HOME目次王安石変法(2)

王安石変法(1)


(01)仁宗の嘉祐五年(1060)五月己酉(二十二日)、王安石を召還し、三司度支判官とした。

安石は臨川の人。読書を好み、文章が巧かった。曾鞏は安石の文章を欧陽修に見せると、修は安石のために名声を広めてやった。安石は上位で進士に合格し、淮南判官を授けられた。故事では、任期満了になれば、文章を献じて館職就任の試験を受けることが許されていたが、安石は試験を受けようとせず、鄞県知事に就いた。堤防を作って溜池から水を流し、水陸の利便を図った。民に穀物を貸出し、利息を取り、端境期の助けとしたので、人々は重宝した。まもなく舒州通判になった。文彦博は安石の無欲を朝廷に推薦し、安石を抜擢することで、名利に赴く当世の風潮を止めるよう訴えた。館職の試験に向かわせたが、安石は応じなかった。欧陽修は諫官に推薦したが、安石は祖母の高年だからといって辞退した。修は俸禄で親を養わせてから、ふたたび朝廷に推薦し、群牧判官に充てようとしたが、また辞退した。なんども地方官を求めたので、常州知事とした。提挙江東刑獄になった。周敦頤と知り合い、連日連夜語りあった。安石は敦頤と別れると、内省を深め、寝食を忘れるほどだった。これ以前、しばしば館職の試験に向かうよう命令があったが、安石はそのたびに辞退していた。このため世の人々は安石に栄達の心がないと思い、安石と面識をもてぬことを悔しがった。朝廷はいつも立派な官職を差し出し、ただただ安石が承知しないことばかりを心配していた。ここに至り、安石が度支判官になると、これを聞いたものはみな喜んだ。

安石は手腕を発揮し出すと、「万言書」を提出した。その概要はこうである。

いま天下の財力は日々困窮し、風俗は日々衰微しております。患うべきは法度を知らないことにありますが、それは先王の政に順わないことにあります。先王の政に順うとは、その意に順うだけです。その意に順うゆえに、たとえ改正しても、天下の耳目を駭かせ、天下を騒然たらしむることなく、おのずと先王の政に一致します。天下の力を合わせて天下の財を生み、天下の財を取って天下の費用に用いるのです。古来、世を治めた人々は、財の不足に悩むことなく、財の運用に心を痛めました。当今、朝廷の人才は用いるに足らず(1)、田野にも任用に堪うべき才人はほとんどおりません。社稷や国家に対して、陛下は天の幸いを常としておられますが、それで差し迫った危険に対処できるでしょうか。なにとぞ因循の弊害を推し量り、大臣に告諭し、段階を踏み、当世の変化に対応していただきたい。私の発言は、世の人々の意見と異なっております。ですから「迂闊にして熟爛」(2)だと批判するものもいるでしょう。

上は意見書に目を通したが、手許に留め置いた

呂祖謙の評。安石の変法の梗概はこの書に示されている。その学説は嘉祐に用いられることなく、ことごとく煕寧に用いられた。これが世道升降の機運というものなのであろう。

当時、詔が下り、舎人院が詔勅文の改正を訴えられないようにした。安石はこれを批判し、「これでは舎人は職責を全うできず、ただ大臣に阿るだけになってしまいます。いま柔弱な大臣は陛下の法を守らず、屈強な大臣は陛下の命令を無視して法令を作っておりますが、これに抵抗する諫官や御史はおりません。私はまことに懼れる次第です。」いずれも大臣を批判したものだったので、大臣の気分を害した。たまたま母の喪があったので、職を去った。


(02)英宗の治平四年(1067)閏三月癸卯(二十五日)、王安石を江寧府知事とした。

英宗の時代、安石は召還されても応じなかった。しかし韓維や呂公著の兄弟(3)は安石を称賛していた。神宗が穎邸のとき、維は記室だった。講義で褒められると、「これは私の学説ではありません。私の友人の王安石の学説です」と答えていた。維は太子庶子になると、また安石を推薦し、自分の役職に就かせるよう願い出た。このため帝(神宗)は安石に興味を持つようになった。

即位すると、安石を召還したが、やってこなかった。

帝は輔臣に、「安石は、先帝の時代、召還してもやってこず、不恭といわれていた。今度もやってこなかったが、病気だろうか、それとも他に求めるものがあるのだろうか。」

呉奎、「臣はかつて安石と群牧司におりました。そこで安石の振る舞いを見ておりましたが、現実離れしたことばかりしておりました。万一にも彼を用いるようなことがあれば、必ずや綱紀を乱すことになりましょう。」

帝は聞き入れず、江寧府知事の命令を下した。人々はきっと辞退と見ていたが、詔が到着すると、安石はすぐに受諾し、政務を執った。


(03)九月、王安石を翰林学士とした。

当時、宰相の韓琦は〔仁宗・英宗・神宗の〕三朝にわたって政柄を握っていた。そのため琦の専政を批判するものがいた。曾公亮はこれを利用し、王安石を強く推薦し、帝都琦との離間を策した。

琦はしきりに下野を願い出た。帝はやむを得ず、琦の要求に従い、司徒兼侍中・相州判事とした。

琦が帝に謁見すると、帝は泣いて、「侍中(韓琦)はどうしても朝廷を去るという。もう制書は下ってしまった。しかしあなたが去れば、だれに国を任せればよかろう。王安石などどうだろうか。」

琦、「翰林学士としては余りありますが、輔弼の地を任せてはなりません。」

帝は返事をしなかった。


(04)神宗の煕寧元年(1068)夏四月乙巳(四日)、王安石は京師に到着した。翰林学士の命を受けてから、既に七ヶ月が過ぎていた。

帝は安石に席次を越えて謁見させた。帝はまずなにをすべきか諮問した。

安石、「手段を択ことが先です。」

帝、「唐の太宗はどうだ。」

安石、「陛下は堯や舜を模範とされるべきです。唐の大宗など、とてもとても。堯舜の道は、簡を極めながら煩瑣でなく、要を極めながら迂遠でなく、容易を極めながら難しくありません。ただ末世の学者は堯舜の道が分かっていないので、高邁でとても及び得ないものだと思っているのです。」

帝、「難しいことを要求する人だ。私は己の身を省みて、あなたの意図に沿えるとは思えない。だからあなたは心を尽くして私を輔けて欲しい。ともにあなたの理想を成し遂げようではないか。」

ある日、講義が終わり、群臣が退出すると、帝は安石を止めて座らせ、「あなたとゆっくりと話しがしたいと思っていた」と言うと、「唐の太宗は魏徴を備え、漢の昭烈は諸葛亮を備えることで、功績を挙げ得た。二子はまことに不世出の人だ。」

安石、「陛下が本当に堯や舜とおなりになりましたら、必ずや皐・夔・稷・契が備わるでしょう。本当に高宗とおなりになりましたら、必ずや傅説が備わりましょう。陛下の仰る二子などは、有道者の恥じる人々、言うに足りません。天下は広く、人民は衆く、百年承平の当世、学者は決して少なくありません。しかるにいつも政治の手助けをする人がいないと思い煩うのは、陛下が正しく手段を択んでおられず、その御心が行きわたっていないからです。これでは皐・夔・稷・契・傅説のような賢者がいても、小人に邪魔され、才能を隠して逃げてしまうでしょう。」

帝、「世の中には小人がおるものだ。堯や舜の時代でも、四人の凶漢がいたではないか。」

安石、「四人の凶漢を察して誅殺し得たことこそ、堯舜が堯舜たる所以です。もし四人の凶漢が好き勝手に讒謀を行い得たなら、皐・夔・稷・契は堯舜に仕えて命を終えたでしょうか。」


(05)冬十一月、郊祭があった。

宰相らは、河朔の旱害で国用不足の折り、南郊で金帛を下賜しないよう願い出た。翰林学士に議論させた。

司馬光、「災害を救うために国用を節約する場合、貴顕や近親から始める必要がある。〔宰相の申し出を〕許可すべきだ。」

王安石、「〔唐の〕常袞は堂饌(政事堂での食事)を辞退した。当時の人々は『袞は責を果たせぬなら、職を辞すべきで、俸禄を持すべきではない』と言った。また国用の不足は、財の運用が下手だからだ。」

光、「財の運用が上手い人は、人民に重税を課しているだけではないか。」

安石、「違う。財の運用が上手ければ、増税しなくとも国用はまかなえる。」

光、「どこにそんな理屈があるというのだ。天地から得られる財物は、民になければ官にある。もし官が法を設けて民から奪うというなら、その害悪は税を重くするより甚だしい。これこそ桑弘羊が武帝を欺いた言葉。司馬遷はそれを〔『史記』に〕書き記し、武帝の不明を示したのだ。」

論争はつきなかった。

帝、「朕は光と同意見だ。しかしひとまず『允(ゆる)さぬ』を答えとせよ。」

ちょうど安石が制書を担当した。そこで常袞のことを引き合いに出し、両府(中書と枢密)を批判した。しかし両府はあえて辞退しなかった。


(06)二年(1069)春二月庚子(三日)、王安石を参知政事とした。

これ以前、帝は安石の任用を考えていた。曾公亮はつよく推薦したが、唐介は「安石に執政を任せるのは難しい」と批判した。

帝、「文学に不足があるというのか。それとも経学に不足があるというのか。あるいは政務に不足があるというのか。」

介、「安石は学問を好んでおりますが、古に泥んでおります。ですからその議論は現実離れしております。もし政治を執らせれば、必ずや多くの改変がありましょう。」

介は退出すると、曾公亮に向かって、「安石がもし執政になれば、天下は必ず混乱するだろう。諸公はこれを知らねばならぬ。」

帝は侍読の孫固に「安石を宰相にしてもよいだろうか」とたずねた。

固、「安石の文章や身の処し方は極めて立派です。侍従として忠言を陛下に献納する身分であれば申し分ありません。しかし宰相にはおのずと度量が必要です。安石は心が狭うございます。すぐれた宰相をご所望でしたら、呂公著・司馬光・韓維がふさわしいでしょう。」

帝は納得せず、ついに安石を参知政事とした。安石に向かって、「誰もかれもあなたのことが分っていない。あなたは経書に教えを学んだだけで、当世の政務には疎いと思っているのだ。」

安石、「経書の教えは、当世の政務を修める方法そのものです。」

帝、「あなたは何から始めるつもりだ。」

安石、「末世の風俗は、賢者は道を行い得ず、不肖の者は無道を行い得、身分の賤しき者は礼を行い得ず、身分の貴き者は無礼を行い得ません。風俗を変え、法度を立てることが、当今の急務です。」

帝はこれに賛同した。


(07)甲子(二十七日)、新法施行のための議論をさせた。

王安石、「周は泉府の官(4)を設け、兼併を抑制し、貧窮を救済し、天下の財をたくみに運用しました。後世に於いては、ただ桑弘羊や劉晏の処置だけが、聖人の意図に近いものがあります。学者は先王の法の意味が分かっておらず、『君主たるもの、民と利を争ってはならぬ』と言うようになりました。いま財の運用を企図するなら、泉府の法に範を取り、財務の権限を集中させる必要があります。」

帝はこれを聞き入れた。

安石はさらに「人才は得難く、また知り難いものがあります。いま十人に財務を治めさせ、その中に一二人の失敗があれば、これに乗じて異論が起こりましょう。堯は群臣らと一人を択んで洪水を治めさせましたが、それでも失敗しました。まして複数の人間を択べば、必ず失敗するものがおりましょう。〔事業の失敗を防ぐためには〕利害の大概を計算し、異論に惑わされないようにする必要があります。」

帝、「一人の失敗によって計画を廃止するから、成功しないのだ。」

そこで制置三司条例司を設置し、国家財政の審議、旧来の法の改正、および天下の財務運用を所管させた。陳升之と王安石にこれを管轄させた。

これ以前、泉州の呂恵卿は、真州推官の任期満了にともない都に上っていたが、安石と経書を議論し、概ね意見が一致したため、交際を持つようになった。そのため安石は帝に「恵卿の賢才は、前代の碩学といえども、容易に比肩し得るものではありません。先王の道を学び、それを運用できるものは、ただ恵卿だけです。」そこで恵卿と蘇轍を検詳文字とした。事の大小に関わらず、安石は必ず恵卿に相談していた。〔条例司の〕建白書は、恵卿の筆になるものが多かった。

また章惇を三司条例官とし、曾布を検正中書五房公事とした。官僚が新法の不便を訴え、批判書を提出すると、布は必ず反批判書を提出し、逐一分析してみせた。こうして帝の心を堅くし、安石に政務を一任させると、威力でもって人々を脅かし、反対意見を封じていった。このため安石の布に対する信頼は、恵卿に次ぐほどだった。

農田・水利・青苗・均輸・保甲・免役・市易・保馬・方田の諸役が相継いで作られると、それらは新法と呼ばれ、天下に頒布された。

安石は劉恕と仲がよかった。そこで三司条例司に引き入れようとしたが、恕は金銭や穀帛については勉強していないからといって辞退した。また「天子はあなたに大政を任せたばかり。堯舜の道を推し広げ、明主を助けなければなりません。利を第一に掲げてはなりますまい」と言った。しかし安石は「利によってこそ事物は正しく治まるのです。うまく利を用いることが堯・舜の道です」と答えた。

この当時、新法をめぐって、朝廷の大臣は意見の一致を見なかった。

安石、「諸公らは書物を読んでいないのだ。」

趙抃、「失言だな。皐・夔・稷・契のとき、どんな書物を読めたというのだ。」

安石は返事をしなかった。


(08)夏四月丁巳(二十一日)、三司条例司の請求に従い、劉彝・謝卿材・侯叔献・程顥・王汝翼・曾伉・王広廉の八人を諸路に派遣し、農田・水利・賦役を視察させた。

蘇轍は批判してこう言った。

徭役を郷戸に配当するのは、官吏を士大夫から用いるのと同じです。田によって生計を立てるからこそ逃亡の恐れがなく、朴訥として嘘が少ないからこそ欺瞞の恐れがありません。いまこれを捨てて用いなければ、財を扱うものは盗用の奸計を行い、盗賊を捕らえるものは必ず隠匿や逃亡を計りましょう。

唐の楊炎は両税をつくり、大暦十四年の税収の量でもって両税の額を定めました。租・庸と調はすでに両税に兼ねております。いま両税はもとのままにして、別に庸の税銭を徴収してよいのでしょうか。

また官僚の家は役を免除されて既に久しいものがあります。これは古代の『公卿の優れた子弟から人材を用いるときは、その身の租税と徭役を免除する』に当たります。胥吏などの下級官吏として既に官に用いられたものは、その家の租税と徭役を免除されています。聖人の旧法はまことに深い考えがあってこうなされたのです。それをなぜ官僚の家々にまで徭役を加えようとなさるのでしょうか。

聞き入れられなかった。


(09)六月丁巳(二十二日)、御史中丞の呂誨を罷免した。

王安石が執政になると、士大夫の多くは人を得た人事だと評価した。しかし呂誨だけは「安石は時事に通じていないから、宰執にしてはならない」と言っていた。

誨は意見のため帝のもとに赴くと、翰林学士の司馬光も経筵に向かう途中であった。二人はばったり出くわし、ともに帝のもとに向かった。

光はこっそりと「今日は何を言うつもりです」とたずねた。

誨、「袖の弾劾文は、新任の参政(王安石)についてだ。」

光は驚いて、「世の人々は人を得た人事だといって喜んでおります。それをなぜ弾劾など。」

誨、「君実(司馬光)までそんなことを言うのか。安石は今でこそ高名を博しているが、偏見を好み、軽々しく奸邪を信じ、己に媚びる者を喜んでおる。彼の言葉を聞くだけなら善かろうが、実際に用いるとなると粗雑だ。もし宰輔にでもすれば、天下は必ず災禍を被るだろう。また上は即位したばかり。ともに政務を執るものも、二三人の執政だけだ。もしふさわしい人間でなければ、国家を壊すことにもなろう。これは腹心の病とも言うべきもの、ゆるがせにしてはならぬ。」

〔呂誨は〕意見書を提出した。

大姦は忠に似ており、大詐は信に似ております。安石は外に質朴を示しながら、心には巧みに謀事を宿し、驕り高ぶっては君上を侮り、陰険残忍で害悪をまき散らしております。恐るらくは、陛下が安石の才能と弁舌を喜び、久しく頼りとされ、大姦が出仕の道を得て、群奸が朝廷に集まるならば、賢者はすべて去り、乱はこれより生じましょう。安石の所為を調査しますと、まことに遠慮なく、ただ改変ばかりに精を出し、あえて異を立て、いたずらに言葉でもって非を飾り、上を騙し下を欺こうとしております。憂うべくは、天下人民を誤るもの、必ずやこの人でありましょう。

意見書は提出されたが、帝は安石を信任していたので、その意見書を返還した。そのため誨は朝廷を去りたいと申し出た。安石もまた朝廷を去りたいと申し出た。

帝は曾公亮に、「もし誨を地方に出せば、安石も平静ではいられまい」と語った。しかし安石は「私は国のために身を捨てて働いております。陛下もまた義でもって事を行われております。私に嫌疑があるというだけで、かりそめに去就を決めたりは致しません。」そこで誨を地方に出し、鄧州知事とした。

誨が斥けられると、安石はますます好き勝手に振る舞うようになった。このため光は誨の先見には適わないと感服した。


(10)秋七月辛巳(十七日)、淮・浙・江・湖の六路に均輸法を設けた。

条例司の主張。

諸路から中央に納入する貨幣や米穀は、毎年きまった額が定められております。豊作のため多くの物貨があっても、余剰分は輸送できず、不作のため納入に困難があっても、不足は許されません。遠方から数倍の輸送費をかけて京師に運搬し、それを半額で卸し売ることもあります。ただ富裕な商賈のみが物入りの急に乗じ、価値の軽重や物資の斂散を好き勝手に操作しております。

現在、江南東西・両浙・荊胡南北・淮南の六路の租税は江淮等路発運使が統べております。(5)そこで銭貨を朝廷から貸して頂き、それによって物資を調達させていただきたいと思います。納入物資は物価高のところから低いところに移動させ、遠方での購入を近地に移動させます。またあらかじめ京師の倉庫の必要物資を通達させておき、〔発運使には〕蓄積や売買を必要に応じて判断する権限を与えていただきたい。国用の充実、民財の増大を願う次第です。

発運使の薛向を均輸法と平準法の総裁に命じ、これを六路に施行させた。〔元本として〕内帑金五百万緡と上供米三百万石を授けた。

当時、世の中が混乱するのではないかと憂慮する声があり、また〔新法の〕不便を指摘するものも多かったが、帝は聞き入れなかった。

蘇轍はこう言った。

現在〔物資の売買に〕先立ち役所を設け、官吏を置き、給与を支出しておりますが、このための費用は極めて高くついております。また高価でなければ売らず、賄賂がなければ物事が進みません。これでは官の買い上げ値段は、民間より必ず高くなり、しかも売却時には前のままということになるでしょう。この銭が一旦放出されるようなことがあれば、恐らくは取り戻すことはできますまい。もし少しく利益が出たとしても、商税の損失は必ず多大なものとなるでしょう。

帝は王安石に惑わされ、蘇轍の発言を聞き入れなかった。しかし均輸法はやはり成功しなかった。


(11)八月、知諫院の范純仁を罷免した。

純仁、「王安石が祖宗の法度を変更し、財利を厳しく取り立てるため、民は不安に駆られております。『尚書』にも『怨みはどうして目に見えるところにあろう、見えないところをこそ慮れ』とあります。陛下におかれましては、目に見えぬ怨みをお察し頂きたい。」

帝、「何を『見えぬ怨み』というのだ。」

純仁、「杜牧の『敢えて言わずして敢えて怒る』がこれにあたるでしょう。」

帝、「君はよいことを言う。朕のために古今治乱の中から訓戒とすべきものを一まとめにして欲しい。」

かくして純仁は『尚書解』を編纂し、これを提出した。そこには「この言葉はどれも堯・舜・禹・湯王・文王・武王のものである。天下を治めるものは、これを変更してはならぬ。願わくは深く考えて実行に勉めんことを」とあった。

帝は政治に心を砕き、しきりに遠方の小臣と面会し、政治の得失をたずねていた。

純仁、「小人の発言は、取るべきように思えても、実行すれば必ず災いが生じます。彼らは小事に詳しく大事に疎く、卑近に必死で遠謀に暗いのです。どうか深く察していただきたい。」

薛向が六路に均輸法を行うと、純仁は批判した。

私はかつて親しく陛下のお声をうけたまわり、先王の言動の中、政治の手助けとなるものを編修致しました。ところがいま桑弘羊の均輸法をまね、小人は人民から厳しい取り立てを行い、怨みを集め、災禍を起こしております。

安石は富国強兵の術でもって君上の心を開き、卑近な功績を求めて旧来の学問を忘れ、法令を貴んでは商鞅を称え、財利を口にしては孟軻に背き、老成を卑しんではそれを因循と見なし、公論を捨ててはそれを流俗と見なし、己に異なる者を不肖といい、意見の合う者を賢人としております。劉琦や銭顗らは一言〔批判しただけ〕でたちまち降格を被りました。朝廷の臣僚は大半が安石に付き従いつつあるとき、陛下がさらにこれを駆られたなら、かくならぬものはありますまい。

遠大な功績を求める場合、段階を踏まなければなりません。事の大なるものは速成できず、人才は急には得られず、積弊はすぐには改められません。もし急ぎ事業の成就を求めたなら、必ずや奸臣や佞臣の乗ずるところとなりましょう。すぐにも王安石を批判した人々を呼び戻し、安石を退け、天下の期待に応えて頂きたい。

帝は意見書を手許に止め、中書に下さなかった。純仁は朝廷を去りたいと強く申し出たが、許さなかった。ほどなく〔純仁は〕諫官を罷免され、国子監判事に改められた。

純仁が朝廷を去る意向を強めると、安石は「軽々しく去ってはならぬ。すでに知制誥を任せようと話し合っているところだ」と伝えた。しかし純仁は「何の意味があってそのようなことを言うのだ。発言が用いられねば、万金を積まれても見向きはしない」と言うと、先の意見書を中書に進呈した。

安石は激怒し、重罰に処して欲しいと訴えた。帝は「あれに罪はない。しばらく近郊の地を与えよ」と言い、河中府知事とした。すぐに成都転運使とした。

純仁は新法は不便だといって、指揮下の州県にすぐに実施してはならぬと訓戒した。安石は法令を阻害しているといって怒り、口実を設けて純仁を和州知事に左遷した。


(12)壬戌(二十八日)、判刑部の劉述ら六人を降格した。

これ以前、登州知事の許遵は、州内の犯罪について上申した。

妻が夫の謀殺を企むも、傷害のみで死に至らず、訊問に際して自白することがありました。法には、「他の犯罪に因って殺傷を犯し、自首したものは、因ったところの罪を免除できる」とあります。罪の軽減を行いたいと思います。

帝は司馬光と王安石に議論させたところ、安石は遵の言葉を支持した。しかし光は「他罪に因って殺傷を起こした場合、他罪を罪の本源とみなし得ます。しかし〔謀殺を〕謀(はかること)と殺(ころすこと)を二つに分け、謀を原因とみなし、これを罪の本源だということはできません」と言って反対した。帝は安石に従おうとしたが、文彦博や富弼らは光の議論を支持し、年を越えても結論を見なかった。

ここに至り、詔を下し、安石に議論に従うよう命じると、およそ殺害を謀り、既に傷害に及び、訊問に際して自首したものは、罪二等を減ずることとし、これを法令に記させた。

侍御史知雑事兼刑部の劉述は詔書を突き返し、反対し続けた。安石は帝に意見し、開封府推官の王克臣に述の罪を弾劾させた。このため述は侍御史の劉琦と銭顗を引き連れ、意見書を提出した。

安石は国政を執って以来、まだ数ヶ月に過ぎませんが、天下の人々は嘆き憂えております。陛下が安石を政府に置かれたのは、今の世を唐虞の世のようにしようと思われたからにほかなりません。ところが安石は管仲や商鞅の権謀詐術を操り、陳升之と示し合わせ、三司の権益を奪って己の功績とし、官庁に人員を配置し、各地に人を遣わし、人々を混乱させております。

去年、許遵は妄りに按問自首の法を言い立てましたが、安石は偏見に任せて新しい解釈を示しました。陛下は事情をお分かりにならず、これをお認めになり、天下の公道を損なうことになりました。先朝の立てた制度は、おのずから代々守り伝えねばならぬものです。ところが安石は事あるごとに改変を加え、〔旧来の法を〕廃止しております。詐術を用いて権力を握る人間。これに朝廷を委ね、国の綱紀を乱させてよいものでしょうか。どうか安石を罷免し、天下を慰めていただきたい。

曾公亮は安石を畏れ、ひそかに自身の助けと目し、地位の保全を策しております。趙抃は口を閉ざして手を拱き、どっちつかずを決め込んでおります。どちらも罷免しなければなりません。

弾劾文は提出されたが、安石はこれに先立ち琦を監虔州塩酒務に、顗を監衢州塩税に降格した。

殿中侍御史の孫昌齢は、はじめ安石に阿諛して昇進した男だった。顗は御史台を去るとき、昌齢を罵ってから出て行った。ここに於いて昌齢も「王克臣は権臣におもねり、陛下を欺いている」と訴えた。このため昌齢を蘄州通判に降格した。

安石は述を獄に下そうとしたが、司馬光と范純仁の反対にあったので、江州知事に降格した。同判刑部の丁諷と審刑院詳議官の王師元なども、述に追随して安石に反対したため、諷を復州通判に、師元を監安州税に降格した。


(13)条例司検詳文字の蘇轍を罷免した。

轍と呂恵卿はいつも議論が合わなかった。折しも八人の使者を各地に派遣し、収奪可能な利益を調査させた。天下の人々は、きっと安石に迎合し、もめ事を起こすだろうと予想していたが、だれも発言しなかった。轍は書簡を王安石に送り、その失当を強く指摘した。安石は怒り、轍を罪に陥れようとしたが、陳升之が制止した。そこで轍を河南府推官とした。


(14)九月丁卯(四日)、青苗法を行った。

これ以前、陝西転運使の李参は、指揮下の地域に守備兵が多く、兵粮が不足していていたことを慮り、民に麦・粟の獲得量を自分で計算させ、収穫の前に銭を貸出し、穀物が稔ってから官に返還させた。これを青苗銭と呼んでいた。数年の後、倉庫は兵粮でいっぱいになった。

ここに至り、条例司はこう訴えた。

諸路の常平倉と広恵倉の銭穀につき、陝西の青苗銭の例により、民に給付を願うものがおればこれを給付し、二割の利息つけ、夏秋の両税の時期に納入させます。銭の納入を願い出れば、便利な方を択ばせます。もし災害があれば、返還を延期し、豊作を待って納入させます。こうすれば凶作の備蓄に役立つだけではありません。民は官から給付を受けるのですから、大地主が端境期に乗じて二倍の利息を取ることも禁止できます。

また常平倉と広恵倉には収蔵物が滞積しております。これらは凶年によって物価が騰貴してから売り出しております。〔しかしその恵みの〕及ぶところは、都市の徒食人に過ぎません。一路の銭穀(銭と米穀)の状況を調査し、物価が騰貴すれば放出し、下落すれば買い入れることで、備蓄を広げ、物価を均一化します。こうして農民に時節に応じて仕事をさせ、兼併家が農民の急迫につけ込めないようにします。これはいずれも民のためであり、朝廷が利得を目論んでするものではありません。これもまた先王が物を恵みを垂れて利を興し、農業を助けられたその御心に沿うものです。

諸路の銭穀の多寡を量り、提挙官を派遣し、一州に通判の幕職官一人を選び、物資の移転と出能を管理させます。まずは河北・京東・淮南の三路に施行し、その成果を待って、他の諸路に推し及ぼせばよいでしょう。

詔を下してこれを許可し、内庫の緡銭百万を出し、河北の常平倉の粟を買い入れさせた。こうして常平倉や広恵倉の法は、青苗法に変じてしまった。

これ以前、王安石は呂恵卿と議論を定めると、蘇轍らに示し、「これが青苗法だ。不都合があれば、忌憚なく言って欲しい」と言った。

轍は言った。

銭を民に貸すのは、もともと民を救うためです。しかし出納に生じる胥吏の奸計は、法によっても禁止できますまい。銭が民の手にわたれば、良民であっても浪費を免れません。銭を返納するときは、富民であっても期限に間に合わないものです。このようですから、恐らく〔金銭の出納の際には〕どうしても処罰が必要になり、州県の仕事も煩雑になりましょう。

唐の劉晏は国の財政に当たりましたが、民への貸し付けは行いませんでした。しかし各地の豊作と凶作、物価の高下については、随時察知しておりました。物価が下落すれば必ず買い入れ、高騰すれば必ず売り出し、こうして各地に極端な物価の高下はなくなりました。この法律は今でも行われておりますが、物価の高下は収まっておりません。あなたが民のために心を砕き、力を尽くしてこれを行えば、晏の功績など立ちどころに成りましょう。

安石、「まったく君の言うとおりだ。しばらく考えてみよう。」

こうして一ヶ月が過ぎ、青苗について発言するものはなかった。たまたま京東転運使の王広淵が「春の農業が始まり、民は缺乏に苦しみ、兼併家は民の急迫に乗じて利益を漁っております。本道の銭帛五十万を貧民に貸し出すことをお許し下さい。年に二十五万の利息を得られましょう」と訴えたので、これを許した。これは青苗法と同じやり方であった。安石は〔青苗法の〕運用に自信を持ち始め、広淵を京師に呼び寄せて議論した。ここに至り、意を決して〔青苗法を〕実施した。


(15)壬辰(二十九日)、王安石は呂恵卿を太史中允・崇政殿説書に推薦した。

司馬光は諫言して、「恵卿は邪悪な心根の持ち主で、媚びへつらいの巧い男です。端正の士とは言えません。王安石が世の人々から非難さるのは、すべて彼のせいです。」

帝、「安石は出世を求めず、俸給も甚だ少ない。賢者というべきだ。」

光、「安石はたしかに賢人です。ただ性格的に世故に暗く、意地っ張りです。これは彼の短所です。また呂恵卿を信任してはなりません。恵卿はまことの奸邪。王安石の謀主となり、安石は彼の謀略を一生懸命に用いております。ですから世の人々は二人を合わせて奸邪と見なしております。近来の〔恵卿の〕任用は破格であり、人々はこれに相当の不満を抱いております。」

帝、「恵卿の受け答えは明瞭で筋が通っている。優れた才能をもっていると思うのだが。」

光、「恵卿にはたしかに文学があり、頭もよろしい。しかしその心は正しくない。陛下はよくよくこれを知る必要があります。もし〔漢の〕江充や〔唐の〕李訓に才能がなければ、彼らに人主を動かす術はあったでしょうか。」

帝は黙ってしまった。

また光は安石に書簡を送り、「佞人のあたなに対する態度は、いまでこそ従順で気持ちよいでしょう。しかしひとたび勢力を失えば、必ずあなたを売って自分を引き立てようとするでしょう。」安石は喜ばなかった。


(16)帝はいつも邇英閣で講義を聴いていた。光は〔漢初の〕曹参が蕭何に代わ〔り宰相にな〕るくだりを講読した。(6)

帝、「漢は常に蕭何の法を守り、これを変えなかったというが、それでよいのか。」

光、「漢だけではありません。三代の君がもし禹王・湯王・文王・武王の法を守っておれば、今日に至るまで存続したでしょう。漢の武帝は高帝の約束を違えたため、盗賊が天下に蔓延りました。元帝は孝宣(宣帝)の政治を改めたため、漢の事業はついに衰ろえました。これを例に申し上げれば、祖宗の法を変更してはならぬのです。」

恵卿、「先王の法には一年で一変するものがあります。『正月のはじめ、改めて法を宮城の門に布く』(『周礼』大宰)はこれを指します。五年に一変するものがあります。『遵守して制度を正す』(『尚書』周官)はこれを指します。三十年に一変するものがあります。『刑罰は世に随って軽くもし重くもする』(『尚書』呂刑)はこれを指します。光の発言は正しくありません。恐らく朝廷のことを諷刺したのでしょう。」

帝は光に意見を求めた。

光、「『法を宮城の門に布く』とは、旧法を布くことを意味します。諸侯に礼楽を変更するものがおれば、王は遵守して彼等を誅殺しました。もとより旧法を変更など加えません。刑罰につていも同様、新国(新たに命を受けた国)は軽い刑罰を用いますが、乱国は重罰を用います。これを『世に随って軽くもし重くもす』というのです。旧法を変更するわけではありません。そもそも天下を治めることは、部屋にいるのと同じこと、壊れたらこれを補修するだけで、家が倒れるのでもない限り、作り直したりはしません。公卿や侍従はみなここにおります。どうぞ陛下は彼らにおたずねください。三司使は天下の財をつかさどります。職責に堪えられねば、そのものを退ければよろしいのです。執政にその職務を侵害させてはなりません。いまなぜ制置三司条例司を設置しているのでしょう。宰相は道徳で人主を輔けるものなのに、なぜ条例(法令)を必要とするのでしょう。もし条例を用いるなら、それは胥吏と同じです。いまなぜ看詳中書条例司を設置しているのでしょう。」

恵卿は言葉が詰まったので、別のことで光を批判した。

帝、「ともに是非を論じただけだ。そこまで言うな。」

光はまた青苗法の弊害を論じ、「平民が銭を貸して利息を取る場合でさえ、下戸を侵害し、彼等を飢餓や流浪にまで追い込んでいるのです。ましてや県官が脅して催促するとあってはどうでしょう。」

恵卿、「青苗法は農民が願い出れば与えもの。願い出なければ、無理強いなど致しません。」

光、「愚かな民のこと、借りるときの利益は知っても、返還するときの苦しさに気づきますまい。それに県官だけが強制しないわけではありません。富民もまた強制などしないのです。太宗が河東を平定されたとき、兵粮の買い入れのため、法律を設けられました。当時は斗米が十銭でしたので、民は喜んで官と売買をしました。その後、物価が高騰しても穀物の買い上げは廃止されず、結局は河東末代までの苦しみとなりました。私は後日の青苗も、こうなるのではないかと恐れております。」

帝、「陝西には長らく青苗法を行っているが、民は苦しんでおらぬというぞ。」

光、「私は陝西の人間ですが、苦しみは存じておりますが、その利というものは見たことが御座いません。朝廷が許していないときすら、官吏は民を苦しめているのです。ましてや法が許したとあってはもう。」


(17)光は『漢書』を講読した折り、賈山の諫言に及んだ。そこで君主が諫言に従うことの美しさと、諫言を拒むことの禍について発言した。

上、「舜は讒言や悪行を悪んだという。もし台諫(御史台と諫官)が虚言を弄して讒言を行えば、彼らを退けぬわけにもいくまい。」

光、「進読のため、これに言及しただけです。時事については敢えて申し上げますまい。」

〔経筵官らが上前を〕退くと、帝は光を留めて、「呂公著は『藩鎮が晉陽の軍を起こそうとしている』(7)と言ったとらしいが、これは讒言や悪行ではないのか。」

光、「公著は私達と語らうときですら、いつもよくよく思案しております。なぜ陛下の御前でそのような発言を軽々しく致しましょう。外のものはみな嘘ではないかと疑っております。」

帝、「それは『言葉だけならよいか、用いてはならぬ』というやつだ。」

光、「呂公著にまことに罪があるとすれば、そのことではありますまい。以前、朝廷が公著だけに御史台の官僚を推薦させたとき、公著はすべて条例司の関係者を推薦し、条例司と表裏になり、これほどまでに〔安石の勢力を〕強うしてしまいました。ところが公著は公論に批判されてから、ようやくその過失を認めたのです(8)。これこそ彼の罪に御座います。」

帝、「いま世の中が騒然としておるのは、孫叔敖の『国是があれば、人はそれを悪む』というやつだ。」

光、「そのとおりです。しかし陛下はその是非を考えなければなりません。いま条例司のすることは、ただ王安石・韓絳・呂恵卿だけが正しいと言い、世の人々はみな間違いだと言っております。陛下はこの三人とだけで天下を治められるとお思いでしょうか。」


(18)冬十月丙申(三日)、富弼が罷めた。

これ以前、王安石は国政を執ると、弼と意見が対立した。弼は争っても無意味と考え、しばしば病を理由に引退を求めたが、上章すること数十回に上った。

帝、「もし去るというなら、だれをあなたの代わりにすればよいでしょう。」

弼は文彦博を薦めた。帝は黙ってしまったが、しばらくして「王安石はどうだろう」とたずねた。弼も黙ってしまった。このため亳州判事として地方に出ることになった。

弼は謙虚で孝行に篤く、善を好み、悪を憎む人だった。いつも「君子と小人が同じところにおれば、天下は持ちこたえられまい。君子は勝てないと分かれば、身を退け、道を楽しんで鬱屈しない。しかし小人は勝てないと分かれば、たがいに手を取って問題を起こし、あらゆる方法を尽くして勝つまで止めない。小人が志を得れば、ほしいままに善良の人を傷つけることになるだろう。これで天下の安静を願っても無理というものだ。」


(19)陳升之を同平章事とした。

升之が宰相になると、帝は司馬光に「最近、升之を宰相にしたが、外ではどう言っている」と意見を求めた。

光、「閩の人は狡猾で、楚の人は軽率です。いま二人の宰相はどちらも閩の人間で、二人の参政(副宰相)はどちらも楚の人間です。きっと郷土のものを朝廷に引き入れ、仲間でいっぱいにしてしまうでしょう。これではとても風俗を淳風にすることなどできません。」

帝、「升之には才智があるし、民政にも明るい。」

光、「ここ一番で信念を守り抜くことができないのです。才智ある人を用いるときは、必ず忠直の人を重石に置いておく。これが優れた君主の任用法です。」

帝はまた「王安石はどうか」とたずねた。

光、「人は安石を邪悪だと言いますが、それは批判に過ぎるというものです。ただ世故に暗く、しつこいだけです。」


(20)十一月乙丑(二日)、韓絳に三司条例司を管轄させた。

これ以前、陳升之は王安石に附和し、己の地位に守ろうとしていた。安石も朝廷に反対意見が多かったので、升之を助けとしていた。升之は安石の間違いを知りながら、安石のため全力で働いたので、安石も升之に感謝していた。だからまず升之を宰相にさせたのである。

升之は宰相になると、まま異論を差し挟み、安石と異なる意見を持つかのように振る舞った。そこで帝に言うには、「宰相に統べぬものはありません。管轄の職務を『司』というのでは問題ありますまいか。制置三司条例司を罷めていただきたい。」

安石、「古代の六卿は今の執政と同じです。〔古代には〕司馬・司徒・司寇・司空があり、それぞれ一つの職務を管轄していました。〔制置三司条例司と称しても〕道理として害はないでしょう。」

升之、「制置百司条例司とでもいうなら、それでもよい。三司ひとつを管轄するだけというのでは認められない。」

安石、「現在、中書(宰相府)は百銭以上の物資の処分および三司の吏人について、すべて陛下に報告し、その許可を得てから執行している。制置三司条例司といっても問題ないでしょう。」

これ以後、二人は不仲になった。そこで安石は絳を推薦し、共同で三司条例司を管轄することにした。安石がなにか発言すると、絳は必ず「安石の論説は多々ありますが、どれもこれも全く正しい。陛下はそこのところをよくお考え頂きたい」と言ったので、安石は絳を頼りとするようになった。


(21)丙子(十三日)、農田水利の法令を頒布した。

当初は実施に混乱が見られたが、数年間のうちに都合廃田一万七百九十三箇所、三十六万一千一百七十八頃を獲得した。しかし民は労役にかり出され、疲弊や騒動が起こった。


(22)諸路に提挙官を置いた。

条例司から「民間に青苗銭の貸出を願うものは多くおります。諸路の転運使に命じて〔青苗銭の〕貸出を実施していただきたい」との請求があった。これをうけて諸路に各々提挙官二人、管当官一人を置き、青苗・免役・農田水利の法を管轄させた。全四十一人を置いた。

提挙官が置かれると、往々にして王安石に迎合し、〔青苗銭を〕多く貸出せば功績になる考えた。しかし富民は貸出を望まず、逆に貧民は貸出を求めた。そこで戸の等級の高下に従って貸出〔の限度を定め〕、また貧民と富民を合わせて十人とし、保甲を作り、保証人を立てさせた。

王広淵は京東路で〔青苗法を実施したが〕、一等戸には一万五千を貸出し、等が下るごとに減額していったが、五等でも一千を貸出していた。民間は騒然となり、不便だと訴えた。しかし広淵は「民はみな歓呼して陛下の恩徳に感じ入っております」と報告した。

諫官の李常と御史の程顥は、「広淵は〔青苗銭の〕貸付を無理強いし、厳しく取り立て、朝廷に迎合して百姓を苦しめている」と弾劾した。たまたま河北転運使の劉庠から青苗銭は配布しないと言って来た。

安石は「広淵は必死に新法を支えているのに弾劾され、劉庠は新法の破壊を企図しながら不問に付されている。万事がこれでは、違反するなといっても無理な話しだ」と言った。このため常と顥の発言は採用されなかった。


(23)閏月、官僚を派遣し、諸路の常平倉と広恵倉を管轄させ、兼ねて農田水利の差役についても管理させた。


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(1)「人才は足らず」が正しい。
(2)「迂闊」は実情に適合しないこと。熟爛は熟しすぎの意。
(3)「韓絳と韓維の兄弟および呂公著」が正しい。
(4)物価の安定と租税の徴収を行う官。『周礼』に見える。
(5)以上は他資料によって改訂した。
(6)曹参はいつも蕭何に反対していたが、自分が宰相になると、蕭何の法を一つも改めなかった、という故事を指す。
(7)本書の煕寧三年夏四月戊辰の御史中丞呂公著罷免の条を参照。
(8)この一句、『続資治通鑑長編』巻210により改めた。



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