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刺義勇


英宗の治平元年(1064)十一月、陝西の民を集めて義勇軍とした。

このとき韓琦は次のような献言をした。

三代漢唐以来、いずれも民を徴用して兵隊としました。そのため兵の数はたとえ多くとも、費用は低廉でした。地方を統べ、四方の夷狄を威服せしめること、昨今の冗漫な兵の比ではなかったのです。唐が府兵を置いたのは、最も古代に近いやり方でしたが、天宝以後には廃止され、それ以来もとに戻りませんでした。それが因循して五代になり、広く遠征軍を募集するようになりました。そのため天下を困窮させながら、給付が覚束なくなったのです。

現在、義勇軍は河北に概算十五万、河東に概算八万おります。その勇敢純粋さは天性のものであり、さらに財産や一族に関わることですので、これに少しく訓練を施せば、唐の府兵となりましょう。

陝西は西夏との戦争が始まったとき、三丁に一丁を選んで弓手とし、その後保捷軍に編入しました。夏国が帰順してから、朝廷は彼等の配置換えを行い、現在残っているものほとんどありません。

河東・河北・陝西の三路は西北防禦の地ですので、一塊として考えねばなりません。今後、陝西の諸州に於いても、義勇軍を徴用しては如何でしょうか。その場合、ただ手の甲に入れ墨をするだけにします。顔に入れ墨を施さないと分かれば、騒ぎも起こらないでしょう。あるいは永興・河中・鳳翔の三府に於いて、まず兵士として徴用し、周知徹底させた後、順次他の諸郡に及ぼすのも宜しいでしょう。一時的には少しの騒動も起こりましょうが、結局は長久の利益になるはずです。

詔を下し、これに従った。そこで徐億らに命じ、陝西の主戸の三丁に一丁を選び、手の甲に入れ墨を施し、兵士として徴用した。全十五万六千人。人ひとりにつき銭二千を授けた。民間は騒然となり、規律は杜撰で、役に立たなかった。

知制誥の司馬光は次のように訴えた。

私が伝え聞くところによりますと、朝廷は陝西提点刑獄の陳安石を派遣し、陝西路に於いて、人戸三千の内、一丁を義勇軍に充てさせたとのこと。実際は存じませんが、もし本当であれば、全くもって有益なこととは申せません。私が考えますところによりますと、これを論じたものは、必ずやこう考えたはずです。曰く、「河北と河東には義勇軍があるのに、陝西だけにはない。近頃、趙諒祚が国境周辺で略奪を行っている。広く民兵を徴用して事変に備えさせよう」と。

私は伏して考えますに、康定・慶暦の時代、趙元昊が反乱を起こしたとき、我が朝の軍は相継いで敗北し、戦死者はややもすれば万をもって数え、国家の正規軍は不足しました。そこで陝西の民を徴用し、三丁の内から一丁を選んで郷弓手としました。すぐにまた保捷軍の指揮下に編入し、国境の守備に充てました。この時、陝西の地に恐怖や哀怨の声が起こったこと、一々申し上げるまでもございません。農耕の民は戦い方を知りません。官庁は衣服や兵粮を調達し、私家はさらに運搬に狩り出され、骨肉の親兄弟は離ればなれになり、田園は荒れ果てました。陝西の民は奥屋を連ねて没落し、今に至るまで二十余年、ついに復旧し得なかったのは、すべてこれによるものです。これらの失策は今時の戒めとするに充分なものがあります。この時、河北と河東の緊張が少しく緩んだため、朝廷はただその地の民を義勇に徴用するだけですみ、軍には編入しませんでした。これを陝西の保捷軍と比較すれば、その害悪は少なかったと申せましょう。しかし国家はこれを用いて戎狄を防御しましたが、それで僅かの利益でも得られましたでしょうか。

現在、事を論ずるものは、陝西に義勇軍がないのを怪しみながら、陝西の民は三丁の内にすでに一丁を保捷軍に充てられているのを知らぬのです。西方の紛争が起こってからというもの、陝西は増税に苦しみ、景祐以前に比較して、民力は三分の二に減っております。これに加え、近年しばしば凶年に遭い、今年の秋も実りが少のうございました。税の軽減を望むこのとき、さらに国境に緊張が高まれば、人々の心は動揺しましょう。その上さらにこの詔が下りでもすれば、必ずや大いなる騒動が起こり、人々が憂苦すること、かの康定・慶暦の時代の如くなりましょう。これでは蛮族がまだ来ぬうちから、みずから困窮することになりましょう。ましてやいま陝西の正規軍は甚だ多く、不足は御座いません。それにも関わらず、なぜにわかにこのような有害無益なことをして、覆車の轍を蹈もうとなさるのです。

伏して請い願いますには、朝廷は利害を慎重に判断され、この政策を罷めていただけるなら、誠に一方の大幸です。

光は続けて六度も意見書を提出したが、聞き入れられなかった。そのため中書に出向き、韓琦と言い争った。

琦、「兵は先手を打つことが大事だ。諒祚は悪賢く、驕り高ぶっているが、我が方がにわかに二十万もの造兵をしたと聞けば、恐れぬはずはあるまい。」

光、「兵は先手を打つことが大事だとしても、実体がなければ一日とて欺し得るものではありません。いま我等が増兵しても、実際に役に立たぬようでは、十日も経たずして彼等は実情を知ることになりましょう。それでなにを恐れるというのです。」

琦、「君は、慶暦の時代、郷兵を保捷軍に充てたのを見て、今度もまた同じではないかと恐れているのだろう。既に敕を降して民と約束したのだ。決して軍に充てて辺境に派遣するようなことはしない。」

光、「朝廷はかつて民の信用を失いました。どうしても信じられませんな。」

琦、「私がここにいるのだ。君は心配しなくてもいい。」

光、「公が長くその地位におられるなら、宜しいでしょう。後日、他人がその地位に就いたなら、兵糧の運搬や辺境の防備に充てることなど、掌を返すほどあっという間でしょう。」

琦は従わず、結局は陝西の憂いとなった。

むかし琦はこう言っていた。――「募兵は古来の方法ではないというが、いいところもある。これを非難する者は、漢唐の時代のように、民から徴兵した方がよいと言うが、彼等は唐の杜甫の『石壕吏』を知らないのだ。民から徴兵すれば、その弊害はあれほどになるのだ。後世、強盗や無頼の者を集めて兵としたことで、良民は養兵の費用を負担せねばならなくなったが、それでも父子兄弟夫婦が生きては離ればなれになったり、死してなお離別せねばならぬ苦しみからは免れ得たのだ。ここから見ても,募兵制が万世のためになるのは明白だ。」

ここに至り、陝西義勇の制度が実施されたが、それは琦の発案によるものだった。光は六度も意見書を提出し、その不利益を極言したが、とうとう止められなかった。



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