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元豊官制


(01)神宗の元豊三年(1080)六月丙午(十五日)、中書に官制の改訂を審議させた。

国初は唐の制度を受け継ぎ、三省に専職なく、尚書省・九寺・五監にも定員がなく、他の部署のものを管理者に置いていた。三省の長官は朝政に関与せず、六曹は本来の職務に関わらず、給事中や中書舎人は本職に勤めず、諫議大夫に言責なく、起居舎人は記注を担当せず、司諫や正言は特に供職の命令がなければ、諫言の責に任じなかった。官制の運用には、官・職・差遣の区別があった。官僚は台閣(宰相)や侍従になることを重視し、官階の上下を昇進の遅速と考えず、重要な差遣を要職と見なし、位階・勲等・爵邑を重視しなかった。多くの者が官名を正すよう求めるたので、帝は改制に意欲を示し、詳定官政局を中書に設け、翰林学士の張璪と枢密副都承旨の張誠一を総裁とした。


(02)九月乙亥(十六日)、官名を正し、中書令・侍中・同平章事を開府儀同三司に変え、左右特進を特進に変えた。これ以下、各々適切な官名に変えた。

詳定官制所が寄禄格を上呈したので、詔を下し、これを実施した。空名(実職のない官名)は全て廃止し、位階に変え、寄禄官とした。審議の中には、枢密院を解体して兵部に統合すべきだと言うものもあった。しかし帝は「祖宗は兵権を有司(ここでは兵部)に帰属させなかった。そのため特別に官僚を任命し、これを統括させ、相互に牽制させた。廃止すべき理由がない」と言ったので、中止になった。

あるとき帝は執政に、「新官制の実施には、新法と旧法の両方から人材を用いるつもりだ」と言い、御史大夫を指さし、「司馬光でなければだめだ」と言った。王珪と蔡確はたがいに顔を見合わせて色を失った。珪は憂苦の余り、なすところを知らなかった。

確、「上は〔西夏に奪われた〕霊武の回復を念願としておられる。公がその責務を全うされたなら、宰相の地位は保全できましょう。」

珪は喜んで確に感謝すると、兪充を慶州知事(1)に推薦し、西夏平定策を献上させた。ひとたび兵を敵地深くに侵入させてしまえば、きっと光を呼ばないだろうし、もし呼んでも、光はやってこないだろうと考えてのことだった。やはり光は呼ばれなかった。


(03)四年(1081)秋七月己酉(二十四日)、選格(幕職官人事規定)を定めた。

これ以前、太祖は官職を設けること、多く五代の制度を因襲し、あまり是正を加えなかった。官僚になるには貢挙・奏蔭(恩蔭)・摂署(地方官による登用)・流外(胥吏からの昇格)・従軍(軍功による昇格)の五種類あった。吏部銓(吏部流内銓)はただ幕職官や州県官の注擬(人事案)を担任するだけで、京官六品以下の官については人事権がなかった。文官の少卿監以上のものは中書が人事権を握り、京朝官については審官院が握っていた。武官・刺史と副率以上と内職は枢密院が人事権を握り、使臣は三班院が握っていた。その後、人事権は四つに区分された。文選(文官人事)は審官東院と流内銓、武選(武官人事)は審官西院と三班院が担当することになった。

(神宗)は即位すると、改制に意欲を示した。官僚から「唐の人事は今と異なっている。両者を雑用すれば、滞りが生じ、煩雑になる」と建議があった。そこで内外官司からの推薦をすべて廃止し、大理卿の崔台符に命じ、尚書吏部・審官東西院・三班院とともに選格を定めさせた。かくして銓注の法(人事権)は吏部に統一されることになった。審官東院を尚書左選とし、流内銓を侍郎左選とし、審官西院を尚書右選とし、三班院を侍郎右選とした。ここにおいて吏部に四選の法(四種の人事方法)が生れた。

文官の場合、寄禄官の朝議大夫以下、職事官の大理正以下のもので、中書省の勅授(堂除。政事堂で任命されるもの)でないものは、尚書左選に帰属する。武官の場合、升朝官は皇城司以下、職事官の金吾階衛司(2)と仗司以下は、枢密院の宣授でない限り、尚書右選に帰属する。初仕から州県幕職官に至るまでは侍郎左選に帰属する。借差・監当から供奉官・軍使に至るまでは侍郎右選に帰属する。

注擬・升移(昇格移動)・敍復(名誉回復)・蔭補・封贈(恩典授与)・酬賞(褒美)は、関係部署に従い、審査・決定の上、一括して尚書省に上申する。中散大夫・閤門使以上は、人事の必要書類を中書省に提出する。枢密院は皇帝の許可を得てから、告身(辞例)を給付する。

祖宗以来、中書には堂選(高級文官の人事権)があり、百司郡県には奏挙(推薦権)があり、各々種類は異なるが、どちらも人事関係部署の外に置かれていた。

王安石は帝に「中書は庶務を統括するところです。現在通判までも堂除に充てておりますが、これではいたずらに人事が停滞するだけでなく、人材の選択も精密さを欠きます。これらの人事を関係部署にもどすべきです。」

帝、「唐の陸贄の言葉に、『宰相は百官の長を選び、百官の長は百官を選ぶべし』とある。審官院の長官にしかるべき人材を得られさえすれば、百官を正しく選べぬはずはあるまい。」

そこで堂選を罷めようとしたが、曾公亮が強く反対したので取り止めになった。ここに至り、内外長吏挙官の法(奏挙のこと)を罷めたので、堂除も廃止されることになった。


(04)五年(1082)二月癸丑(一日)、三省・枢密・六曹条制を頒布した。


(05)四月癸酉(二十二日)、王珪を尚書左僕射兼門下侍郎とし、蔡確を尚書右僕射兼中書侍郎とし、章惇を門下侍郎とし、張璪を中書侍郎とし、蒲宗孟を尚書左丞とし、王安礼を尚書右丞とした。

当初、新官制を議論したとき、『唐六典』にならい、中書が皇帝の許可を取り、門下が審議し、尚書がそれを受けて施行した。三省には別々に上奏させたが、実権は中書が握っていた。

確が珪に言うには、「貴公は長いあいだ宰相だったのだから、きっと中書令になれますよ」と。珪は信じて疑わなかった。ところが確は帝に向かっては、「三省の長官は位が高いので、令(長官)を置いてはなりません。ただ左右の僕射に両省(中書省と門下省)の侍郎を兼任させれば十分です」と言った。帝もそれに賛同した。そのため確は位こそ次相であったが、実際には大政を専断した。珪は左僕射兼門下侍郎となり、首相になったものの、なにもできなかった。


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(*)本書は『宋史』職官志に若干の他の資料を混ぜたものである。『宋史紀事本末』の編修は勝手に軸を改めたところがあり、そのため意味不鮮明の箇所が多くある。ここでは一部を『宋史』の記述に従ったが、その場合は一々注記しなかった。なお人事関係の専門用語に日本語を充てるのは最小限度に止めた。
(1)対西夏戦略の要職の一つ。
(2)『宋史』校勘記は金吾街司を是とする。



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