HOME目次煕河之役

西夏用兵


(01)英宗の治平三年(1066)夏四月、夏人は国境を襲撃したが、経略使の蔡挺が撃退した。

これ以前、夏の君主諒祚は呉宗を派遣し、〔帝の〕即位を慶賀させた。呉に不遜な言動があったので、〔帝は〕諒祚に宗を懲罰するよう言いつけた。諒祚は命令を聞かず、兵を秦鳳と涇原に出し、辺境の民や城塞を荒らし、万を数える人や家畜を殺戮強奪したあげく、大順城を襲った。

還慶経略使の蔡挺は蕃官の趙明に撃退させた。諒祚は銀の鎧と氈帽(毛帽子)を身にまとい、督戦していた。挺はまず強弩隊を壕の外に並べ、雨のように矢を射させた。諒祚は流れ矢に当って逃げ去ったが、また柔遠寨に移動してこれを襲った。挺は副総管の張玉に三千人を授け、諒祚の陣営に夜襲をかけさせた。賊軍は慌てふためき、金湯城まで撤退したが、十万の騎兵で大順城を囲むと言い立てた。

折しも朝廷では歳賜の銀幣を〔夏に〕送る準備をしていた。延州知事の陸詵は「朝廷が一時逃れの方便を続けるから、蛮族が調子に乗るのだ。少しく彼等の罪を問うてやらねば国威は立たぬ」と主張したので、歳賜を与えず、宥州に書簡を送り、夏を問責させた。〔歳賜が止まると、〕諒祚は途方にくれ、城塞に閉じ籠もり、使者を派遣して〔宋に〕謝罪した。曰く、「辺境の役人が勝手に戦いを始めたのです。私は辺境まで出向いて彼等を捕らえました」と。

はじめ諒祚が辺境を荒らしたとき、韓琦は西夏の歳幣を止め、交易を絶ち、問罪使を派遣するよう提案した。文彦博が宝元や康定のことを持ち出して難色を示すと、琦は「諒祚は未熟な子供だ。元昊の知謀はなく、我々の防備も昔日とはほど遠い。速やかに問責すればきっと屈服します」と答えた。同じころ提出された陸詵の献策も琦と同意見であった。そして諒祚はやはり折れてきた。帝は琦をかえりみて、「すべて君の思ったとおりになった。」


(02)四年(1067)春、夏の君主諒祚は使者を派遣し、特産物を持参して謝罪にきた。

ちょうど神宗が即位したばかりだった。そこで詔を授けてこう言った。――「朕はこう思っている。夏国は毎年のように兵を興し、辺境を侵犯し、人民を騒擾に巻き込み、我が方に帰順している蛮族に誘惑や迫害を加えている。去秋、また大順城を襲い、城塞を囲み、村落を焼き、官軍と敵対した。報告はしばしばもたらされ、人々はみな憤っている。群臣はこう言うのだ、『夏国は誓約を破った、絶好すべし』と。先皇帝は務めて怒りを含み、改めて〔夏に反逆の〕理由を問われた。これによって〔夏の〕順逆の実情を計り、衆多の論を決しようとされた。この度の申し出を見ると、身を卑しめて我が命を受け、先帝の御車が旅立たれるのを悲しんでいる。朕は大統を受け継いだばかりであり、度量の広きを望むときである。先帝の御心に沿うべきであり、また汝等の誠実も偽りなきようである。既に前の罪を悔い、また堅く好を通じることを願っている。もし申し出が真心によるものであり、変わるところがないならば、恩礼は旧時のままとしよう。民を安んじ福を保つこと、これ以上に宜しきはない。」


(03)冬十月癸酉(二十八日)、青澗城の守将の种諤は、夏の監軍の嵬名山を襲い、綏州を取り戻した。

嵬名山の部族は、もともと綏州を根拠地としていた。名山の弟の夷山が种諤に投降を申し出たので、諤は夷山を利用して名山を誘い出し、賄賂に黄金の皿を差し出した。名山の召使いの李文喜は賄賂を受け取ると、秘密裏に〔宋への〕帰順を受諾した。しかし名山はまだなにも知らなかった。

諤は急ぎ河南の地を取り戻したいと上奏した。延州知事の陸詵は「部族ごと投降するなど、真偽は計り難い」と言い、諤に妄動を戒めたが、諤は譲らなかった。詔を下し、詵に諤の罪状を調べさせ、さらに転運使の薛向とともに、名山らの帰属問題を議論させた。そこで共同で三策を画し、部下の張穆之に上奏させた。穆之は向の指示通り、事は必ず成功すると嘘を言った。そのため帝は詵が和を乱したものと判断し、詵を秦鳳に移動させた。

諤は朝廷の命令が届く前に麾下の兵を動員し、長駆して軍を進め、名山の軍営を包囲した。名山はやむを得ず部族とともに諤に従い、南下することにした。酋首三百人、戸数一万五千、兵万人を捕獲し、ついに綏州に城を築いた。夏人が攻撃してきたが、諤は撃退した。詵は、諤の擅興の罪(勝手に軍を動かした罪)を責め、逮捕しようとしたが、まだ果たせぬうちに秦鳳移転の辞令が届いた。西方との戦争はここから始まった。

种諤が嵬名山の投降を受諾すると、その十一月、夏の君主諒祚は会議を開こうと嘘を呼びかけ、〔赴いた〕保安軍知事の楊定らを殺害した。このため辺境に再び騒擾が起こった。

朝廷は諤の事件を受け、綏州を放棄し、諤を処罰しようとした。陝西宣撫主管機宜文字の趙卨(1)は「蛮族は既に我が朝の官僚を殺害しております。このうえ綏州を棄てるとあっては、弱勢を示すこと甚だしいものがあります。また名山は一族もろとも来朝しましたが、これをどう処遇するのです」と批判し、また執政に書簡を送っては、「綏州を保全して兵力を蓄え、大理河に砦を築いて三十里あまりの農耕地を確保し、投降したものを住まわせるのです」と訴えたが、聞き入れられなかった。そこで改めて韓琦を永興軍判事とし、陝西の問題を処理させた。

当初、琦は綏州の奪取に批判的だった。しかし楊定の殺害に及び、綏州放棄を否定した。枢密院が当初の議論によって詰問すると、琦は事細かに理由を説明した。そのため綏州を防衛することになった。

当時、多くのものが种諤を批判したため、罪状を調査させた上で、諤の四官を降し、随州安置に処した。


(04)〔十二〕月、郭逵は楊定らを殺害した首領の姓名――李崇貴・韓道喜の名を探り出した。夏の君主諒祚は崇貴らを捕らえて〔宋に〕献上した。


(05)神宗の煕寧元年(1068)三月庚辰(八日)、夏の君主の諒祚が死に、子の秉常が後を嗣いだ。臣下の薛宗道らを派遣し、喪を告げさせた。

帝は楊定殺害のことを問責した。崇道は「殺人犯は既に捕らえて〔宋側に〕送りました」と弁解した。〔殺人犯である〕李崇貴らが到着すると、こう発言した。――「楊定は〔宋帝の〕使者として諒祚に謁見したとき、いつも礼拝して臣と称していました。また国境周辺の異民族を〔夏に〕与えるとも言っておりました。諒祚は定に宝剣と宝鑑、それに金銀を授けました」と。

これ以前、定は〔宋に〕帰国すると、〔夏の君主から与えられた〕宝剣と宝鑑のみ献上して金銀は着服してしまい、「諒祚は殺さねばなりません」と発言していた。帝はこの発言に喜び、定を保安軍知事に抜擢した。ほどなくして夏人は綏州を失うと、「定が我々を売ったのだ」と考え、その殺害に及んだのである。ここに至り、事件の真相が明らかになった。帝は崇貴らを減刑すると、定の官を剥奪し、その膨大な財産を没収した。

劉航を派遣し、秉常を夏国の王として承諾させた。


(06)三年(1070)八月己卯(二十二日)、夏人が環州と慶州を襲った。韓絳を陝西宣撫使とした。

これ以前、夏人が閙訛堡を築いたとき、慶州知事の李復圭は蕃漢の兵(蛮族と漢族の兵)三千を用い、婢将の李信・劉甫に防禦させたが、信らは大敗して逃げ帰った。復圭は〔敗戦の責任を〕懼れて、弁解のために信らを斬り殺した。再び兵を出して夏人を追撃し、その老幼二百余人を殺害すると、それを戦功に数え、勝利の報告とした。

ここに至り、夏人は大挙して慶州と環州に攻撃を加え、大順城と柔遠砦・茘原堡を攻めた。兵は多くて二十万、少なくとも一二万は下らなかった。軍を楡林に駐屯すると、游騎兵を慶州の城下まで繰り出し、九日にしてようやく退いた。鈐轄の郭慶ら数人がこの戦いで命を落とした。

韓絳が辺境の視察に出向きたいと申し出たところ、王安石も同じ申し出をした。絳は「朝廷にはいま君が必要だ。私が行こう」と言った。そこで絳を陝西宣撫使とし、空名の勅書を授け、官吏の任用を専断させた。すぐに河東宣撫使も兼ねさせた。


(07)四年(1071)春正月己丑(三日)、韓絳は种諤に命じて夏人を襲撃させ、これを破らせた。

絳はもともと用兵など知らなかった。そのため延安に幕府を開いても、後方から軍を指揮していた。蛮族の兵を七軍に編成し、再び种諤を鄜延鈐轄に命じ、青澗城を守らせた。絳は諤を信任し、諸将をその指揮下に入れた。このため蛮族の兵はこれを怨んだ。

絳と諤は兵を横山に出し、これを取ろうとしたが、安撫使の郭逵は「諤は愚か者だ。种氏一門(2)だからといって彼を用いれば、必ず大事を誤ることになろう」と批判した。しかし絳は逵が軍事を邪魔していると上奏し、朝廷に召還させた。かくして諤は軍を率いて囉兀で夏人を破り、二万人を動員して城を築いた。これ以後、夏人は日々兵を蓄え、報復の計を画した。

呂公弼は「諤は辺境に紛争の種を播いている。戒めさせよ」と訴えたが、聞き入れられなかった。すぐに絳から、諤には夏国侵略の功がある、褒美を与えて欲しいと言ってきた。詔を下し、諤に褒美を与えた。


(08)三月丁亥(二日)、夏人が撫寧の諸城を陥落させた。

これ以前、种諤は永楽川と賞逋嶺に二つの砦を築き、都監の趙璞と燕達を派遣し、撫寧の旧城を復旧させた。また荒堆三泉・吐渾川・開光嶺・葭蘆川の四砦と河東路でも修築を行った。各々四十余里の間隔があった。

ほどなく夏人が順寧砦を攻撃すると、そのまま撫寧城を包囲してしまった。当時は折継昌や高永能らが細浮図に兵を駐屯させており、しかもそれは撫寧城からごくわずかのところにあった。また囉兀城の兵もまだ無傷だった。諤は綏安で諸軍を指揮していたが、夏人の来寇を聞くや、茫然自失し、燕達を召還すべく書簡を書こうにも、恐怖の余り文字が書けなかった。そして転運判官の李南公を見て泣き出し、涙が止まらなかった。このため新築の諸堡は全て陥落し、戦没した将士は千余人に上った。

詔を下し、囉兀城を棄て、諤を処罰して汝州団練副使・潭州安置とした。絳も敗戦の責任を問われ、〔経略使を〕罷免の上、鄧州知事に処された。こうして結局は郭逵の予想通りになったという。


(09)元豊四年(1081)六月、夏人がその君主の秉常を幽閉した。

環州知事の兪充は、帝に派兵の気持ちのあることを察知し、しばしば夏を討伐すべく訴えていた。また「諜報によれば、『夏の将軍の李清はもともと秦州の人で、秉常に対して、河南の地とともに〔宋に〕投降するよう呼び掛けていた。ところが秉常の母の梁氏がこれを知り、清を誅殺して、秉常の政柄を奪い、幽閉してしまった』とのこと。軍を出して罪を問うべきです。これこそ千載一遇の好機にほかなりません」とも言った。帝はこれに賛同した。


(10)秋七月庚寅(五日)、煕河経制の李憲らに詔を下し、陝西・河東の五路の軍を合わせ、大挙して夏を伐たせた。また鄜延の副総管の种諤を召還した。

諤は〔国都に〕到着すると、威勢よく「夏国にしかるべき人間はおらず、秉常はまだ子供です。秉常の腕をつかんで、〔御前に〕連れて参りましょう」と言い放った。帝はこれに力づけられ、西伐の意を固くした。

派兵の議論が上ったとき、孫固はこれを諫めて、「兵を用いるのは容易ですが、〔戦争による〕災禍を治めるは至難です。なりません。」

帝、「夏に隙があるのに奪わなければ、遼に奪われるだけだ。失ってはならぬ。」

固、「やむを得ないとおおせなら、彼等の罪を責め、少しく討伐するに止め、土地を分けて、その地の酋長に任せられませ。」

帝は笑って、「それでは本当に酈生の説だな。」

当時、執政には「渡河を決行し、軍を止めてはならぬ」と主張するものがいた。

固、「では誰が陛下のためにその責に当たるとおおせです。」

帝、「既に李憲に任せておる。」

固、「他人の国を討伐するのは一大事です。しかるにこれを宦官に任せるとは。それで士大夫が力を尽くすでしょうか。」

帝は不機嫌になった。

後日、固はまたもや諫めて、「この度のことは、五路から軍を出しながら、それを束ねる総帥がおりません。もし成功したとしても、必ずや兵乱が起こるでしょう。」

帝は人がいないと言うと、呂公著は進み出て、「問罪の師は、当然ながら、まず総帥の選択が重用です。しかるにその人がおらぬとあっては。戦いは止めた方がよろしいでしょう。」

固、「呂公著の言うとおりです。」

帝は聞き入れず、ついに李憲に命じて煕河から出軍させ、また种諤を鄜延から、高遵裕を環慶から、劉昌祚を涇原から、王中正を河東から、各々兵を分けて進軍させた。また吐蕃の首領の董氈に兵を集めて討伐に参加するよう命じた。


(11)八月丁丑(二十三日)、李憲は煕・秦の七軍と董氈の兵三万を率い、夏人を西市新城で破った。庚辰(二十六日)また女遮谷で破り、夥しい人間を斬首・捕獲した。ついに旧蘭州を奪回し、その地に城を築くと、帥府を設置するよう訴えた。


(12)〔九月〕辛亥(二十八日)、鄜延経略副使の种諤は鄜延の兵を率いて綏徳城を出発し、米脂を攻めた。夏人は八万の軍で救援に駆けつけた。諤はこれを無定川で破り、ついに米脂寨を突破した。


(13)冬十月庚午(十七日)、還慶経略使の高遵裕は歩騎兵(歩兵と騎兵)八万七千を率いて慶州を出発し、夏人を破り、通徳軍を取り戻した。

种諤は曲珍に兵を授け、黒水の安定堡に進軍させた。夏人と遭遇したので、またこれを撃破した。

内使の王中正は涇原の兵を率い、麟州から出発し、無定川を越え、川沿いに北進した。大地は砂状で湿気ており、士卒や軍馬の多くが足をとられ、兵粮も続かなかった。しかし軍功がないことを恥じ、宥州に押し入った。このとき夏人は既に城を棄てて河北に逃走しており、城中には民が百家ほど取り残されていた。中正は彼等を殺戮し、その牛馬を奪って食料に充てた。

当時、劉昌祚は蕃漢兵五万を率い、高遵裕の指揮下に入り、両路から軍を合わせて夏を伐つ予定であった。〔しかし昌祚が〕夏国領内に侵入したとき、まだ慶州の兵は到着していなかった。昌祚は磨[口移]隘に到着すると、夏軍十万が守っていたが、これを大破し、ついに霊州城に到達した。兵は城門まで迫ったが、遵裕は昌祚の功績に嫉妬し、急ぎ使者を派遣して進軍を停止させた。昌祚は軍を整えて遵裕の到着を待った。遵裕は霊州城に到着すると、城を囲むこと十八日に及んだが、結局は城を落とせなかった。夏人は黄河の七級渠を決壊させ、水を〔宋の〕陣営に流して糧道を絶った。このため凍死や溺死する兵卒が相継ぎ、軍営を保てずに撤退した。残余の軍はわずか一万三千に過ぎなかった。夏人は〔宋軍を〕追撃し、またこれを破った。昌祚も涇原に帰還した。

种諤は千人を米脂の守備にあて、自身は大軍を率いて銀州・石州・夏州に進撃し、ついに石堡城を破り、夏州に到達すると、索家平に軍を留めた。たまたま大校の劉帰仁の軍が負け、兵粮も乏しくなり、さらに大雪にも見舞われたため、軍を引き返した。死者の数は計り知れず、城塞に帰還できたものはわずか三万人に過ぎなかった。

王中正は宥州から奈王井に進軍したところで兵粮が尽き、二万もの兵を失って帰還した。

当初、李憲に五路の兵を授け、直に興州・霊州に進軍させる予定だった。憲は軍を率いて東から北上し、天都山の麓に陣営を築き、夏の南牟の内殿と倉庫を焼いた。夏の統軍の仁多唆丁を追撃してこれを破り、葫蘆河に進軍したところで、撤兵となった。このとき五路の兵はすべて霊州に到着しており、憲だけが間に合わなかった。


(14)五年(1082)春正月庚子(十八日)、高遵裕らを降格した。

この戦いの前、夏人は朝廷(宋側)の大挙侵入を察知すると、〔秉常の〕母の梁氏は作戦を重臣に問うた。少壮の将軍らはみな決戦を望んだが、ある老将軍だけは、「堅く城を守り、敵を内地に誘い込み、精鋭を霊州と夏州に集め、軽騎兵を派遣して敵の糧道を絶つのです。そうすれば戦わずして敵を苦しめられましょう」と進言した。梁氏は老将軍の意見に従った。このため〔宋の〕軍は戦功を立てられずに撤兵した。

帝は「はじめは孫固の言葉を迂愚だと思っていた。しかし今となっては後悔しても及ぶまい」と言った。ここに至り、敗戦の責任を問い、高遵裕を責授郢州団練副使・本州安置とし、种諤・王中正・劉昌祚を降格した。李憲は蘭州と会州を奪回した功績により、罪を免除された。

孫固、「兵法においては、予定に遅れたものは斬ることになっております。まして諸路の軍がみな到着しているとき、憲だけが間に合わなかったのです。赦してはなりません。」

帝は憲に功績があったといい、ただ勝手に撤兵したことだけを問責させた。憲は兵粮が続かなかったと弁明したので、罪を赦して処罰しなかった。憲がまた再挙の策を献上したので、詔を下して涇原経略安撫制置使とし、蘭州知事の李浩を副官とした。


(15)三月壬寅(二十一日)、鄜延路副総管の曲珍が金湯で夏人を破った。


(16)夏四月、李憲が西夏討伐の再挙を訴えた。

帝はこれを宰相らに諮問した。

王珪、「先の討伐が困難に陥ったのは、用途が不足したからです。既に朝廷には五百万緡の銭鈔(鈔は引換券)の準備があり、兵粮の調達にも余裕があります。」

王安礼、「鈔を加えてはなりません。鈔はいちど銭と交換し、さらに銭を兵粮に交換しなければなりません。既に出征までわずか二ヶ月余です。とても処置し切れません。」

帝、「李憲は既に準備があると言っている。あれは宦官なのにこれほど十分に働いてくれる。しかるに諸君等は何の考えもないのか。唐が淮蔡の反乱を平定したとき、ただ裴度だけが主君とその心を同じくしていた(3)。ところが今はどうだ。朝廷の高官から平定の意見が出ず、かえって宦官の口からそれが出ている。私はこれを恥ずかしく思う。」

安礼、「淮西は三州にすぎません。裴度の謀、李光顔・李愬の将がありならが、それでも天下の兵を用いて、ようやく数年の後に平定したのです。いまや夏氏の盛強は淮蔡の比でなく、憲の才は度に及ばず、諸将も光顔・愬ではありません。私は陛下の御心に添えぬことを懼れているのです。」


(17)六月辛亥(一日)、還慶経略使は将軍を派遣して夏人を破った。戊辰(十八日)、曲朕らが夏人を明堂川で破った。


(18)〔八月〕、延州知事の沈括はこう主張した。――横山一帯に城を設け、平夏を眼下に置き、夷狄の砂漠横断を阻止すべきだ、と。种諤は西方討伐で戦功が立てられなかったため、沈括の計略を朝廷に献上し、さらに西方討伐は銀州から始めるべきだと主張した。帝もこれに賛同し、給事中の徐禧と内使の李舜挙を鄜延に派遣し、これを議論させた。

舜挙は上前を退くと、執政に面会を求めた。王珪は出迎えて、「辺境のことは押班(李舜挙)と李留後(李憲)に任せておけば、なんの心配もない。」

舜挙、「四方を防壁で固めるのは、卿大夫の恥。宰相は国の重責を担い、辺境のことを二人の宦官に任せておられるが、それでよろしいのか。宦官は禁中での雑用に止めるべきもの。それを将帥に当ててよろしいのか。」

しかし珪に恥じ入るところはなく、人の恥じるところなった。

徐禧が鄜延に到着すると、种諤は「横山は長さ千里、馬は多く、耕作に適し、人間は精悍で戦いに慣れており、さらに塩や鉄の利点もあります。夏人はこれを頼りに生きております。城塞はどれも険難で、防禦に適しております。今日軍事を起こすには、銀州から始めるべきです。次いで宥州に遷り、さらに夏州に遷るのです。三郡が鼎立すれば、横山の地はこの中にすっぽり入ってしまいましょう。さらに塩州を手に入れれば、横山の強兵軍馬、山沢の利は、すべて中国のものになります。地勢は高く、興州と霊州を眼下に置けば、直接夷狄の巣窟を滅ぼすこともできます」と上奏した。

徐禧は「銀州は明堂川・無定河に挟まれておりますが、旧城の東南は既に水没しており、西北には天然の塹壕があります。これでは永楽の地勢険難であるのに及びません。まずは永楽に城を築きたいと思います。私が考えますには、銀州・夏州・宥州の三州は中国が失って以来既に百年。一日にして復興させられるなら、誠に偉大なことです。しかし州を設けるには膨大な費用が必要です。しかし要地を選んでそこに城塞を築けば、名こそ州とは申せませんが、実際にはその地を手中に収めたことになり、旧来の要塞もおのずと役立てられましょう。既に六ヶ所の城塞を設けるべく沈括と議論しております」と上奏した。

諤は「もし永楽に城を築けば、西夏はきっと全力で攻撃してくるだろう。断じて認められない」と反対したが、帝は禧の意見に従い、禧に命じて諸将を警護させ、永楽に城を築かせた。また括に命じて、経略府と寨を移し、兵を率いて援護させた。陝西転運判官の李稷に兵粮運搬を管理させた。

禧は諤の命令無視を懼れ、諤を延州の守備に留め置くよう上奏し、自身は諸将を率いて城塞建築に向かった。〔城塞は〕十四日にして完成した。旧銀州を離れること二十五里、銀河砦なる名を授けられた。禧と括および李舜挙らは米脂まで戻り、一万の兵を曲珍に授けて永楽を守らせた。


(19)九月丁亥(九日)、夏人が永楽を陥れ、徐禧らは敗死した。

禧らが城を造ってから三日後、夏人は千騎で新城(永楽城)を襲った。曲珍が禧に報告すると、禧は李舜挙・李稷とともに救援に駆けつけ、沈括に米脂を守らせた。

このとき夏人の三十万が既に涇原北部に駐屯しており、辺地からの報告は数十を数えていた。禧は「彼等がもし大挙して押し寄せるなら、これこそ我等が功名を立て、富貴を得る好機だ」と言ったが、大将の高永亨は「城は小さく人も少ないばかりか、水もない。守ることはできますまい」と諫めた。禧は軍事を邪魔するなと言って、永亨を罪人として延州の獄に送った。

禧が永楽に到着すると、夏人は大挙してやって来た。

大将の高永能、「第一波はいずれも精鋭です。戦陣を組む前に攻撃すればつぶせます。〔もし前衛がつぶれたなら、〕後衛はあえて進もうとしないでしょう。これが兵の常勢というものです。」

禧、「お前になにが分る。王者の軍は戦陣を組まぬものに攻撃しないのだ。」

こう言って、禧は刀を手に、みずから兵卒を指揮して抗戦した。夏人はみるみる数を増やし、城下に迫った。珍の兵は川沿いに陣取っていたが、将兵はみな恐怖のため浮ついていた。

珍は禧に、「兵は動揺しています。戦ってはなりません。戦えばきっと負けます。兵をまとめて城に入りましょう。」

禧、「お前は大将のくせに、敵を目にして逃げ出すつもりか。」

こう言うと、禧は七万人を城下に陣取らせた。

夏人は鉄騎(重装騎兵)に河を渉らせた。

珍、「あれは鉄鷂子軍(西夏の最精鋭騎兵)と呼ばれるものです。半分まで河を渡らせてから攻撃すれば、こちらの思うつぼ。あれが大地に降り立てば、鉾先をくじく術はありません。」

禧は従わなかった。鉄騎は渡り終えると、縦横無尽に攻撃をしかけ、大軍が後に続いた。珍の精鋭は破れて逃げまどい、後陣とぶつかった。夏人がこの混乱に乗じたため、珍の大軍は壊滅した。珍は残余の兵を集めて城に戻った。

夏人は城を包囲したが、その長さは数里にわたり、また幾重にも城を取り巻いたばかりか、水場を根城とした。珍の兵卒は昼夜を問わず死に物狂いで戦った。しかし城中に水が不足してから既に数日、井戸を掘っても水脈にはとどかず、渇水のため死ぬものは十に六七に至り、馬の糞尿を絞って喉を潤すに至った。

括と李憲は援軍を出して物資を運ぼうとしたが、すべて夏人に阻止され、前進できなかった。种諤は禧を怨んでいたので、援軍を出さなかった。かくして永楽城は危難に陥った。たまたま夜半に大雨が降ったので、夏人は一斉に城を攻め、ついに城は陥落した。禧・舜挙・稷・永能はみな戦乱の中で殺された。ただ珍だけは裸足で逃げのびた。戦死した将校は数百人、兵卒・人足は二十余万にのぼった。夏人は米脂の城下まで兵を進めると、勝利を見せつけてから撤退した。

煕寧以来、軍を動かし、夏の葫蘆・呉堡・義合・米脂・浮図・塞門の六つの砦を手に入れたが、霊州と永楽の戦いで戦死した官軍・帰化民・在地民は六十万人に及び、用いた銭・穀・銀・絹は数え切れぬほどだった。敗北が報告されると、帝は朝廷に赴き、哀しみにくれ、食事もとらなかった。霊武の敗戦以後、秦・晉の地は困窮し、天下に厭戦の風が漂った。括と諤は西夏平定策を進め、禧は辺備をもって自任していたが、策略なくして敵を軽んじ、ついに廃滅を導いた。これ以後、帝はようやく辺境の官僚が信頼できないことを悟り、深く後悔し、西方経営を断念した。そして夏人も〔相継ぐ戦争で〕困窮した。

これ以前、王安礼は「禧という男、志は大きいが、才は取るに足らない。きっと国事を誤りますぞ」と諫めていたが、帝は聞き入れなかった。永楽の敗北に及び、帝は「安礼はいつも私に『兵を用いるな、獄を少なくせよ』と言ってくれた。このことだったのだ」と言い、また朝廷に赴いては「国境の民の困苦はこれほどだ。ただ呂公著だけがいつも私のために言ってくれた」と溜息をついた。かくして公著を揚州知事に移した。


(20)六年(1083)二月、夏人が数十万で蘭州を囲み、両関を抑えた。李浩は城門を閉ざして堅く守った。

鈐轄の王文郁は出撃を求めた。

浩、「城中の騎兵は数百にもとどかない。どうやって戦うんだ。」

文郁、「賊軍は多数、我等は少数。敵の出鼻を挫いて味方を安心させれば、城を守りきれましょう。これこそ張遼が合肥を破ったやり方です。」

そこで夜に決死隊七百余人を集め、縄ばしごで城の外に降り、短刀を手に突撃した。賊軍は不意をつかれて瓦解した。当時、文郁を〔唐の名将〕尉遅敬徳の再来と称え、蘭州知事に抜擢した。

ほどなく夏人は兵を分けて襲ってきたが、諸路の兵に破られた。

御史中丞の劉摯は「煕河経略使の李憲は、戦績を貪り、紛争を起こしているが、それらはすべて欺瞞によるものです。興州と慶州の戦争では師期に遅れ、蘭州に城を築いては兵を疲れさせ、その災禍は今日にまで及んでおります」と弾劾した。詔を下し、憲を煕河按撫経略都総管に降格した。


(21)五月、夏人が麟州の神堂砦を襲った。麟州知事の訾虎はみずから督戦して出撃し、これを破った。虎に詔を下し、今後は軽々しく兵を出撃せず、蛮族の襲撃にあっても、婢将を派遣して撃退するに止めるよう命じた。朝廷の利益と国威を損ない、敵勢の拡大を恐れたのである。(4)


(22)閏六月、夏の君主秉常は戦火による困憊を理由に、西南都統の昴星の嵬名済に命じ、書簡を涇原の劉昌祚に届けさせ、〔宋との〕関係修復を求めた。昌祚はこれを上奏すると、帝は昌祚に返答させた。西夏の襲撃はしばしば敗北し、国費も底をついたので、謨箇と咩迷乞遇を〔宋に〕派遣して表書を上呈させた。

臣は世々朝廷(宋のこと)に従い、無礼怠慢はなく、近年に及ぶまで甚だ宥和を保ってきました。ところが険悪な人間が朝廷との間を裂き、大乱を巻き起こし、領地と城砦を奪いました。ここに怨みが起こり、年々兵を交えることにあいなりました。朝廷に願いますところは、大義をお示しになり、侵略した領土だけは返還していただきたい。もし受け容れてもらるなら、格別に忠勤に励みます。

帝は詔を授けた。――「近年、その方らは強権をもって敢えて恥辱の振る舞いをし、朕は驚愕している。辺境の臣を遣わして汝等の罪を問い質しても、隠匿して答えようとせぬ。王者の師を辺境に向かわせたのは、罪あるものを討伐するためだ。このたび汝等は使者を朝廷に遣わしたが、その言葉と態度は恭順であったし、また国政もすべてもと通りになったと聞く。喜ばしい限りである。既に辺境の臣には軽々しく兵を出さぬように言いつけた。汝もまた旧来の盟約を慎んで守るがよい。」

また陝西・河東の経略使には「新築もしくは回復した城砦の監視は、二三里の範囲に止めよ」と詔を下した。夏に対する歳賜はすべてもと通りとしたが、領地の返還だけは許さなかった。


(23)七年(1084)春正月癸丑(十三日)、夏人が蘭州を襲った。

これ以前、李憲は、夏人が頻々と蘭州の河外にまで姿を見せながら、敢えて進軍しないのを見て、必らずや大挙侵入があると察知し、城の守りを増強していた。ここに至り、やはり八十万の歩騎兵が大挙侵入してきた。必ずや蘭州を奪う心算だったのである。夏人の大軍は激しく攻め立て、雹のごとく矢を射かけ、雲梯・革洞(いずれも兵器の名)は相連なって押し寄せた。十昼夜にして陥落せず、食糧が尽きたので撤退した。引き続き延州、徳順軍、定西城と煕河の諸砦を襲った。


(24)九月、夏人が定西城を包囲した。煕河の将軍の秦貴が撃退した。


(25)哲宗の元祐元年(1086)秋七月乙丑(十日)、夏国の君主の秉常が死に、子の乾順が後を嗣いだ。

これ以前、秉常は訛囉聿を〔宋に〕派遣し、蘭州・米脂など五つの砦を返還するよう求めたが、神宗は許さなかった。帝(哲宗)が即位すると、秉常はまた使者を派遣して返還を求めてきた。

司馬光、「これこそ辺境の安危を回転させる好機、よく考えなければなりません。霊州と夏州での戦いは、もともと我等が起こしたものでした。既に彼等の服属を許しておきながら、土地を惜しんで与えぬなら、彼等はきっとこう思うでしょう。――恭順しても無益だ、いっそのこと力で奪い取ろう、と。小にしては無道を書き連ね、大にしては我等の建てた城砦を攻め落とすことになります。こうなってから仕方なく土地を与えるのは、国家の恥辱として、いま与えた方が余程ましです。群臣は小を見ては大を忘れ、近きを守っては遠きを残し、あの無用の地を惜しんで、兵乱を止められませんでした。陛下の御心から億兆の民の為に決心していただきたい。」

文彦博も光と同じ意見だった。そこで太后(宣仁太后)が許そうとすると、光はさらに煕州や河州も放棄しようとした。

安燾は強く反対し、「霊武以東はすべて中国本来の領土。先帝にこの武功がありながら、いま理由もなく放棄するとあっては、夷狄に足許を見られることになりましょう。」

邢恕、「軽く扱ってはいけない。辺境の人間に意見を求めるべきだ。」

そこで光は礼部員外郎・前河州通判の孫路を召還して諮問した。

路は勢力図を光に示すと、「通遠(環州)から煕州まで、わずか一本道が通るだけで、煕州の北はもう夏との国境に接しています。現在北関から黄河を渡り、蘭州に城塞を築いておればこそ、守ることができるのです。もし敵に与えてしまえば、この一帯は危険にさらされます。」

このため光は〔領土の割譲を〕思いとどまった。

たまたま秉常が死んだので、夏は使者を派遣し、喪を告げてきた。詔を下し、「元豊四年の戦争によって得た城砦は、我が永楽で捕虜にされた民を返還すれば、すべて返還してやろう。」かくして喪礼として穆衍を派遣することになった。

衍、「蘭州を棄てれば煕州は危うく、煕州が危うければ関中は震撼します。唐は河湟の地(蘭州周辺)を失ってからというもの、ひとたび戦乱があれば、そのつど京師に警護が必要になりました。今に至るまで二百余年、先帝の英武でもなければ、一体だれが旧領を取り戻すことができたというのでしょう。もし敵に与えてしまえば、後患は前よりひどくなります。後悔しても及びますまい。」

このため返還の議論は沙汰止みになった。ついで使者を派遣し、乾順を夏国の君主に認めた。


(26)五年(1090)二月己亥(四日)、夏人が永楽で捕虜にした官吏百四十九人を送りとどけてきた。そこで詔を下し、米脂・葫蘆・浮図・安疆の四つの砦を夏に返還した。夏は旧領を取り戻しすと、ますます驕慢になった。


(27)六年(1091)九月、夏人が麟州を襲い、さらに府州を襲った。


(28)七年(1092)冬十月、夏人が環州を襲った。


(29)紹聖三年(1096)冬十月壬戌(六日)、夏人が鄜延を襲い、金明砦を陥れた。

夏人は四つの砦を取り戻すと、境界の未決定を理由に、連年のように辺境を荒らしまわった。また使者を派遣して蘭州と塞門寨(延安所在)を交換しようと言ってきた。朝廷が拒否すると、夏の君主の乾順は、母を奉じて五十万の軍を率い、大挙して鄜延に侵入した。西は順寧塞・招安砦、東は黒川堡・安定堡、中は塞門寨・龍安寨・金明砦以南のおよそ二百里に対して相継で襲撃を加え、攻撃は延州北部五百里にまで到達した。この月、長城から一日にして金明砦まで軍を進め、陣営を築いて砦を取り囲んだ。乾順母子はみずから軍を操り、騎兵を四方に出して掠奪を行った。麟州に防備があるのを知ると、また金明砦まで退却し、精鋭の騎馬兵を龍安寨に止めた。辺境の将軍は全軍で攻撃を加えたが退却せず、金明砦はついに陥落した。守備兵二千八百の中、ただ五人だけが脱出できた。城中の兵粮五万石、飼料の草千万束をすべて失い、将軍の張輿も戦死した。

これ以前、帝は夏の襲撃を知らされると、泰然として「五十万もの大軍を我が国深くに入れては数日ももつまい。もし勝ったところで、一二の砦を奪っただけで退かねばなるまい」と笑みを湛えた。はたして夏人は金明砦を陥れただけで引き上げた。


(30)四年(1097)夏四月甲辰(二十一日)、渭州知事の章楶が平夏に城を築いた。

楶は夏人の横暴を憂慮し、葭蘆河に城を築き、地形を利用して夏を圧迫するよう上奏した。朝廷はこれを許可した。そこで楶は煕河・秦鳳・環慶・鄜延の四路の軍を合わせると、陽動として弱腰を装うべく他の数十の砦を修復した。一方、ひそかに築城と守戦の備えを固め、葭蘆河まで出撃し、二つの砦を石門峡の合流点である好水川のほとりに築いた。夏人は城の建設を知ると、兵を率いて襲撃したが、楶は迎撃して打ち破った。二十と二日にして城は完成した。平夏城および霊平城なる名を授けられた。章惇はこれを利用して夏人への歳賜を絶つよう訴えると、国境周辺の諸路に命じ、要害の地に城を増築させ、五十余所で領土の開拓を進めた。


(31)八月、鄜延経略使の呂恵卿が宥州を取り戻した。

恵卿は諸路の兵を出撃させ、夏の隙を衝いて攻撃するよう訴えた。河東路と環慶路に詔を下し、恵卿の戦略に従わせた。そこで恵卿は将軍の王愍を派遣して宥州を攻め破った。さらに威戎と威羌の二つの城を築いた。恵卿に銀青光禄大夫を加えた。当時、章惇は好き勝手に紛争を引き起こしていた。このため方々で軍役を起こしては城塞を建築し、しばしば爵や褒美を与えられた。


(32)元符元年(1098)冬十月己亥(二十五日)、夏人が平夏を包囲したが、章楶はこれを防ぎ、夏の勇将の嵬名阿埋、西壽監軍の妹勒都逋を捕らえた。殺害および捕虜にしたものは甚だ多く、夏人は恐怖に陥った。

戦勝の報告がもたらされると、帝は紫宸殿に赴き、慶賀を受けた。楶は長らく涇原にいたが、あるとき上奏して、「夏人は利を好み、威を畏れます。威力を加えてやらねば、辺境に休息はありません。古代の削地の制のごとく、彼等の領土を少しく奪い、我が辺境を固めるべきです。その後で諸路の兵を出して要害を奪い取れば、再挙を待たずに彼等の勢力はおのずと萎えるでしょう。」

章惇と楶は同族だったので、楶の献言は採用されることが多かった。これ以後、新たに州を設けること一つ、砦を築くこと九、しばしば夏人を破り、諸路に多くの城砦を建築し、夏を圧迫した。ここに至り、平夏の戦勝が報告された。ふたたび夏人が勢力を取り戻すことはなかった。


(33)二年(1099)三月丙辰(十三日)、夏人が遼に救援を求めた。

遼の君主は簽書枢密院事の蕭徳崇を派遣し、夏人のために〔宋に〕和平を求め、玉帯を献上した。〔帝は〕郭知章に応対させ、「もし心から後悔と謝罪を示すなら、便宜を図り、自新の機会を与えてやろう」と返書した。


(34)冬十月、夏人の通好を許した。

夏人は相継ぐ敗北のため、臣下の令能嵬名済らを派遣して謝罪させ、誓書を献上させた。詔を下し、夏との通好を許し、もど通り歳賜を与えた。これ以後、西方の民は少しく安静を取り戻した。


(35)徽宗の崇寧三年(1104)十二月、陶節夫を陝西・河東など五路の経制使とした。

これ以前、蔡京は節夫を鄜延路の経略使に抜擢した。節夫は大ほら吹きで、一つの城寨を築くとすぐに「この地は西人の要害の地です」と報告していた。一年にもたたぬ間に常調から枢密直学士になったが、一騎馬、一兵卒すら城塞から出しかことがなかった。彼の心算では、夷狄と戦えば勝敗が生じるが、ただ城を築くだけなら憂慮はない。それに〔夏人との紛争の地である〕霊武から数百里も離れておれば、夷狄も襲ってこない、と。そのためいつも功績を立てては褒美をもらっていた。しかし京が支持したので、この命令が下った。


(36)四年(1105)三月、王厚を郢州に左遷した。

これ以前、蔡京は王厚を用いて夏の卓羅右廂監軍の仁多保忠を帰順させようとした。厚は「保忠には帰順の意がありますが、付き従う者がおりません」と言い、しばしばこれを上奏していた。しかし京が強く要求するため、厚は弟を保忠のもとに派遣したが、帰還途中で夏の見回りに捕まり、保忠は陣営に呼びつけられた。厚はこう考えた。――保忠がもし殺されずとも、軍政を領有することはあるまい。ならばもし保忠を帰順させても、一匹夫を得られるにすぎない。何の利益にもなるまい、と。京は怒り、絶対に金帛で呼び寄せろと命じた。

このため夏は武備を整えると、渭・延・慶の三路に数千騎の兵を出没させ、遼の援軍が来ると吹聴させた。朝廷は京の計略を用い、西方で招致できるたものは、主従を問わず敵将を斬った場合と同じ賞を与えさせた。陶節夫に命じ、延安で大々的に招致を行わせた。夏の君主が使者を派遣し、帰順を示しても、すべて拒絶した。また放牧している者を殺させた。(5)

夏人はついに鎮戎軍を襲撃し、数万人を掠奪し、羌族の酋長の渓賖羅撤と兵を合わせ、宜威城に迫った。鄯州知事の高永年は出撃してこれを防いだが、三十里ほど進んだところで、羌人に捕らえられた。多羅巴は部下に「こやつは我らの国を奪い、我らの一族を没落させ、住処を取り上げた」と言うと、永年を殺してその心臓と肝を食らった。ほどなくして羌族は大通河橋を焼き捨て、〔宋に〕反旗を翻し、新領土に動揺が生じた。

事変が報告されると、帝は怒り、みずから五路の将軍の劉仲武ら十八人の名を書し、御史の侯蒙に敕を下し、聴取のため秦州に向かわせた。蒙が秦州に到着すると、仲武らは囚人服を着て罪を待っていた。蒙は彼等を諭して、「君等はみな一方の将軍だ。獄に下すような恥辱を与えるつもりはない。ただ本当のことを言ってくれ。」

聴取が終わると、蒙は上奏した。――「漢の武帝の王恢殺害は、秦の穆公の孟明赦免に及びません。〔楚の〕子玉が首をくくり、晉侯(文公)は喜びました。孔明が死んで蜀は力を失いました。現在羌族は我が一都護を殺し、十八の将軍がこのため死刑に処せられようとしております。これはみずからその体を斬るようなものです。一身に病なきことを望んでも得られますまい。」

帝は事態を理解し、将軍らの罪を赦した。ただ王厚だけは、軍の逗留を罪に問われ、郢州防禦使に左遷された。


(37)政和五年(1115)春正月、童貫は煕河経略使の劉法に十五万の歩騎兵を授けて湟州から出撃させ、秦鳳経略使の劉仲武に五万の兵を授けて会州から出撃させ、貫は中軍(中心の軍隊)を指揮して蘭州に駐屯し、両路の援軍に当たった。仲武は清水河まで進軍して城を築き、守備兵を残して帰還した。法は夏の右廂軍を古骨龍で撃破し、三千余の首を斬った。


(38)二月、童貫に六路辺事(六路の辺境処理)を総裁させた。

これ以前、永興・鄜延・環慶・秦鳳・涇原・煕河の各路に経略安撫使を設け、貫に統括させていた。ここに至り、西方の兵権はすべて貫の麾下に入った。


(39)九月、王厚と劉仲武は涇原路・鄜延路・環慶路・秦鳳魯の軍を合わせ、夏の蔵底河城を攻めたが、敗北した。死者は十に四五に上った。童貫は敗戦を隠して帝に報告しなかった。ほどなく夏人は蕭関で略奪を行った。


(40)六年(1116)春正月、童貫は劉法と劉仲武を派遣し、煕河路・秦鳳路の十万を合わせ、夏の仁多泉城を攻撃させた。城中の夏兵は必死に防戦したが、援軍も来ず、降伏した。法は降伏を受け入れたが、〔夏兵が投降してくると〕これを殺戮した。

渭州の将軍の种師道は夏の蔵底河城を破った。師道は世衡の孫である。


(41)宣和元年(1119)三月、童貫は煕河経略使の劉法を派遣し、朔方を奪わせた。

法は出撃を拒んだが、無理に出発させた。そこで法は二万の兵を率いて出撃し、統安城に到着すると、夏の君主の弟の察哥と遭遇した。察哥は歩騎兵を率いて三陣を組み、法の前軍に当たった。また別に精鋭の騎兵を繰り出し、山を越えて、法の軍の背後に回らせた。

戦いは七時間を越え、前軍の楊惟忠は破れて中軍に入り、後軍の焦安節も破れて左軍に入り、朱定国も力戦したが、日が沈むころには兵も馬も飢え、夥しい兵が死んだ。法は闇夜に乗じて逃亡し、夜が明けには七十里ほど行った崖朱峗にたどり着いた。しかし夏の守備兵が追いつき、法の首を斬った。

察哥は法の首を目にすると、悲しげに部下に語った。――「劉将軍はかつて私を古骨劉や仁多泉で破った男だ。私も一度は彼の鋭鋒を避けたほどで、まことに天性の神将というべきものだった。それがいま、たった一兵卒のために首を斬られるとは。勝利に奢り、軽々しく出撃したのが過ちだったのだ。心せねばなるまい。」

ついに〔夏人は〕勝利に乗じて震武軍を包囲した。震武軍は山峡にあり、煕河路と秦鳳路から食料を運搬することはできなかった。築城から三年、震武軍の知事の李明や孟清はみな夏に殺されていた。ここに至り、またもや城は落ちようとしていた。察哥は「この城は攻め落とすな。残しておけば南朝の病巣になろう」と言い、軍をまとめて帰還した。

これ以前に諸将が造営していた城砦はまったくの不毛で、夏人が必要としない土地だった。しかし関中や京畿一帯は、この造営のために財政が逼迫した。劉法は敗死したが、童貫は勝利したと報告し、この戦いで褒美を得たものは数百人に上った。


(42)六月、夏人は使者を派遣し、帰順を示した。童貫に詔を下し、戦いを止めさせた。


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(1)『宋史』は郭逵の発言とする。
(2)种氏は种世衡以来の軍閥で、対西夏戦に功績があった。
(3)唐の節度使呉元済が蔡で起こした反乱。裴度が鎮定した。
(4)存疑。
(5)以上、『宋史』夏国伝下により改訂した。



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