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学校科挙之制


(01)仁宗の慶暦四年(1044)三月乙亥(十三日)、天下の州県に学校を立てさせ、科挙の新法を実施した。

この当時、范仲淹は復古思想に基づき、学問の発展を企図し、しきりに学校を設置し、学問を日常生活の根本に据えるよう意見していた。そこで近臣に議論させたところ、宋祁らが上奏した。――

教えが学校にもとづかず、行いが郷里で確かめられぬようでは、その人物の評判と実際を確かめることができません。有司(人事部署)は〔士大夫の才能を〕詩賦で判断し、〔科挙を受ける〕学徒らはただ記誦に勉めるだけです。これではあらゆる人材を用いることはできません。諸々の意見を調査し、現今に利益あるものを選びましたところ、士に対して次のように遇するのが最もよいと思われます。即ち、郷里で行いを正させ、学校で教育させ、この後に州県にその実際を調査させたなら、学問を修めるものは励みましょう。〔詩賦よりも〕さきに、策と論の試験を行えば、文字を綴るものは、天下国家の治乱に心を留めるようになるでしょう。答案の書式を簡潔にすれば、該博なものも自由に論ずることができるでしょう。〔子細な暗記問題ではなく、経文の〕大義を試験に出せば、経を治めるものは、暗記に精を出さなくなるでしょう。

帝はこれに従った。ここに至り、詔を下した。

儒というものは、天地人の理に通じ、古今治乱の源に明らかにするものである。まことに博きものと言わねばならない。しかるに学問に志すものは、ここに邁進せず、有司は詩賦や記誦で人々を縛っている。これでは豪邁奇偉の士が発奮できはしまい。士の中には、純朴明美の材がありながら、学校に教育の法が整わないばかりに、愚か者と並び進学させているところもある。これでは懿徳敏行の士など現れはしない。科挙の法に不備は多く、士みずからこれに悩んでいる。そもそも人に薄く遇するものは、その厚き見返りを求めることはできない。この度、朕は学校を建て、善を興し、大夫の行いを尊び、制度を改め、弊害を正し、士にその才を尽くさせようと思う。有司は訓導に務め、よく能否を見極めて士を選び、朕が意に適うようにせよ。学問に励むものは、徳を進め、行いを修め、しかるべき時節を失わぬようにせよ。

〔その法はこうであった。〕

すべての州もしくは県に学校を立てさせ、本路の有司は所属の官僚から教授を選べ。人員が足らなければ、郷里の碩学・善行ものから選べ。士は在学三百日にして、はじめて秋試(省試)に応ずることを許す。これ以前に秋試に応じていたものに対しては、百日の在学のみで許す。州で試験を受けるものは、相互に保証人とならせよ。服喪の期間を偽ること、過去に刑罰を犯したこと、兄弟友愛に情義を欠くこと、本籍を偽ること等々の欠格事項がある。三種の試験――第一は策、第二は論、第三は詩賦。三種を通じて去取を計り、帖経と墨義は罷める。士の中で、経義において大義に答えることを願うものは、十の題目に答えることを許す。


(02)夏四月壬子(二十一日)、判国子監の王拱辰・田況・余靖らが訴えた。――「漢の太学は二百四十房、千八百室、生徒三万人でした。唐の学舎も千二百間ありました。現在、才士の養育や選抜の制度は充実しておりますが、国子監はわずかに二百楹に過ぎず、規模狭小、収容に足りません。」詔を下し、錫慶允を太学とし、内舎生二百人を収容させた。


(03)五月壬申(十一日)、帝は太学に赴き、孔子廟に拝謁した。

故事では、ただ礼拝を一回するだけであったが、帝は特に二回おこなった。直講の孫復に五品の服を授けた。

これ以前、海陵の胡瑗は、湖州の教授になると、筋道を付けて人の教育にあたり、その学校の規則は完備していた。みずから率先して規則を守り、酷暑であっても、必ず正装で講堂に座していた。子弟の礼儀には厳しかったが、自分の子弟のように生徒に接し、生徒もまた自分の父兄のように胡瑗に親しんだ。胡瑗のもとに来学するものは、常に数百をもって数えた。当時は詩賦が盛んだったが、湖州の学校だけは経義斎と治事斎(1)を設け、実りのある学問を目指していた。ここに至り、太学が立てられると、湖州の学校規則を取り寄せ、法令に組み入れることになった。

瑗は意見書を提出し、武学を設けるよう求めた。その概要にはこうあった。

近年、呉育が武学を設けるよう建議しましたが、選抜された官僚にふさわしい人材がおらず、久しからずして廃止されました。現在、国子監直講におります梅堯臣は、むかし『孫子』に注釈を施し、まことに〔武学に〕深い理解をもっております。〔堯臣の同僚の〕孫復以下も、みな経義に詳しい人々です。臣は丹州軍事推官のとき、大いに武学を学びました。そこで堯臣らに武学の教授を兼ねさせ、日々『論語』を講義し、忠孝や仁愛を学ばせるかたわら、『孫子』や『呉子』をも講義させ、勝を制し敵を防ぐ方法を教授させていただきたい。また武官の子孫の中から、知略のあるものに三百人を選び、これに教習を施せば、一二十年のうちに必ずや成功を収めましょう。臣はすでに『武学規矩』一巻を撰述いたしましたので、これを献上いたします。

しかし当時の人々はこれは無理だと噂した。


(04)五年(1045)三月、科挙の新法を罷めた。

范仲淹が朝廷を去ると、執政は新定科挙法の入学試験資格を不便だと言い、さらには「詩賦における音韻の過ちは発見しやすいが、論や策の迂愚は発見しにくい。祖宗以来、〔科挙の法を〕改めたことはありませんが、これによって有用の人材を多く得られました」と言った。帝はそれらの意見を有司に下すと、みな旧来の方法がよいと主張した。そこで改訂した法令をすべて罷めさせた。


(05)神宗の煕寧四年(1071)二月丁巳(一日)、科挙の法を改定した。

王安石の議論に従い、詩賦科と明経諸科を罷め、ただ経義・論・策のみで、士を選抜することにした。

王安石はまたこうも言った。――「孔子の作った『春秋』は、実に万世に教えを垂れた大典であり、あの当時、〔孔門高弟の〕子游や子夏ですら一言も論評できませんでした。しかしその書は秦の焚書のため、焼け滅びてしまいました。漢代に遺書を探求したとき、当時の学者はこれに附会し、恩賞を貪ろうとしました。いま調べてみれば、〔現在の『春秋』は〕まったくの断爛朝報(細切れの官報)で、決して仲尼の手になったものではありません。『儀礼』も同じです。今後、経筵の講義題目から除き、学校からこの学官を除き、貢挙もこれで士を取らないようにしていただきたい。」許可された。

これ以前、貢挙について議論したとき、多くのものは法令の変更に賛同したが、蘇軾だけは反対した。

人を得る方法は人を知ることにあり、人を知る方法は実体を明らかにすることにあります。君主と宰相に知人の名があり、朝廷に実体を明らかにする政治があるなら、胥吏や皂隷のような下々の役人ですら、必ずや優れた人材を得られるでしょう。私は今の法のままで充分だと思います。もし君主と宰相に知人の名がなく、朝廷に実体を明らかにする政治がなければ、公卿や侍従ですら、常に人を得られぬことを患えねばなりません。ましてや学校や貢挙においては言うまでもありません。古代の制度にもどしたところで、私は充分だとは思えません。

そもそも時代には可否があり、物事には興廃があります。もし三代の聖人を今の世に蘇えらせたとしても、選挙には必ずやり方というものがあるでしょう。〔人材を得るためには〕絶対に学校を用いなければならない、というようなことはありますまい。また慶暦のときに学校を設けました。そのとき世の人々は、きっと太平になると言っておりましたが、今ではただ学校の名前が残っているだけです。いま陛下は徳行・学芸のある人々を集め、彼等に九年の後の大成を求め、当今の道理や風俗を変えようとなさっておられます。また民力を用いて学校を造り、民の財産を収めて遊士を養い、学校や教師を設け、日々訓導に従順ならざるものを遠ざけ、かくして紛々たる惨状を呈するに至っておりますが、これでは慶暦のときと何の相違がありましょう。

科挙については、あるものは「郷里で徳行の名声あるものを推薦させ、文章〔の試験〕を省略する」といい、またあるものは「ただ論と策だけを行い、詩賦を罷めよ」といい、またあるものは「唐の故事に習い、名望あるものを合格させ、模糊の法を罷めよ」といい、またあるものは「経学生の帖墨を罷め、大義を考査せよ」といっております。しかしこれらはみな間違っております。

そもそも徳行を興そうとすれば、君主みずから身を修め、物を格し(2)、好悪を審らかにし、天下の習俗に儀表たらねばなりません。もし科目に徳行の名を付け、それで人を取るというなら、これは世の中にむかって偽善をしろというようなものです。上のものが「孝」の名でもって人を取ろうとすれば、勇者は股を割き、臆病者は墓に庵を結ぶでしょう。上のものが「廉」の名でもって人を取ろうとすれば、粗末な馬車に乗り、ぼろを着込み、粗末な食事をするでしょう。上のものの意にかなうことなら、なんでもするのです。

文章の面から論ずれば、論や策は有用であり、詩賦は無益でしょう。ところが政治から言えば、詩賦と論・策はともに無用です。しかし祖宗以来、これを罷めなかったのは、科挙によって士を取るのは、この程度のものだと思っていたからです。ましてや唐より現在に至るまで、詩賦をもって名臣となったものは数え切れぬほどおります。それをなぜ天下に背き、詩賦を廃止しようとなさるのです。(3)

帝は軾の文章を見て喜び、「私はもともとこれを疑っていた。軾の議論を見て、始めて疑念が晴れた」と言った。

ある日、王安石は帝にこう言った。

当世、人材が乏しく、学術が各々で異なり、異論紛然の状態にあるのは、道徳が一つでないためです。道徳を一つにするには、学校を修めなければならず、学校を修めるには、貢挙の法を変えなければなりません。「進士に詩賦を課しても多くの人才が得られた」と言うものがおりますが、それは仕官すべき他の方途がなかったからです。この方途以外に賢者がいないわけではないのです。「科挙の法は充分によいものだ」と言うものもおりますが、これはよく事情が分かっていないのです。天下の正道や道理を学ばねばならぬ年若い人間が、門を閉ざして詩賦を学び、仕官に及んでも世事についてなにも習ったことがないという有様では、科挙の法が人の才能を破壊しているようなものです。現在が古代の隆盛に及ばないのはこのためです。

すぐに中書門下からも意見が出された。

古代に於いては、士はすべて学校から用いました。かくして道徳は上に一となり、習俗は下に成り、人材はみな世間有用のものとなりました。現在、古代の制度を復興させるには、順序立てて行わなければなりません。そこでまずは韻律や駢文(4)を除き、学徒が経学に専心できるようにします。次に朝廷が学校を興します。こうしてから三代の教育や選挙の方法を研究し、これを天下に実施すれば、古代の方法に戻すことも可能でしょう。

このため科挙の法を改めた。

詩賦・帖経・墨義を罷め、科挙に応ずるものは各々『易』『書』『周礼』『礼記』の一つを専修させ、他に『論語』と『孟子』を兼ねさせた。四種類の試験を行った。第一は本経(専門とする経書)、第二は兼経の大義を全十問、第三は論一首、第四は〔郷試は〕策三道、礼部試(省試)はさらに二道を加えた。

中書は『大義式』を撰述して頒布した。

経義の試験は、経義に通じ且つ文彩あったもののみ合格とした。明経科の墨義のように、章句を大まかに理解しただけでは合格できなかった。殿試は策のみを出題し、〔その答案は〕千文字以上とした。〔及第したものを〕五等に分け、第一等と二等には進士及第を授け、第三等には進士出身を授け、第四等には同進士出身を授け、第五等には同学級出身を授けた。旧制では、進士は謝恩に銀百両を進呈していたが、この度の改革で廃止され、別に遊宴費の銭三千を授けられた。


(06)三月庚寅(五日)、はじめて諸州に学官を設置させ、学田十頃を給付し、学生を救済させた。あわせて小学教授を置いた。


(07)冬十月戊辰(十七日)、太学生三舎法を行った。

宋のはじめ、国子生には京朝七品官以上の子孫の恩蔭に応ずるものを充て、太学生には八品以下の子孫および庶民の子孫の俊秀なものを充てた。論・策・経義を試験したが、これは進士の場合と同じであった。

(神宗)は即位すると、儒学に意を注いだ。そして既に天下の至る所には学校がある、そして年・季節・月ごとに試験がある、さらに生徒の技芸を試験し、成績の上下を決め、最優秀者を上舎とし、発解および礼部試を免除し、特別に進士及第を授けていた――等々が既に実施されていたことをふまえ、ついに太学を用いて士を取ることにした。また慶暦年間に太学内舎生二百人を設置したことをふまえ、帝は太学生を九百人まで段階的に増員した。

ここに至り、「太学の借舎に錫慶院の西北の廊室を充てているが、これでは敷地が狭すぎる」と訴えるものがいた。そこで錫慶院および朝集院の西廡に講学堂を四つ建てた。主判官(判国子監事)以下、直講を十人に増やし、二人で一経を講義させた。人選は中書に任せたが、まま主判官にも推薦させた。生員(学生)は三等に分けられた。始めて太学に入ったものを外舎に入れ、定員を七百人とした。外舎から内舎に升るが、内舎の定員は三百人とした。内舎から上舎に升るが、上舎の定員は一百人とした。各々一経を専門に選び、講義官に従って学を受けた。月ごとに学業を考査し、優等者は一つずつ舎を升った。上舎は発解と礼部試を免除し、試験の上で及第を授けた。三舎を管理する正・録・学諭には上舎の生徒を割り当て、一経ごとに二人ずつ配置した。学業・徳行ともに卓抜な者は、主判官・直講が中書に推薦し、官を授けた。その後、八十斎を置き、一斎ごとに三十人を収容した。外舎生は二千人にまで増えた。年に一回試験があり、〔合格すると〕内舎生に入れた。隔年に一度試験があり、〔合格すると〕上舎生に入れた。〔試験の際の〕弥封や謄録(5)は貢挙と同じだった。


(08)六年(1073)三月己未(十六日)、諸路に学官を置き、学制を改訂した。

関係官庁は学校規則を定めたが、過密なところがあった。このため劉摯は意見書を提出した。

学校は人材を育成し、天下の模範となるべき場所です。教化の行われるところであり、法令を行うところではありません。多くのものが集まっておれば、それらを律するため、規則は不可欠でしょう。しかしそこに必要なものは礼義だけです。天下を治めるものは、君子や長者に対するように人をもてなします。そうすれば下々のものは必ず君子や長者の振る舞いによって、上の求めに応じるでしょう。もし〔法令によって〕小人や犬豚に対するように人をもてなせば、そのものどもは小人や犬豚のごとく振る舞うでしょう。ましてそれを学校で行ってよいものでしょうか。この制度を罷められますようお願い申し上げます。


(09)丁卯(二十四日)、進士科および諸科に対し、明法を試験させてから、官を授けることにした。


(10)〔四月〕乙亥(二日)、律学を設けた。

詔を下した。「士は官職に就けば、法律で事を行わねばならない。ところがいま習熟すべき法律を学んでいない。ならば律学を設ける必要があるだろう。教授四員を置き、官僚と挙人が律令を学び得るようにせよ。」


(11)九月辛亥(十一日)、はじめて武挙の士に策問を行った。

これ以前、武挙は秘閣において義・策を試験紙、殿前司で武芸を試験していた。殿試にはこれとは別に騎射と策を庭で試験した。策と武芸ともに優等であれば右班殿直とし、武芸が次等であれば三班奉職とし、さらに次のものは三班借職とし、末等のものは三班差役とした。

当初、枢密院は武挙の法を修訂し、策に答えられなければ、兵書の墨義を答えさせた。王安石が「武挙のものに墨義を試験するのは、学究科が暗記ばかりで道理に暗いのと全く同じで、何一つ意味がない。先王が勇力の士を車右に置いたのは、敵襲を防ぐためである。暗記など何の役に立つというのだ」と批判したので、帝は安石に従った。ここに至り、はじめて武挙の士に策問した。


(12)八年(1075)六月己酉(十九日)、王安石は『詩』『書』『周礼』三経の注釈書を提出した。

帝は安石にこう言った。――「最近の経書の解釈は各人ばらばらだ。これでは道徳を一つにすることなどできはしない。君の手になる経義を頒布し、学者〔の道徳を〕一つにさせるのだ。」そこで学官に〔三経の注釈書を〕頒布した。これを号して『三経新義』と言った。この時代の学生でこれを習わぬものはなく、有司は全くこれを用いて士を取った。安石はさらに『字説』二十四巻をものしたが、学生は争ってこれを学んだ。これ以後、先儒の伝注(6)はすべて廃れてしまった。


(13)九年(1076)三月甲戌(十九日)、進士の策問に律義と断案を試験した。


(14)哲宗の元祐元年(1086)夏四月辛亥(二十四日)、司馬光が経明行修科を設けるよう訴えた。

一年ごとに常参官の文官に各自が知る人材を推薦させ、天下の士を激励し、篤実な行いを勧め、文学(詩賦)の士のみを取るわけではないことを示すのです。もし被推薦者に名教を犯すものがおれば、必ず推薦者も罰するようにすれば、おのずといい加減な推薦がなくなり、士は郷里におりながら身を修め、過失を恐れるようになるでしょう。「不言の教、粛めずして成る」とはこのことです。学官が日夜訓戒や監視を行い、褒美を餌に密告を勧めずとも、士の行いはおのずと美しくなるでしょう。

かくして詔を下した。――「今後、科挙に於いて、常参官に各々経明行修の士一人を推薦させ、合格発表の日に甲科に繰り上げさせよ。」


(15)謁禁(請託禁止)の制度を罷めた。


(16)五月戊辰(十二日)、程頤らに学制を修訂させた。

太学は、蔡確が大獄を引き起こし、高官を逮捕して以来、有司が法禁を作っていた。それは煩瑣苛酷なもので、博士と生徒の接見を許さず、学業の教諭すらままならなくなった。御史中丞の劉摯はこれを批判していた。ここに至り、程頤・孫覚・顧臨に命じ、太学の長官・次官とともに法令を審議修訂させた。

頤の主張の概略はこうであった。――「学校は礼義が第一である。ところが毎月学業を競わせている。これは教育の方法として不適切である。試験を改めて課題とし、至らぬ所があれば、学官はその生徒を呼んで教え諭すようにし、ことさら試験によって上下を決めないようにする。尊賢堂を設け、世の道徳の士を招く。定員制度を罷め、利益の誘導を除き、煩瑣な規則を省き、〔太学の運営を学官に〕一任し、品行を高め、風教を篤くする。また待賓斎や吏師斎を置き、観光の法を設ける。」このようなものが数十条あった。


(17)秋七月癸酉(十八日)、十科挙士の法を設けた。

旧制では、人事の規則に厳密な法律があった。法は平等であるべきだが、そうすると有能の人物を任用できなかった。そのため朝廷内外の官僚に人材を推薦させていた。その後、被推薦者が増えすぎたため、任用はますます難しくなった。神宗は即位すると、〔両府の〕推薦を止め、おおむね人事の規則に従うことにした。かくして内外挙官の法は廃止され、ただ吏部の審官院だけが官僚登用を審議するようになった。

(哲宗)が即位すると、左司諫の王巌叟は訴えた。

推薦を罷め、人事の規則によって人材を用いるようになりましたが、これでは〔査定上の〕功績や過失(7)は調査できても、人間の能否を調べることはできません。このためやむを得ず、平素信用する者を用いることになり、『踏逐』や『申差』のごとき名が生じました。『踏逐』の実際は推挙であるのに、〔推挙と〕同罪にはなりません。また才能あるものを推薦しながら、これを『踏逐』というのでは、ふさわしい名称とは言えません。ましてや人に推挙の権限を与えながら、己の知る者を推薦できないとあっては、優れたやり方とは言えないでしょう。

このため内外挙官の法を復活させた。

司馬光は次のように上奏した。

政治は人を得ればうまく行きます。しかし人の才能は、こちらに長ずればあちらには短いものです。〔聖帝舜に仕えた賢臣〕皐・夔・稷・契ですら、一つの官に責をもったに過ぎません。ましてや凡庸の人にむかって完璧なことを求めてよいものでしょうか。ですから孔子の門流は四科で士を論評し、漢室は数路に分けて人を求めました。もし疵あることによって善なるところを棄てるなら、朝廷に任用できる人はいなくなるでしょう。もし各人の器量によって仕事を与えたなら、世の中に不用の士はいなくなるでしょう。

臣は責を宰相に任じておりますれば、職責は官人を選ぶことにあります。しかし私の識見は短狭で、潔く世を退いた逸材や、権門と無縁のために推薦から逃れた才士がいても、その全てを探し出すことはできません。もし旧知の人を抜擢するだけであれば、私情の嫌疑を受けることになり、ただ年功に従うだけなら、その全てが才人である保証はありません。ですから高位高官のものに、各々が知りたる人を推薦させるのが一番よろしいでしょう。こうすれば世論の期待に添い、世に埋もれた人才もいなくなるでしょう。請い願いますには、朝廷に十科挙士を設けていただきたい。

一、行義純固可為師表科。官の有無にかかわらず誰でも推薦可能。 二、節操方正可備監司科。有官者から推薦。
三、知勇過人可備将帥科。文武官から推薦。
四、公正聡明可備監司科。知州以上の官歴保有者から推薦。
五、経術精通可備講読科。官の有無にかかわらず誰でも推薦可能。
六、学問該博可備顧問科。経術云々と同じ。
七、文章典麗可備著述科。経術云々と同じ。
八、善聴獄訟尽公得実科。有官者から推薦。
九、善治財賦公私倶便科。有官者から推薦。
十、練習法令能断請献科。有官者から推薦。

およそ職事官は尚書から給事中・中書舎人・諫議大夫に至るまで、寄禄官は開府儀同三司から太中大夫に至るまで、帯職は観文殿大学士から待制に至るまで、毎年十科の中から三人を推薦させます。さらに保証状を添えさせます。中書はそれを簿籍に記録します。後日、人が必要になれば、執政は名簿から推薦の科名を調べ、随時任用します。功績があれば、また名簿に書き加えます。朝廷内外に欠員が生じれば、任用した中から功績のあったものを択んで職を授けます。告身には推薦者の姓名を記しておきます。被推薦者がふさわしくなければ、推薦過失を問責します。こうすれば人々は〔推薦に〕気をつけるようになり、推薦にも優れた人を得られるようになるでしょう。

光はさらにこうも言った。

朝廷の執政はわずかに八九人です。旧知のものでもなければ、人の能力を知ることはできません。しかしそれでは私情に曳かれる恐れがあるだけでなく、登用の幅が至って狭くなってしまいます。これでは天下の賢才を用い尽くすことはできません。もし声望で人を登用すれば、到底真実は得られますまい。ならばつまらぬ声望に耳を傾けるよりも、推薦者の責任に訴えた方がよろしいでしょう。そこで臣は十科を設けて士を推薦させるよう求めました。公正聡明で監司に任せられるほどでも、恐らくは請託私情を避けられません。ただ被推薦者の不適当に対し、推薦者の譴責を緩めさえしなければ、冗漫な推薦はなくなるでしょう。

光の意見に従うことにした。


(18)二年(1087)春正月戊辰(十五日)、『老子』『列子』を試験に用いることを禁止した。

これ以前、詩賦科を罷めてからというもの、王安石の経義(『三経新義』のこと)だけが通用し、さらには釈氏の説を交えるようになっていた。受験生は一語でも王安石の新義から外れておれば、採用されなかった。そのため学生は経書の本文を読むことさえせず、ただ安石の書を学んで採用を求め、安石の書に熟練したものだけが上位合格となった。そのため科挙はますます歪んでいった。

呂公著が国政を執るようになると、ようやく試験官が『老子』『荘子』から出題することを禁止し、学生が申不害・韓非や仏書を学ぶことを罷めさせた。経書の解釈には古今の学者の説を用いさせ、王氏の学説だけを採用するのを罷めさせた。さらに王氏『字説』の引用を禁じた。


(19)夏四月丁未(二十六日)、呂公著が制科を復活させるよう訴えた。

詔を下した。――「祖宗の時代は選挙に六種の科目を設け、三種の策問を与え、天下の賢才を網羅された。先帝は学校を興し、経術を崇び、人材を一新して、天下の風俗を一変された。しかし科目の設置には間に合わなかった。今日、天下の士は経術に通じ、学ぶ所を知っている。そこで制科を復活し、卓抜な人材を招き、政治の手助けにしたいと思う。そもそも帝王は時代の趨勢によって制度を改訂する。そのため古代の制度と少しく異同もありが、世の中を正しく治めるという点については、今も昔もなんの変わりもない。ここに再び賢良方正能直言極諫科を設ける。今年から実施する。」


(20)四年(1088)夏四月戊午(十八日)、経義科と詩賦科に分けて士を取ることにした。明法科を罷めた。

尚書省から要請があった。――詩賦科の復活、そして経義科との兼用、また経書の解釈には先儒の伝注と自分の学説を通用させること。また「旧来の明法科は最下等の科目でした。ところが今日では、合格者はすぐに司法部署に任用され、しかも叙名は進士合格者の上にあります。これは正しくありません」とも言った。そこで経義と詩賦の両科を設け、律義の試験を罷めた。

〔詩賦科と経義科の試験内容はこうである。〕詩賦科の進士は『易』『書』『詩』『周礼』『礼記』『春秋左氏伝』から一経を修めさせる。まず本経の大義一問と、『論語』『孟子』の大義各々一問を試験する。次に賦と律詩各々一首を試験する。次に論一問を試験する。最後に子史と事務策を二問試験する。総計四つの試験がある。経義科の進士には両経を修得させる。『詩』『礼記』『周礼』『春秋』を大経とし、『書』『易』『公羊』『穀梁』『儀礼』を中経とする。大経二つの学習を請求するものがおれば、それを許可する。中経二つを選ぶことはできない。まず本経の大義三問、『論語』の大義一問、『孟子』の大義一問を試験する。次に論と策を試験する。総計四つの試験がある。詩賦・経義の両科ともに四試験を総合して成績の高下を決め、各々の合格数は両分して半分ずつとする。(8)経のみを修めるものは経義で合否を決め、詩賦を兼ね修めるものは詩賦で合否を決める。順位は論と策で判断する。(9)詩賦科を復活させると、士は多くこれになびき、経を修めるものは十に二三もいなかった。

これ以前、司馬光は「士を取るには、徳行が第一で、文学は末のことだ。文学から言えば、経学を文辞より優先すべきだ。神宗は経義・論・策だけで士を取ったが、これこそ古代聖王の令典を復活させたもので、百代の王といえども変えてはならぬものだ。しかるに王安石は一家の私学でもって先儒に蓋をしようとし、天下の学官に〔己の学説を〕講義させた。律令は官途に就くものの必備すべきものだが、士として道義を知っておればおのずと法律と暗合するはずだ。なぜ特別に明法科を設け、道義に反することを学ばせるのだ。人材を育成し、風俗を純朴にするものではない」と言っていた。ここに至り、ついに明法科を罷めた。


(21)六年(1091)夏四月乙未(六日)、また通礼科を設けた。

これ以前、開宝年間、郷貢の開元礼科を開宝通礼科とした。煕寧年間に開宝通例科を廃止した。ここに至り、礼官の要請によって、ふたたび科を設けて士を取るようになった。


(22)八年(1093)三月庚子(二十三日)、殿試で再び詩・賦・論の三題を行うことにした。

中書は殿試に祖宗の法を用いたいと要請し、また「学生の多くは既に詩賦を習っております。太学生は三千一百余人おりますが、詩賦を兼ね学んでおらぬものは、わずか八十二人だけです」と言った。そこでこの詔が下った。


(23)紹聖元年(1094)閏四月、十科挙士の法を罷めた。


(24)五月甲辰(四日)、詔を下し、進士に経義を学ばせ、詩賦を学ぶことを罷めさせた。

三省はこう上奏した。――「今日進士は経書の大義だけを学んでおりますが、詔・誥・章・表などの文章はすべて朝廷日用のものであり、書けぬわけには参りません。もし全くこれらを習わず、試験もしないようでは、文学の才人や博識の士を用いるのは難しいでしょう。」このため改めて宏詞科を設け、毎年進士合格者が試験に応じるのを許した。試験に応じるものは多かったが、合格者が五人を超えることはなかった。特に文辞に優れたものは、特別に官を授けた。


(25)六月、王安石の『字説』を引用することの禁令を廃止するよう求めた。


(26)二年(1095)夏四月丁亥(二十二日)、詔を下し、元豊の法令により、律学博士を設けた。


(27)五月乙巳(十一日)、蔡卞に命じ、国子監の三学および外州の学制を審議させた。


(28)徽宗の崇寧元年(1102)八月甲戌(二十二日)、蔡京は学校を興して士を取るよう訴えた。

県学の生徒に試験をさせ、〔その合格者を〕州学に進学させ、州学の学生は三年ごとに太学に送らせた。考査は三等に分け、上等であれば上舎に入れ、中等であれば上舎下等(10)に入れ、下等は内舎に入れ、それ以外は外舎に入れた。諸州軍の科挙合格定員の中から、各々三分の一をこの定員に充てさせた。

京はさらに外学を設けるよう求めた。そこで詔を下し、京城の南門の外に外学を建設して、辟雍と名づけた。外側は円形で、内側は方形、奥屋は千八百七十楹あった。太学には上舎と内舎の学生だけを収容した。外学には外舎の生徒を収容した。入学した学生はすべて外学に収容した。試験によって上舎・内舎に進学させ、始めて太学に進むことができた。太学の外舎生も外学におらせた。かくして上舎〔の定員〕は二百人、内舎は六百人、外舎は三千人にまで増えた。


(29)三年(1104)九月、科挙を罷めた。

当時、辟雍と太学を設け、それを士の選抜に充てていた。しかし州県はまだ科挙によって士を朝廷に送っていた。蔡京はこれについて意見し、ついにすべての士を学校から取ることにした。州県の郷試、礼部の省試はすべて廃止した。毎年上舎の生徒を試験したが、そのときは〔試験官として〕省試と同じように知挙を派遣した。


(30)四年(1105)五月甲寅(十八日)、詞学兼茂科を設けた。

帝は、宏詞科では文学の士を招くに不十分だと考え、改めてこの科を設けた。毎年貢士院で試験させ、合格したものには館職を授けたが、毎年(合格者は)五人にも及ばなかった。


(31)三舎の法を天下に施行した。


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(1)経義斎は経書の教えや道徳を授ける上級者向けの課程。治事斎は政治的な実務を教える一般人向けの課程。
(2)底本は「裕にし」に作る。『宋史』などにより改めた。
(3)この蘇軾の上奏は、王安石の発議を受けてそれを批判したものである。随って王安石の発議がなければ蘇軾の意図が非常に分かりづらい。しかし本書は王安石の発議を省略したまま蘇軾の上奏を引用しているので、それで読者は分かると判断したのだろう。翻訳であるから、理解の難易に関わらず原本の方式に従い、王安石の発議の内容は注記しない。なお蘇軾の上奏の原文は『蘇軾文集』巻25の議学校貢挙状に見える。
(4)この前後の科挙関連の用語は、荒木敏一『宋代科挙制度研究』(同朋舎、1969年)を参考にした。
(5)弥封は受験者の名前をのり付けし、執筆者の名前を隠すこと。模糊ともいう。謄録は答案を書き写すこと。いずれも試験の不正防止策の一つ。
(6)伝・注ともに経書の注釈を意味するが、ここでは『五経正義』などに代表される、宋代初期以前の注釈を指す。
(7)底本は「功名」に作る。『宋史』により改める。
(8)この論述は複数の無関係の文章を一つにまとめている。従って論旨に矛盾が生じているが、原本がそのようにあるので、そのまま訳出した。以上の部分は元祐四年の詔に基づいたものである。
(9)以上は元祐五年の詔に基づいたものである。
(10)『宋史』は下等上舎に作る。



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