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煕河之役


(01)神宗の煕寧三年(1070)冬十月、秦鳳経略使の李師中を舒州知事に降格した。

これ以前、建昌軍司理参軍の王韶は、京師に詣で、『平戎策』三篇を献上した。そこにはこう書かれていた。

西夏は奪えます。西夏を奪うには、まず河湟の地(蘭州の西南部)を取り戻す必要があり、河湟の地を取るには、まず周辺諸部族を帰順させる必要があります。武夷の南から洮・河・蘭・鄯の諸州に至るまでは、もともと漢代以来の中国のものです。その地は耕作による自給が可能であり、その民は力役に充てることも可能です。幸いなことに、現在諸羌族は分裂し、統べるものがありません。いまこそ彼等を併合して手懐けるべきときです。また唃氏の子孫の中、瞎征らは少しく勢力があり、諸部族に畏怖されております。もし彼等を懐柔し、その宗族を糾合させ、彼等の部族を制禦させることができれば、漢に於ける要地の守り手にも擬せましょうし、夏人とのつながりを断つこともできましょう。これが策の上なるものです。

帝はこれに魅力を感じ、韶に西方計略を諮問した。王安石も面白い考えだと言い、韶を管幹秦鳳計略司機宜文字に抜擢するよう訴えた。

韶は渭州と涇州の南北に二つの城を設け、守備兵を置き、洮州と河州の防禦地にしたいと願い出た。この議論を師中に下すと、師中は無理だと答えた。そこで師中に詔を下し、経略使を罷めさせた。

韶はこうも訴えた。――「渭源城から秦州に至るまで、廃棄された良田が万頃もあります。市易司を設けて、少しく商賈の利を集め、その利益によって田を開きたいと思います。元本として官銭を給付して頂きたい。」秦鳳経略司に詔を下し、四川の交子を必要物資に交換させ、秦鳳路に運ばせた。韶に市易司を統括させた。

師中は「韶の言う良田は、遠方の弓箭手の土地のことです。また市易司を古渭に移設するとのことですが、そんなことをすれば今後秦州は騒動に巻き込まれるでしょう。とても利益で損失を補い得るものではありません」と批判した。

王安石は韶の議論を支持し、師中の職務を奪い、舒州知事に移した。かくして竇舜卿を秦州知事とし、内侍の李若愚とともに間田(廃棄された田)の調査をさせた。しかしわずかに一頃の土地の確保に止まった。しかも地主が訴え出たので、これも返還してしまった。舜卿と若愚は韶の虚偽を報告したが、安石は舜卿を左遷して韓縝を派遣した。縝は安石の意見に附会し、安石の思惑通りの報告をした。そこで韶を太史中允に昇進させた。


(02)四年(1071)八月、王韶に洮河按撫司を統括させた。

当時、河湟の地の奪取が議論され、古渭砦から青唐・武勝軍に至るまで、蛮族の懐柔、市易の業務、および田土の開発などについて、すべて王韶に統括させた。

韶は秦州に到着すると、現地の諸将を集め、「蛮族の兪龍珂は青唐最大の勢力であり、渭源の羌族と夏人も彼等を手懐けようとしている。我等がさきに討伐しなければならない」との意見を披露した。韶は辺境の視察のついでに、わずかな供とともに直接龍珂のもとを尋ねた。そし成功と失敗の道理を教え諭し、〔二心のないことを示すため〕その地で宿をとった。翌朝、二蛮族はその徒党を引き連れ、韶とともに東方に移住した。龍珂は部衆十二万を引き連れて〔宋に〕服属した。

龍珂は朝廷(宋)に帰順すると、「平日から包中丞(包拯のこと)は朝廷の忠臣と聞いておりました。どうか包の姓をお与えください」と申し出た。帝は龍珂の訴えを許可し、包順なる姓名を与えた。


(03)五年(1072)五月、古渭砦を改名して通遠軍とした。

帝が河隴両州の奪回を計画していたとき、たまたま定州駐泊都監の張守約が「古渭に軍(行政区の名)を設け、隴右の根拠地にしたい」と訴えてきた。帝は守約の意見に従い、王韶を通遠軍知事とし、教閲法を実施させた。


(04)八月、秦鳳路沿辺安撫の王韶は兵を率いて吐蕃の乞神平堡を攻撃し、蒙羅角・抹耳・水巴などの諸部族を破った。

これ以前、諸羌族は各々険難の地を根城にしていた。〔彼等を討伐すべく、〕諸将が平地に陣を置こうとすると、王韶は「もし賊軍が険難の地を棄て、我らに向かって攻撃してこなければ、我らはただ帰還するだけに終わってしまう。すでに険難の地に入った以上、この険難を有利に用いなければならぬ」と言い、ただちに抹邦山に向かうと、敵軍を圧迫するに陣を建て、「退くものは斬る」と号令した。

賊が高地から攻め立てると、軍は少し退いた。韶はみずから甲冑を身にまとい、麾下の兵を指揮して迎え撃った。羌賊は大敗し、住居を焼いて逃げ去り、洮西の地は衝撃に包まれた。

たまたま木征が洮河を渡って救援に駆けつけたので、羌賊の残党はまた集結し出した。韶は竹牛嶺に将軍を派遣して軍声を挙げさせる一方、伏兵を武勝軍に進めさせた。木征の首領の瞎薬らと遭遇し、これを破った。ついに武勝軍に城を築き、鎮洮軍とした。

韶は「洮州と河州でのことは、〔市易の〕利益だけで賄っており、軽々しく〔朝廷の下賜された〕元本に手を出しておりません」と言ってきた。

文彦博、「工師(建築業者)は物を造るとき、必ず少な目に見積もり、容易に造営できるように思わせます。ところが造営を始めると、止むに止まれず、結局は増額する破目に陥るのです。」

帝、「城砦が破壊されたのだ。放っておくわけにもいくまい。」

王安石、「責任者の計画は万全で、大凡のことは分かっております。工師にだまされるようなことはありません。」

彦博はもう何も言おうとしなかった。このため韶は討伐を進め、好き勝手に事実を隠蔽し、朝廷もその財務処理に関与しなかった。


(05)冬十月、煕河路を置き、煕州・河州・洮州・岷州・通遠軍を統括させた。鎮洮軍を煕州に昇格させた。王韶を経略安撫使兼煕州知事とした。しかし河州・洮州・岷州の地は、まだ取り戻せなかった。


(06)十一月、河州の首領の瞎薬らが投降して来た。そこで内殿崇班とし、包約なる姓名を与えた。


(07)六年(1073)二月、王韶は河州を取り戻し、木征の妻子を捕らえた。


(08)九月、岷州の首領の本令征(1)が城とともに投降した。

これ以前、王韶が河州を奪回したとき、たまたま投降した羌族が反旗を翻した。そこで韶は軍をもどしてこれを攻撃した。吐蕃の木征はこの混乱に乗じて河州を奪った。韶は軍を進め、訶諾木蔵城を破り、露骨山に穴を掘り、南方から洮州国境に侵入した。道は狭く、六七日もの間、馬を下りて進軍した。木征は賊徒に河州を守らせ、自身は官軍を追尾しようとした。韶は力戦してこれを敗走させ、河州はふたたび平定された。本令征は〔宋軍の〕軍声を聞き、城ととともに投降した。

韶が岷州に入ると、宕・洮・畳三州の羌族の長は城とともに投降した。韶は軍を動かすこと五十四日、その範囲は千八百里に渡った。五州を手中に収めたほか、斬首すること数千級、奪った牛羊馬は万をもって数えた。

戦勝の報告が届くと、帝は紫宸殿に赴き、群臣の慶賀を受け、自身の玉帯を解いて王安石に授けた。韶を左諫議大夫・端明殿学士に進めた。


(09)七年(1074)二月、河州知事の景思立は吐蕃の将軍と踏白城で戦い、敗死した。


(10)三月壬寅(五日)、木征が岷州を襲った。

木征は敗退を重ねたが、董氈の別将の青宜結鬼章の賊軍は幾度となく河州所属の蛮族を襲った。

このとき王韶は朝廷にいた。景思立が敗死したので、木征の勢力はまた盛り返し、ついに岷州を襲った。刺史の高遵裕は包順を派遣し、これを敗走させた。


(11)この月、使者を諸路に派遣し、武芸に秀でたものを集め、煕河路に送り込んだ。


(12)夏四月、木征がふたたび河州を襲い、城を包囲した。

賊が勢力を盛り返したとき、王韶は京師から帰還途上だったが、興平に到着したときこれを耳にした。そこで急ぎ李憲と煕州に向かった。

煕州では城塁を布いて攻撃を防いでいたが、韶はこれを取り除き、二万の兵を択んだ。諸将は河州への進軍を主張したが、韶は「賊が城を包囲しているのは、外援を頼んでのことだ。その頼みとするところを攻めれば、囲みは自ずと解かれる」と言うと、すぐさま定羌城に向かった。西蕃の結河川賊を破り、夏国との通路を絶ち、寧河に軍を進めた。将軍に命じ、多方向から南山に侵入させた。木征は援軍の望みの絶たれたことを知ると、柵を棄てて逃げ去った。

韶は煕州にもどると、兵を西山に向かわせ、踏白城を取り囲んだ後、八十余の賊の陣営を焼き、斬首すること七千余級に及んだ。木征はどうにも仕方なく、酋長八十余人を率いて軍門に降った。韶は降伏を受諾すると、木征を京師に送った。

これ以前、景思立の軍が壊滅し、羌族の勢力が盛り返したとき、朝廷には煕河路の放棄の声が起こり、帝は食事もままならぬほどだった。そのため詔を下しては、韶に自重して出撃しないよう戒めていた。ここに至り、帝は大いに喜び、木征を営州団練副使とし、趙思忠なる姓名を授けた。


(13)八年(1075)十二月、王韶を枢密副使とした。


(14)九年(1076)二月、吐蕃の鬼章が五牟谷を襲った。蕃将(異民族の将軍)の蘭氈納支がこれを打ち破った。


(15)十二月、鬼章は洮州・岷州に兵を集め、〔宋に〕服属したばかりの羌族に脅しをかけた。このため多くの羌族が朝廷に背き、鬼章に帰属した。

帝は内侍押班の李憲に命じ、駅伝で秦鳳・煕河に向かわせ、辺境の処置を委ねる一方、諸将にも詔を下し、憲の指揮下に入らせた。御史の彭汝礪らはこの処置に強く反対して、「鬼章の禍は小さいが、〔宦官である〕憲を用いる禍は大きい。しかも憲が失敗すればその禍は小さいが、成功すればかえってその禍が大きくなる」と言った。二度も上奏したが、帝は聞き入れなかった。


(16)十年(1077)二月、王韶を罷免した。

韶は王安石と対立し、さらには遠征の責任を朝廷に押しつけたので、帝も不快に思うようになった。韶が母の老齢を理由に重ねて帰郷を求めたので、洪州知事として地方に出した。

韶はでたらめを言って辺境に戦端を開き、俄に執政の地位を得たが、兵を用いては機略があった。出軍に際しては、諸将に指図して二言なく、戦えば必ず勝った。かつて夜に帳中で寝ていたとき、前線が敵と遭遇し、弓や石が飛び交い、軍声は山谷を震わせた。従者らは震え上がったが、韶はかわらずいびきをかいていた。人々はその度量に感服した。


(17)夏四月、煕河路の兵に特支銭を与え、戦死者には帛を与えた。


(18)十一月、宗哥の首領の青宜結鬼章を廓州刺史とし、阿令骨を松州刺史とした。


(19)哲宗の元祐二年(1087)八月、岷州の将軍の种誼が洮州を取り戻し、鬼章青宜結を捕らえ、京師に護送した。

これ以前、董氈が死ぬと、養子の阿里骨が後を嗣いで邈川の首領となった。阿里骨は鬼章を脅迫し、部族を率いて洮・河・岷の三州を占拠させた。誼らは軍を率いてこれを捕らえると、秦州で命令を聴かせ、その子の結咓齪と部族のものを招き、みずから罪を贖うことを許した。阿里骨はこれに懼れをなし、表書を献上して罪を謝した。


(20)元符二年(1099)秋七月、洮西安撫使の王贍は吐蕃の邈川と青唐を奪い、その酋長の瞎征を降伏させた。

これ以前、阿里骨が死ぬと、子の瞎征が後を嗣いだ。瞎征は殺人を好む性格で、このため部族は背反するようになった。大族の心牟欽氈らは謀叛を企てたが、瞎征の叔父の蘇南党征の武勇を恐れ、讒言によって蘇南党征を殺害させたところ、その一党は皆殺しになった。ただ籛羅結だけが逃げ延び、董氈の傍系にあたる渓巴温の子の杓桚を奉じて渓哥城を占拠した。瞎征が杓桚を攻め殺すと、籛羅結は河州に逃げ、州知事の王贍に青唐奪取の策を説いた。贍がこれを朝廷に報告すると、章惇は許可した。

ここに至り、贍は兵を率いて邈川に向かった。守備兵が城ごと投降したので、贍は兵をその地に留めた。瞎征は部下の多くが離反したことを知り、青唐から逃げ出し、贍に投降した。詔を下し、胡宗回を煕河の帥(経略使のこと)とし、その地を統括させた。


(21)八月、会州に城を築いた。

元豊年間、蘭州と会州を煕河路に組み入れたが、会州はまだ取り戻していなかった。ここに至り、始めて会州に城を築き、西安城以北の六つの砦を帰属させた。


(22)閏九月、吐蕃の隴桚がまた青唐を占拠した。王贍はこれを攻めて降伏させた。詔を下し、青唐を鄯州とし、邈川を湟州とした。

これ以前、瞎征は王贍に降伏したが、贍と総管の王愍は功を争い、それぞれ朝廷に弁明を行っていた。このため青唐の大族の心牟欽氈は、渓巴温を迎えて青唐城を占拠し、木征の子の隴桚を主君とした。このため青唐の勢力はまた大きくなった。隴桚は恐れをなし、みずから髪を剃って僧侶となり、罪から逃れようとした。

煕河の帥臣胡宗回は贍に軍を進めさせた。贍が隴桚と心牟欽氈らを急襲すると、みな投降したので、贍は城を占拠した。青唐を鄯州とし、贍を州知事とした。邈川を湟州とし、王厚を州知事とした。


(23)三年(1100)三月、詔を下し、鄯州と湟州を放棄し、吐蕃に与えた。

これ以前、王贍は鄯州に駐留していたが、部下の掠奪を容認したので、羌族は離反した。心牟らは諸部族の軍を集めて謀反を起こした。贍はこれを撃破し、捕らえた城中の羌族をすべて斬り殺した。生首は山ほどに積み上げられた。また贍は諸羌族の首領に対して、精鋭を徴用し、腕に刺青を加えるよう要求したが、だれも応じなかった。

籛羅結が煕河本路に帰還して先導役になりたいと申し出たので、贍は帰還を許した。ところが籛羅結は数千人の仲間を集めて邈川を包囲した。夏人も十万の兵でこれを助けたため、青唐城内は危機に陥った。苗履と姚雄が部下を率いて救援に駆けつけたため、ようやく包囲が解かれた。贍は青唐を棄てて帰還し、渓巴温とその子の渓賖羅撤が青唐を占拠した。諸羌族がふたたび兵を合わせて邈川を攻撃したため、王厚も支えきれなかった。

朝廷には邈川放棄の声が上がった。また隴桚は木征の子であるというので、〔隴桚を〕鄯州知事に命じ、趙懐徳なる姓名を与えた。その弟の邪辟勿丁咓にも懐義なる姓名を与え、湟州知事とした。瞎征には懐遠軍節度使を加えた。

そして贍を昌化軍(海南島の地)に、厚を賀州に降格し、胡宗回の館職を奪って蘄州知事とした。贍は穣県(京西南路鄧州)に着くと、みずから首をくくって死んだ。


(24)徽宗の崇寧元年(1102)十二月、蔡京は前宰執の韓忠彦らによる湟州放棄の失策を申し立て、ふたたび高永年と王厚を将帥に推薦した。これに従った。


(25)二年(1103)夏四月、宦官の童貫に命じて洮西軍を監督させた。


(26)六月、童貫が湟州を取り戻した。

これ以前、蔡京はまた辺境を開拓するため、王厚を前職にもどした。たまたま羌族の多羅巴が谿賖羅撤を奉じて国を取り戻すべく謀叛を企てた。趙懐徳は恐れをなし、河南(洮河南方)に逃亡した。羅撤らは残余の部族を引き入れ、指揮下に収めた。(2)

朝廷は羌族の結集を畏れ、王厚を洮西按撫使とし、十万の兵を合わせ討伐させた。京は内客省使の童貫と仲が善かったので、「貫はむかし陝右に出向いたことがあります。ですから五路の軍事と諸将の能否を知悉しております。李憲の故事にならい、貫を用いて軍を監督させていただきたい」と申し出た。帝はこれに従った。

貫が湟州に到着したとき、たまたま禁中の太乙宮に火災があった。帝は手札を下し、貫に西方進出を止まらせた。貫は手札を開き見ると、すぐに靴の中に仕舞いこんだ。厚がわけを尋ねると、貫は「上は成功を促されただけだ」と答え、ついに軍を動かした。

多羅巴は官軍の到着を知ると、手勢を集めて抵抗した。厚は駐屯軍を鼓舞する一方、軽率な行動を戒めたため、羌族の防備は徐々に揺らいでいった。そこで厚は将軍の高永年とともに路を分けて軍を進めた。多羅巴の三人の子供は数万人を要害に配置していたが、厚はその二人を殺した。末子の阿蒙だけは流れ矢にあたって逃げた。道すがら多羅巴と遭遇したので、二人して逃げ去った。かくして厚は湟州を陥れた。

勝利の知らせが報告されると、蔡京の官を三等、蔡卞以下を二等昇進させた。徳音を煕河蘭会路に降した。湟州放棄を問責し、韓忠彦を磁州団練副使、安燾を祁州団練副使、曾布を賀州別駕、范純礼を静江軍節度副使に降格し、蒋之奇の三秩を奪った。その他、放棄に賛同したものは、罪の上下に応じて処分された。


(27)三年(1104)夏四月、王厚は鄯州と廓州を取り戻した。


(28)五月、蔡京を嘉国公に封じ、王厚を武勝節度留後とした。

これ以前、厚は大軍を率いて湟州に向かうと、高永年に左軍を、将軍の張誡に右軍を指揮させ、自分は中軍の将となり、宗哥河に結集させた。羌族軍は宗水に臨む北山の麓に陣を張っていた。谿賖羅撤は黄屋を設け、大旗を掲げ、高所から指図していた。

〔敵軍は宋の〕中軍の軍旗を発見すると、争って兵を進めた。厚は遊騎兵を率いて山を登り、羌族軍の北から攻め、みずから強弩隊を指揮して射撃した。羌族軍が敗走すると、右軍は河を渉って攻めた。大風が砂を巻き上げ、羌族軍の視角を遮ぎった。かくして羌族は大敗した。斬首すること四千三百余級、捕虜三千余人に及んだ。羅撤はその身一つで逃走した。その母の亀茲公主は、諸部族の長老とともに城門を開いて投降した。

厚はきっと羅撤は青唐に逃亡すると考え、夜中に追撃しようとした。しかし童貫が「もう間に合わないから」と言ったため、取り止めた。官軍は青唐を下すと、羅撤が一泊してから逃亡していたことが分かり、貫は悔しがった。

厚が大軍を率いて廓周に向かうと、羌族の長老の落施軍令結はその民とともに降伏した。厚はついに廓州に入城した。詔を下し、京に司空を加え、封爵した。また厚に武勝軍節度観察留後を特別に授けた。

史官の評。吐蕃の末裔は西方を守護し、犯さず叛かずの臣となり、王家のために力を尽くし、夏族と奮い戦った。しかるに王安石は王韶を用い、章惇は王贍を用い、蔡京は王厚を用い、三たび軍を吐蕃に用い、唃氏の子孫は罪なくして覆滅した。成功裏に終わったとはいえ、辺境の紛争が止むことはなかった。金人が秦鳳・隴右の地を得るに及び、唃氏の末裔を探し出し、その血統を存続させた。だれが夷狄に人なしと言おう。


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(1)底本は木令征に作る。『宋史』により改訂した。下も同じ。
(2)『続資治通鑑長編紀事本末』巻139崇寧二年正月丁未条注により改訂した。



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