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王安石変法(3)


(47)四年(1071)三月辛卯(六日)、新法施行につき怠慢な者を調査させた。

陳留県知事の姜潜は、着任後わずか数ヶ月で青苗法が施行された。潜はすぐに県門に張り出し、さらに郷村にも触れを出すこと各々三日、応募する者はなかった。そこで掲示を撤去し、吏人には「民は望んでおらぬ」と言付ると、そのまま病気を理由に辞任した。

山陰県知事の陳舜兪は、意見書を提出して新法を激越に批判したため、南康軍塩酒税に降格された。ここに至り、また意見書を提出して、「青苗法は頗る利便性があります。当初は無知のために考え違いをしておりました」と言った。このため識者の笑いものになった。


(48)夏四月癸酉(十八日)、司馬光を西京留台判事とした。

これ以前、光は永興軍にいたが、発言の不採用を理由に、西京留台判事を要求した。しかし許諾されなかった。また訴え出た。――「私の不才たること、群臣の最下におります。先見の明をもってしては呂誨に及ばず、公直においては范純仁と程顥に及ばず、敢言しては蘇軾と孔文仲に及ばず、勇決をもっては范鎮に及びません。いま陛下はただ安石のみを信じられ、これに付く者を忠良と言い、安石を批判する物を邪悪と思うておられます。私の今日の発言は、陛下の邪悪とされるものです。もし私の罪が范鎮と同じだと仰せなら、すぐに鎮の前例に倣い、致仕を願い奉ります。もし鎮より罪深いと仰せなら、竄流や誅殺であっても敢えて避けるものではありません。」

しばらくして、光の要請を認めた。光は洛陽に帰ってからというもの、口を閉ざし、二度と政治について意見しなかった。


(49)直史館の蘇軾を杭州通判として地方に出した。

軾は直史館の身をもって科挙制度について発言し、帝の意向と一致した。その日のうちに呼び出され、当今の政治の得失について意見を求められた。

軾、「陛下における文武の才は天性のものゆえ、不明・不謹・不断について心配する必要はありません。ただ世を治めること性急に過ぎ、人の発言に耳を傾けること広きに過ぎ、人を用いること鋭敏に過ぎることが心配です。どっしりと構え、向こうからやって来るのを待って、それに対処していただければと思います。」

帝は畏まり、「君の三つの言葉は、私の熟慮しなければならぬことだ。館閣にあるものは、みな治乱に思いを馳せ、隠し事をしてはならぬ。」

軾は帝前から退くと、同僚にこれを語った。安石は悦ばず、軾を権開封府推官とし、仕事によって軾を苦しめようとした(1)。軾の決断は精確敏速で、その声望はますます高まった。いつも新法は不便だと発言し、意見書を提出しては新法を激越に批判した。

私の言いたいことは三つだけです。陛下におかれましては、人心を結び、風俗を厚くし、綱紀を守っていただきたい。人主の恃みとするものは人心です。古代より現在に至るまで、民と安楽を共にしながら、世の中が不安に陥ったことはなく、〔王の気持ちのまま〕剛気果断に物事を行い、世の中が不安に陥らないものはありませんでした。

祖宗以来、財用を司るものは三司でした。現在、陛下はこれとは別に制置三司条例司を設け、朝廷においては六七人の若者に日夜〔財務を〕研究させ、地方においては四十余人の使者を派遣し、〔新法の〕業務を処理させております。万乗の君主でありながら利益を口にし、天子の宰相でありながら財用を治めております。君臣が政治に励むこと一年あまり、しかし富国の功績は茫然として風に流れるようで、ただ内帑金から数百万緡を出し、祠部から五千人を調度したと伝えられるだけです。これを手立てにすると言っても、施策の覚束ないことは誰でも知っております。(2)

汴水は濁流です。この世に民が生じて以来、稲を播くことはありませんでした。ところが現在、堤防を作って清流にし、万頃の稲に千頃の堤防を用い、一年に一層ずつ堆肥が溜まり、三年でいっぱいにする、と言っております。もし陛下が地形を調査し――方々に穴を掘って水利を調査し――、ひとたび堤防が開かれたなら、水流は古道を失いましょう。〔こうなってから治水を〕提案した者の肉を食らったところで、民に利益などありません。(3)

古来、労役の人には郷戸を充てております。現在、江浙の数郡で労役に従事する者を〔銭で〕雇っておりますが、これを天下に用いる予定だと聞いております。楊炎が両税法をつくって以後、租と調と庸は両税に合わさりました。この上なぜ庸を取るのでしょう。青苗銭の放出については昔から禁令がありました。現在、陛下ははじめて法律を作られ、毎年常用することになりました。しかし強制を許さぬとおおせでも、数世の後の暴君や汚吏の強制で、陛下は止められるでしょうか。むかし漢の武帝は財力が尽きたといって桑弘羊の説を用い、安値で買って高値で売り、これを均輸法と呼びました。当時、商売は滞り、盗賊は頻々と起こり、もう少しで反乱が起こるところでした。私が陛下に人心を結ばれるよう願うのは、このためです。

国家の存亡は、道徳の深浅に関わることであり、強弱には関わりありません。王朝の寿命の長短は、風俗の厚薄に関わることであり、富貴には関わりありません。望むらくは、陛下みずから道徳を貴び、風俗を厚くされませんことを。決して性急に利益を求め、貪欲に富強を求められませぬよう。

仁祖(仁宗)は法を執ること至って寛容、人の任用には序列があり、務めて過失を庇い、軽々しく伝来の法令を改められませんでした。たしかにその功績は十分とは申せません。用兵について言えば、十たび兵を出しては九たび敗れました。財政について言えば、何とか足りただけで、余剰はありませんでした。ただ徳望恩沢は人に及び、風俗は義に靡きました。だからこそ、お隠れのとき、世の人々は仁徳を褒め称えたのです。しかし、仁祖の末年、官吏の因循が目立ち、政績が振るわないと言う人々が現れ、監査を厳しくして因循を正し、才人を用いて政績を挙げようとしました。そこで若手で勇猛鋭敏な人間を任用し、性急にその成果を求めました。しかしまだその利益が得られる前に、道徳は頽廃してしまいました。これでは風俗の純朴を望んでも、とても得られはしないでしょう。私が陛下に風俗を厚くするよう願うのは、このためです。

祖宗のとき、人を台諫(御史台と諫官)に任じたなら、わずかな発言で罪に問うことはありませんでした。少しく罪に問われても、すぐに抜擢されました。また〔台諫の発言には〕風聞を許し、御史台の長官(御史大夫)を設けませんでした。台諫の発言が乗輿(皇帝のこと)に言及すれば、天子は容を改め、その発言が朝廷に及べば、宰相は罪を待ちました。台諫のみなが賢者であったわけではなく、その発言のすべてが正しかったわけではありません。しかし台諫の鋭気を養わせ、これに重い権力を与えられたのは、姦臣の萌芽を折るためでした。

私は長老らのこのような発言を耳にしました。――台諫の発言はいつも天下の公議に従うものだ、と。現在、世論は沸騰し、人々はみな〔新法を〕怨んでおります。ですから公議の所在もまた明らかです。私が恐れておりますのは、これ以後、習慣が瀰漫し、〔朝廷の台諫が〕全て大臣の使用人となり、君主を孤立させるのではないか、ということです。綱紀が一たび廃れたなら、何が起こるか分りません。私が陛下に綱紀を存するよう願うのは、このためです。

当時、王安石は帝に独断と専任を奨めていた。軾は科挙の試験を利用し、「晉の武帝は呉を平定したが、これは独断によって成功したものである。符堅は晉を伐ったが、これは独断によって亡んだものである。斉の韓絳は管仲に専任して覇者となったが、燕の噲王は子之に専任して敗北した。同じく独断・専任ではあるが、それによって齎された功績は各々異なる」という問題を出した。

安石はますます軾を憎むようになり、侍御史の謝景温に軾を弾劾させた。――蘇軾は以前親の喪のため蜀に帰ったとき、舟で商売をしていた、と。詔を六路に下し、船頭を逮捕させ、厳しく取り調べたが、証拠は挙がらなかった。しかしこのため軾は地方官を求め、杭州通判となった。


(50)鄧綰を侍御史とし、司農寺判事とした。

これ以前、綰は寧州通判の頃、王安石が君主の心を得て、専権を握ったことを知った。そこで時事問題の数十事を上奏しては「宋が興ること百年、安逸に習い、因循に泥んでおります。改正が必要です」と訴え、さらに「陛下は伊尹・周公の賢臣の下、青苗・免計などの法を作られました。陛下の恩沢に歌い舞い踊らぬ民はおりません。願わくは浮論に惑われることなく、堅く新法を実施していただきたい」とも言った。また安石に書簡を送ったが、それは安石に媚び諂ったものだった。このため安石は帝に綰を強く推薦した。こうして綰は駅伝で帝に謁見することになった。たまたま夏人が夔州を侵したので、綰は帝の前で詳細に持論を展開した。

帝、「王安石と呂恵卿を知っているか。」

綰、「知りません。」

帝、「安石は今の古人、恵卿は賢人だ。」

綰は帝前から退き、安石に会見すると、旧友でもあるかのように悦んだ。しかし安石が家の祭事で朝廷に出られないのを利用し、陳升之は「綰は辺境の紛争に慣れているから」と言って、寧州知事として帰還させることにした。綰はこの沙汰を知って不満を露わにし、「急に私を呼び出しておいて、また帰れというのか」と言い放った。「君はどんな官職にありつけると思う」と聞くものがいると、綰は「館職は確実だ。きっと諫官にはなれるだろう」と言った。しかし翌日授けられたのは集賢校理・牽制中書孔目房だった。都内の郷人はみなで笑って馬鹿にした。綰、「笑いたければ笑えばいい。美官にはありついて見せる。」すぐに同知諫院になった。

当時、新法はすべて司農寺から出ていたが、呂恵卿は親の喪で〔司農寺から離れ〕、曾布一人ではその任に堪えられなかった。そのため安石は綰を用いて〔新法に反対する〕人々を黙らせようとした。だから綰のこの任命があったのである。


(51)五月甲午(十日)、右諫議大夫の呂誨が卒した。

誨は病気になると致仕を申し出た。――「私にはもともと持病などありませんでしたが、たまたま医者が処方を間違え、みだりに薬を投じたため、体が痺れ、ついには歩行すら困難になりました。足の苦痛だけでは済まず、内臓にまで疾病が及ぶことを畏れております。病状がこうなってはどうにもなりません。しかしながら卑しき一身上のことは惜しむに足りません。九族の依託(国家のこと)をこそ、心から憂えております。」我が身の病状を朝政になぞらえたのである。

ここに至り、誨は危篤に陥ると、司馬光が見舞い出向いた。光が家に着いたとき、誨はもう目を閉じ、死んだようだった。しかし光の泣く声を耳にすると、誨はきっと目を見開き、「天下のため、まだまだ働かねばならぬ。君実、励めよ」と言うと、そのまま死んでしまった。享年五十八。天下の人々は、誨を知ると否とに関わらず、みなその死を惜しんだ。


(52)保甲法が実施されたときのこと、帝は人々の憂苦の声を耳にした。――弓矢を買う銭もないし、辺境の守備兵に取られると言って父子が泣いている、と。このため王安石に「保甲法は時間をかけて厳密にすべきではないか」と言ったが、安石は「日々の努力が大事です」と答えた。

当時、韓維は開封府の知事だった。そこで意見書を提出して、「諸県に命じて保甲を集めさせておりますが、人々は騒動を起こし、指や腕を切断して保丁から逃がれようとするものも出ております。農閑期になってから実施していただきたい」と訴えた。帝は安石に意見を求めた。

安石、「こうなるとは思っておりませんでしたが、だとしても驚くには当たりません。」

帝、「多くの人の意見に耳を傾けるものを聖人というらしい。民の声を畏れぬわけには参るまい。」

安石、「天下を治める場合、ただ民の望みに従うだけなら、君主を上に戴き、官吏を設ける必要はありません。そもそも保甲法はただ盗賊追捕のためだけに設置したのではありません。順次訓練を施して民を兵卒に仕立て、〔用兵に充てる〕財用を節約しなければならないのです。陛下におかれましては、人々の言葉に惑わされず、果断に実施していただきたい。」

このため帝は河東・北、陝西の三路の義勇軍を開封府と京畿の保甲法に変えた。すぐに維は朝廷から去り、襄州知事となった。


(53)〔六月〕甲戌(二十一日)、富弼を汝州判事に移した。

弼は亳州にあって青苗法を実施しなかった。弼は「青苗法などは、上に財産を吸い上げ、下に人民を逃亡させるだけだ」と言っていた。そこで提挙官の趙済は「弼は施政の邪魔をしている」と弾劾したので、鄧綰は有司に命じて罪を正すよう願い出た。そこで弼の武寧軍節度使・同平章事を取り消し、左僕射として汝州判事に移した。

王安石は「弼は降格されたとはいえ、まだ富貴たるを失っておりません。むかし鯀は天子の命に従わずして処刑され、共工は心に大悪を抱いたことで配流されました。弼はこの二つの罪を兼ねながら、ただ使相を取り消されただけで済んでおります。これでは〔新法を阻害する〕邪悪な者共を防ぐことはできますまい」と言ったが、帝は答えなかった。

弼は道すがら応天府を通り、応天府判事の張方平にこう言った。――「人というのは分らないものだ。」

方平、「王安石のことですか。なんで分らないことがありましょう。皇祐の時代、私は知貢挙になったのですが、安石の文学を褒めるものがいたので、考功として用いてみたのです。ところが安石はやって来ると、役所のことを勝手に変更しようとしました。私は安石のやり方が嫌でたまらず、追い出してやりました。このことがあって以来、安石と言葉を交わしたこともありません。」

弼に恥じるところがあった。弼も平素安石を褒めていたからである。


(54)秋七月丁酉(十四日)、御史中丞の楊絵が言った。「提挙常平使の張覿らは助役銭の徴収に対し、一戸につき最大三十万二も貸し付けております。少しく貸付額を減らし、民を安心させていただきたい。」聞き入れられなかった。

当時、賢人と称された士大夫の多くは、朝廷から退き、王安石を避けていた。

楊絵はまた意見書を提出した。「老成の人を大切に扱わなければなりません。当今、旧臣の多くは病気と称して致仕を求めております。范鎮は年六十三、呂誨は年五十八、欧陽修は年六十五で致仕し、富弼は年六十八で病気だといい、司馬光と王陶は年五十で地方の閑職を求めております。陛下はその理由をお考えになられねばなりません。」

安石はこれを聞き、絵を深く憎んだ。


(55)劉摯は安石に器量を買われ、監察御史裏行を授けられた。帝に謁見すると、目の当たりに賞讃を受け、「君は王安石に学んだことがあるのか。安石は君の器量を激賞していたよ」と尋ねられた。摯は「私は東北の人間で、幼い頃に親を亡くし、独学でした。安石など知りません」と答えた。帝の前から退き、意見書を提出した。

君子・小人の分かれ目は、ただ義と利にのみあります。小人というものは、褒美の探求が全てに優先し、奉公の心は常に私事の後にあります。陛下には農業振興の心がおありなのに、それを曲げて民を混乱させております。陛下には労役を均一にしようとの心があるのに、それを利用して苛斂誅求をしております。世の中には事を起こしたがる人間がいる一方、平穏無事を楽しむものもおります。あちらがこちらを流俗と言えば、こちらはあちらを乱常(平常を乱すこと)と言います。義を畏れるものは、進取をはずべきことと言い、利を嗜むものは、守道者を無能と言います。この風潮が形となれば、きっと漢唐の党禍が起こりましょう。

こういうと助役銭の十の害悪を列挙した。

たまたま楊絵も「提刑の趙子幾は、県民の助役銭提訴を阻止し得なかった東明県知事の賈蕃に怒り、他のことで蕃を弾劾して獄に下し、みずから訊問しております。これは安石に阿ったものです」と発言し、さらに「助役法には難点が五つある」と批判した。劉摯もまた「趙子幾は賈蕃を別件で弾劾したが、これは天下の口を塞ぐものだ(4)。子幾の罪を調査していただきたい」と訴えた。

このため安石は激怒し、知諫院の張璪に命じ、絵と摯の論じた助役銭の十害と五難の書を取りよせ、〔それらを駁正して〕「十難」を作り、応酬させようとした。璪が辞退したので、曾布が願い出て「十難」を作り、さらに楊絵と劉摯の欺瞞や向背を弾劾した。

帝は布の意見書を絵と摯に下げ渡し、各々に弁解させた。絵は都合四たび意見書を提出して弁解した。摯は奮い立って、「人臣でありながら、権力を畏れるあまり、天子に利害の実体を知らせないでよかろうか」と言い、布の論難に答え、自説を展開した。――

助役誅求の法は、大臣や御史が朝廷でこれを主導し、大臣の一味が監司・提挙官となり、諸路で実施しております。ですから法の実施はたやすいはずです。しかし年月を経てなおも定論を見ないのは、民の心に順っていないからです。

私は罪を言責に待つものであり、士大夫や民の声を陛下に届けるのがその職責です。ところが今、弁解を急かせ、〔司農寺の曾布と私とで〕どちらが正しいかを競い合わせております。これは陛下の耳目の任を汚すものではないでしょうか。

〔司農寺は私の向背を弾劾しておりますが、〕向背という場合、私の向かうものは義、背くものは利、向かうものは君父、背くものは権臣です。

私と司農寺の意見書を百官に示し、当否を考定していただきたい。

聞きいれられなかった。翌日、摯はまた訴え出た。

陛下が日夜治世に尽力され、みずから政務を執りながら、まだ天下が安寧にならないのは、いったい誰のせいでしょうか。陛下が意を尽くして太平を望むとき、みずから太平をもって自任し、君の心を得て政治を専らにするもの、これでございます。この二三年の間、世の中に騒動を起こし、天地の中、一民一物も心を落ち着けるところがなくなりました。財政を論じては、市井の屠殺者までをも政事堂(宰相府)に呼び、利益になるとあっては、暦(こよみ)まで官が販売するようになりました。言い出せばきりがありません。

軽々しく官職を与え、賢愚を混ぜております。忠厚労政の人を無能と言って退け、若輩軽薄の者を任用すべしと言い、道を守り国を憂う者を流俗だと言い、常道を損ない民を害なう者を世の変化に通じた人間だと言っております。およそ政府の機務計画や叙任進退は、一官吏の曾布だけと相談して決めております。その後、筆を取って書き記し、同列が政策に関知するのは、かえって布の後にあります。そのため請託に奔走するものは、布の家門に市のように群がっております。

現在、西夏はいまだ帰順せず、不服の兵はまだ安寧ならず、三辺は戦禍に苦しみ、軍の疲弊は定まっておりません。河北には旱魃あり、諸路には洪水あり、民は財力に苦しみ、県官は缺乏に苦しんでおります。陛下が憂勤をもって政務を執られるこのとき、政治はこのようになっております。これらはみな、大臣が陛下を惑わせ、大臣の任用したものが大臣を惑わせているのです。

意見書が提出されると、安石は摯を嶺外に左遷しようとした。帝はこれを許さず、絵を鄭州知事、摯を監衡州塩倉に左遷し、璪も館職を取り消した。察訪使を諸路に派遣し、役書の完成を急かせた。


(56)八月、王雱を崇政殿説書とした。

雱は安石の子供で、人となりは敏捷陰険、忌憚するところがなかった。また大変な才人で、まだ子供だというのに数十万言の書物を著していた。鄧綰と曾布が雱を強く推薦したので、この任命があった。

雱はいつも「商鞅は豪傑の士だ」と称え、「意見を異にするものを殺さねば、新法は行われない」とも言っていた。

ある日、安石が程顥と語っていると、雱は〔まるで囚人のように〕ばらばらの髪、裸足、婦人の冠をつけた姿で現れ、父に相談事の内容をたずねた。安石が「新法が人々に反対されているので、程君と相談しているのだ」と言うと、雱は大声で「韓琦と富弼をさらし首にすれば、法は行われる」と言った。安石は慌てて「お前は間違っている」と言った。顥、「参政(安石のこと)と国事を論じているのだ。子弟の関知するところではない。すぐに去れ。」雱は気分を害した。


(57)九月、諸路の坊場(造酒場)と河渡(渡し場)を売り出し、人を募って売買させ、利益を徴収した。歳に六百九十八万六千緡、穀帛九十七万六千六百石匹有余を収めた。すぐに司農寺は祠廟も売りに出し、民がその中で売買することを許した。


(58)冬十月、鮮于侁を利州転運副使とした。

これ以前、監司に治下の助役銭の数を試算させたところ、利州路転運使の李瑜は四十万の数を弾き出した。当時、侁は判官だった。そこで瑜と争って言うには、「利州の地は、民は貧しく地は痩せております。半分ならいいでしょう。」瑜は納得できなかった。そこで二人して意見書を提出した。当時、諸路の役書はどこもまだ完成していなかった。帝は侁の意見を許可し、司農寺の曾布に伝え、定式として天下に頒布させた。そこで瑜を更迭し、侁を副使兼提挙常平使とした。

これ以前、王安石は金陵におり、将来を嘱望されていた。士大夫らは将来の宰相だと噂しあった。しかし侁は安石の売名行為を憎み、いつも人に「この人がもし用いられたら、必ずや天下は破壊されるだろう」と語っていた。安石が政治を執ると、侁は時政について意見書を提出した。――「憂うべきは一つ、息むべきは二つ。その他、政道に反して民の怨みを収めたものは、挙げ尽くすことができない。」それらは安石を言ったものだった。安石は怒り、侁を非難したが、帝は文学に有用だと褒めた。安石、「なぜそれが分るのです。」帝、「意見書がここにあるからだ。」安石は何も言えなかった。

侁は転運副使となったが、路の民は青苗銭を求めなかった。安石は使者を派遣して詰問させた。侁、「青苗法は民が願えば与えるはず。民が望まぬのに、どうして強制するのだ。」

蘇軾は侁を褒め称えた。――上は法を害せず、中は親を廃さず、下は民を傷つけぬ。三難だ、と。


(59)五年(1072)春正月己亥(十九日)、京城に邏卒を設け、時政を非難するものを調査して、これを処罰した。


(60)三月、富弼が致仕した。

弼は汝州に到着して二ヶ月、「新法は私のよく知らぬところ。郡を治めることはできません。洛陽に帰って疾病に備えることをお許し下さい」と申し出た。これを許した。そこで老齢を理由に致仕を求めたので、また司空・武寧郡節度使を授け、致仕を許した。

弼は家にいても、朝廷に重大事があると、自分の知ることを全て発言した。帝はそのすべてを容れはしなかったが、弼に対する礼遇は衰えなかった。王安石が意見したが、帝は「富弼が『老身には訴えるところもなく、ただ屋根を仰ぎ見るばかりです』と言ってきたが、全くその通りだ」といって退けた。これほどに弼を敬っていたのである。


(61)丙午(二十六日)、市易法を実施し、〔在京市易務を都提挙市易司に改め、秦鳳・両浙・滁州・成都・広州・鄆州の〕六つの市易司をすべてこれに管轄させた。


(62)夏五月(5)丙午(二十七日)、保甲養馬法を実施した。

開封府内の諸県の保甲に詔を下し、牧馬を願うものにはこれを許した。そこで陝西で売買されている馬を択んで供給した。曾布らに命じて法規を上呈させた。

〔保馬法――〕陝西五路の義勇・保甲で馬を養うことを願うものには、一戸につき一匹を授ける。資産のあるもので、二匹の養馬を願うものは、これを許す。いずれも官の管理する馬を供給するが、官が馬を買うための銭を与え、民自身に買わせる場合もある。まず開封府と陝西五路で実施する。開封府内は三千匹を越えず、五路も五千匹を越えないようにさせる。盗賊追捕のほか、三百里以上の乗馬は禁止する。年に一度、馬の状態を検査し、死亡した場合は補償させる。開封府にあっては、草二百五十束を免除し、加えて飼育のための銭や布帛を供給する。五路にあっては、毎年の折変と沿納の銭を免除する。三等戸以上の十戸を一保とし、四等戸以下の十戸を一社とし、馬の死亡の補償に備える。保戸の馬が死んだ場合は、保戸が全額補償する。社戸の馬が死んだ場合は、社戸が半額を補償する。

その後、諸路に実施された。


(63)王安石は宰相の辞任を申し出た。帝は許さなかった。

これ以前、枢密都承旨の李評は議論好きで、帝はその発言によく従っていた。あるとき評が助役法の不便を極言したので、安石は評を憎悪するようになった。たまたま評が勝手に閤門の官吏の罷免を要求した。安石は評が権力を私していると言い、どうしても罪に陥れようとした。帝も評に罪があると思ったが、なかなか処罰しなかった。翌日、安石は帝に謁見すると東南の一郡を求めた(6)

帝、「古来君臣の間で、君と私ほど心を許しあったものはいない。私は愚鈍で物事をよく知らなかった。君が翰林にいたとき、始めて道徳の説を聴き、ようやく心が開けてきたのだ。天下の事に端緒が見えてきたこの折り、なぜ辞めるというのだ。」

安石が強く辞任を求めると、帝は「君は李評のことで私を疑っているのか。私は君が知制誥のときから知っていたし、それでいて天下のことを頼んだのだ。例えば呂誨は君を少正卯や盧杞になぞらえたが、私はそれに惑わなかった。だれが私を惑わし得よう。」

すぐに安石は辞表を提出したが、帝は受け取らず、辞表を安石に返却し、職責を全うするよう堅く言いつけた。


(64)八月甲辰(二十八日)、方田均税法を頒布した。

帝は租税の不均等を憂い、司農寺に命じて方田法と均税法を重定させ、天下に頒布した。

方田の法――東西南北各々千歩、即ち四十一頃六十六畝一百六十歩を一方とする。年の九月、県の長官・補佐官に土地を分けて測量させる。陂塘・平野・平地・沢地に従ってその地の価値を定め、赤淤・黒墟によってその色を分ける。測量が終わると、地と色によって土地の肥痩を定め、五等に分けて納税量を決める。翌年三月に調査が終わると、民に掲示する。一季節を通じて訴えるものがなければ、戸帖に記して荘帳に付し、これを証文とする。

均税の法――県は旧来の租税額を限度とする。旧来は零細なものを寄せ集め、十合に達しない米を集めて升とし、十分に達しない絹を集めて寸としていたが、今後はその数によって税を増額し、旧来の税額を超過することを禁じる。税額を越えて増額することは禁止する。痩せた土や不毛の地、人々の共有地である山林・陂塘・道路・墳墓などには税を課さない。田の四方には土を盛り、土地にあう木を植えて標識とする。方帳・荘帳・戸帳を設ける。相続、質入れ、売買のときには、官が契約書を発行する。県は帳簿を置き、現在の方田を規準とする。

準備が整えば、鉅野県尉の王曼を指教官とし、まず京東路から実施し、諸路もこれに準じさせる。


(65)六年(1073)夏四月己亥(二十六日)、文彦博が罷めた。

彦博は長らく枢密院にいたが、王安石がしばしば旧法を改変するので、帝にこう言った。――「朝廷の施策は、人心に適うようにし、人々の意見を博く汲み取り、安寧重厚を先務としなければなりません。陛下が政事に心を尽くされながら、人心が安らかでないのは、変改が過ぎているからです。祖宗の法は必ずしもその全てが実施できぬわけではありません。ただ偏よりのため成果がでないだけです。」

安石は自分に対して言ったものだと気付き、奮然と彦博の言葉を非難した。――「民の害を去るのになんで駄目なことがありましょう。万事が壊れ行くこと、まるで西晉のようであれば、どこに治世に益があるのです。」

市易司が設けられると、果物まで官が売買の監督に乗り出した。彦博は帝のために極言した。――国体を損ね、民の怨みを集めたため、華嶽山が崩落したのだ、と。また「衣冠の家(士大夫のこと)は市場に利を求めません。士大夫の正論ですら認めぬものを、堂々たる大国があくせく利を求めるなど、天の警告がないはずありません。」

安石、「華山の天変は天が小人のために発したもの。市易法を設けたのは、貧民の長き困窮のため、兼併の家を抑えただけのこと。官になんの利益があるのです。」

彦博の辞任の意向は堅かったので、司空・河北節度使として河陽判事を授けた。また大名府に移した。


(66)九月、免行銭を徴収した。

これ以前、京師の諸々の物資には行があり、官庁の必要物資はすべてそこで揃えさせ、貧民のわずかの売上も徴収していた。

呂嘉問は次のような方法を申し出た。――行の利益の厚薄を調査し、収入に応じて銭を納入させ、その銭を胥吏の俸禄に充て、行戸の買付は免除する。宮廷における物資は、雑売場務に下し、市司を設置し、物価の高低を定めて売買させる。官庁の必要物資もそこから徴収させる。

ここに至り、〔免行法を〕実施した。


(67)七年(1074)夏四月癸酉(六日)、一時的に新法を罷めた。

去年の秋七月からこの月まで雨が降らなかった。帝の顔は憂患に沈み、悲嘆に暮れ、不善ある法令はすべて罷めようとした。

王安石、「水害や旱害には法則性があります。〔聖人だった〕堯・舜・湯のときでさえあったのです。陛下は即位して以来、連年豊作でした。今時の旱害は長うございますが、なすべきことさえしておればよいのです。」

帝、「朕が懼れているのは、なすべきことが出来ていないのではないかということだ。昨今、免行銭を取ること重きに過ぎ、人々は怨みを抱いておる。近臣から姻戚に至るまで、その害を言わぬものはない。」

馮京、「私も聞いております。」

安石、「士大夫の不逞の者共は、京を頼みの綱にしております。ですから京だけが聞いたのでしょう。私は聞いたことがありません。」

これ以前、光州司法参軍の鄭侠は安石に抜擢され、その知己に感じ入り、忠誠を誓っていた。任期満了で京師を訪れると、安石は侠に情況の報告を求めた。

侠、「青苗・免役・保甲・市易の数事と、辺境に兵を用いたことは、侠には少しく考えるところがあります。」

安石は返事をしなかった。

ここに至り、侠は安上門の監督官になった。折しも飢饉の年だったが、税の取り立ては厳しかった。東北の流民は、砂埃で天が覆われる中、杖つくものが道を塞ぎ、苦しみ嘆いていた。まっとうな衣服を身に付けたものはおらず、木の実や草の根を食らうものもいた。身に手枷や足枷をはめ、瓦や木を売って官に銭を納めるものもいた。そのような人々が累々と後を絶たなかった。

侠は目に見たものを図にしたため、時政の闕失を訴えるべく閤門に詣でたが、受け付けられなかった。そのため偽って急報を出し、駅馬を発して意見書を提出した。その概要はこうである。

陛下は南北に征伐を行われ、人々は勝利の図を献上しました。しかし一人として天下の憂苦や父母妻子の苦しみ、流浪や恐慌の図を献上するものはおりませんでした。私は謹んで安上門で日々見たものをもって一図を作りました。百に一も及びませんが、陛下の御目に触れるならば、また流涕すべきものがあります。〔安上門ですらこうなのです。〕まして千万里の外に於いてはどうでしょう。陛下におかれましては、私の図を御覧になり、私の発言を容れていただきたい。もし十日にして雨が降らなければ、即刻、私を宣徳門外で斬り、君を欺いた罪を正していただきたい。

意見書が提出されると、帝は何度も図に目にし、幾たびも深い溜息をつくと、袖に入れて宮中に納めた。その夜、床についても寝ることができなかった。

翌日、ついに開封府に命じて免行銭を調査させ、三司に市易を検査させ、司農に常平倉を開かせ、三衙(7)に煕河路の用兵を報告させ、諸路に人民と物資の流亡の理由を報告させ、青苗と免役の法は一時的に督促を停止させ、方田と保甲の法は停止させた。これら全十八事、民間は歓呼して喜びあった。この日、果して大雨が降り、天下は潤った。

甲戌(七日)、輔臣は帝を詣でて雨を慶賀した。帝は侠の図と意見書を輔臣に示し、安石に問うた。――「侠を知っているか。」安石は「むかし私に学んだ男です」と答えると、辞表を提出し、辞任を求めた。人々はようやく帝が新法を停止した理由が分かったのである。

〔新法の停止に〕多くの悪者は悔しがり、侠を御史台の獄に下し、勝手に駅馬を用いた罪に問うて処罰した。

呂恵卿と鄧綰は「陛下はここ数年というもの、寝食を忘れてこの美政をお作りになり、天下はその福をようやく蒙るようになりました。それだのに狂人の発言を用い、すべて廃止してしまうなど、なんと惜しむべきことでしょう」と言うと、帝を囲んで涙を流した。このため新法はすべて元通りとなり、ただ方田法だけが暫く中止になった。


(68)丙戌(十九日)、王安石が罷めた。韓絳を同平章事とし、呂恵卿を参知政事とした。

安石は政務を執ること六年、法度を改め、領土を拡張した。老成人や正士(正しい士大夫)はほとんど排斥され、佞人ばかりが政治に預かるようになった。天下の人々はこれを怨んだが、帝の信任厚く、擅断な振る舞いが多かった。

太皇太后は機会を見つけて帝に言った、「祖宗の法度を軽々しく改めてはいけません。私は民間のものが青苗や助役の法のためにとても苦しんでいると聞いています。お止めいただきたい。」

帝、「群臣の中、ただ安石だけが身を棄てて国家のために働いております。」

この時、帝の弟の岐王顥が側にいた。進み出ると、「太后のお言葉、胸に留めねばなりません。」

帝は怒って、「私が天下を破壊しているというのか。そう思うならお前が自分ですればよかろう。」

顥は泣いて、「なぜそのようなことを仰るのです。」

みな鬱々として話しを止めた。

しばらくして太后は涙を流して帝に訴えた。――「安石は天下を乱しているのです。どうなさるおつもりです。」こうして帝は安石を疑うようになった。

鄭侠の意見書が提出されると、安石は心中穏やかでなく、ついに宰相の辞任を申し出た。帝は再三再四引き留めたが、安石の堅く辞任を求めた。そこで観文殿大学士・江寧府知事とした。

呂恵卿は一味のものを使い、毎日のように偽名で投書させ、安石を引き留めようとした。安石はその心に感じ入り、韓絳を自分に代え〔て宰相とし〕、恵卿を補佐(参知政事のこと)にして欲しいと願い出た。帝は安石の願いに従った。絳と惠卿の二人は新法を墨守し、少しも変更を加えなかったため、当時の人は絳を「伝法沙門」と、恵卿を「護法善神」と呼んだ。

恵卿は天下に新法批判が起こるのを懼れ、文書を作って監司・郡守に通達し、〔新法の〕利害を論じさせた。またおもむろに帝に意見し、官吏の違法行為を理由に新法を廃止することはないとの詔を下させた。このため安石の施策はなんら変更されなかった。


(69)五月、三司使の曾布と提挙市易司の呂嘉問が罷めた。

これ以前、呂嘉問は提挙市易司になると、連年目標を上回る税収をもたらし、褒美を受けていた。しかし帝は民の困苦を知り、王安石に尋ねた。

安石、「嘉問は公平に新法を実施しております。だから怨まれるのです。」

帝、「免行法の零細な収益まで徴収しているという。それに市易司は果実、氷、炭まで販売し、大いに国体を傷つけているというではないか。」

安石は必死に弁解したあげく、「帝の考えは粗雑だ、帝王の大略を知らぬ」などと批判した。しかし帝が「もし君の言うとおりなら、士大夫はなぜ不便だと言うのだ」と言ったので、安石は批判者の姓名を出すよう要求し、嘉問に実態を分析させた。

帝は旱害に対処するべく、韓維と孫永に命じて商売人に諮問させ、坐商(商人の一種)の銭千万を減免した。そのため安石は嘉問の分析を手にして訴えた。

朝廷が銭の納入と引き替えに行役を免除したことについて。――人というものは、本業を楽しみ、圧迫を嫌います。もし行役と免行銭を両者とも罷めてしまえば、朝廷の求めに応ずるものはなくなります。また胥吏の俸禄が薄ければ、どうしても民に求めざるを得ません。ですから厳罰によって臨まなければ〔胥吏の行いを〕禁止することはできません。しかし薄給を厳罰で抑えれば、不法行為を起こさせかねません。民から薄く銭を徴収〔して胥吏に与えることに〕すれば、胥吏は自重を知るでしょう。これこそ私共が法を行った本意です。これを批判する人々は〔行役と免行銭を〕罷めよと言っておりますが、これはまったくの間違いです。民に胥吏を畏れぬものはおりません。むかし行役を実施していたとき、民が罪に触れた場合、銭を出したくとも出来ませんでした。現在、胥吏の俸禄は厚くなりましたが、それでもむかし民から取っていたものの半分にも及ばないのです。

当時、市易司は三司に属していた。しかし嘉問は権勢を恃み、三司使(三司の長官)の薛向を凌ぐ権力を握っていた。曾布が向に代わり三司使になると、〔嘉問の振る舞いに〕不満を持った。たまたま帝は手札を下して布に意見を求めた。布は魏継宗を抱き込み、嘉問が増額によって恩賞を求めていること、また地位を利用して私財を増やしていること等々を詳細に訴えた。帝は布に調査を任せようとしたが、安石が二人に私的な諍いがあると言ったので、布と呂恵卿の二人に調査させた。恵卿は平素から布を怨んでいた。そのため継宗を脅して布を売らせようとしたが、継宗は従わなかった。布は恵卿とは職務に励めないと申し出た。帝はこれを聞き入れようとしたが、安石は認めなかった。

そこで帝は中書(宰相府)に詔を下した。――「朝廷が市易司を設けたのは、物価を安定させ、民に便利を与えるためで、『周官』の泉布をまねたものだった。ところがいま中等の家ですら本業に精を出せないでいる。これで我が民が安泰だと言えるだろうか。制度を改めよ。」

布は帝の発言を見て、「私は平素から陛下の御言葉に従い、古代の聖王のやり方でもって天下を治めようと思っておりました。ところが市易司は虐政を行い、間架税や除陌銭などをあくせく徴収しております。このような政治は、歴史書を見ましても、唐虞三代は当然にして、秦漢以来、衰乱の世ですら未だなかったことです。嘉問はこの上さらに塩や帛を販売したいと言っておりますが、これでは天下の笑いものになるでしょう。」

帝はこの意見に頷いた。

この問題が決着する前に安石は位を去った。嘉問が泣いて安石を止めると、安石は嘉問を労い、「私はすでに恵卿を推薦しておいた」と言った。

恵卿は執政になると、布と嘉問の紛争を裁定した。そして布は新法の邪魔をしていると弾劾し、朝廷から出して饒州知事とした(8)。章惇を三司使とした。


(70)秋七月、手実法を設けた。

これ以前、免役銭の徴収には不公平があった。そこで呂恵卿は弟の曲陽県尉の和卿の意見を用いて手実法を作った。

手実法――官が物価を定め、田畝・屋宅・畜産の価値に従って民に自己申告させる。銭を五つにわけ、その一つを予備に充てる。日用品や食用の粟以外で隠匿のある場合は、密告を許す。もし密告の通りであれば、財産の三分の一を褒美に充てる。あらかじめ例式を民に示し、例式に従って書状をつくらせる。県はこれを用いて帳簿を作り、その価値に応じて高下を定め、五等に分ける。一県の民の物産の銭数を総計し、全県の役銭本額と照らし合わせ、納入銭額を定める。

詔を下し、恵卿の意見に従わせた。このため民家は僅少な材木や土地までも調査対象となり、鶏や豚まで登記され、民は大いに苦しんだ。

恵卿がこの法を実施したとき、災害で五割以上の損失のあった場合は法の適用を見合わせていた。しかし荊察訪使の蒲宗孟が意見書を提出し、「これは天下の良法です。民に自供させるのですから混乱もありません。豊作の歳だけにこだわる必要はないでしょう。有司に命じ、豊作凶作に関わらず法を施行させていただきたい」と訴えた。これに従うことになった。このため民はますます苦しんだ。


(71)冬十月庚辰(二十六日)、三司会計司を設けた。

これ以前、帝はいつも新設官庁の費用に悩んでいた。

王安石、「官庁を新設するのは、経費を削減するためです。」

帝、「古代は十分の一税だった。ところが今やあらゆるものから税を取っている。」

安石、「古代の税も十分の一だけではありません。」

安石はこの上すべての胥吏に俸禄を与えようとしたが、帝はなかなか許可しなかった。三司が胥吏の俸禄を試算したところ、毎年緡銭百十一万余だった。新法支持者は「胥吏の俸禄が厚くなれば、自重するようになるだろう。ならば法を犯さないはずだから、刑罰を省くことができる」と言った。しかしまともな胥吏はほとんどおらず、民に対する誅求はもとのままで、大辟(死刑)に処されるものが多かった。このため反対派は〔胥吏の俸給に〕批判的だった。そこで三司帳司に本年財政の総収支を報告させ、宰相に事業を監督させた。

ここに至り、韓絳は次のように申し出た。――官庁を設け、天下の戸口・人丁・税賦・場務・坑冶・河渡・房園等の税額・年課、および一路の銭穀の支出から重複を去り、毎年の増減・廃置と余剰・無駄を調査し、余剰と欠損を計って疎通させ、官吏の能否で進退を決めれば、財政の大綱は明白になる、と。三司使の章惇も同じことを言った。そこで三司会計司を設け、絳を提挙官(監督官)とした。


(72)八年(1075)春正月、鄭侠は意見書を提出し、「呂恵卿は姦臣と結託し、下情を塞いでいる」と発言した。また『唐書』の魏徴・姚崇・宋璟と李林甫・盧杞の伝を両軸に仕立てた「正直君子と邪曲小人の事業図迹」なるものを作った(9)。朝廷の官僚で、林甫に阿諛し、崇や璟に対立したものは、各々しかるべき場所に配置し、書状を作って提出した。さらに馮京を宰相とすべきだと言い、甲冑をまとって宮殿に上がり、わめき立てたものがいたなどとも発言した。

恵卿は朝廷に対する誹謗だと言って弾劾し、御史中丞の鄧綰と知制誥の鄧潤甫に調査させ、侠を汀州編管とした。御史台の官僚の楊忠信は侠に面会し、「御史の官僚が口を閉ざして何も言わないとき、君は書状の献上を止めようとしない。まるで言責が門番にあり、御史台に人がいないようだ」と言うと、懐から『名臣諫疏』二秩を出して侠にわたし、「これを人助けの糧にしてくれ」と言った。

馮京は呂恵卿と宰相府にいたが、いつも議論が合わなかった。また王安石の弟の安国は平素から侠と仲がよかった。侍御史の張璪は恵卿の意向に従い、「侠はむかし京の家に出入りしており、事情に通じていた形跡がある」と〔京を〕弾劾した。また鄧綰と鄧潤甫は「王安国はむかし侠から意見書の草稿を借りて読み、推奨したことがあった。兄(安石)を誹謗する狙いがあったのだ」と言った。このため安国を郷里に追放し、京を朝廷から出して亳州知事とした。

当時、侠は左遷先の汀州に向かっていた。恵卿は舒亶に命じ、道すがら侠を逮捕させ、手持ちの箱を捜索させたところ、さきの『名臣諫疏』のほか、新法に対する書状や親友の書簡などが見つかった。これらの姓名を全て調査し、関係者を罪に問うた。罪状が決定すると、恵卿は侠を死刑にしようとした。しかし帝は「侠の発言は己の利益を思ってのことではない。それに彼の忠誠には褒むべきところがある。重く罰する必要はない」と言ったので、英州の左遷に止まった。

これ以前、安国は西京国子教授だったが、任期満了にともない上京した。帝は安石のこともあり、特別に招き入れた。

帝、「漢の文帝はどのような君主であろう。」

安国、「三代以来、これほどの人はおりません。」

帝、「しかし法令や制度を改正する才がなかったのは恨まれるな。」

安国、「文帝は代の国から未央宮に入り、わずかの間に変乱を収めました。才なきものでは成し得なかったでしょう。賈誼の建議を用いたときも、節度をもって群臣を遇し、徳をもって民を感化するよう心がけ、天下に礼義を興し、刑罰はほとんど用いられませんでした。これは文帝が一等の才人であることの証です。」

帝、「王猛が〔秦の〕符堅を助けたとき、小国でありながら命令は行き届いていたという。いま私は天下の大を保有しながら、人を使うこともままならないのは何故だろう。」

安国、「猛は堅を唆し、苛酷な法律で人を殺させました。こうして秦の血統を途絶えさせたのです。現在の酷薄な小人たちも、きっと同じ方法で陛下を惑わせているはずです。陛下は堯舜三代だけを模範にされたなら、下々のものはみな命令に従いましょう。」

帝、「君の兄は政務を執っているが、朝廷の外ではなんと言われている。」

安国、「人の真実の姿を知らず、税の取り立ては切迫に過ぎる、と。」

帝は悦ばず、ただ崇文院校書だけを授けた。すぐに秘書校理に改められた。

安国はたびたび安石に新法の弊害を力説した。また恵卿を佞人だと見なしていた。このため恵卿は安国を放逐したのである。


(73)二月癸酉(十一日)、ふたたび王安石を同平章事とした。

これ以前、呂恵卿は安石に迎合して新法を作った。このため安石の引き立てで、わずかの間で執政にまで上り詰めた。しかし恵卿は志を得ると(10)、羿(古代の弓の名人)を射るような心が芽生え、安石が再び任用されることを嫌うようになった。こうして安石の出仕の道を閉ざすべく、それを阻止できるものなら、あらゆる智慧を用いた。

当時、朝廷の官僚は恵卿が君の心を得たのを見て、安石を批判することで恵卿に阿諛し、ついにはその一味となった。鄧綰と鄧潤甫は李逢の獄を利用し、さらに李士寧の事件を持ち出して安石を動揺させた。安石はこれを知って恵卿を怨んだ。

当時、韓絳は中書で擅断していたが(11)、政務の決定に迷いが多く、しばしば恵卿と論争しては制せられずにいた。そこでこっそり帝に安石を再任するよう進言した。帝も絳の意見に従った。

恵卿は安石の再任を知ると、不安に駆られ、安石兄弟の失態を意見書にまとめて提出したり、帝に直接訴えたりした。こうして帝の心を変えようとしたのである。しかし帝は恵卿の意見書に封をして安石に見せた。安石の上表の中に「忠はもって信を取るに足らず。故に事々につき自ら明らかにしました。義はもって姦に勝つに足らず。故に人と敵対しました」という言葉があった。恐らくこれに対して言ったものであろう。(12)安石は召還の辞令を受け取ると、急いで上京し、七日で汴都に到着した。

これ以前、蜀人の李士寧は、導気養生の術を身に付け、三百歳を自称していた。また人の吉凶をよく言い当てていた。王安石はこの男と旧交があり、いつも東府(中書)に招いていた。これはみなが知っていたことである。

安石が金陵を治め、呂恵卿が大政に参与したころ(13)、たまたま李逢と劉育に謀叛ありとの報告が山東からあった。この事件は宗室の趙世居にまで累が及んだ。御史台と沂州はそれぞれ事件を調査した。「士寧もこの謀叛に関与している」と弾劾するものがいたので、天下に敕を下し、士寧を逮捕させた。罪状が明らかになり、世居は死を授けられ(死刑のこと)、李逢と劉育は市に斬られ(同上)、死寧は杖打のうえ永州に配流された。他にも連坐したものが多かった。

恵卿はこの事件を利用して、士寧を巻き込み、罪を捏造しようとしていた。たまたま安石がまた政権を執ったので、恵卿の策略は行われずに終わった。


(74)冬十月庚寅(二日)、呂恵卿が罷めた。

御史の蔡承禧は「恵卿は君を欺いて法を弄び、党派を立てて姦悪を擅ままにしている」と糾弾した。このため恵卿は謹慎して処分を待った。中丞の鄧綰は恵卿迎合の迹を弥縫し、安石に阿諛しようとした。安石の息子の雱も恵卿を深く怨んでいた。そこで綰を唆し、恵卿兄弟が秀州華亭県の富民に銭五百万を無理に借り受け、華亭県知事の張若済と田を買って暴利を貪ったことを暴かせ、獄を設置して調査させた。

恵卿はついに罷め、朝廷を出て陳州知事となった。綰はさらに三司使の章惇も恵卿の悪事に加担していたと訴え、湖州知事として朝廷から追い出した。


(75)乙未(七日)、彗星が軫に現れた。

帝は災異がしばしば現れることから、正殿を避け、食膳を減らし、詔を下して直言を求め、天下に恩赦し、政治に民の不便がないかを問うた。程顥は詔を応じ、朝政について厳しく論じた。そこで扶溝県知事とした。

王安石は同僚とともに意見書を提出した。

晉の武帝の五年(四年の誤)、彗星が軫に現れました。十年、また星の点滅がありました。しかしその在位二十八年は『乙巳占』の予言と一致しません。天道は幽遠です。古代の王達は占星の官を設けはしましたが、信用したのは人事だけでした。〔鄭の著名な占師〕裨竈は火災の徴候があると言って祈祷を求めましたが、国僑(子産)は聞かず、鄭にも火災はありませんでした。裨竈ですら出鱈目なのです。ましてや現在の占星官ではどうでしょう。両宮(太皇太后と皇太后)はこれを憂えておられると聞き及んでおります。私共の発言によって安心させていただきたい。

帝、「民間は新法にたいそう苦しんでいると聞くが。」

安石、「冬の酷寒や夏の大雨でも民は怨みます。聞くに当たりません。」

帝、「冬の酷寒や夏の大雨の怨みと重なればどうなることか。」

安石は悦ばず、帝前を退くと、病気だと言って寝込んでしまった。帝は朝廷に出て来るよう慰めた。安石の一味は「いま帝の望まぬ人々を抜擢しておかなければ、権勢は軽くなり、人に隙を衝かれることになりましょう」と助言し、安石もこの意見に従った。帝は安石が出て来ると悦び、安石の進用するものは、すべてそれに従った。

鄧綰、「そもそも民の生活必需品は、常に家で使用されています。現在その所有物の全てを申告させておりますが、これでは家に密告の悪弊を生み、人に隠匿の心を植え付けることになりましょう。また商人は商品を交換して殖財するものです。そのため交易の情況によって商品の有無が変ります。春にはあっても夏には失い、秋には貯蓄があっても冬には散じております。これを官庁の帳簿にどう記録するのでしょう。〔無理強いすれば法令に〕違反せざるを得なくなります。これでは訴訟を起こす人間のみが褒美や報復にありつき、法を畏れる人間は死を守って困苦を忍ぶことになりましょう。」

このため手実法を停止した。


(76)九年(1076)秋七月、鄧綰が罷めた。

呂恵卿は既に陳州知事として地方に下りたが、張若済の事件は長らく結審しなかった。王雱は門下の客の呂嘉問・練亨甫を動かし、鄧綰の恵卿弾劾文を取り寄せ、他書を混ぜ込み、制獄に下した。安石は知らなかった。省吏が陳州の恵卿に密告した。恵卿は弁解文を送付し、安石を訴えた。――「平素の学業を尽く棄て、縦横家の末芸を貴び、天子の命令を矯め、君上に強要すること数年。かの失志倒行逆施(14)のものとて、これほどではありません。」帝は恵卿の訴状を安石に見せた。安石は事実無根と答えた。帰宅して雱を質すと、雱は事実を答えたので、安石はこれを咎めた。雱は憤慨し、背中に腫れ物ができて死んだ。

帝は安石の行為を厭うようになった。綰は安石が去って己の権勢を失うことを懼れ、意見書を提出し、安石の子供と婿を登用し、京師に私邸を与えるよう訴えた。帝はこれを安石に語った。安石、「綰は国の司直でありながら、宰相のために恩沢を訴えました。極めて国体を損ねるものです。退けなければなりません。」帝もまた、綰は心が曲がり、性格は邪悪で、議論や推薦は僭越だと考え、虢州知事に退けた。


(77)冬十月丙午(二十三日)、王安石が罷めた。

安石は再び宰相になったが、しばしば病気だといって辞任を求めた。息子の雱が死ぬと、悲嘆に暮れ、何度も宰相の解任を求めた。帝は嫌気が募り、安石を使相・江寧府判事に命じた。すぐに集禧観使に改めた。

安石は金陵に退居すると、往々にして「福建子」の三字を書いた。呂恵卿に謀られたことを深く悔いたのであろう。


(78)呉充と王珪を同平章事とした。

充の息子の安持は王安石の娘を嫁にしていた。しかし充は安石の施策に不満をもち、しばしば帝のために新法の不便を主張した。帝は充の公正中立を察し、安石が罷めると、充を宰相にした。

充は新法を改定すべく、司馬光・呂公著・韓維・蘇頌の召還を訴えた。また孫覚・李常・程顥ら数十人を推薦した。

光は洛陽から充に書簡を送った。

新法の施行以来、天下は騒然となりました。人民は煩瑣で苛酷な政治に苦しみ、苛斂誅求に追われ、心に怨みを抱いて身を流浪にやつし、みじめに生を終えております。彼らは日夜首を長くして、朝廷が真実を悟り、悪しき新法を一変することを待っているのです。天下救済の急務は、青苗・免役・保甲・市易の法を罷め、戦争を止めることにあります。この五つを害を除くには、まず利害を明らかにし、言路を開き、人主の迷いを覚まさせなければなりません。天下を蝕む病は既に体深くにまで及んだとはいえ、まだ膏肓には達しておりません。この時機を失い、病を治さなければ、不治の病に陥りましょう。

充はこれを採用できなかった。


(79)馮京を知枢密院事とした。

これ以前、呂恵卿が安石の罪を訴えて〔安石からの〕私書を暴いたとき、「帝に知らせてはならぬ」や「同年(15)に知らせてはならぬ」などの言葉があった。京は安石と同年だったから、こう言ったのである。帝は安石に疑念を持ち、逆に京を信用するようになった。そのため京を呼び出し、〔知枢密院事として〕用いたのである。



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(1)開封府は仕事が忙しいことによる。
(2)蘇軾の上奏文原文と相違があり、論旨が不明確になっている。いま『宋史紀事本末』原本の記述に順い、誤ったまま翻訳した。
(3)同上。原文を歪曲している。「方々に穴を掘って水利を調査し」は、もともとこの論述の流れにない言葉である。いま『宋史紀事本末』原本の記述に順い、誤ったまま翻訳した。
(4)今風に言うと「言論の弾圧」というような意味になる。ただし弾圧の対称は士大夫である。
(5)底本は四月に作る。
(6)朝廷の官を棄て、地方官となって、地方に出て行くという意味。
(7)底本は三衛に作る。校勘記の指摘に従い改める。
(8)校勘記は以下に「嘉問も朝廷から出して常州知事とした」の一句を『宋史』により加筆している。
(9)単純に善悪を区分すると、魏徴・姚崇・宋璟は善人で、李林甫・盧杞は悪人になる。
(10)権力を掌握したという意味。
(11)一人で宰相の任に当たったという意味。
(12)以上の一塊は意味をなさない。安石の上表は『臨川文集』巻六十に見える宰相辞任の表書を指し、安石復帰とは無関係である。この文章はもともと魏泰『東軒筆録』巻五を出所とする。『続資治通鑑長編』巻二百六十も安石辞任後に『東軒筆録』本条を注引するが、「魏泰記此事殊失次序」と云い、魏泰の失当を指摘している。
(13)参知政事になり、宰相府の一員として国政に参画したという意味。
(14)志を失い、道理に悖る行いをしたもの。『史記』伍子胥伝の言葉。
(15)同年に科挙合格を果たした人を意味する。



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