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宣仁之誣


(01)神宗の元豊八年(1085)春正月戊戌(三日)、帝が病に倒れた。


(02)二月癸巳(二十九日)、帝が危篤に陥った。枢密院は帝に謁見し、皇太子を立てること、および皇太后高氏の権同聴政(1)を求めた。これを許した。


(03)三月甲午朔、延安郡王傭を皇太子に立てた。名を煦と授けた。

これ以前、帝の弟の岐王顥と嘉王頵は毎日のように見舞に訪れていた。しかし高太后は垂簾を布くと、二王に宮中の入室を禁じた。またこっそり宦官の梁惟簡の妻に十歳児の黄袍を作らせ、持参させた。倉卒の践祚に備えてのことだった。

これ以前、立太子の前、職方員外郎の邢恕は蔡確と共謀し、太后の甥の高公絵と公紀にこっそりこう伝えた。――「上の病は避けられまい。しかし延安郡王(後の哲宗)はまだ幼少。はやくに世継ぎを定めねばなりますまい。岐王や嘉王はみな賢人です。」

公絵は驚いて、「なにをおっしゃる。あなたは我が家に禍をもたらすつもりですか。」

恕は思い通りにいかぬと分かると、逆に「大公太后の意向は岐王にある。王珪と表裏している」と言いふらした。そこで確にこう言い含めた。――「珪とともに帝の見舞いに赴き、珪を騙して言葉を引き出すのです。開封府知事の蔡京に命じ、剣士を外に伏せさせ、珪が少しでも異論を挟めば、捕らえて処罰なさい」と。

しかし〔確は珪とともに見舞いに訪れると、〕すぐに珪は「上には御子があらせられます」と発言した。このため世継ぎの件は決定し、延安郡王が太子に立てられた。恕はなす施す術がなかった。

太子が立てられると、恕はなおも確とともに、「我らに定策の功(立太子の功績)あり」と言いふらした。


(04)庚子(七日)、皇太后を尊び、太皇太后とよんだ。


(05)甲寅(二十一日)、群臣は帝に皇太后と朝政を執るよう求めた。

蔡確は太后を媚びて地位を確保しようとした。太后の従父の高遵裕は西方遠征の失敗のため処罰されていた。そこで確は意見書を提出し、遵裕の官をもとに戻すよう訴えた。しかし太后は「かの霊武の役は、百万の人々に塗炭の苦しみを与えた。先帝は真夜中に報告を受け、起きあがって寝台の周りを歩かれ、夜が明けるまで寝ることもできなかった。これ以後、心を痛められ、ついにお亡くなりになった。禍は遵裕から起こったのだ。誅罰を免れただけでも幸いなのに、先帝のお体がまだ温かいうちに(2)、私恩に惹かれて天下の公議に背くことができようか」と言った。確は震え上がって退いた。


(06)哲宗の元祐元年(1086)春正月丙辰(二十七日)、神宗の原廟を立てた。

太皇太后の詔。――「原廟の建設は由来久しい。先日、神宗皇帝ははじめて祠宮に寝殿を建て、祖考を尊ばれた。その孝たること至れりと言わねばならぬ。いま神宗は既に宗廟に付されたが、故事によると、館御を造り神霊を奉ずることになっている。しかし景霊宮の東部は民家に接しており、拡張すれば民を混乱させる恐れがある。また士大夫の議論を採り、帝と后を一殿に収めれば、神宗の祖考を奉ずる心に沿わぬ恐れがある。聞けば治隆殿の後に園池があるという。后殿とは本来未亡人(宣仁のこと)を待つ地のこと。その地に神宗の原廟を立てよ。我は万年の後、治隆殿で英宗皇帝に従おう。上は神明を安んじ、中は我が子の志を成し、下が民の心を安んずることができよう。これ以上に善いことはあるまい。」


(07)二年(1087)三月、神宗の祥祭が終わった。

太皇太后の詔。――「祥祭と禫祭が終わり、冊命の文は備わった。有司は章献明肅皇后の故事に遵い、冊命を文徳殿に受けよと言う。しかしたとえ皇帝が我に孝養を尽くし、尊崇を加えても、朝廷には相応の呼び名があり、各々その宜に従わねばならぬ。考えてみれば、章献明肅皇后は真宗を助けられ、仁宗をお守りになり、その功業は広大であった。だからこそ特別に尊崇を示さねばならなかったのだ。ところが我が身の徳は薄いのに尊崇されてよかろうか。古来の礼制に照らしても、全く恥じるばかりである。今後の冊命はただ崇政殿で行うようにせよ。」

また執政には「母后が朝政を執るのは国家の盛事ではない。文徳殿は天子の正殿。女主が御すべきところではない」と言った。


(08)三年(1088)八月、邢恕は太后の甥の公絵のために文書を作り、太后に献上し、高氏に尊礼を加えるよう訴えさせた。太后は怒って恕を罷免した。


(09)〔閏〕十二月甲寅(十二日)、太皇太后の詔。――「冗官の問題(官僚の定員過多の問題)は由来久しいが、今ほど弊害が甚だしいときはない。上には久しく職務のない吏がおり、下には害を受けても告げるところのない民がいる。このため大臣に命じてその根本問題を考究させたところ、入流(京官以上の官僚)の数を裁損するのでなければ、士大夫の選抜を明白にできぬと言う。私は卑しい身の上をもって天下を率いている。久しく考えていたことだが、臨御のはじめ、かつて有司に敕を下した。――近親に蔭補を授けるとき、蔭補には旧来限度がなかった(3)。しかし私の徳の薄きを鑑みれば、前人と同じでにはできぬ。そこで家庭の恩につき、ただ母后(皇太后)の先例に従うようにせよ、と。今またこれを減らし、必ず実施せよ。そもそも先帝の顧託の深きゆえに、天下の責望の重きゆえに、もし社稷に利となることあるならば、我は髮膚をも惜しむものではない。ましてやこれは私恩にすぎず、実にわずかなものである。忠義の士は我が心を知り、各々家々を利さんとする心を忘れ、ともに節約を成し遂げねばならぬ。今後、聖節・大礼・生辰において、親属の恩沢を得られる場合、すべて四分の一を減らせ。皇太后と皇太妃もこれに準ぜよ。」


(10)四年(1089)五月、蔡確を新州に安置した。

確は久しく権力を失い、怨みを抱いて安州にいた。たまたま車蓋亭に遊覧したとき、詩を十章ほど作った。漢陽軍知事の呉処厚は確と仲が悪かったので、確の詩を解釈して誹謗とし、「これは唐の上元年間に高宗が武后に譲位しようとしたときの郝処俊の諫言をもって太后の政治になぞられたものです」と論じ、これを中書(宰相府)に上奏した。

確の詩が朝廷に報告されると、台諫(御史台と諫議大夫)はその怨謗の罪を正すよう求めた。詔を下して確に弁解させたところ、その弁解は見事なものだった。しかし右正言の劉安世らは「確の罪状は明白、弁解など必要なし。これは大臣が故意にやらせているのだ」と非難した。そこで確を光禄卿に降格し、南京分司とした。しかし台諫の批判は止まなかった。諫議大夫の范祖禹も「確の罪悪は天下の許さぬところ。ところが今なお列卿(光禄卿のこと)の身のまま、南京分司となっております。これでは人々の心を満足させられません」と訴えた。

大臣らは確の処罰を議論したが、范純仁と王存が処罰を認めず、論争は決着しなかった。文彦博は確を嶺嶠に左遷しようとした。純仁はこれを知り、呂大防にこう言った。――「あそこは乾興以来七十年もの間〔左遷先に〕用いられなかったところ。我らがこれを開けば、恐らく我ら自身も免れまい。」このため大防は口を閉ざしてしまった。六日の後、再び確を英州別駕に左遷し、新州安置とした。

純仁は太后に「陛下は寛容に務めるべきで、言語文字といった曖昧な過失で大臣を厳罰に処してはなりません。現在の行為は将来の手本とならねばなりません。このような処罰は絶対にしてはなりません。また重罰によって悪を除くのは、重い薬で病を治すようなもの。失敗すれば必ずや体を傷つけることになります」と言ったが、聞き入れられなかった。

当時、中丞の李常、中書舎人の彭汝礪、侍御史の盛陶らは、「詩による処罰は世のためにならぬ」と批判した。このため常は登州知事に左遷された。中書舎人の彭汝礪は「これこそ冤罪を起こす端緒となろう」と言い、命令を突っぱねた。このため汝礪は汝州知事に左遷された。侍御史の盛陶は「密告の風潮を長ぜしめてはならぬ」と言い、また汝州知事に左遷された。

確の弁解文が提出される以前、梁燾は潞州から召還され、諫議大夫になった。河陽を過ぎたとき、〔その地で落ち合った〕邢恕は確に定策の功があったと断言した。燾は京師に到着してこれを訴えた。太后は三省に言った。――「帝は先帝の長子である。子が父の跡を嗣ぐのは当然である。確になんの策立の功があろう。後日もし確が朝廷にもどれば、上下のものを欺くだろう。これが朝廷の害にならないでか。帝はまだ幼く、うまく制御し得まい。だから今日あの男自身の失敗を利用して、譴責するのだ。これは社稷のためである。」


(11)六月甲辰(五日)、范純仁が罷めた。

呂大防が「蔡確の朋党には力がある。処分しなければならぬ」と言うと、純仁は「朋党は見極め難い。誤って善人を処分する恐れがある」と反論した。司諫の呉安詩と正言の劉安世は、純仁は確の朋党であると論じた。純仁も宰相辞任を強く求めたので、穎昌府知事として地方に出した。

傅堯兪が太后に言うには、「蔡確一味のなか、特に凶悪なものは当然放逐せねばなりませんが、それ以外の者は不問に付されるべきです。陛下の盛徳、許せぬはずもありますまい。また確の言葉は誹謗に当たりますが、これも許していただきたい。例えるなら、蚊や蠅のようなもの。わずかの抵抗によって平静の気象を乱してはなりません。事件が起これば無心でそれに答える。こうして聖人は至誠を養い、大きな福をみずからのものにしたのです。」


(12)六年(1091)十一月乙酉〔朔〕、劉摯が罷めた。

摯は呂大防と宰相の任にあった。国家の大事は多く大防が処断したが、士大夫の任免は摯が実権を握っていた。しかし摯は狭量であるばかりか、悪人の排斥には勇断だった。このため批判や中傷が集まり、大防との仲も悪くなった。

蔡確が左遷されたとき、邢恕も監永州酒税に左遷された。そこで〔恕は復帰を願い〕摯に手紙を書いた。摯はもともと恕と仲が善かったので、「永州はよいところです。そこにいって休復(復帰のこと)をお待ちなさい」と書き送った。排岸官の茹東済は心根の曲がった男で、かつて摯に美官を求め袖にされたことがあった。東済は摯の書簡を見つけると、こっそり記録に取り、中丞の鄭雍と殿中侍御史の楊畏に見せた。二人は呂大防に阿附していたので、摯の言葉に解釈を施し、意見書を提出した。――「『休復』は『周易』に見える言葉です。書簡の『以て休復を俟(ま)て』とは、後日太皇太后が政権を君に復(かえ)すのを俟(ま)てという意味です。」

また章惇の子供たちは、もともと摯の子供と交友があり、摯も彼らと接することがあった。そこで雍と畏は「摯は多くの人間を籠絡し、後日の幸福を得ようとしている」と非難した。また王巌叟・梁燾・劉安世・朱光庭ら三十人は、摯の死友(死を許した友)だとも訴えた。

このため太后は摯に「あなたが間違った人間と交際をもち、後日の画策をしていると言うものがいる。あなたには王室のために心を捧げて欲しい。章惇のような男は宰相になっても決して喜ばないだろう。」摯は身を恐縮させて太后の前を退くと、弁解文を提出した。そして梁燾と王巌叟もやはり意見書を提出し、摯の弁解に奔走した。

太后、「垂簾のはじめ、摯は邪悪な者ども排斥し、本当に忠直な男だった。ただこの二つのことだけはやってはならぬことだった。」

そこで摯を罷免して鄆州知事にした。給事中の朱光庭がこれを駁正し、「摯は忠義の心で奮い立ち、朝廷は宰相に抜擢しました。このたび突然の疑惑による罷免を蒙りましたが、世の人々は摯の過失が何であるのかを存じておりません。」光庭を摯の一味だと非難するものがいたので、光庭を罷免して亳州知事とした。


(13)八年(1093)九月戊寅(三日)、太皇太后高氏が崩じた。

これ以前、太后が病に倒れたとき、呂大防・范純仁らが見舞いに訪れた。

太后、「この老いぼれは、神宗の委託を受け、官家(皇帝)と朝政を執ってきた。あなた方は試みに言ってみられよ。九年の間、高氏に恩を施したことがあったかどうか。ただ公正にとだけを思ってきた。だから高氏の男と女が一人ずつ、病になり死にもしたが、どちらも見舞うことができなかった。」

言い終わると涙が流れた。

また「先帝は往時のことを後悔され、涙を流されるに至った。これは官家がよくよく知らねばならぬこと。老いぼれが死んだ後、必ず官家を欺くものがあろう。必ずや許してはならぬ。あなた方は早くに引退なされよ。官家にはまた別にふさわしい人を用いさせよ。」

そこで近習を呼び、二人に社飯(4)を与え、「来年の社飯のとき、老いぼれのことを考えてくれ」と言った。

太后は政務を執っては故老名臣を用い、新法の苛政を罷め、かくして天下はまた安寧になった。遼の君主は「南朝は仁宗の政治に完全にもどった」と言って、国境の紛争を戒めた。太后は朝廷に臨むこと九年、朝廷は清明で、中華は安定した。古来のやり方に務め、外戚の私恩を絶った。人は太后を女人の堯舜と言った。


(14)十二月乙巳(二日)、范純仁が宰相の辞任を求めたが、認めなかった。

これ以前、太皇太后は病に倒れると、純仁を呼び、「あなたの父の仲淹はたしかに忠臣でした。明肅が垂簾を布いたとき、ただ明肅に母としての道を尽くすよう勧められた。明肅があの世に行かれた後には、仁宗に子としての道を尽くすよう勧められた。あなたもきっとこうしてくれるのでしょうね。」

純仁は泣いて、「必ずや忠を尽くします。」

(哲宗)が親政を始めると、純仁は宰相の辞任を求めた。帝は呂大防に「純仁には天下の期待がある。辞任させてはならない。私のために止まって欲しい」と言い、謁見を促した。

帝は純仁に「先朝に実施した青苗法をどう思う」と尋ねるた。純仁は「先帝の愛民の心は誠に深うございました。ただ王安石の法律は厳しすぎました。また賞罰によって人を動かしましたので、官吏は急いて成果を求め、民に害が及びました」と答えた。上前を退くと、議論の要旨を献上し、「青苗を実施してはなりません。実施すれば結局は人々を混乱させることになります」と言った。

当時、小人たちが太后の政治を非難していた。純仁は意見書を提出し、「太后は陛下の御身を守られました。その功は大きく、その心は真実でした。これは幽明ともに知るところです。太后を非難する人々は、国のことを考えていないのです。まことに浅はかなことです。」そこで明肅の垂簾に対する批判を禁じた仁宗の詔書を献上し(5)、「陛下もこれにならわれ、浮薄な風俗を戒めていただきたい」と言った。

韓忠彦も帝に、「むかし仁宗がはじめて政務を執られたとき、群臣の中には章献太后の罪に言及するものが多くおりました。仁宗はその心の浅薄さを厭われ、詔を下して戒められました。陛下におかれましては、仁祖をまねられることが宜しいと存じます。」

給事中の呂陶も進み出て、「太后は九年にわたり陛下をお守りになられました。陛下は恩に報いるべく、誠心誠意、太后に感謝の気持ちを尽くさなければなりません。万一にも邪悪な人間が『あの人をまた用いるべきだ、あの事をまた行うべきだ』と発言するようなら、これこそ治乱安危の兆候です。深く事態を理解する必要があります。」


(15)哲宗の紹聖元年(1094)三月乙亥(四日)、呂大防が罷めた。

大防は宣仁在世時に宰相辞任を強く求めたことがあった。后は「帝はまだ幼い。急いて辞めないで欲しい。少しく歳月が経てば、私も東朝に行くつもりだ」と言った。

后が崩ずると、大防は山陵使になった。殿中侍御史の来之邵は、皇帝の心中を推し量り、まず大防を弾劾した。大防もみずから宰相辞任を求めたので、帝はこれに従った。


(16)十一月壬子(十四日)、特別に蔡確を観文殿大学士に追復(6)した。


(17)四年(1097)冬十月、邢恕を御史中丞とした。王珪を万安軍司戸参軍に追貶(7)した。

これ以前、恕は長らく地方に捨て置かれ、怨みを抱いていた。河陽の間道を抜け、鄧州で蔡確に謁見し、太后と王珪の廃立事件を作り上げ、確と己の定策の功績を明らかにしようとした。しかし謀議は決まっても、証拠がなかった。たまたま司馬光の子供の康が上京のため河陽を通り過ぎた。恕は康の直筆書簡を偽造し、確の功績を称えた。ほどなく梁燾が諫議大夫として召還され、河陽を通り過ぎた。恕はまたもや燾に確の功績を称え、さらに証拠として康の書簡を示した。

恕は中山の帥司になると、酒席を設け、高遵裕の子の士京を誘った。

恕、「元祐の時代、あなたひとり先公の推恩がなかったのをご存じですか。」

士京、「いいえ。」

恕、「兄弟はいらっしゃいますか。」

士京、「兄に士充がおりましたが、もう死にました。」

恕、「彼は王珪の言葉を伝えた人ですよ。当時、王珪は宰相でしたが、岐王を立てようとしていました。そこで士充を遣わして禁中に伝言させたのです。ご存じでしたか。」

士京、「いいえ。」

そこで恕は官職を餌にぶら下げ、「知らぬと言ってはいけません。あなたのために一つ汗をかいてあげましょう。だれにも言ってはいけませんよ。」士京は愚か者だったので、恕の言いなりになった。

ここに至り、章惇と蔡卞は元祐諸人の殺害を謀り、その手助けのため恕を引き入れるべく、ついに恕を召還した。恕は三たび昇進して御史中丞になった。

恕は、北斉の婁太后の宮名が宣訓といい、かつて婁太后が孫の少帝を廃して子の演を帝に立てたことを、司馬光が范祖禹に語った言葉――「現今、君主は幼く、国家に疑念がある。宣訓のことは特に憂慮すべきことだ」――に託けた。また王棫を動かし、高士京のために意見書を書かせた。――「父の遵裕は死に臨み、左右のものを退け、士京にこう言った。『神宗が病に倒れられたとき、王珪は士充を遣わしてこう問うてきた。『皇太后は誰を立てるおつもりなのだろうか』と。私は士充を叱りつけ、追い払った。だから廃立の事件は止んだのだ」と。たまたま給事中の葉祖洽も、王珪は皇帝冊立時に異論があったと言った。

かくして珪を追貶し、遵裕に奉国軍節度使を贈った。


(18)元符元年(1098)三月、文及甫を同文館の獄に下した。

及甫は彦博の子供である。そのむかし劉摯は及甫を非難した。また及甫の父の彦博にも三省の長官にしてはならぬと発言し、ただの平章事に止めたことがあった。彦博が致仕すると、及甫も権侍郎から修撰として地方に出された。及甫が父母の喪を終えようというころ、まだ摯と呂大防が国政を執っていた。このため及甫は京官を得られぬのではと恐れ、恕に手紙を書いた。――「翌月には喪があけますが、朝廷にもどれるかは不明です。強き者に対する嫉妬や憎悪は深く、その一味は実に多くおります。司馬昭の心は道行く人の知るところ。さらに粉昆を用いて志を遂げようとしています。一味の者共は朝廷に乱れ立ち、きっと眇身(8)を殺そうとしているのです。寒々しいばかりです。」文中、司馬昭は呂大防が長らく一人で国政を執っていたことを指す。また粉昆は、世に駙馬都尉を粉侯と呼ぶが、韓嘉彦が帝(神宗)の娘を妻としていたので、その兄の忠彦を粉昆(9)と呼んだのである。恕は手紙を蔡確の弟の碩に見せた。

ここに至り、恕は確の子供の渭に「摯らは父(確)を罠に嵌め、大逆不道を画策し、宗廟社稷を危機に陥れようとした」と訴えさせ、及甫の手紙を証拠に出させた。章惇と蔡卞はこれを利用し、摯と梁燾・王巌叟らを殺すべく、摯に皇帝廃立の心があったと主張した。このため同文館に獄を置き、蔡京と安惇に調査させたが、その尋問は及甫にまで及んだ。及甫は「父の彦博は摯を司馬昭と言っていた。粉は王巌叟が面白なことを指す。昆は梁燾の字が況之を指す。況は兄に字が近いから言ったのだ」と嘘をついた。

京と惇はあらゆる方法で元祐諸人を一族連座の罪に陥れようとし、「劉摯らは大逆不道を画策しておりました。死刑に処してもなお足りません。これを処罰しなければ、天下に申し開きができません」と訴えた。帝は「元祐の諸人は本当にそんなことを考えていたのか」と疑問を挟んだが、京と惇は「心に思っていたのです。まだ形となって現れなかっただけのこと」と答えた。(10)

たまたま劉摯と梁燾が貶地先で死んだので、京らの意見は実施されなかった。詔を下し、摯と燾の子孫を嶺南に拘束し、王巌叟と朱光庭の諸子を勒停にした。

蔡京は執政の椅子を狙い、事件を調査しては必ず元祐の諸賢を冤罪に陥れようとした。有罪は決まったが、曾布は京を嫌い、こっそりと上にこう告げた。――「〔京の弟の〕蔡卞は執政です。兄弟二人して執政にしてはなりません」と。このため京は翰林学士承旨になるに止まった。京と布はこれ以後対立するようになった。

章惇と蔡卞は元祐諸臣の再起を恐れ、邢恕らと日夜謀議をめぐらせていた。さらに内侍の郝隨と手を結び、罪をでっち上げ、宣仁は帝(哲宗)の廃立を画策していたと主張した。王珪を降格し、また同文館の獄を起こし、さらに「司馬光、劉摯、梁燾、呂大防らは宣仁后の内侍陳衍と結び、帝の廃立を画策していた」と虚偽の弾劾を行った。

当時、陳衍は既に処罰され、朱崖に配流されていた。内侍の張士良はかつて衍とともに宣仁后の内侍だった。郴州から召還されると、蔡京と安惇は士良を取り調べ、証拠を捏造しようとした。

京らは鼎、鑊(かま)、刀や鋸を士良の前に並べてこう言った。――「白状すればすぐもとの職にもどしてやる。いわなければ死刑だ。」士良は天を仰いで涙し、「太皇太后を偽ることはできない。天地神祇は欺けない。殺してくだされ。」

京らは激しい拷問を加えたが白状させられなかった。そこで「衍は両宮を疎遠にし、神宗の重用していた内侍の劉瑗らを宮廷から追い出し、人主の腹心羽翼を刈り取り、大逆不道の行いがありました。死刑にしていただきたい」と訴えた。帝はこれに心を惑わされた。

ここに至り、惇と卞はみずから詔を作り、宣仁を廃して庶民に降すよう求めた。皇太后は就寝まぎわであったが、これを聞いて急ぎ帝のもとに駆けつけた。――「私は毎日〔太后の〕崇慶殿に侍っておりましたし、陛下もそこにおられましたが、このような言葉をいつ仰ったのでしょう。どうしても帝がそうなさるおつもりなら、もはや私には関わり合いのないことです。」帝は真実を悟り、惇と卞の意見書を蝋燭にくべて焼いてしまった。

ところが郝隨がこれを見ており、こっそり惇と卞に伝えた。翌日、惇と卞はまた書状を携え、必ず実施してほしいと訴えた。帝は「諸君は私を英宗廟に入れたくないのか」と怒り、二人の意見書を地に投げ捨てた。事件はこうして終わった。


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(1)仮に皇太子とともに朝政を執ること。
(2)死んで間もないという意味。
(3)皇帝即位などの大礼には、高官や外戚に対して、身分や就職が恩典として与えられた。以下はその恩典の制限を主張したもの。
(4)土地神を祭るときに備えられる美食。肉類。
(5)章獻明肅太后は仁宗初期に垂簾聴政を行ったが、死後にその政治に対する批判が起こった。仁宗はこれに対し、垂簾聴政時期の政治批判を禁止する詔を下し、政界の混乱を避けた。
(6)過去の功績によって昇格すること。
(7)過去の過失によって降格すること。
(8)ここでは及甫を指す。下注(10)を参照。
(9)粉侯の昆。昆は兄の謂。つまり韓嘉彦の兄の謂いで、忠彦を指す。
(10)この一段落、意味をなさない。文及甫書簡の「眇身」は、本来は文及甫自身を指す言葉であったが、同文館の獄では哲宗を指す言葉と解釈された。従って、「眇身を殺す」は哲宗暗殺を意味し、大逆不同を画策していたことになる。



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