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洛蜀党議


(01)哲宗の元祐元年(1086)三月辛巳(二十四日)、程頤を崇政殿説書とした。

治平・元豊の時代、大臣はしばしば頤を朝廷に推薦したが、頤は仕官しなかった。ここに至り、司馬光と呂公著は頤の卓行について意見書を提出した。

河南の処士程頤は、学に務め古を好み、貧に安んじ節を守り、言葉は必らず真心から発し、動いては礼儀に適っております。年は五十を越えながら、仕官を求めておりません。真に儒者の高遠を備え、古代聖王の隠者と申せます。特に抜擢され、士大夫の手本となさいますように。

そこで西京国子監教授とした。しかし頤は固辞したので、すぐに秘書省校書郎とした。頤が帝に謁見すると、崇政殿説書に改められた。そこで頤は意見書を提出した。

〔優れた人物に囲まれておれば〕習慣と智慧とは習熟し、化育と心とは完備します。現在、民間にあってすら、子弟を善導するものは、必らず徳の高い人物を招いて一緒におらせ、子弟の本性を育成しております。ましてや陛下はお若う御座います。陛下の優れた気性は天性の分を得ておられますが、それでも陛下の徳性を養うに当たっては、万全を期す必要がありましょう。そもそも一日の中で、優れた士大夫に接する時間が多く、宦官や宮妾に親しむ時間が少なければ、気質は変化し、自然に徳性は成就します。なにとぞ名儒を選んで経筵に侍らせ、講義終了の後も宿直に留めて陛下の側に置いていただきたい。そうすれば陛下に僅かの過失があっても、そのつど申し上げることができます。久しく歳月を積まれたなら、必らずや聖徳を成就し得ましょう。

頤は甚だ厳粛な面持ちで進講(経書の講義)を行い、講義に続いて諫言も行った。

帝が宮中の盥(たらい)で蟻を避けたという話しを聞き知った。

頤、「本当にあったのでしょうか。」

帝、「うん。傷つけないようにと思ったんだ。」

頤、「その御心を四海に推し及ぼされることが、帝王の務むべき道に御座います。」

また帝が手すりから身を乗り出し、柳の枝を折ったことがあった。頤は厳しい顔をすると、「春は全ての物が調和し、万物が生み出される気節です。軽々しく枝を折り、天地の和気を損なってはなりません」と言った。帝はこれに納得した。


(02)九月丁卯(十二日)、蘇軾を翰林院学士とした。

軾は登州から召還され、十ヶ月の間に三たび要職を遷り、すぐに侍読を兼ねた。経筵で進読(歴史書の講読)を行ったが、治乱興亡・邪正得失の類に話しが及ぶと、いつも反復して言い聞かせ、帝の啓発に努めた。いつも禁中に宿直していたが、あるとき〔帝と太后のいる〕便殿に呼び出された。

太后、「あなたは去年どんな官にありましたか。」

軾、「常州団練副使でした。」

太后、「今はどうです。」

軾、「罪を翰林学士に備えております。」

太后、「なぜにわかにそのような地位にのぼったか、おわかりか。」

軾、「太皇太后と皇帝陛下の時節にめぐりあったからに御座います。」

太后、「違います。」

軾、「大臣の推薦があったのでしょうか。」

太后、「それも違います。」

軾は驚いて、「私にはなんの功績もありませんが、不正な方途で立身出世を望んだことはありません。」

太后、「これは先帝の遺志なのです。先帝はあなたの文章を読まれると、いつも感嘆して『奇才、奇才』と仰っておられました。ただあなたを抜擢する時間がなかっただけなのです。」

軾は思いもよらぬ言葉に涙し、声を失った。太后と帝もまた涙を流し、側近もみな感極まって涙した。ほどなく太后は軾に座席と茶を与えた。そして御簾を巻き上げ、金蓮燭(1)をわたし、学士院に送り帰した。

軾はその文筆を奮って時政を批正した。畢仲游は手紙でこれを戒めたが、軾は従うことができなかった。


(03)二年(1087)三月、程頤は崇政殿もしくは延和殿での講読を願い出て、次のような意見書を提出した。

私は以前こう申しました。「邇英閣は暑くなりましたので、崇政殿か延和殿〔の涼しい場所〕で講読を行っていただきたい」と。聞く所によりますと、給事中顧臨は延和殿で講読してはならぬと申したと言います。臨の心算は、講官が尊君に講義をするとき、殿上に着座してはならぬというに過ぎません。(2)

今は遠い時代のことを例とするに及びません。ただ本朝の故事を例として申し上げます。かつて太祖は王昭素を召して『周易』を講義させられ、真宗は崔頤正に『尚書』を、邢昺に『春秋』を講義させられました。これらはいずれも殿上での講義でしたが、当時はなお坐講(3)に御座いました。講義が立講になりましたのは、明肅太后の意向より始まったものに御座います。

坐講なるものは、祖宗が儒者を尊び道を重んじた美徳に御座いますれば、ただ子孫がこれを守るべきであるばかりか、万世の帝王も守らねばならぬものに御座います。昨今、世の人々は君を尊ぶべき言葉を口にはしても、君を尊ぶ方法を知りません。人君は、その道徳が高ければ高いほど、ますます尊い存在となります。権勢や地位の如き、人君の崇高は既に極り、尊厳は既に至高にあるのですから、この上に加え得べきものなどありません。

さらに「天下の重責はただ宰相と経筵とのみにございます。天下の治乱は宰相に係わり、君徳の成就は経筵に責任が御座います」と発言した。


(04)八月辛巳(二日)、崇政殿説書程頤を罷免した。

頤は経筵にいたとき、往々にして古礼(古代の礼儀作法)を用いた。蘇軾は人情にそぐわないと批判した。また嫉みの心もあり、いつも悪い冗談を言って頤をからかっていた。

司馬光が死んだとき、ちょうど朝廷で慶礼があった。そのため慶例が終わってから、光の弔問に向かうことになった。しかし程頤は反対して、「『哭した日には歌わぬ』とある」と言った。ところが「『歌えば哭さぬ』と言ったわけではなかろう」と言う人がいた。そこで蘇軾は「そんなものは田舎者の叔孫通が作った礼だろう(4)」と言った。こうして二人に確執が生まれた。

軾は館職の試験問題を出したが(5)、そこに「現在、朝廷が仁宗の忠孝に倣えば、百官有司は仕事に励まず、阿諛迎合に終始する恐れがある。神宗の励精に倣えば、監司守令は朝廷の意図を理解せず、酷薄に流れる恐れがある」という言葉があった。そこで頤の門人だった右司諫の賈易や左正言の朱光庭などは、軾の私見問題は朝廷を批判したものだと弾劾し、軾もそれを受けて地方に出たいと願い出た。殿中侍御史の呂陶は「台諫は至公でなければならない。事件にかこつけて私怨に報いてはなりません」と発言した(6)

右司諫の王覿も「軾の文辞は軽重の体を失したに過ぎない。〔二人の意見の〕異同〔の理由〕を考え、深く〔朱光庭と呂陶との発言をめぐる〕嫌疑を明白にすれば、〔洛党と蜀党の〕両路はついに分裂し、党論はますます熾烈となりましょう。そもそも学士(蘇軾)の文辞に失当があったのは小さなことですが、士大夫に朋党の名があるのは大問題です」と発言した。

太后はこの意見に賛意を示し、朝廷でこう宣諭した。――「軾の文意を詳細に検討したところ、今日の百官・有司・監司・守令を指して批判したものであり、祖宗を批判したものではない」と。

范純仁もまた軾の無罪を主張したため、ついに軾を不問に付した。

当時、帝は病気で伏せっていた。頤は宰臣の呂公著を詣で、「帝が殿にお出でにならぬ。理由を御存知か」と問い、〔公著が知らぬと答えると〕さらに「二聖(帝と太后)が朝に臨まれる以上、帝が殿に御さぬとき、太后一人が殿に坐すべきではない。そもそも人主に病がありならが、大臣が知らぬなどは、それでよいのか」と発言した。明日、宰臣は頤の言葉を受けて帝の病を問うた。これ以来、大臣にも頤を不快に思うものが多く現れた。

ここに至り、御史中丞の胡宗愈、給事中の顧臨は意見書を何度も提出し、「頤に経筵を任せてはならない」と強く批判した。また諫議大夫の孔文仲も意見書を提出し、「頤は汚らわしく偏屈な人間であり、もともと郷里に称賛があったわけでもありません。経筵で講義をしては、僭越にして本分を忘れております。またあらゆる貴顕の臣僚に目通りを願い、すべての台諫と関係を持っております(7)。口を開いては逆乱の言葉を吐き、恩と讐とに報酬せんとしております。市井のものは頤を五鬼の首魁(8)と考えております。請い願いますには、頤を郷里に放逐し、正しく刑罰を示していただきたい。」

そこで頤を罷免して管勾西京国子監とした。

当時、呂公著が一人で国を取り仕切り、多くの賢者が朝廷にいた。しかし譲り合うことができず、ついに洛党・蜀党・朔党の語が生まれるに至った。

洛党とは頤を首領とし、朱光庭・賈易を輔翼(たすけ)とした。蜀党は蘇軾を首領とし、呂陶などを輔翼とした。朔党は劉摯・梁燾・王巌叟・劉安世などを首領とし、輔翼は最も多かった。

当時、煕豊(神宗の煕寧と元豊)時代の大臣らは地方に退けられていたが、怨みは骨髄に入り、ひそかに〔元祐諸賢の〕隙を狙っていた。諸賢はそれを知らず、各々党派を作り、たがいに批判しあっていた。ただ呂大防のみは秦の人で、朴直にして党派を持たなかった。また范祖禹も司馬光を師とし、党派を立てなかった。

ほどなく帝はこれを耳にし、胡宗愈に意見を求めた。

宗愈、「君子が小人を指さして『奸』と言えば、小人は君子を指さして『党』と言います。陛下は中立の士を選抜なされば、党禍(党派の争いによる災禍)は息みましょう。」そこで『君子無党論』を献上した。


(05)冬十月、右司諫の賈易を左遷した。

当時、程頤と蘇軾は悪みあい、その党派も批判しあっていた。易は呂陶が軾兄弟に与している弾劾したのだが、そこに文彦博と范純仁を誹謗した言葉があった。太后は怒って、易を厳罰に処そうとした。

呂公著は「易の発言も実直。ただ大臣の批判に言葉過ぎただけのこと」と言い、易を罷免して懐州知事とした。公著は退くと、同僚にこう語った。――「諫官の発言の当否は問題でない。帝はまだお若い。後日、帝の心を誘惑する者が現れたとき、ただ左右の争臣(台諫)だけが頼りだ。人主に諫言を軽蔑させてはならぬ。」一同みな感服した。


(06)三年(1088)三月、孔文仲が死んだ。

呂公著の評。文仲はもともと気性が強く、正直者で通っていた。しかし世態人情に暗かいところがあった。だから諫議大夫になると、浮薄の輩に利用され、善良な人間を批判してしまった。晩年、欺かれたことを知り、憤慨して血を吐き、病が治らず死んでしまった。

公著の言葉は、文仲の程頤弾劾を指して言ったものである。


(07)胡宗愈を尚書右丞とした。

諫議大夫の王覿は、宗愈の『君子無党論』献上を憎悪し、「宗愈を執政にしてはならない」と意見書を提出した。太后は激怒した。范純仁、文彦博、呂公著らが簾前で弁護したが、怒りは解けなかった。

純仁、「朝廷の官僚に党などありません。しかし善悪邪正は類をもって分かれるものです。彦博と公著の両人は歴代皇帝に仕えた旧臣です。付和雷同して帝を欺くことなど決してありません。慶暦の時代、私の亡父と韓琦、富弼はともに執政となり、各々の知りたる人間を推挙しました。しかし当時朋党と噂され、三人は相継いで朝廷を去りました。噂を捏造した者はたがいに喜びあい、『一網打尽だ』と言ったとか。これはまだ遠いむかしの事ではありません。願わくは陛下はこれを戒めとしていただきたい。」

そこで前世の朋党の禍を極言し、欧陽脩の『朋党論』をあわせて献上した。しかし結局は覿を朝廷から出して潤州知事とし、宗愈はもとのまま執政の位に留まった。


(08)五年(1090)春正月、程頤は父の喪に服すため、官を去った。また台諫が「賈易は頤に迎合している」と非難したので、再び易を広徳軍知事に左遷した。


(09)六年(1091)二月、蘇轍を尚書右丞とした。

轍の除命が下ると、右司諫の楊康国は意見書を提出した。

轍の兄弟は、文学の才がないとは言えませんが、正しいかというと、必ずしもそうとは申せません。その学問は張儀や蘇秦のそれ、文章は奔放、好んで縦横家の説を作り、安静にしておれません。陛下におかれましては、もし蘇轍の文学を喜び、これを用いて疑わないようでしたら、それはちょうどまた一人の王安石を用いることになりましょう。轍は文才を鼻にかけ、剛腹偏屈で、人に勝つことを好む人間、安石とまったく同じです。

聞き入れられなかった。


(10)六月、翰林院学士承旨の蘇軾が罷めた。

軾が杭州から召還されると、すぐに侍御史の賈易が弾劾した。――軾は元豊末年に揚州いたが、先帝崩御を聞いて詩を作った。また呂恵卿の制書を起草しては、先帝を誹謗し、人臣としての礼節がなかった等々。

御史中丞の張君錫も易に続いて軾を批判した。

太后は怒り、易を罷免して宣州知事とし、君錫を鄭州知事とした。呂大防が軾も二人にあわせて罷免すべきだと訴えたので、軾を潁州知事とした。すぐに揚州知事に改めた。


(11)七年(1092)三月、程頤の服喪が終わった。三省(宰相府)は頤に館職を授けようとした。しかし判検院の蘇轍が進みて出て、「頤が来れば朝廷は騒がしくなるでしょう」と発言した。太后はこれを聞き入れた。

范祖禹、「程頤の経術と行義は、天下の人々の知るところです。〔頤を推薦した〕司馬光や呂公著が帝を欺くでしょうか。ただ頤は田舎者なので、まだ朝廷の作法に慣れていないところはあります。しかし頤を批判する人々の如く、なにか含むところがあってのことではありません。請い願いますには、頤を経筵に召されませ。必らずや陛下の聖明を補うところがありましょう。」

頤に直秘閣を授け、西監判事とした。頤は再び辞表を提出した。御史の董敦逸は頤の辞表から怨望と受け取れる文字を選び出した(9)。そこで改めて管勾崇福宮を授けた。


(12)九月、蘇軾を召還して兵部尚書兼侍読とした。

軾は揚州から召還され、兵部尚書兼侍読となった。しかしすぐに礼部に遷り、端明と侍読の二つの学士を兼ねた(10)

御史董敦逸と黄慶基は「軾は中書舎人のとき、呂恵卿の制書を起草し、先帝を誹謗しました。また弟の轍と表裏し、朝廷の政治を攪乱しております」と訴えた。

呂大防、「先帝は中国に富と力を与え、西夷に鞭打たれました。しかし当時の官僚のやり過ぎにより、当を失したところがありました。太皇太后と皇帝が臨御され、民の希望に従い、必要に応じた改善をなされました。これは道理として当然のことです。近年、言官(御史と諫議大夫)は〔先帝の誹謗に託けて〕士大夫を傷つけるばかりか、朝廷をも動揺させようとしております。意図するところ極めて不善です。」

轍も兄のために弁護して、「兄の手になる恵卿の謫詞の中、先帝に言及あるのは『始めは帝堯の仁でしばらく伯鯀を試し、最後は孔子の聖とて宰予を信じなかった』の部分です。当然ながら先帝を誹謗したものではありません。」

太后、「先帝は過去を悔やみ、涙されるに至った。」

大防、「それは帝の一時の過失。本意では御座いません。」

太后、「これは官家(皇帝)がよくよく知っておかねばならぬことだ。」

こうして敦逸と慶基を罷免し、各々湖北路転運判官と福建路転運判官にした。


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(1)金で飾った蓮華形の灯籠。
(2)本段落は意味をなさない。程頤と顧臨の論争は、経筵時に坐講するか立講するかをめぐって争ったものだが、『宋史紀事本末』は事件の推移を省略し過ぎており、このままでは正確な意味は分からない。ここでは『宋史紀事本末』の手法にならって不明なままに翻訳しておく。
(3)坐講は講読官が坐して講読すること、立講は立って講読すること。坐講立講の是非は北宋で二度議論があった。程頤の議論は二度目の議論。
(4)有名な下りだが、資料によっては「蘇軾は『程頤は田舎者の叔孫通だ』と笑った」ことになっている。「田舎者」の原文は「狂死市叔孫通」で、正確な翻訳ではない。「狂死市」は呂陶の言葉らしいが、『孫公談圃』 や『二程外書』は「鄙俚」や「山野」の表現を充てている。土田健次郎『道学の形成』(創文社、2002年)の526頁注(14)に考察があり、そこでは「執念深く粗野な叔孫通」なる語を充てている。
(5)館職に預かるには試験に合格する必要がある。
(6)『宋史紀事本末』の書き方では呂陶は公正中立の人に見えるが、呂陶は蜀の人で、蘇軾の肩を持った人物である。この発言は蘇軾を弁護するため、賈易や朱光庭を批判したものである。
(7)職分を守らず、権力者と台諫に関係を持つのは、北宋では禁忌中の禁忌とされる。
(8)五鬼は宋代の政界用語で、五人の悪逆者のこと。既に本書でも丁謂之姦に登場した。
(9)程頤の辞表を断章取義し、恣意的に読んだという意味。程頤の辞表に深い意味はなかったが、それを敢えて朝廷に対して怨望ある如くに読み、程頤を陥れた。この時期の政争で相手を陥れるためによく用いられる手法。
(10)端明殿学士と侍読学士を兼ねたという意味。



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