が非難すると、脩は「署名しただけだ。韓公には何か考えがあるのだろう」と言った。すぐに琦は政事堂に着座し、守忠を庭に立たせた。

琦、「お前の罪は死刑に相当する。」

こう言ってから蘄州安置とし、署名のみの勅書を手に問責し、即日処罰を執行した。少しく刑罰を緩めれば、改心すると考えてのことだった。その一味の史昭錫らもすべて南方に配流された。世の人々は喜びあった。


(24)二年(1065)春二月、三司使の蔡襄を罷免した。

帝は濮邸から皇子になったが、こんな噂を耳にした。――近臣の中に異論を挟むものがいる、それは襄のことだ。即位してからも、襄とはどのような人間かと何度も聞いていた。韓琦らは襄のために弁解したが、帝の心は晴れなかった。襄が辞任の意向を伝えたので、杭州知事として地方に出した。


(25)秋七月、富弼を罷免した。

嘉祐年間、韓琦と弼はともに宰相となり、中書に問題が起これば、よく枢密院と相談していた。しかし弼が枢密使になってからというもの、帝の命令で〔中書と枢密が〕合議するときでもなければ、琦は弼に相談しようとしなかった。そのため弼は面白くなかった。

太后が政権を還すことになると、弼は大いに驚いて、「私は輔弼の任にありながら、何事に関わらず政務に預かり得なかったが、これほどのことですら韓公は相談できぬというのか」と言った。琦を批判するものもいたが、琦は「これはあのとき太后が判断なされたこと。おおっぴらに相談できることかね」と言った。弼はますます不快になった。

帝がみずから政務を執るようになると、弼に戸部尚書を加えた。

弼は辞退して、「制書の言葉には、嘉祐のとき世継ぎを建議したことに対する感謝の気持ちだとあります。しかしあれはごくわずかのことであり、賞をいただくほどのことではありません。むしろ仁宗と太后は陛下にとって天地の恩がございます。しかしまだその恩に報いられたとは、存じ上げません。むしろ順序が逆と申すべきでしょう。」

二度も辞退したが許されなかったので、受けることになった。ここに至り、足の病を理由に〔枢密使の〕解任を求めた。二十回以上も申請して、ようやく使相・鄭国公・揚州判事になった。すぐに汝州判事に移った。


(26)文彦博を枢密使とした。

彦博は河南から報告のため都をおとずれ、帝に謁見した。

帝、「朕が皇帝になれたのは、そなたのお陰だ。」

彦博は震え上がって、「陛下が大いなる御位をお継ぎになられたのは、先帝の意志、皇太后のお支えがあってのこと。臣に何の功績がありましょう。またあのとき私は外地におりました。みな韓琦らが帝の御心にかない、その御遺志を受けたもの。私に関わりなきことです。」

そこで帝の申し出を謝辞した。

帝、「しばしの間、西方への労をとって欲しい。すぐに呼び戻すつもりだ。」

そこで永興軍判事に改めた。すぐに枢密使として呼び戻した。


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(1)ここでは世継ぎとなることを指す。
(2)これだけでは意味不明だが、仁宗の崩御は夜中だったため、夜が明けるまで宮城の門を閉じ、不逞の輩の侵入を阻止したのである。
(3)権(かり)に〔皇帝と〕同(とも)に軍国(軍事と政治)の事を処分(処置)するという意味。



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