(01)神宗の元豊八年(1085)三月、帝(神宗)が崩じた。皇太子の煦が皇帝の位に即いた。時に十歳。太皇太后の高氏は朝廷の赴き、帝とともに政務を執った。
太后は朝政を執ると、京城修理の人足を解散し、兵器製造と禁中工芸品の製作を中止し、特に無能な近習を宮中から出し、朝廷内外に命じて苛斂誅求を禁止させ、民間の保馬法を緩めた。これらは宮中から直接命令され、宰相の王珪らは関知しなかった。
(02)司馬光は先帝の喪を聞き、哭礼のため朝廷にもどった。
当時、光は官を罷めて十五年ほど洛陽に住んでいた。農民や土地の長老は司馬相公とよび、婦人や子供も君実(司馬光の字)の名を知らぬものはなかった。ここに至り、朝廷にもどった。衛兵は光を見ると、みな手を額に付け、民は道路を遮って「洛陽に帰らないでくれ、天子の宰相になってみんなを助けてくれ」と叫んだ。至るところ人々が群がったので、光は懼れてすぐ帰ろうとした。太后は梁惟簡を派遣して光を労い、まずどんな政治をすればよいかを尋ねた。光は意見書を提出した。
『周易』には、天地が交われば泰となり、交わらねば「否」となる、とあります。君父は天、臣民は地です。つまり君が心を降して諮問すれば、臣は誠を尽くして上に応じ、かくすれば庶政は修まり、邦家は安寧です。君が逆耳の言葉を厭い、臣が己の利益を計れば、下情は壅塞し、衆心は離反します。生民より以来、治乱において未だこの道によらぬものはありませんでした。
そもそも道は岐路のようなものです。近き於いて僅かな差でも、遠きに及んでは千里を失します。陛下が新たに大宝に臨まれ(即位したの意)、太皇太后がともに万機を断ぜられるこのとき、初発の号令こそが、治乱の岐路、安危の別れ目です。緊要を先にし、瑣細を後にしなければなりません。
私見によれば、近年以来、風俗は頽廃し、士大夫は因循苟且を智とし、危言正論を狂としています。これこそ下情を塞いで上に通さず、上恩が塞がり下に達せぬ原因です。民の悶々たる痛苦を上は知り得ず、明主に憂勤なる苦痛ありながら、下に訴えるところがありません。これらはすべて群臣の罪であるのに、愚民は知らず、往々にして怨を先帝に帰しております。
私見によれば、今日まずすべきことは、明らかに詔書を下し、広く言路を開き、官の有無に関わらず、朝廷の闕失と民間の疾苦を知るものは、並びに封書を用い、忌憚なき発言を許すことです。まず諸路の州軍に頒布し、触書を出して明示します。在京のものは登聞鼓院での投書を許し、監督官に即時上呈させます。在外のものは州軍への投書を許し、長官に即日駅伝で提出させます。これらは副本を作るなどして発言者に圧迫を加えてはいけません。群臣にこれを阻むものがおれば、その者は必ず姦悪の人間です。人の指摘を畏れ、陛下の聡明を塞ごうとしているのです。これはよく考えねばならぬところです。
詔を下し、光の意見に従った。
(03)夏四月甲戌(十一日)、詔を下した。「先帝陛下は臨御十九年、政事を建立し、天下に恩恵を垂れられた。しかるに有司の執行に過失があり、騒動を引き起こし、法律を粗雑に扱い、実りある恵みを広めることができなかった。そこで朝廷内外に申し伝える。心を合わせて法律を守り、民に恵みを垂れられた先帝の御心に適うようにせよ。」
(04)五月丙申(四日)、百官に朝政の闕失を直言させるため、朝廷に掲示を出した。
当時、大臣にこれを喜ばぬものがおり、六事を詔書に書き込み、直言を禁圧しようとした。曰く、「心に企みのある発言、職分を越えた発言、重大事項を動揺させる発言、既存の法令に迎合する発言、朝廷の意向を探って出世を望む発言、下情を惑わせ虚名を求める発言。これらは必ず罰して容赦しない」と。
太后は詔書の草稿に封をし、司馬光に見せた。光、「これでは諫言を求めるどころか、諫言を拒むのと同じです。臣下はだれも発言しようとしますまい。もし発言しても、六事のどこかに該当します。」
太府少卿の宋彭年と水部員外郎の王諤が詔に応じて発言したが、この二人を利用して天下の発言を塞ごうとするものがいた。そこで「二人は職分を越えて発言した」と言い、罰として銅銭三十斤を出させた。光は詳細に実情を論じ、詔を改変した。これ以後、投書するものは千数をもって数えた。
(05)丙辰(二十四日)、蔡確を尚書左僕射兼門下侍郎とし、韓縝を尚書右僕射兼中書侍郎とし、章惇を知枢密院事とした。司馬光を復帰させ、陳州知事とした。光の上京謁見を待ち、朝廷に留めて門下侍郎とした。
当時、天下の民は期待に胸を躍らせ、新政を見守っていた。しかし「三年は父の行為を改めない」と発言するものがいた。
光は「先帝の法として、善いものは百世と雖も改めてはならない。王安石や呂恵卿が作ったもので、天下を害したもの――これを改めるのは、ちょうど火事から人を助け、溺れたものを救うのと同じ。まして太皇太后は母として子を改めるのだ。子が父を改めるのではない」と言い、議論は少しく収まった。
羅従彦の評。孔子の言に「三年は父のしたことを改めない」とある。これは孝行息子が父の喪に服すとき、父親在世のことを心に止めることを意味し、必ずしも仕事について言ったものではない。まして危うきを安きに変え、乱れを治めようというのだ。速ければうまくいくが、遅ければ間に合わない。改めることこそが孝というものだ。天子の孝は、天下を安んずることにある。光は道理によって発言せず、「母として子を改めるのであり、子として父を改めるのではない」と言った。これで議論を止めたのは間違いであった。その後、紹聖の時代、忠良の士大夫を陥れ、治世を害したのは、光が招いたとも言い得よう。
(06)程顥を召還して宗正寺丞とした。
当時、政治が改められると、賢人や有徳者が用いられるようになった。顥は身分こそ低かったが、人気があった。このため召還されたのである。たまたま顥は病に倒れて朝廷に行かず、すぐに死んでしまった。
(07)〔六月〕丁亥(二十五日)、朝廷内外の臣僚に命じ、朝政の得失および民間の困苦の直言を許した。
(08)秋七月戊戌(六日)、呂公著を尚書左丞とした。
これ以前、公著は揚州知事だったが、召還されて侍読となった。太后は使者を遣わし、望みを言わせた。公著は言った。
先帝の御心は第一に民の労役の軽減を図ることにありました。しかし新法を建議した人々は、法を変えて民を混乱させ、自分と意見が異なる者をすべて排除しました。このため日が経つにつれて弊害は深くなり、法を行えば行うほど、ますます民は苦しみました。もし中立公正の士大夫を選び、天下の利益と害悪を考究させ、力を合わせて努力させる、難しくはありません。
そこで十の論策を提出した。曰く、「天を畏れること、民を愛すこと、身を修めること、学を講ずること、賢者を任ずること、諫言を納れること、収斂を薄くすること、刑罰を減らすこと、奢侈を除くこと、逸楽をなくすこと。」公著が上京すると、尚書左丞に命じた。
公著は政府に入ると、司馬光と心を一にして政治を輔け、先帝の志を推し測り、改正に時間のなかったものと改正が不完全だったものについて、一つ一つ手を加えていった。また諫官を置いて言路(1)を開くよう訴えた。民は歓呼して便利だと言いあった。
(09)保甲法を罷めた。
当初、保甲法は京畿と河北、河東、陝西の三路に実施されていた。〔設けられた保甲を〕総計すると(2)、都保三千二百六十六、正長と壮丁は六十九万一千九百四十五人、毎年節約可能な旧募兵銭は六十六万一千四百八十三緡だった。しかし民は保甲に徴発され、塗炭の苦しみを味わった。
これ以前、司馬光は太后にこう訴え出た。
兵を民間から徴用するのは、古代の法であるとはいえ、古代では八百家にわずか甲士三人、歩卒七十二人を出すだけで、徭役に充てられぬ人々は相当おりました。三つの季節は農業に務め、一つの季節だけ武事を習得させましたので、耕作の妨げにもなりませんでした。両司馬以上にはすぐれた士大夫を選びましたので、人民の利益を奪う恐れはありませんでした。ですから軍隊は仲睦まじく、動いては軍功を立てました。
現在、郷村の民を徴用し、二丁に一丁を保甲に充て、彼らに弓弩を授け、戦陣を教えております。これでは農民の半分を兵にしたことになります。三四年来、また三路に命じて都教場を設け、季節を問うことなく、五日ごとに武事を教えています。特に使職を設けては監司になぞらえ、提挙官のように扱い、州県官では保甲に関与できなくなっております。一丁に軍事を教え、一丁に供給を命じ、五日で交代させると言いながら、保の正長は堤防や除草を名目に保丁を教場にあつめ、賄賂を得れば放免し、さもなければ抑留しております。これでは三路の農業は荒廃同然と言えましょう。
ここに至り、光はまた「保甲は公私を混乱させ、有害無益である」と強く主張した。このため保甲法は廃止された。
(10)十月(3)丙戌(二十五日)、方田法を罷めた。
(11)鮮于侁を京東転運使とした。
煕寧末年にも侁はこの官に任じた。ここに至り、呉居厚が処罰されると、またこの官に任じられた。
司馬光は人に語って、「今また子駿を転運使に充てるのはよいことではない。しかし朝廷が東土(陝西以東)の弊害を救おう思うなら、子駿でなければ駄目だ。彼はこの一路にとって希望の人間なのだ。百人の子駿を天下にばらまくことなど出来ないのだから。」
(12)十二月壬戌(二日)、市易法を罷めた。
これ以前、多くの人々が「市易法の害は天下を覆っている」と発言した。――本銭は概算千二百万緡、二割を利息にとり、十五年の間で利子と元本は数倍になるはずだった。しかし現実はわずか本銭が残っただけだった。物を買って官に納入させ、まだ転売する前に利息を収めさせているが、これで物価が下落すれば、官民ともに影響を受け、欠損は日々増えることになる。わずかに虚名が残るだけだ、と。
監察御史の韓川は市易法を批判し、「物価を均一にすると言いながら、実際には貨幣によって利益を取るに過ぎない。もし利潤があってすら、してはならぬこと。それどころか利潤が損失を補填できぬとあっては、どうであろう。すぐにこの法律を罷めていただきたい」と言った。そこで市易法を罷め、前提挙市易司・光禄卿の呂嘉問の三秩を削り、淮陽軍知事に左遷した。
(13)保馬法を罷めた。
(14)哲宗の元祐元年(1086)閏二月庚寅(二日)、右司諫の王覿は「国家の安危治乱は大臣に繋っております。現在、執政は八人おりますが、邪悪な者が半分を占めております。一二人の元老だけで陛下の御心を実現することは出来ますまい」と訴えた。さらに「蔡確・章惇・韓縝・張璪は邪悪な者を集め、正直の人間を害している」と極言した。これらの意見書は数十回も提出された。
たまたま右諫議大夫の孫覚、侍御史の劉摯、右司諫の蘇轍、御史の王巌叟・朱光庭・上官均らも連なって蔡確の罪を論じた。――「確は煕豊(煕寧と元豊)の時代、疑獄や苛酷にいつも関与していました。ところが今頃になって、人に向かって『そんなことは言っていない』などと言っております。おそらくや己の身分や地位を守り、責任を先帝に擦り付けようとしているのでしょう。」
司馬光と呂公著が進用され、煩瑣苛酷な政治が除かれると、蔡確は「自分が建白したものだ」と言った。このためますます世論に嫌われた。太后は確を追放するに忍びず、ただ宰相を罷めさせ、陳州知事として地方に出した。
(15)司馬光を尚書左僕射兼門下侍郎とした。
当時、光は既に病んでいたが、青苗・免役・将官の法はまだ存在し、西夏もまだ降伏していなかった。光は嘆いて、「四害が除かれなければ、死んでも死にきれぬ」と語った。そして呂公著に書簡を送り、「光は我が身を医者にまかせ、家を息子にまかせておりますが、国家のことだけは託すところがない。あなたにお頼みしようと思います。」
すぐに詔が下り、光の朝参の儀礼を免除し、肩輿の上、三日に一度の入省(中書に入ること)を許可した。光は敢えてこれを受けず、「君上に見えぬようでは、政務を執ることはできない」と発言し、息子の康に助けられながら帝に謁見した。
遼の人は司馬光の登用を聞き、国境の官吏を戒めた。――「中国は司馬光を宰相とした。事件や紛争を起こさぬよう慎め」と。
(16)辛亥(二十三日)、章惇が罷めた。
言官らは「惇は邪悪で偏見ある人間だ。君上を欺き、帝の聡明を塞いできる。不忠の罪は蔡確に等しい」と弾劾した。惇は不安に駆られた。確が罷めると、批判はますます強まった。たまたま太后の簾前で司馬光と役法について論争したとき、極めて不遜な発言があった。太后は怒り、惇を追放して汝州知事とした。
(17)三月、司馬光は免役銭を全廃し、差役法を復活させ、諸種の徭役をすべて旧制にもどし、現在の免役銭を州県の常平本銭に充てるよう訴えた。こうして役書を改訂することになった。
〔新訂の役法。――〕役銭は元定額および額外の寛剰銭二割以下のみを規則とし、それ以外は一切免除する。もし寛剰銭が元二割に及ばなければ、そのままとする。また耆戸長と壮丁については、もとのまま人を募って役に充てる。保正、甲頭、承帖人は全廃する。
(18)侍御史の劉摯は祖宗の差役法を実施するよう求め、監察御史の王巌叟は諸役相助法を建白した。中書舎人の蘇軾は煕寧の給田募役法を実施するよう求め、五つの利点を列挙した。しかし王巌叟は「五つの利点など信じがたい。十の弊害があるだけだ」と言ったため、軾の議論は棄てられた。
司馬光はまた言った。
免役法には五つの害があります。〔第一に〕上戸はもともと役に充てられ、役の負担がありましたが、交互に休息が与えられていました。しかし現在では銭を出すことになりました。旧時に比べて費用が特に増え、さらに毎年の休息がなくなりました。〔第二に〕下戸はもともと役に充てられておりませんでしたが、現在では銭を出させております。〔第三に〕もともと役に充てていたものは土着の良民でしたが、現在では浮浪人を用いており、彼等は好き勝手に詐欺をしております。〔第四に〕農民が銭を出すのは難しく、凶作の年には荘田や牛具を売って銭を官に納めております。〔第五に〕提挙司は役銭を多く集めることだけに務め、寛剰銭を増やすことを功績と考えております。これが五つの害です。
いますぐに勅を下し、県官に命じて、帳簿によって戸の差等を定めていただきたい。役に充てられることを望まぬなら、任に堪える人物を選び、雇うことを許していただきたい。ただ衙前の役は最も困難だと言われております。現在、差役法を行っても負担は少なく、破産には至らないと思われますが、もし一人に充てるに難しいようなら、もとのまま官戸、寺観、単丁、女戸で屋産や荘田をもつものから、貧富に従って助役銭を出させていただきたい。
なお労役の利害は各地で異なるでしょうから、監司・守令にその可否を審議させていただきたい。可ならばすぐ実施し、まだ検討が必要なら、県は五日で計画して州に上申し、州は一ヶ月で転運使に上申し、朝廷に上申させていただきたい。朝廷では執政に審査させ、一路一州ごとに個別に敕書を作り、微細を尽くすようにしていただきたい。
これ以前、章惇は光の意見書の粗略で不十分なところを取り上げ、批判した。呂公著は「惇はただ勝ちを争っているだけで、陛下が命令された理由が分っていない。近臣を選んで〔役法を〕詳定させられませ」と言った。そこで資政殿大学士の韓維、范純仁、呂大防、孫永らに詳定させ、意見書を提出させることになった。
蘇軾は司馬光に、「差役と免役には各々長所と短所があります。免役の短所は、上に銭が集まり、下に銭がなくなることにあります。差役の短所は、民が常に官の労役に充てられ、農業に力を尽くせず、胥吏はそれを利用して悪事を働くことにあります。二者の短所の軽重を計れば、ほぼ等しいでしょう。」
光、「どうすればいいだろう。」
軾、「法が補い合えば物事は成功し易く、徐々に事業を行えば民は混乱しません。三代の法は兵農一体でしたが、秦以後はじめて二つに分かれました。唐の中葉に及び、完全に府兵(民兵)を募兵に変えてしまいました。これ以後、民は兵を知らず、兵は農を知りません。農は穀帛を出して兵を養い、兵は生命を出して農を守り、天下はこれを便利としています。聖人が再びこの世に生まれても、〔今のあり方を〕変えられますまい。現在の免役法はこれに似ております。貴方はすぐにも免役法を罷め、差役法を実施しようとしていますが、これは募兵を罷めて民兵を復活させるのと同じです。簡単にはいきますまい。」
光は賛同しなかった。
これ以前、差役法は祖宗の時代に実施されていた。法は運用久しくして弊害が多くなり、戸籍を編んで役に充てても、民は官府の仕事に慣れておらず、吏もこれを酷使したため、多くの民が破産した。また民の数が少ない場所では、〔交代で与えられるはずの〕休息も取れない状態だった。免役法は、戸の高下で民に銭を出させた。このため役に充てられる苦痛はなくなった。ただ法を実施した官僚が君上の心に従わず、雇役銭のほかに過剰な銭を徴収したため、結局は民の害になった。もし収入によって支出を計り、民から多額の銭を徴収しなければ善い法律だった。光は免役法の害を知っていたが、その利点に気づかず、すべて〔の免役法〕を差役法に代えようとした。軾だけは真実を知らせたが、光はこれに気付かなかった。
軾はまた政事堂で論陣を張ったが、光の怒気は顔に現れた。
軾、「むかし韓魏公が陝西の義勇軍を徴用したとき、貴方は諫官だったが、力を尽くして韓公と争った。韓公は喜ばなかったが、貴方は顧みなかった。軾はむかし貴方が詳しく語ってくれたの覚えている。ところが今日、貴方は宰相になれば、私には己の所信を語るなというのですか。」
光は謝った。
これ以後、労役の人数はすべて現行の数を定額とした。ただ衙前の坊場と河渡だけは雇募とし、それ以外はすべて差役に改めた。また官戸、寺観、単丁、女戸〔の助役銭〕を罷めた。衙前の全員に雇賃があるわけではないというので、すぐに雇募から招募に変えた。
范純仁は光に、「政治は甚だしい害悪を除くだけでよいのです。差役のことはよくよく考えてから段階を踏んで実施すべきです。さもなくば民の害となりましょう。貴方には虚心に人々の議論を導いて欲しい。貴方の考えを表に出さないで欲しいのです。もし貴方の考えを出してしまえば、隙を衝いて阿諛迎合するものが現れるでしょう。役法の議論は撤回し難いもの。ですからまず一路で実施し、その成果を見極める必要があります。」
光は純仁の意見に従わず、己の意見をますます固くした。
純仁、「これでは人の発言を塞ぐようなものだ。もし貴方に迎合して利益を得ようとするものが現れたなら、それは若い連中が安石に迎合して富貴を手に入れようとしたのと全く同じだ。」また「煕寧の按問自首の法が改められ、有司は法の運用を過敏に行い、各地の死者は往時に比べて数倍になっている。これでは先王の『怪しき者は見逃す』の気持ちに反している。」
純仁は平素から光と志を同じくしていたが、事に臨んで正言を吐くこと、このようであった。
これ以前、差役法が復活したとき、五日を期限としていた。同僚らは性急過ぎるのではないかと心配していた。開封府知事の蔡京は、期日を守り、京畿の県の雇役をすべて改め、一つの間違いも犯さなかった。京が政事堂に赴いて光に伝えると、光は喜んで、「人々が法を実施すること君のようであれば、実施できぬものなどないのだが。」
(19)光は政府を預かり、およそ王安石や呂恵卿が作った新法の中、酷薄なものはほぼ除き去った。ある人が光にこう言った。――「煕豊の旧臣は陰険で諂いの巧い小人が多い。他日、父子の義でもって帝の心を動揺させれば、禍が起こりましょう。」光は毅然として、「天がもし宋を長らえさせるなら、きっとそれはなかろう。」かくして世の人々は晴れ晴れとした気持ちになり、こう言った、「これこそ先帝の御心だったのだ」と。
衛尉丞の畢仲游は光に手紙を送った。
むかし安石は改革の説でもって先帝を動かしましたが、財政の不足に苦しみ、結局はあらゆる民の財産を当て込みました。青苗銭を散じ、市易司を置き、役銭を収斂し、塩法を変えたのです。改革を求めれば、財政の不足に苦むのは当然です。もし改革の心を閉ざすことなく、ただ青苗や市易や役銭や塩法を禁ずるだけでは、百説をもってしても百とも行い得ないでしょう。
現在、青苗法を廃し、市易司を罷め、役銭を除き、塩法を罷めました。およそ利益と称して民を害していたものは一掃してしまったのですから、先程まで新法を行ってた人々はきっと喜びますまい。喜ばぬ人は必ずや「新法を止めてはならぬ」と言うだけでは済みますまい。きっと不足の心を操り、不足の事を口にし、上の心を動かそうとするでしょう。石に説いて聴かせてさえ、なお動き得るのではありますまいか。これでは新法を取り除いても、すべてが復活してしまうでしょう。あらかじめ〔改革の心を〕陶冶しなければなりません。
当今の急務は、天下の財政を計算し、収支の数を明らかにし、諸路の銭粟を地官(戸部)に帰一し、目下二十年の貯蓄を経理し、さらに数年の間に十倍増量させるのです。天下の財に余りあることを天子に明示し、不足の論を天子に述べられぬようにするのです。そうすれば懸案の新法も、ようやく永遠に棄てることもでき、復活もできなくなるでしょう。
むかし安石が宰相であったとき、朝廷内外の官僚をその一味で固めました。だから新法を実施できたのです。現在、前日の弊害を救おうとしながら、左右の侍従や各地の司使は十中七八が安石の輩です。二三の旧臣を起こし、六七の君子を用いたところで、数百の中に十数を存するようなもの。それで何ができるでしょうか。何もできないのに、強いて実行しようとすれば、青苗法を廃止しても、また復活するでしょう。ましてやまだ廃止もしていない新法とあっては、どうでしょうか。市易司は廃止されても、また設置されるでしょう。ましてまだ廃止もされていない新法とあっては、どうでしょうか。役銭や塩法もみな同じことです。これで前日の弊害を救うというのは、重病を患う人が少し癒えただけのこと。父子兄弟は喜びはするでしょうが、あえて祝福はしますまい。病気がまだ残っているからです。
光はこの手紙に戦慄を覚えたが、結局はこれらの配慮をしなかった。
(20)劉摯を御史中丞とした。
劉摯、「上の好むところ、下はより一層甚だしくなります。朝廷が取り締まりに意を砕けば、下は必ず酷薄の行為に及びます。朝廷が寛大に務めれば、下は必ず杜撰に及びます。風俗は利に趨き、人主の意に迎合し、行動は近似してはおりますが、上の本意ではありません。現在、〔前朝に〕因襲するか改革するかという政治方針は〔以前と〕異なっておりますが、風見鶏の風俗は以前と同じです。昨日、差役が実施され始めると、監司は先を争って〔朝廷の命令に〕迎合し、民の利害を考えず、均一に差役に代えてしまいました。このため一路は騒然となっております。これを見れば、他も推して測るべきものがありましょう。近ごろ左遷された数人は、誰も彼も法を欺いて税を徴収し、己の利益のために民を害した人々です。しかし彼らも漫然と〔監司の怠惰を〕顧みなかったわけではありません。ただ愚昧な者は物事の道理が分からず、過剰に法を運用してしまったのです。ならばこれを禁止せぬわけには参りません。」
(21)〔四月〕壬寅(十五日)、呂公著を尚書右僕射兼中書侍郎とした。
(22)文彦博を復帰させ、平章軍国重事とし、宰相の上席に置いた。
(23)五月丁巳〔朔〕、韓維を門下侍郎とした。
神宗が崩ずると、維は提挙嵩山崇福宮として廷にもどった。太后は手詔を下し、維の意見を求めた。
維、「人は貧しければ富を望み、苦しければ楽を望み、窮すれば安きを望み、憂いあればその発散を望みます。心からいつも民の利益を願えば、民は富かになり、いつも民を気にかけておれば、民は楽しみます。とても人の堪えられぬ賦役を除いてやれば、民の困苦は止むでしょう。みなが不便だと思う法令を除いてやれば、民の鬱屈も晴れるでしょう。これを推し広げ、誠を尽くして行えば、子孫は陛下の徳を見て(4)、教導によらずして風を成しましょう。」
ほどなく陳州知事に抜擢され、召還されて資政殿大学士兼侍読となった。
役法の改訂を議論したとき、地方には差役法の利便性を主張するものが多かった。このため維は「小人が己が利のため、朝廷に迎合しているのだ。その全てを信じてはならない」と言ったが、司馬光は従うことができなかった。
(24)六月甲辰(十八日)、呂恵卿を建寧軍節度副使に左遷し、建州安置とした。
中書舎人の蘇軾の制書に云う。
恵卿は微量の才、泥棒の智でもって、宰相に諂い、政府に升った。禍を楽しみ功を貪り、収斂を仁義と思い、法律を『詩』『書』の如く用いた。まず青苗を建議し、次いで助役と均輸の政を行い、みずから商人に類する行いをした。手実法の禍たるや、下は鶏豚にまで及んだ。もし国を腐らせ民を害する人間がおれば、あらゆる力を尽くして褒め称えた。先帝陛下は賢者を求むること及ばぬごとく、善に従わうこと車輪の如くであらせられた。初めは帝堯の仁によってしばらく伯鯀を試されたが、最後には孔子の聖でも宰予を信じなかった。それでもなお両観の誅(5)を許し、薄く三苗の竄(配流)を示すに止める。
軾の文章が伝わると、世の人々は「快なるかな」と叫んだ。
当時、恵卿、章惇、呂嘉問、鄧綰、李定、蒲宗孟、范子淵らは既に地方に放逐されていたが、彼らを批判する声は止まなかった。そのため范純仁は太后に「人の失敗を処罰する場合、やり過ぎはいけません」と助言した。太后もこれに従った。そこで詔を下し、先帝の時代に阿諛迎合した人の罪を一切不問に付させた。また彼らの弾劾を禁止した。このため恵卿の一味は少しく心を落ち着けた。
ある人は呂公著に、「今のうちに悪者を根絶しておかないと、将来に憂いを遺すことになりましょう。」
公著は、「政道は甚だしき害悪を除くことにある。〔前漢の全盛期である〕文帝と景帝の時代は、舟を漏らすほどの粗雑な法を用いていた。ましてや人材は得難いものだ。改心こそ求めはすれど、自暴自棄に陥らせてはなるまい。」
(25)八月辛卯(六日)、平常旧法を復活させ、青苗銭を罷めた。
司馬光は病気で休暇をとっていた。范純仁は財政不足を理由に、再び常平銭穀給斂出息の法――正月に限り、〔常平倉の〕半額を給付の限度とし、作物の豊熟を待って夏税の前に半額を納入させる。もし半納を望むものがおれば、利息一割を納めさせる(6)――の実施を求めた。
台諫の劉摯、上官均、王覿、蘇轍らはこれを非難した。
光、「先朝(神宗朝)に青苗銭を供給したのは、もともと民の利益を思ってのことであるし、それも民が願い出れば散布した。しかし提挙官が功績の速成を求め、多額の〔青苗銭を無理に〕供給したのだ。強制貸付を禁止してしまえば害はなかろう。」
中書舎人の蘇轍の意見書を提出した。――「煕寧の法も強制貸付を禁じていました。しかしこれほどの害悪を生んだのです。収入をもとに支出を考させれば、民は貧乏でも生活していけます。しかし不相応な銭を入手すれば、おのずと浪費が生まれましょう。〔青苗銭給付の〕民の願いを認めることは、法を立てて民を騙すのと同じです。民は一時しのぎの銭に慢心し、後日の督促の困苦を忘れるでしょう。とても良法とは申せません。」
ちょうど台諫の王巌叟、朱光庭、王覿らも青苗銭の廃止を訴えたので、光は事態を悟り、病気をおして帝に謁見した。太后は光の発言に従い、詔を下した。――「常平銭穀について、州県は、旧法の規定に従って、時に応じて米穀の売買を実施せよ。青苗銭はもはや支給しない。旧来未納の利息二割は免除せよ。元本銭は未納の有無を調査し、整理の上、〔夏秋の〕二税に従って納入させよ。」
(26)九月丙辰朔、司馬光が死んだ。
当時、帝と太后は疑うことなく司馬光に政治を任せていた。光も自身の政見が容れられたことを知り、社稷に殉ずる覚悟で、昼夜を問わず、みずから政務を執った。門客らは光の披露を慮り、諸葛亮の故事――食事の量が減り、激務が続いたこと――を引き合いに出して戒めた。しかし光は「生死は天命だ」と答え、ますます精を出した。病が篤くなると、夢の中でも諄々と何かを口にしたが、ずべて朝廷や天下に関わることだった。光が死ぬと、遺族が光の八つの遺表を朝廷に提出した。遺表はどれも当世の急務について論じたものだった。太后は光の死に慟哭し、帝とともに光の喪に赴いた。光に太師・温国公を贈った。諡を文正といった。
(27)十一月、呂大防を中書侍郎とし、劉摯を尚書右丞とした。
(28)二年(1087)夏四月己丑(八日)、文彦博は致仕を求めた。十日に一日、都堂で政務を執らせた。
(29)三年(1088)夏四月辛巳(五日)、呂公著は老齢を理由に辞任を求めた。そこで司空・同平章軍国事とした。公著の邸宅を東府(中書)の南に建て、北の扉を開けさせ、執政の会議に参加できるようにした。三省と枢密院の事務をすべて総裁させた。二日に一日、朝礼に参加させ、ついで都堂にも立ち寄らせた。退朝のときは随意に任せた。これらは異例の待遇であった。
当時、煕豊(煕寧と元豊)時代の大臣らは地方に放逐されていた。しかしその一味は朝廷内外に分布しており、自分勝手な発言をしては、当時の政権を動揺させた。鴻臚丞の常安民は公著に手紙を送った。
世の流れを分析することは、良医が病を視るのと同じです。安寧無事の時代に、「後世きっと大変なことになる」と発言すれば、人々はきっと驚き笑うでしょう。ただ機微を識る人だけが、これから起こり来たる変化を察知できるのです。ですから憂うべきを憂えず、ただ憂いを「憂うに足らぬ」と言うことこそ、憂えう必要があるのです。
近ごろの世の流れは、大いに憂うべきものがあります。朝廷に忠良の士を用いてはおりますが〔それだけでは不充分で〕、世の英才を探し求め、そのすべてを朝廷に集め、小人を制圧してしまわなければ、正しき人々が枕を高くして眠ることは出来ないでしょう。小人を退けることは難しくありません。ただ小人に勝つことが難しいのです。
〔後漢の〕陳蕃や竇武は、心と力を同じくし、当時の名賢を用いました。これで天下は太平になるかと思いきや、結局は曹節の手に命を落とし、党錮の禍が起こりました。張柬之と五王は唐室を中興させました。これで万世に慶福が訪れるかと思いきや、武三思がひとたび権力を握ると、流罪に処されて命を落としました。これらは全て前世に起こった禍です。
今の時勢、数人の賢者で家屋を支え、数人の士大夫で巨大な石を転がそうとしています。これではどれほど優れた才能があっても、とても志を全うすることは出来ないでしょう。なんと悲しむべきことではないでしょううか。山に住む猛虎には誰も近づけません。しかし最後には人が勝利を収めます。それは人の数が多く、虎の数が少ないからです。十人で一匹の虎と争えば、人が勝つでしょう。しかし一人で十匹の虎と争えば、虎が勝つでしょう。ましてや数十人の力で千匹の虎に勝てるでしょうか。
既に〔煕豊の大臣らの〕怨みは募っております。ひとたび罰発すれば、その害悪は必ずや大きくなるでしょう。これを憂えずにおれましょうか。
公著は手紙を読むと、語る言葉もなかった。
(30)呂大防を尚書左僕射兼門下侍郎とし、范純仁を尚書右僕射兼中書侍郎とした。
大防は質朴篤実な人間で、党派を作らなかった。純仁は寛大な心で帝を導き、その忠厚な人となりで世の風潮を正した。二人は心と力を合わせて王室を助け、太后もまた心から二人に政治を任せた。そのため元祐の治世は〔仁宗の〕嘉祐に比類するものとなった。
(31)四年(1089)二月甲辰(三日)、呂公著が死んだ。
太皇太后は輔臣に「国家の不幸、司馬相公は既に亡く、呂司空もまた逝去された」と言って涙し、長らく悲嘆にくれた。帝もまた悲しんだ。公著に家に赴き、葬儀に参加した。公著に太師・申国公を贈った。諡を正献といった。
(32)六月甲辰(五日)、范純仁が罷めた。
(33)冬十月癸丑(十七日)、帝は邇英殿に赴いた。講官が『三朝宝訓』を進講した。
これ以前、呂大防は帝の幼少を鑑み、学問を目下の急務と考えた。そこで講読官に仁宗の『邇英御書』を提出させ、帝の座右に置いた。また乾興以来の模範例四十一事を集め、これを上下篇に分け、『仁祖聖学』を作った。
ここに至り、帝は邇英閣に赴くと、宰執と講読官を集めて『三朝宝訓』を読んだ。書中、次の逸話があった。
漢の武帝は南山の堤を没収し、上林苑を作った。
仁宗、「山沢の利は、民と共有すべきものだ。なぜこんなことを。」
丁度は進み出て、「私は陛下に仕えること二十年。いつも徳音を奉じ、憂勤に及ばぬことがありませんでした。これは蓋し祖宗の家法です。」
ここに至り、大防は祖宗の家法について進言し、「三代以後、本朝のみ百二十年の間、朝廷内外は事なきを得ております。これは祖宗の立てられた家法が最も優れていたからです。その概略を挙げますと」と、親に仕えること、年長者に仕えること、宮廷を処置すること、外戚を処遇すること、倹約を貴ぶこと、身を謹むこと、礼を貴ぶこと、仁愛を重んずることの八つの家法について発言した。さらに「虚心に諫言を納れ、田猟を好まず、珍宝を貴ばず、宝石を用いず、珍味を貴ばない。これらの祖宗の家法が天下に太平をもたらしました。遠く前代をまねする必要はありません。ただ家法を遵守すれば、それだけで天下を治められましょう」と。
帝は深く頷いた。
(34)五年(1090)春二月(7)庚戌(十五日)、文彦博が罷めた。
(35)五月壬申(八日)、詔を下した。――「差役法にはまだ不備がある。その利害について意見書を提出せよ。」
これ以前、蘇軾は「世の人々は、差役法ではまだ不便だと言っております。昔日の雇役の場合、中等戸の歳出は幾許でしょうか。今日の差役の場合、中等戸の歳費は幾許でしょうか。一年の役の歳出を比較して概算を求めれば、〔役法の〕利害は明白になります。ましてや民が役に徴用されたなら、胥吏はあらゆる方法を用いて民を食い物にしているのです。雇役と比較すれば、苦楽に十倍の差が生じましょう」と発言していた。また李常も「差役法は長らく廃止され、版籍も不明になり、法令実施のさじ加減にも規準がありません。面積が広く、戸数の多い場所であれば、幾何かは休息できますが、面積が狭く、戸数の少ない場所では、毎年のように役に充てられます。政務に通じた一二の臣僚に命じ、財務官僚とともに、差役と雇役から便利な方を選び実施させていただきたい」と言った。
ここに至り、多くの者が差役の不便を主張した。そこで詔を下し、「差役法にまだ不備がある。中書舎人の王巌叟、枢密都承旨の韓川、諫議大夫の劉安世は共同で調査に当たり、利害を詳細に報告せよ」と。
(36)蘇轍を御史中丞とした。
これ以前、煕豊の旧臣は頻々と邪説を吹聴し、朝廷の官僚を動揺させていた。呂大防と劉摯はこれに憂慮し、少しく〔煕豊の旧臣を〕抜擢し、怨みの心を和らげようとした。そしてこれを調停と言った。太后はこれに疑問を持ち、決断できないでいた。轍は太后に面と向かってその間違いを指摘し、さらに意見書を提出した。
君子に親しみ、小人を遠ざければ、君主は貴くなり、国は安定します。君子を疎んじ、小人に任せれば、君主は憂い、国は危殆に瀕します。これは道理の必然です。
そもそも小人が地方におり、その不満を憂え、朝廷に引き入れるならば、みずから憂いを齎すようなものです。君子と小人は氷炭のようなもの、同所におれば必ず争います。ひとたび争えば、小人は必ず勝ち、君子は必ず負けます。何故でしょうか。小人は利益を貪り恥を忍びます。ですから撃っても退け難い。しかし君子は身を潔白にして義を重んじます。ですからその登用を阻止すれば、引退してしまいます。
先帝は聡明叡智、頽廃した風俗を忌み、天下を引き締め、三代の隆盛に近づけようとされました。しかし臣下はその心に従うことが出来ず、多くの法律を造作し、上は天意にそぐわず、下は民の心を失いました。陛下と太后の二聖は、民の願いによって〔先帝の法を〕改められ、これより上下交々喜びました。朝廷は当時の旧臣を厳罰に処さなかったとはいえ、彼らが朝廷に残ることは出来ませんでした。しかしそれでもなお二聖の慈愛を受け、地方官として処遇しております。ならば〔彼らに対する処遇は〕既に厚いと言えましょう。
ところが大臣らは、人々の発言に惑わされ、彼らを朝廷に招き入れ、ともに政治をするというのです。これを調停と言います。しかし彼らがもし朝廷に舞い戻れば、決して無事では済みますまい。必ずや正人に害を加え、漸次往時の政治に戻し、私憤を晴らそうとするでしょう。人臣が害を被るのは論ずるに足らぬことです。私が惜しむのは祖宗と朝廷です。
ただ陛下は衷心より断ぜられ、流言に惑わされず、小人を少しも進ませぬことで、後悔の念を絶っていただきたい。さすれば天下幸甚です。
意見書が提出されると、太后は「轍は邪正の人が君臣の間に混ざるのを憂えている。その発言には極めて道理がある」と発言した。他の官僚も賛同し、調停の件は沙汰止みになった。
(37)六年(1091)二月、劉摯を尚書右僕射兼中書侍郎とし、王巌叟を簽書枢密院事とした。
巌叟は言職を任せられること五年、その諫言には一つの隠し事もなかった。簽書枢密院事を授けられると、謝意に訪れた。
そこで、「太后は政務を執られて以来、諫言を納れ、善言に従い、務めて人心に沿おうとされました。ですから朝廷は清明になり、天下は安静になりました。これを信じて疑わず、これを守って違わぬようにしていただきたい」と。
また帝に進言して、「陛下は今日の学問によって、深く邪正の別を知らねばなりません。正人が朝廷におれば、朝廷は安定します。しかし邪人が一人でも朝廷に入れば、すぐに不安の徴候が現れます。邪人一人が朝廷を不安にするわけではありません。邪人に呼応するものは多く、上下ともに覆われ〔真実が分からなくなり〕、災禍の発生が分からなくなるのです」と。
また「君子と小人の参用を陛下に告げたものがおります。それは本当でしょうか。この発言は深く陛下を誤らせるものです。古来、君子と小人を参用する道理はありません。聖人はただ『君子を内にし、小人を外にすれば、泰。小人を内にし、君子を外にすれば、否』とのみ言っております。小人が〔朝廷に〕進めば、君子は必ず退きます。もし君子と小人が競い進むならば、それは滅亡の本です。この点はよくよく察しなければなりません」と。
(38)十一月乙酉(朔)、劉摯が罷めた。
(39)七年(1092)夏五月(8)丙午(二十四日)、王巌叟が罷めた。
(40)六月辛酉(九日)、呂大防を右光禄大夫とし、蘇頌を尚書左僕射兼中書侍郎とし、蘇轍を門下侍郎とし、范百禄を中書侍郎とし、梁燾を尚書左丞とし、鄭雍を尚書右丞とし、韓忠彦を知枢密院事とし、劉奉世を簽書枢密院事とした。
(41)八年(1093)秋七月丙子(朔)、范純仁を召還し、尚書右僕射兼中書侍郎とした。
純仁は朝廷に戻ると、謝意を示した。
太后、「貴方はきっと王覿や彭汝礪を用いるはずだと言うものがいました。貴方は呂大防と心を一つにして欲しい。」
純仁、「この二人は本当に士大夫から期待されております。私は自分の位を守るため、賢者を隠そうとは思いません。陛下にはこのところをお察しいただきたい。」
純仁の召還が決まったとき、殿中侍御史の楊畏は蘇轍に迎合し、轍を宰相に推していた。そこで来之邵とともに、「純仁は道理に暗い。宰相にしてはならぬ」と訴えたが、聞き入れられなかった。純仁が政務を執るようになると、呂大防は畏を諫議大夫に抜擢し、自分の助けにしようとした。
純仁、「諫官は正しい人間を用いなければならない。畏は駄目だ。」
大防、「畏が相公(純仁)のことを言ったからかね。」
轍はすぐに横で畏の手になる純仁弾劾文を暗誦してみせた。しかし純仁はもともと〔畏の弾劾を〕知らなかった。ほどなく結局は畏を礼部侍郎にした。
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(1)現在でいう言論の自由のようなもの。
(2)原文のままでは訳せないので、『宋史』兵六保甲により改訂した。
(3)原文は十一月に作る。
(4)原文は「子孫観陛下之徳」。『宋史』韓維伝の言葉だが意味不詳につき、文字通り訳した。
(5)孔子が少正卯を誅した故事を指す。
(6)「併納を望む場合は、利息一割のみを納めさせる」とする資料(『宋会要』『続資治通鑑長編』)もある。
(7)原文は正月に作る。
(8)原文は四月に作る。
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