HOME目次孟后廃復

紹述


(01)哲宗の元祐八年(1093)冬十月、帝は始めて政務を執った。

当時、太后は既に崩じ、朝廷内外に動揺が生じ、人々は様子見を決め込み、地位あるものも〔今後の進展を〕畏れ、敢えてなにも言わなかった。翰林学士の范祖禹は小人が隙に乗じて政事を害するのではと考え、意見書を提出した。

陛下におかれましては、このたびはじめて庶政を総攬し、群臣を引見されることになりました。今日こそ国家隆替の本、社稷安危の機、生民休戚の端、君子小人身体消長の際、天命人心去就離合の時にございます。慎重に慎重を期さねばなりません。

先后(宣仁太后)は社稷宗廟に大功があり、生きとし生けるものに大徳があったこと、九年の間、終始等しうございました。しかしながら小人どもの怨嗟もまた少なくありません。必ずや「先后は先帝の政治を改めた、先帝の臣僚を追放した」と言い、〔陛下と先后の〕離間を目論むでしょう。この点は見極める必要があります。

先后は人々の心の変化に応じて〔先帝の法度を〕改められました。法度を改める以上、法度を作った人々に罪があれば、その者は退けなければなりません。しかしそれもまた世の人々の言葉に従って放逐したのです。放逐された人々は、上は先帝に負き、下は万民に負いた人々。天下がこれを怨み、取り除こうとした人々です。放逐と否とに少しの私怨もなかったのです。

陛下におかれましては、是非を弁別し、きつく邪説を拒んでいただきたい。もし奸言でもって陛下の聡明を惑わすものがおれば、処罰していただきたい。一罰百戒が成れば、天下も平穏になりましょう。小人どもは既に先帝を誤らせ、さらには陛下をも誤らせようとしております。この世の中は、もはや小人の破壊に堪えられる状態にないのです。

当時、蘇軾も意見書を準備していたのだ。しかし祖禹の意見書を見ると、「経世の文である」と言い、ついに連名で祖禹の意見書を提出し、自分の草案は破棄した。

意見書は受理されたが、聞き入れられなかった。

同じころ、内侍の劉瑗、楽士宣等十名を復職させる命令が出た。

蘇轍(1)は「陛下が政務を採られて以来、まだ一人の賢臣も尋ねられず、却ってまず召し出されたのは内侍でした。世の人々は必ずやこう思うでしょう。――陛下は近習に私している、と。いけません」と諫言したが、聞き入れられなかった。侍講豊稷もまた同じことを指摘し、朝廷を出され、穎州知事となった。

范祖禹は再び謁見を願い出た。

煕寧のはじめ、王安石と呂恵卿は新法を作り、悉く祖宗の政を変じ、多くの小人を引き込み、国を誤らせました。このため旧来の臣下は捨て置かれて用いられず、忠義正直の士は相継いで遠ざけられました。また兵を用いて辺境を開き、怨みを外夷に結びました。このため世の人々は憂い苦しみ、百姓は逃げ出しました。幸いにして先帝は事態をお悟りになり、二人を追い払われましたが、〔二人によって〕引き込まれた小人は天下に充満し、もはや取り除くことはできませんでした。

蔡確は大獄を何度も起し、王韶は煕河路を奪い取り、章惇は五渓を切り開き、沈起は交管に混乱をまき散らし、沈括・徐禧・兪充・种諤は西夏と戦争を開き、兵民の死傷者は二十万を下りませんでした。先帝は朝に臨んで悔悟され、「朝廷はこの罪から逃れられぬ」と仰いました。

呉居厚は鉄冶の法を京東に行い、王子京は茶法を福建に行い、蹇周輔は塩法を江西に行い、李稷・陸師閔は茶法と市易の法を西川に行い、劉定は保甲を河北に行いましたが、このため人民は嘆き怨み、徒党を組んで叛乱を企てるほどでした。幸いに陛下と先后とが世の乱れを助け起こし、天下の民は再び生きる道を手に入れたのです。

ところが最近になって、先后に退けられた人々は、朝廷の動揺を伺い、不埒にもこう言うのです。――陛下はきっと先后の法度改修に不満があるはずだ、と。もし彼らが陛下のお側に伺候すれば、必ずや奸言を進めることでしょう。万一にも彼らが任用されたなら、国家はこれ以後衰退し、もはや復興も覚束ない状態に立ち至るのではないかと恐れる次第です。

また次のようにも言った。

漢は天下を保有すること四百年、唐は天下を保有すること三百年、その滅亡の原因が宦官にあったこと、軌を一にしております。そもそも乱亡の国と同じことをしながら、未だ滅亡しなかった国はありません。漢は元帝が石顕に政治を任せて以後、蕭望之・周堪を殺し、劉向らを退けました。漢の基礎は元帝によって破壊されたのです。唐は明皇が高力士に章奏を処理させて以後、宦官の勢力が熾烈になり、李林甫や楊国忠は力士にすがって栄達しました。唐の災禍は開元に原因があったのです。

煕寧元豊の間、李憲・王中正・宋用臣といった輩は、有事に託けて軍権を統べ、権力を擅ままにしました。中正は四路〔の軍権〕を兼任し、口頭で兵を集め、〔その権力には〕州郡の官僚ですら逆らうことができませんでした。〔そして中正の指揮した〕師団は凍餒し、最も多く死者を出したのです。憲は再挙の策を主張し、永楽城の壊滅的敗北を招きました。用臣は土木工事を興し、民に休息を与えず、市井にあるささやかな利益を貪り、国に怨みを集めました。この三人は誅殺しても、なお天下に謝すに充分ではありませ。憲は既に死にましたが、中正と用臣はまだ生きております。近ごろ陛下は内臣十人を召されましたが、その中に憲と中正の子がおりました。二人が宮廷に入ったからには、必ずや中正や用臣も任用されましょう。これこそ私が敢えて陛下に諫言申し上げる理由です。

帝は「召した内臣のことだが、私は彼らを用いるつもりはない。ただ各々に差遣を与えようと思っただけだ」と言ったため、祖禹は引き下がった。


(02)十二月、端明殿侍読学士(2)の蘇軾が地方官を求めた。そこで定州知事として地方に出した。

当時、国政は動揺していた。軾は宮中で発言することができなかった。そこで任地に出発してから意見書を提出した。

天下の治乱は下情の通塞に懸っております。統治が完璧な時代は賤者の情ですらおのずと上に通じますが、大乱の世は近臣の情ですら君に届きません。

陛下は天下に臨まれること九年、執政台諫を任命される以外、群臣と接見なさることはありませんでした。今こそ陛下みずから国政を執られる初めのときに当たります。ならば目下の急務は、下情に通ずること、そして下情を塞ぐものを取り除くことあるはずです。

昨日まで私は帷幄に侍っておりましたが、辺地の任を授けられたとき、君に見えることすらできず、都を後にしなければなりませんでした。ましてや陛下から遠く離れた身分の低い官僚であれば、陛下に訴うべきことがあっても、難しいでしょう。しかし私は陛下に謁見できないことを理由に不忠を働くものではありません。

古代の聖人は何かしようと思えば、必らずまず暗がりから明るいところを見、静かな状態から動きのあるところを見ました。こうすれば万物の真実の姿がはっきりと分かるからです。陛下の才智は常人を絶し、お年もまだ若うございます。私は願って止みません。――陛下が虚心もて道理に随い、みずから作為を起こさず、諸般の利害と群臣の邪正を黙って観察し、三年の期日によって実体を把握して後、諸般の求めに応じて動いていただきたい。こうすれば動かれた後も、天下に限りなく、陛下に悔いも残りません。ならば陛下が作為をお考えの場合、拙速をこそ憂うべきで、少々の遅れは問題にならぬこと明白です。

私は己の栄達のみを考える臣僚が陛下に改変を急かすのを恐れ、この意見書を提出いたしました。僭越ながら、陛下が社稷宗廟の福徳を御心に止められますことを願い奉る次第です。さすれば天下幸甚。


(03)呂大防を山陵使とした。

〔大防が〕国門を出た途端、まず楊畏が大防を裏切り、「神宗は法政を改変し、万世に恵みを垂れた賜いました。乞い願いますには、神宗の法を研究し、先帝の事業を継続していただきたい」と意見書を提出した。

皇帝はすぐに畏を読み出し、先朝(神宗朝)の臣僚で誰を用いればよいか意見を求めた。そこで畏は章惇・安燾・呂恵卿・鄧潤甫・王安石(3)・李清臣などの業績を列挙し、その各々に評価を施した。さらに神宗が法度を作った意義と王安石の学術の美点を進言し、章惇を召還して宰相にするよう求めた。皇帝は深く納得し、ついに章惇を復職させて資政殿学士とし、呂恵卿を中大夫とし、王中正に再び団練使を与えた。

給事中の呉安詩は惇の辞令書を書かず、中書舎人の姚勔は恵卿と中正との誥詞を書かなかったが、すべて聞き入れられなかった。劉安世は「章惇らを任用してはならぬ」と極諫した。このため朝廷を出され、成徳軍知事に左遷された。


(04)紹聖元年(1094)二月丁未(五日)、李清臣を中書侍郎とし、鄧潤甫を尚書右丞とした。

潤甫は最初に「武王はよく文王の声望を広め、成王はよく文武の道を嗣いだ」と発言し、紹述(神宗の政治を継承すること)の端を開いた。だからこの辞令が下ったのである。

宮中の命令で大臣が任用され、侍従や台諫も審議を経ないことを慮った范純仁は帝に進言した。

この陛下親政の初め、四方の人々は目を凝らして〔陛下の所為を〕観ておりますれば、天下の治乱は実にここに繋っております。舜は皐陶を推薦し、湯は伊尹を推薦し、仁徳なき者を遠ざけました。古代の如くは振る舞えずとも、天下の英才を選りすぐらねばなりません。

帝は聞き入れなかった。


(05)三月、集英殿で進士を試問した。

李清臣の試験題目。――「詞賦の選を復活しても、士大夫が学業に励むことはなかった。常平の官を止めても、農民が富むことはなかった。差役と募役の説が入り乱れ、役法は破綻してしまった。東流と北流に異論が起こり、黄河の氾濫は激しくなった。土地を賜い遠方を手懐づけると言いながら、姜夷の患いは止まなかった。増益を抑えて民に便宜を図ると言いながら、商路は停滞してしまった。そもそも優れた施策は因襲し、さもなくば改訂するものである。尊ぶべきはただ〔時弊に〕適合することのみである。聖人は一つの施策に固執しはしない。」清臣の意図するところは、元祐時代の政治を排除することにあった。

蘇轍は諫言して言った。

伏して策題を拝見致しますと、近年の政治に対する批判、煕寧元豊の紹述に意図があるようです。

そもそも先帝の施策の中、百世と雖も改めてはならぬものがあります。元祐以来、上下を挙げてこれを実施し、廃止したことはありませんでした。しかし物事に失当はつきものです。父が前に作り、子が後で救う。前後各々が助け合う。これこそ聖人の孝行です。

漢の武帝は、外にあっては四方の夷狄と事を起こし、内にあっては宮室を造営し、朝廷の財政は破綻しました。そのため塩鉄・榷酤・均輸の法を作りましたが、民はその命に堪えられず、まさに大乱の起こる寸前でした。〔武帝の後を継いだ〕昭帝は、霍光に政治を委せ、苛酷な法令を取り除き、ようやく漢室は落ち着きました。光武と顕宗は監視政治を重んじ、占いで物事を判断し、人々は不安を懐きました。章帝は深くその過ちに鑑み、仁徳あふれる政治を行い、後世に称讃されました。

本朝におきましても、真宗の天書は、章献が政務を執ったとき、大臣の議論を支持し、御陵に奉納されました。英宗の濮議は、朝廷が騒然となったこと数年に及びましたが、先帝(神宗)が止められ、ついに安静を取り戻しました。

そもそも漢の昭帝・章帝の賢と我が仁宗・神宗の聖をもって、孝敬に軽薄であり得たでしょうか、安易に変化を求めたでしょうか。もし陛下が軽々しく九年も実施した政治を変え、数年来棄てられた人間を任用し、私憤を抱いて先帝に託けるようなことがあれば、国の重大事は失われましょう。

帝は意見書を見ると激怒し、「先帝を漢の武帝などと比較できるか。」

范純仁は落ち着き払って、「武帝は雄才大略、史書にも批判の言葉はありません。轍が先帝と比較したのは、誹謗ではありません。陛下はみずから政務を執られたばかり。大臣を進退すること、奴隷を叱責するようであってはなりません。」

右丞の鄧潤甫は順番を越えて口を挟み、「先帝の法度は司馬光と蘇轍のために破壊し尽くされました。」

純仁、「違います。もともと法に害はなかったのです。しかし弊害が生ずれば、改めなければなりません。」

帝、「人は秦の始皇、漢の武帝と言っているが。」

純仁、「轍が論じたのは事と時とでございます。人ではありません。」

帝は純仁の言葉を受け、少しく気分が和らいだ。

轍は平素純仁と意見を異にすることが多かった。しかしこれ以後すっかり感服し、「あなたは仏地位の人ですね」と言った。

轍はついに職を落とされ、汝州知事となった。

進士が答案を執筆したところ、審査官は元祐を支持したものを上位に置いたが、礼部侍郎の楊畏は再審してすべて下位に降ろし、煕寧元豊を支持したものを上位に置いた。これ以後、紹述の論が大いに興り、ついに国是が改まった。


(06)曾布を翰林学士承旨とした。

これ以前、司馬光は布に役法改訂を諭したが、布は辞退して、「免役のことは、法令の微細に至るまで、すべて私の手に成ったものです。急に自分で改訂を施すのは、道義的に無理でしょう。」結局、戸部尚書として地方に出て、太原府知事となった。

ここに至り、江寧府に異動になり、上京した。朝廷に引き留められ、翰林学士承旨を授けられた。


(07)夏四月、張商英を右正言とした。

帝が即位したばかりのころ、民に不便のある新法を若干改訂した。その当時商英は開封府推官だったが、意見書を提出し、「三年の間は父の道を改めない。これが孝というものです。先帝の陵土もまだ乾かぬ間に、急ぎ〔先帝の法の〕改訂を議論しては、孝と申せません」と言った。またしばしば大臣を訪ねては栄達を求め、蘇軾に諂って御史台の椅子を求めた。呂公著はこれを聞いて不快感を示し、朝廷から出し、河東提刑とした。

ここに至り、商英は召還され、右正言となった。商英は長らく地方におり、元祐の大臣が自分を任用しないことを怨みに思っていた。そのため力を尽くして元祐の大臣を糾弾し、意見書を提出した。

神宗の盛徳大業は古今に絶しております。しかるに司馬光、呂公著、劉摯、呂大防らは一味を朝廷に引き入れ、妄りに誹謗を加えました。そもそも〔彼らの用いた〕詳定局の建言、中書の覆審、戸部の派遣、言官の論列、詞臣の誥命は、どれもこれも誹謗中傷や野卑失笑ばかりです。〔彼らによって〕陛下の羽翼となる人々は内側から除き去られ、股肱の臣下もまた外に駆逐され、天下は極めて危うい情況に置かれておりました。今日、天下の帰趨は明白になりましたが、まだ彼らへの賞罰は正されておりません。官庁に命令を下し、彼らの意見書を取りまとめ、私共に検査報告させていただきたい。乞い願わくは、陛下が大臣と可否を斟酌されますことを。

さらに商英は「司馬光と文彦博は邪悪で国に背いた」と発言し、ついには宣仁太后を呂后や武后(漢の呂太后と唐の則天武公)に比べるまでに至った。

御史台の趙挺之らも、蘇軾の詔書に「民もまた苦しんだ」という文字があり、これは先帝を誹謗したものだと弾劾した。このため軾を英州知事に左遷した。

范純仁は帝を諫めた。

煕寧の法度は、王安石に付会した呂惠卿が建議したもので、先帝の民を愛し平穏を求めた御意志に副わぬものでした。〔宣仁太后の〕垂簾に及び、始めて言者の意見を用い、恵卿には特に厳しい処罰を加えました。今年で既に八年になります。〔現在、垂簾のことを〕批判する者の多くは、恵卿を処罰した時代の御史です。当時彼らは権勢を恐れて陛下に忠言を納れず、今頃このような意見書を出しています。なぜでしょうか。彼らは世の空気を読んでそうしているだけなのです。

皇帝は聞き納れなかった


(08)癸丑(十二日)、白虹が太陽に係った。

曾布は意見書を提出し、先帝の政事に復し、改元によって天意に順うよう求めた。皇帝は布の意見に従い、詔を下し、元祐九年を紹聖元年に改めた。かくして世の人々ははっきり帝意の所在を知った。


(09)翰林学士の范祖禹を罷免した。

当時、皇帝は章惇を宰相にしようとしていた。祖禹は惇の任用に強く反対したので、罷免された。


(10)壬戌(二十一日)、章惇を尚書左僕射兼門下侍郎とした。

当時、帝には煕寧元豊を継承する意志があり、まず惇を宰相とした。惇は専ら紹述(煕寧元豊の継承)を国是とし、一味の蔡卞、林希、黄履、来之邵、張商英、周秩、翟思、上官均を抜擢すると、彼らを大臣や言責を置き、協力して〔元祐諸人に対する〕報復を謀った。

惇が召還されたとき、通判の陳瓘は道すがら人々と惇に拝謁した。惇は瓘の名を聞き、同舟を求めた。惇は当世の務めを尋ねた。

瓘、「天子は貴方を頼りに政治をなさるようです。敢えて伺いますが、まず何をなさるおつもりでしょう。」

惇、「司馬光の邪悪をはっきりさせる必要がある。これ以上の急務はない。」

瓘、「貴方は間違っておられる。そのようなことをすれば天下の声望を失うことになりましょう。」

惇は声を荒げ、「光は先帝の業績を継承せず、その成果を改作し、これほどまでに国を誤らせてしまった。これが邪悪でなくて何だ。」

瓘、「光の心を察せず、行為だけを疑えば、罪とは言えますまい。しかし光を邪悪と名指しし、光の改作の上に改作を加えれば、国を誤らせること益々甚だしい。今日の計としては、ただ朋党を解消し、中道を保持することです。さすれば世の弊害を救えましょう。」さらに「この舟のようなもの。左側に移れば左が重くなり、右側に移れば右が重くなります。どのどちらでも駄目なのです。煕寧が必ずしも全て正しいわけではなく、さりとて元祐が必ずしも全て正しいわけでもありません。」

惇は悦ばなかった。

帝が惇を宰相にすると、范純仁は堅く辞任を求めたので、観文殿大学士として朝廷から出し、穎昌府知事とした。


(11)蔡京を召還し、戸部尚書とした。


(12)林希を中書舎人とした。

章惇はいつも「元祐のはじめ、司馬光が宰相になったとき、蘇軾を用いて制勅を作らせた。だから四方の人心を動かすことができたのだ。どこかにそんな人間はいないだろうか」と言っていた。「林希がふさわしい」と言う人がいた。折しも希は成都に赴任すべく上京していた。惇は希に誥命を書かせ、元祐の諸臣に毒を吐かせるべく、執政の約束をした。希は長らく志しを得なかったため、この申し出を引き受けた。

およそ元祐諸賢に対する左遷の制書は、みな希が書いたものである。その言葉は醜い詆を極め、ついには「老姦が国を擅ままにした」という言葉を用い、ひそかに宣仁太后を糾弾した。制書を読んだ人間はみな憤慨悲嘆した。

ある日、希は制書を書き終えると、筆を地面に投げ捨て、「名節を壊してしまった」と言った。


(13)丁卯(二十六日)、章惇は免役法の再開を求めた。

差役と雇役の両法に対して、専門部署を設け、その是非を検討させていたが、長らく決定しなかった。蔡京は惇に「煕寧の法令を実施すればいい。検討には及びますまい」と言った。章惇はそれを認め、ついに役法が決定した。

これ以前、司馬光は煕寧・元豊の政治を全て改め、雇役を罷めて差役にもどした。しかし役法だけは世の人々に不評だった。ここに至り、京と惇は協力して光を批判し、免役法を再開した。識者は益々その邪悪を知った。


(14)戊辰(二十七日)、蔡卞を国史修撰とした。

元祐年間、范祖禹らは『神宗実録』を編修したが、王安石の過失を直書し、先帝の聡明を明白にした。蔡卞は安石の娘婿だった。意見書を提出し、「先帝の盛徳大業は卓然として千古の上に出ております。しかるに『実録』には疑わしきものや無根の発言が多く書かれております。改訂を請い願う次第です。」

詔を下し、卞の意見に従った。卞は安石の従子の防から安石の『日録』を手に入れると、正史を書き改めてしまった。


(15)閏月壬申(二日)、陸師閔らを再び諸路の提挙常平官とした。


(16)五月、黄履を御史中丞とした。

元豊末年、履を中丞としたが、履は蔡確、章惇、邢恕らと結託していた。惇や確は対立者が現れると、恕を介して履に己の意向を伝えた。これを受けるとすぐ履は対立者を排撃した。当時の人は四人を「四凶」と呼んだ。〔哲宗即位の後〕劉安世に糾弾され、履は朝廷から出された。ここに至り、惇は再び履を任用し、怨恨者への報復を謀った。元祐の旧臣で報復を免れたものは一人もいなかった。


(17)秋七月丁巳(十八日)、司馬光、呂公著らの贈諡を追奪し、呂大防、劉摯、蘇轍、梁燾らを降格した。詔を下し、天下を布告した。

当時、台諫の黄履、周秩、張商英、上官均、来之邵、翟思、劉拯、井亮采らは、「司馬光らは先朝(神宗朝)の法を変更し、道理に悖る行いをした」という意見書を提出していた。章惇と蔡卞は「光と公著の墓を掘り、棺桶を斬り捨て、屍を暴いて欲しい」と訴えた。帝は許将に意見を求めたところ、将は「立派な行いとは言えません」と答えた。帝はようやく取り止めた。そこで光と公著の贈諡を追奪し、石碑を倒させた。また王巌叟の贈官を奪い、大防を秘書監に降格し、摯を光禄卿とし、轍を少府監とし、すべて南京勤務とした。

これ以前、李清臣は宰相の地位を狙い、まず紹述を主張し、謀略を用いて蘇轍と范純仁を追い出し、性急に青苗法と免役法を再開した。このため章惇の到着に内心大きい不満があり、惇と対立することもあった。惇は司馬光らを降格すると、さらに文彦博以下の三十人を処罰し、すべて嶺南に配流しようとした。

清臣は進み出て、「先帝の法度を改めたのは過失と申さねばなりません。しかし彼等はみな歴代の元老です。惇の主張に従えば、必らずや世間の耳目を驚かせることになりましょう。」このため帝は「大臣の朋党について、罪の軽重をもって司馬光以下を処遇し、天下に布告せしめよ」と詔を下した。

これ以前、朋党の論(4)が起こったとき、帝は「梁燾はいつも中道正直の議論だった。その論弁と批判もまったく公議から出たものだった。私はすべて憶えている」と言い、「蘇頌は君臣の道理を弁え、軽々しく論議しなかった」と言った。このため頌は処罰を免れ、燾は提挙舒州霊仙観に左遷されるに止まった。

摯が子供達に語るには、「帝が章惇を用いれば、私は処罰されるだろう。もし惇が国を思い、憎悪の心を民に向けず、我等を処罰するだけで済むなら、死んでも恨みはない。しかし惇の心が報復にあれば、天下をどうするものか。」


(18)八月、広恵倉を罷め、免役法に復した。


(19)冬十月、呂恵卿を大名府知事とした。

監察御史の常安民、「北都は重鎮なのに恵卿を〔長官に〕除しました。恵卿は陰険な性格で、王安石を裏切りました。この男の陛下に対する心も想像できましょう。いま恵卿は都に向かっておりますが、きっと先帝のことで涙を流し、陛下を感動させ、都に留まろうとするでしょう。」帝はこれを聞き入れた。

恵卿は都に到着して帝に謁見すると、案の定先帝のことで涙を流した。帝は毅然とした態度で返答せず、恵卿はどうにもならず都を出て行った。当時の世論はこれに愉快がった。


(20)十一月壬子(十四日)、特別に蔡確を観文殿大学士に追復した。


(21)十二月、蔡卞は『重修神宗実録』を進呈した。これにより范祖禹、趙彦若、黄庭堅らは、誹謗の罪に問われて降格され、各々永州、澧州、黔州に安置(処罰の一つ)された。卞を翰林学士とした。

これ以前、礼部侍郎の陸佃は『実録』編纂に加わり、しばしば祖禹らと論争していたが、その争点の多くは王安石の是認にあった。庭堅が「君の言う通りにすれば佞史になる」と言うと、佃は「君の言う通りにすれば謗書にならないか」と応答した。このため佃も職を落とされた。呂大防も『神宗実録』を監修したと批判するものがいたので、〔大防を〕安州居住(処罰の一つ)に移した。


(22)二年(1095)冬十月、監察御史の常安民を左遷した。

当時、蔡京は中官の裴彦臣と結託していた。安民はこれを批判して言った。――

京の姦は人を惑わすに足り、弁は非を飾るに足り、巧は人主の視聴を奪うに足り、力は天下の是非を顛倒させるに足り、内には中官と結託し、外には朝士と連なり、一つでも己に阿附せぬ者がおれば、「元祐の一味となり、先帝の法を批判した」と弾劾し、排除するまで止めようとしません。現在、朝廷の臣僚の中、京の一味は半ばを過ぎております。陛下は早くにお悟りになり、京を放逐しなければなりません。他日、京の羽翼が成就してから後悔しても間に合いません。

このころ京の悪事はまだ露見しておらず、気づかぬ人間が多かったが、安民は最初に京の悪を鮮明にした。

また次のようにも言った。

大臣らは紹述を主張していますが、それは〔紹述の〕名に仮託して私怨に報いただけのこと。その一味もこれに追従しただけです。張商英は、元祐の時代、呂公著に詩を献じて栄達を求め、その迎合ぶりは恥を知らぬ有様でした。ところが最近では掌を返して司馬光と呂公著の神道碑を破壊せよと言っております。周秩は博士として光の諡を「文正」(5)と選定しました。ところが最近では打って変わって〔光の〕棺桶を斬り捨て、屍に鞭打つてと言っております。陛下におかれましては、これらの輩の言葉が果して公論より出たものか否か、察せられねばなりません。

意見書を提出すること前後数十百に上ったが、帝の意向を変えることはできず、ついに地方に出たいと申し出た。帝はただ留意して励ますだけだった。

ここに至り、「章惇は国権を壟断し、党派を広めている。陛下は柄権を握り、惇の力を抑えてほしい」と意見した。安民は重ねて意見書を提出したが、それは詳細を極めたものだった。惇は縁故のものを送り、言って聞かせた。――「君はもともと文学で名で通った人間。論弁でもって人に怨みを買う必要はあるまい。少しく黙っていれば、左右の宰相になれるだろうに。」安民は毅然として、「君は今の宰相のために遊説にきたのか」と批判した。惇は怒りを募らせた。

安民は曾布の邪悪についても批判したため、惇と布とは手を結んで安民を排斥し、安民が呂公著に送った手紙を取り寄せて皇帝に献上した。そこには帝を漢の霊帝と比べた文字があった。皇帝は怒ったが、安民は弁解しなかった。安燾が救済したので、処罰を免れた。

ここに至り、御史の董敦逸は「安民は蘇軾兄弟に阿附している」と論じたため、朝廷を出され、滁州監酒税となった。


(23)十一月、安燾が罷めた。

当時、章惇は白帖(皇帝の用いる紙)を用いて元祐諸臣を左遷していた。燾がこれを報告すると、帝は疑惑をもった。鄭雍は惇に「王安石が宰相のころ、いつも白帖を用いて命令を出していた」と言った。惇は大喜びして、その文案を懐にしたため、帝に弁解した。このため燾の発言は実施されなかった。惇は燾を怨み、「燾は常安民と結託している」と言い、燾を朝廷から出し、鄭州知事とした。


(24)当時、呂大防らは遠州(都から遠い州)に左遷されていた。たまたま明堂の恩赦があった。しかし章惇は前もって「これら数十人は死ぬまで移動させてはいけない(6)」と言った。

范純仁はこれを聞いて憂憤し、斎戒して身を清め、意見書を提出して弁明を計ろうとした。親しい人々は、「怒りに触れてはならぬ。万一にも遠州に左遷されては、その高齢では堪えられまい」と勧めた。しかし純仁は「事ここに至りながら、だれも発言しようとしない。もし陛下の御心が変わるなら、影響の及ぶところは大きい。さもなくば死んでも憾みはない」と言い、意見書を提出した。

大防などが犯した過誤は、寛容さに欠け、好悪に任せたことにあります。彼らは老氏の好還の戒(7)に違い、孟軻の反爾の言葉(8)を忽せにしました。しかしながら牛李の党禍は数十年に及び、唐が亡びるまで解けませんでした。我が国は前代の過失に倣ってはなりません。

現在、大防らは老病の中にあります。風土に慣れず、炎荒の地に長らく留めてはなりません。また不測の事態があれば、生存の見込みもありません。私はかつて大防らと政務を執ったとき、彼らからたびたび遠ざけられたこと、陛下みずから御覧の通りです。私がこのような激した言葉を用いますのは、ただ陛下の恩徳に報いるために他なりません。

以前、章惇と呂恵卿は都から放逐されましたが、郷里を出ることはありませんでした。現在、趙彦若はすで配流先で死んでおります。陛下におかれましては、衷心より判断し、大防などを許していただきたい。」

意見書が提出されると、章惇は激怒し、ついに純仁の観文殿大学士を落とし、随州知事として外に追い出した。


(25)四年(1097)春正月、李清臣が罷免され、河南府知事となった。

史臣の評。哲宗親政のはじめ、その政見は未だ定まらず、范純仁や呂大防といった諸賢は朝廷にあった。左右の輔弼が、日々忠勤に励み、奸邪を途絶し、その志向を正せば、元祐の治業は守り得たであろう。しかるに清臣は己が才を恃み、その栄達を焦り、ひそかに宰相たらんことを夢に見、まず紹述の説を起こし、国是を乱した。群姦がこれに続き、防ぐものなく、ついに重く天下の災禍となった。


(26)二月己未(四日)、司馬光・呂公著らの官を追貶した。

三省、「司馬光らは姦謀をなし、先帝を誹謗し、法度を改変しました。その罪悪は極めて深いものがあります。当時の凶悪な一味は、既に死亡または隠退しておりますが、少しく懲罰を示すべきです。」

ついに司馬光を追貶して清遠軍節度副使とし、呂公著を建武軍節度副使とし、王巌叟を雷州別駕とし、趙瞻と傅堯兪の贈諡を奪い、韓維の致仕(9)の恩沢、および孫固、范百禄、胡宗愈らの遺表の恩沢を撤回した。ほどなく光を朱崖軍司戸、公著を昌化軍司戸に追貶した。


(27)癸未(二十八日)、呂大防、劉摯、蘇轍、梁燾、范純仁を嶺南に配流し、韓維ら三十人の官を降格した。

大防が安州に遷されたとき、その兄の大忠は涇原から朝廷にもどった。帝は大防の安否を訪ね、さらに「大臣らは大防を嶺南に左遷しようとしたが、私が安陸に居らせたのだ。私のために伝言して欲しい。大防は朴直な人間だから、人に売られたのだろう。二三年もすれば、また会えると思う。」大忠は帝の言葉を章惇に洩らしてしまった。惇は大防を罪に陥れるべくますます力を強めた。

たまたま来之邵が意見書を提出し、「司馬光は道理に背きながら、処罰を免れましたが、死によって誅されました。劉摯はなお生きております。これは天が陛下のために遺されたに他なりません」と言った。これを承けて三省は進言した。――「呂大防らは、臣下として不忠、罪は司馬光らと異なりません。近ごろ朝廷は彼らに懲罰を加えましたが、罪の大きさに罰が添わず、生死によって罪に開きが生じております。これでは万世に示すべき訓戒とは申せません。」

かくして大防を舒州に、摯を団練副使、轍を化州に、燾を雷州別駕に、純仁を武安軍節度副使に降格し、循、新、雷、化、永の五州に安置した。劉奉世を光禄少卿として郴州居住とし、すぐに柳州安置とした。韓維は落職の上で致仕を認め、再び均州安置とした。

王覿、韓川、孫升、呂陶、范純礼、趙君錫、馬黙、顧臨、范純粋、孔武仲、王欽臣、呂希哲、呂希純、呂希績、姚勔、呉安詩、秦観の十七人を、通、隨、峡、衡、蔡、毫、単、饒、均、池、信、和、金、光、衢、連、横などの各州居住とした。

王攽は落職の上で致仕を認めた。孔平仲は落職の上で衡州知事とした。張耒、晁補之、賈易は並びに監当官(低級の税務官)とした。朱光庭、孫覚、趙禼、李之純、杜純、李周は並びに官秩を追奪した。また孔文仲と李周を追貶して別駕とした。

中書舎人の葉濤が制誥を書いたが、その文は醜詆を極め、聞いた人々は切歯扼腕した。

これ以前、左司諫の張商英は「陛下は元祐のことを忘れてはなりません。章惇は汝州のことを忘れてはならない。安燾は許昌のことを忘れてはならない。李清臣と曾布は河陽のことを忘れてはならない」と発言し、これらの人々を激怒させた。このため元祐の諸賢は誰一人罪を免れなかった。

当時純仁は病のため視力を失っていた。命令を聞くと、平然と任地に赴いた。名声を求めての振る舞いではないかと言うものがいた。純仁はこう答えた。――「七十の年になり、両目はともに失った。万里の行程を望むはずもあるまい。しかし区区たる愛君の気持ちは、懐いてなお尽さぬところがある。好名の嫌疑を避けては、陛下に報いる術がなくなってしまう。」

同じころ韓維は均州に左遷された。しかしその子供が、「維は執政のとき司馬光と意見が対立した」と訴えたので、赴任を免除された。純仁の子供も、純仁と光は役法を論じて意見が対立したと訴え、赴任の免除を求めようとした。

純仁、「私は君実(司馬光の字)の推薦で宰相になったが、朝廷で政治を論じ、二人の意見が対立するのは構わない。しかしそれをお前達が今日の言い訳にしてはならない。恥じる心で生き続ける、恥じる心なくして死ぬ方がよい。」その子は訴えを止めた。

純仁は子弟を戒めては、いつも「少しの不平も持ってはならぬ」と言っていた。子供達が章惇の文句を言うと、必らず怒って止めさせた。道すがら舟が江で転覆し、純仁の衣が濡れたことがあった。そこで諸子を顧み、「これも章惇がしたのか」と。


(28)甲申(二十九日)、大師致仕の文彦博を太子少保に降格した。

これ以前、左司諫の張商英は「かつて彦博は国恩に背き、司馬光に阿附した」と発言した。このため降格したのである。


(29)〔閏月〕甲辰(十九日)、蘇軾を瓊州別駕に降格し、昌化軍安置に移した。范祖禹を賓州安置に移した。劉安世を高州安置に移した。


(30)〔三月〕、章惇は呂升卿と董必を嶺南に派遣し、同地をを監視させ、流罪の人々を全て殺そうとした。帝、「私は祖宗の遺訓に遵い、まだ大臣を誅殺したことがない。死刑を免除せよ。」惇は不満だった。

このとき中書舎人の蹇序辰は意見書を提出した。

朝廷は先日司馬光らの邪悪を正し、その罪と罰とを明らかにし、朝廷内外に告示しました。守るべき刑典を変乱し、法度を改廃し、宗廟を誹謗し、両宮を睨視したこと、彼等の言動を察すれば実情は明白です。その意見書や公文書は官庁に散在しております。編修して保存しなければ、歳月とともに必らずや散佚するでしょう。請い願いますには、姦臣の発言や行為を全て調査させ、専門の官僚を置いて書類を編纂していただきたい。姦臣一人につき一箱をつくり、それを二府(中書と枢密院)に保存し、天下後世の大なる戒めとしていただきたい。

章惇と蔡卞とはすぐに序辰と直学士院の徐鐸に命じて編修させるよう訴えた。およそ当時の司馬光らの文章を細大漏らさず蒐集し、全一百四十三帙にまとめ上げて提出した。このため一人の士大夫も災禍を免れることはできなかった。

鄒浩は言った。――

最初の命令では、ただ二等級――先帝に言及あった場合と発言内容に誤謬のある場合――があったに過ぎません。ところが現在の実施状況は、混然として区分なく、分類し難きことを理由に、処罰の軽重を〔勝手に〕上下しております。これこそ陛下の権力が臣下に移動したことの証です。願わくは実情を調査し、将来の戒めにしていただきたい。

この上、卞の一味の薛昂と林自は、司馬光の『資治通鑑』の版木を破壊するよう訴えた。太学博士の陳瓘は、試験のとき、あえて神宗御製の〔『資治通鑑』の〕序文を引いて問題を作った。このため昂と自の発言は阻止された。


(31)〔四月〕己亥(十六日)、呂大防は舒州赴任の途中、虔州の信豊県で死んだ。

大防は宰相になると、人を用いてはその能力を引き出し、領土の拡張を意とせず、天下は豊かになったが、最後は配流先で死んだ。世の人々はこれを惜しんだ。帝は大防の死を聞き、「大防はなぜ虔州に行ったのだ」と言った。〔大防の遺族が〕故郷に埋葬したいと願い出ると、直ちに許可した。当時、元祐党人に対する苛酷な処罰は、帝の意向ではないとの言うものがいた。


(32)十一月癸酉(二十三日)、劉奉世を柳州安置に処した。程頤を涪州編管とした。

当時、頤は郷里に放逐されていた。ある日、帝は大臣と元祐の政治について話し合い、「程頤は妄りに尊大であった。経筵でも不遜なことが多かった」と言った。これを承けて「頤と司馬光は二人して悪事を行った」と発言するものが現れた。このため頤は身分剥奪の上、涪州に左遷された。

頤は涪州にあって、門人と学問に勤しんだ。その『周易伝』も涪州で書いたものである。


(33)再び市易務を置いた。


(34)元符元年(1098)年六月戊寅朔日、改元した。


(35)甲午(十七日)、蔡京らが常平法と免役法を献上した。


(36)秋七月、また范祖禹を化州に流し、劉安世を梅州安置とした。

これ以前、章惇は范祖禹と劉安世を最も深く怨み、必らず二人を死地に陥れようと考えていた。ここに至り、蔡京を動かして二人を罪に陥れた。

安世が配流先に到着すると、章惇はひそかに陳衍を殺した使者に命じ、〔安世の配流先の〕梅州に立ち寄らせ、安世を脅して自殺させようとした。しかし使者は殺すに忍びず、命令を聞かなかった。惇はさらに在地の傑物を転運判官に抜擢し、安世を殺させようとした。転運判官は惇の意を承けると、すぐに疾駆して安世のもとに向かった。安世の一族は号泣して食べ物も喉を通らなかったが、安世は平素と変わらず生活していた。夜半、転運判官は血を吐いて死に、安世は死を免れた。

祖禹は〔左遷後〕すぐに死んだ。祖禹は経筵にあり、その勧講論諫は常に数十万言に上った。政道や事宜を論じては、簡易明白、物事の道理を見通し、賈誼や陸賈とてこれ以上ではなかった。


(37)二年(1099)八月癸酉(三日)、章惇らは『新修敕令式』を提出した。

惇は帝前で読み上げたが、まま元豊の敕令にはなく、元祐の敕令で修正した法令があった。帝が「元祐にも取るべきものはあるのか」と言うと、惇らは「善いものを取っております」と答えた。


(38)九月癸卯(四日)、御史に命じて三省と枢密院を調査させ、元豊の旧制に従わせた。


(39)閏月、看詳訴理局を置いた。

安惇、「陛下が親政される以前、姦臣どもは訴理所を設けました。煕寧元豊に処罰された者共は、これを利用して怨恨を雪ぎ、さらに怨嗟を先朝に帰し、恩を私室に収めておりました。請い願いますには、公文書を取り寄せ、当初の処罰を調査し、本来の罪に従って処罰していただきたい。」

蔡卞は章惇を唆して訴理局を置かせると、中書舎人の蹇序辰と安惇に命じて審査させた。このため重ねて処罰されたものは八百三十家に上り、士大夫は千里の遠きにあっても逮捕された。天下に怨嗟の声が巻き起こり、「二蔡二惇(10)」の流言が広まった。


****************************************
(1)范祖禹の誤。『宋史紀事本末』に従い、間違えたまま訳出しておく。
(2)端明殿学士兼侍読学士の意。
(3)原文には「王安石」の三字が見える。誤植と思われるが、意味に変動が生じるので、そのまま残しておいた。
(4)いわゆる党争のことで、元祐年間に旧法派が党を組み(元祐党)、派閥内抗争を行ったことを指す。
(5)文正は「文にして正」という意味で、最高級の賛辞を意味する。ただし諡の格式としては、「文」の一字が最高と言われる。
(6)罪人を処罰する場合、まず都から遠い州に左遷し、順次都から近い州に栄転させ、最終的に罪を許すという中国式処罰方法の一つ。
(7)人は力を慕って集まるのではなく、徳を慕って集まるという意味。
(8)朝廷の命令の善悪は、最後には朝廷自身に返るという意味。因果応報と同義。
(9)原文は「到任」に作る。文脈上、大きい差異は生まないので、『宋史』などにより改めた。
(10)蔡京と蔡卞の二蔡、章惇と安惇の二惇を指す。ただしこの一段、本来の文脈とずれがあり、「二蔡二惇」をこの文脈で解釈すると誤解を生む。



© 2008-2009 Kiyomichi eto Inc.

inserted by FC2 system