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濾夷


(01)神宗の煕寧六年(1073)五月、濾州の夷狄が叛乱を起こした。中書検正官の熊本を梓夔察訪使として派遣し、夷狄の処置を一任した。


(02)七年(1074)春正月、熊本は濾州の夷狄を平定した。

本はむかし戎州通判(瀘州の隣州)となり、夷狄の風俗を学んでいた。本は庁舎に到着すると、夷狄叛乱の原因は十二村の豪傑の誘導によるものと判断した。そこで計略を張って百余人を呼び出し、濾川でさらし首にした。その一味は震え上がり、死をもって罪を償いたいと願い出たが、柯陰の一首領だけはやってこなかった。

本は晏州(瀘州の羈縻州)十九姓の民を集め、黔南義軍の強弩隊を繰り出し、大将の王宣らを派遣して討伐に向かわせた。賊徒は死に物狂いで抵抗したが、宣は賊徒を黄葛の麓で破り、さらに追撃を加えた。柯陰はやむを得ず降伏を願い出た。本は降伏を受諾すると、その戸籍・土地・重宝・善馬をすべて没収し、朝廷に送付した。族長の箇恕を帰徂州知事とし、その子の乞弟を蕃部巡検とした。こうして淯井・長寧・烏蛮・羅氏鬼主などの地元の蛮族も、中国の官吏を所望するようになった。

本が朝廷にもどると、帝はこれを労い、「君は財物を損なわず、民を害わず、わずかの間に百年の患いを除き去った。報告の詳細明白に至っては、近年並ぶものがないほどだ。」そこで本を集賢殿修撰に抜擢し、三品の服を授けた。

西南に兵を用いるようになったのは、これ以後のことである。


(03)八年(1075)十一月、熊本は渝州の獠族を攻めた。

渝州南川県居住の獠族の木斗が叛乱を起こした。そこで本に鎮定を命じた。本は銅仏壩に陣営を設け、獠族の徒党を破った。木斗は湊州の地五百里とともに帰順した。四つの砦と九つの堡を築いた。銅仏壩の名を南平軍に改めた。〔帝は〕本を召還し、知制誥とした。


(04)元豊三年(1080)夏四月、忠州団練使の韓存宝に命じ、濾州の夷狄を処置させた。(1)

これ以前、渝州の獠族が南川県を襲ったとき、獠族の首領阿訛は箇恕のもとに逃げ込んだ。熊本は高価な褒美と引き替えに、阿訛を殺させた。しかし阿訛はずる賢く、辺境にも詳しかったので、箇恕は阿訛を隠匿して殺さなかった。箇恕は年老いると、子供の乞弟に兵を与えた。かくして乞弟は阿訛とともに近辺の夷狄を襲うようになった。

当時、羅苟の蛮族が叛乱を起こし、納渓砦を襲撃していた。提点刑獄の穆珦が「羅苟が戦端を開いたのです。誅殺しなければ、烏蛮は動揺を起こしましょう。害をなすこと決して少なくありません」と訴えたので、韓存宝に命じて攻めさせた。存宝は乞存を呼び寄せ、羅苟を前後から挟撃し、五十六村、十三の集積所を破壊した。夷狄が降伏のため貢物を差し出したので、兵を止めた。

ここに至り、乞弟は六千の歩騎兵を率い、江安城下に押し寄せると、羅苟平定の褒美を求めた。数日にしてようやく退いた。瀘州知事の喬敍は梓夔都監の王宣に二千の兵で江安を守らせる一方、賄賂で乞弟を招き、納渓砦で盟約を交わした。しかし夷狄は自分の力を畏れたからだと考えるようになり、ますます尊大になった。

盟約を交わしてから五日、乞弟はついに一味を率いて羅箇牟族――帰順した蛮族であったが――を包囲した。王宣が救援に駆けつけたが、一軍もろとも全滅し、騒動は拡大した。

〔帝は〕駅伝で存宝を召還して作戦を授けると、三将の兵一万八千の指揮権を与え、東川に向かわせた。存宝は臆病者で、軍を進めようとしなかった。乞弟が投降を偽ると、存宝はこれを信じ、綿州・梓州・遂州・資州近辺で兵を止めた。


(05)四年(1081)秋七月、韓存宝は逗留無功の罪(2)に問われ、瀘州で処刑された。将軍を歩軍都虞候の林広に代えた。

当時、乞弟はまた帰順の意を伝えてきた。しかし帝は「乞弟は反覆を繰り返し、降伏の意志はない」と判断し、広に軍を進めさせた。広はついに納江で乞弟を破り、楽共城を陥落させ、二千余りの首を斬ったが、乞弟は逃亡した。

広は兵を率いて追跡した。納江を出発すると、すぐに竹藪に入り込んだ。雪の降らない日はなく、病気に倒れ、命を落とす兵は夥しい数に上った。往々にして死体を細切れにした食用に充てた。鴉飛不到山を過ぎ、帰徂州に到達したが、結局は乞弟を見つけられずに帰還した。

当時、朝廷は安南(交阯)討伐の失敗に懲り、西夏討伐を画策していた。このため存宝を処刑し、諸将に号令をかけたのである。


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(1)『続資治通鑑長編』は都大經制瀘州納溪夷賊公事とする。
(2)軍を止めたまま功績を挙げられなかったという意味。



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