HOME目次建中初政孟后廃復(注釈付き)

孟后廃復


(01)哲宗の元祐七年(1092)夏四月己未(七日)、孟氏を皇后に立てた。皇后は洺州の人。馬軍都虞候の孟元の孫娘である。

太皇太后は帝の成長を待ち、名家から娘百人余りを選んで宮中に入れた。皇后は年十六だったが、太皇太后(宣仁太后)と皇太后(神宗の母)は彼女を愛し、女性として踏み行うべき道を教えた。ここに至り、太皇太后は執政に「孟氏の娘はよく婦人の道を守っている。正式に中宮とせよ」と言い、学士に草案を書かせた。また近世の礼儀は簡略であるとし、翰林学士、台諫(御史台と諫議大夫)、給舎(給事中と中書舎人)と礼官に立后のための六礼儀制を取りまとめさせた。

呂大防を兼六礼使とし、韓忠彦を奉迎使とし、蘇頌と王巌叟を発冊使とし、蘇轍と皇叔祖の宗景を告期使とし、皇伯祖の宗晟と范百禄を納徴使とし、王存と劉奉世を納吉使とし、梁燾と鄭雍を納采問名使とした。帝は文徳殿に赴いて皇后を冊立した。

太皇太后は帝に「賢妻を得るのは大事なことだ」と言い、また「この娘は賢く淑やかだが、惜しいことに福が薄い。後日、国に異変があれば、必らずこの娘がそれに当たろう」と嘆いた。


(02)紹聖三年(1096)八月、范祖禹を賀州に、劉安世を英州に竄(処罰の一種)した。

当時、劉婕妤が帝の寵愛を受けていた。むかし元祐の時代、范祖禹は禁中で乳母を求めているとの噂を聞きつけた。帝の年はまだ十四歳、女色に近づく年頃ではなかった。そこで劉安世とともに、帝は徳を養い身を愛すべきであること、また太后は帝の御体を保護しなければならないこと等々を訴えた。その言葉は時宜に適ったものだった。太后は「乳母の話は噂話に過ぎぬ」と言ったが、〔祖禹らは〕「噂が嘘であっても、前もって戒めとするには十分です」と答えた。太后はこれにたいそう悦んだ。

ここに至り、章惇と蔡卞は〔祖禹らが〕乳母を戒めたのは、劉婕妤を指してである、と訴えた。そこで二人は事実の捏造の罪に問われ、処罰された。


(03)九月乙卯(二十九日)、皇后孟氏を廃した。

これ以前、劉婕妤が皇后孟氏と景霊宮に赴いたときのこと。皇后が勤めを終えて座に着くと、嬪御のものは側に立っていた。しかし婕妤だけは皇后に背を向け、御簾の下に立っていた。部屋にいた陳迎児はこれを叱ったが、婕妤は気に留めなかった。このため部屋のものはみな憤った。

冬至の日、隆祐宮(向太后の居所)に出向いたときのこと、〔別の部屋で太后を到着を待っていた。その時、〕皇后は朱髹の金飾に座ってた。〔宮中の決まりでは、皇后にのみ許されたものだったが〕婕妤もそれを望んだ。すると従者が心を読み、皇后のものと同じものに座を変えてしまった。このためその場のものはみな穏やかでなかった。その時、「皇太后がお出になられた」という声がした。皇后は立って太后を待ち、婕妤もまた立って待った。〔ところが太后が現れないので、各々〕また座ろうとすると、〔不満を持った〕女官が婕妤の座を取り払っていたので、婕妤は地面に倒れてしまった。婕妤はこれを怨みに思い、もう太后に謁見しようとせず、泣いて〔出て行き、〕帝に訴えた。内侍の郝隨が婕妤に言うには、「こんなことでくよくよしてはなりません。大家(天子)のために早く子をお生みになることです。そうすればこの座は本当に貴女のものになりましょう」と。

福慶公主(孟后の娘)が病に倒れたときのこと、皇后には姉がおり、医術に通じていた。むかし皇后を治療したことで、宮中への出入りを許されていた。公主に薬が効かないというので、姉は道家の用いる治癒の符水を持参した。皇后は驚いて、「お姉様、宮中では厳禁です。外とは違うのです」と言い、左右のものに符水を取り置かせた。そうして帝が〔公主の見舞いに〕訪れるのを待って、事細かに理由を説明した。帝が「人ならだれでもすることだ」と言ったので、皇后は符を帝の前で焼いた。しかし宮中では邪法で人を呪っているという噂が起った。

ほどなく皇后の養母の聴宣夫人燕氏と尼の法端が皇后のために祈祷していると伝えられた。帝は入内押班梁従政などに命じ、皇城司を派遣して訊問させた。宦官や宮妾三十人を逮捕したが、拷問は厳しかった。体は激しく傷つけられ、舌を断たれるものさえ出る有様だった。

取り調べが済むと、〔侍〕御史の董敦逸に調査させた。内廷を過ぎる罪人は息も絶え絶えで、一人として声を出せる者はいなかった。敦逸は筆を執ったものの、冤罪を疑い、筆を下すことができないでいた。しかし郝隨などが脅迫すると、敦逸は禍を畏れ、〔疑獄を断ぜず〕報告書を提出した。詔を下し、皇后を廃して華陽教主・玉精妙静仙師とし、法名に沖真を授け、宮中から出して瑤華宮に居らせた。

この時、章惇は宣仁太后による皇帝廃立の謀略を誣告しようとしていた。そこで孟后のことを利用し、宣仁にまで罪を着せようとした。また裏で劉婕妤と結託し、劉氏を皇后とするように訴えた。そこで郝隨とこの獄を捏造したのである。世の人々はこの事件を冤罪だと言った。

二十日あまり後、敦逸は「孟氏廃后につきましては、事件に因縁があり、人情に深く考えねばならぬ点が御座います。私は獄を取り調べましたが、〔その時に正しく判断できなかったため〕天下に罪を免れないでしょう」と訴えた。帝は敦逸を罰しようとした。しかし曾布が「陛下は近習に獄を治めさせました。ですから〔世間の信用を得るために、朝廷の官僚である〕敦逸に調査させたのでしょう。今ここで敦逸を罰したら、どうやって世間の信用を得られるのです」と言ったので、止めにした。


(04)元符二年(1099)九月丁未(二十八日)、賢妃の劉氏を皇后とした。

皇后は多才多芸で、帝の寵愛を専らにしていた。既に孟后を冤罪で廃し、章惇は内侍の郝隨や劉友端と結託し、賢妃を中宮にするよう訴えた。当時、帝にはまだ儲嗣(後継ぎ)がなかった。ちょうど賢妃が子の茂を生んだので、帝は大そう喜び、ついに立后の運びとなった。

当時、鄒浩は「章惇は不忠にして帝を軽んじている」と弾劾していたが、まだその返答を得る前に劉皇后が立てられた。

鄒浩は意見書を提出してこう言った。

皇后を立て天子に配することは、最も慎しまなければなりません。今、天下の為に母を択びながら、立てたものは賢妃でした。この知らせを受けた時、世の公論で戸惑わぬものはありませんでした。誠に国家にはおのずから仁祖の故事があり、それに遵わねばならぬからに他なりません。かつて〔仁祖の時に〕郭皇后と尚美人が寵愛を競うたとき、仁祖は后を廃されると、美人をも斥けられました。これは公平なることを示されたからに御座います。皇后を立てられるに際しましては、妃嬪の中から択ぶ様なことはなさらず、貴族より択ばれました。それは嫌疑を遠ざけるためであり、天下万世の法となさるために御座いました。

陛下が孟氏を廃されたことと郭皇后のことに異なるところは御座いません。しかし本当に劉賢妃と寵愛を争い罪を招いたのでしょうか。〔もしそうなら仁祖の故事に照らして、賢妃も斥けねばなりません。〕あるいはそうではなかったのでしょうか。〔そうでないなら、これも仁祖の故事にならい、妃嬪を皇后に立てず、貴族から皇后を選び、嫌疑を遠ざける必要が御座います。〕二者の中、必らずその一つに御座います。

孟氏を廃された時、賢妃を皇后にすることを疑わぬものはおりませんでした。しかし詔書の中に、「別に賢族から択ぶ」との言葉があるのを目にしました。また陛下は朝廷に臨まれ、「廃后は甚だしい国家の不幸である」と仰せになりました。さらに宗景(姻戚の一人)が妾を〔妻に〕立てたいと願い出たとき、お怒りになり、処罰なさいました。これらのことがあって、世の人々は始めて釈然と疑いがなくなりました。しかるにこの度ついに賢妃を皇后に立てられました。これが聖徳を損なわないでおれましょうか。

白麻に言うところを観ますと、そこには〔賢妃に〕子がいることと、〔後漢の明帝の〕永平(唐の年号)と〔皇朝の真宗の〕祥符(大中祥符)に前例があると言うに過ぎません。私はこの二者について論じさせて頂きたいと思います。

子があれば皇后に立てられるならば、永平の貴人に子はおりませんでした。皇后に立てられたのは、その徳が後宮に冠絶しておればこそに御座います。祥符の徳妃もまた子などおりませんでした。皇后に立てられたのは、名族であればこそに御座います。まして〔永平の〕貴人は馬援の娘であり、〔祥符の〕徳妃は〔立后以前に〕廃后の嫌疑などありませんでした。今日とは明らかに状況が異なっております。

先頃の冬、賢妃は〔陛下に従い〕景霊宮の祭に参加しましたが、この日の雷鳴は甚だ尋常ではありませんでした。また今日におきましては、〔立后の〕制書を宣せられた後、長雨にして雹が降りました。天地宗廟に報告なされてより以来、長雨は止みません。ならば上天の意図するところは明かに御座いましょう。

人事に考えても既に先ほどの通りに御座います。また天意に是非を求めても、またこの通りに御座います。願うらくは、一時の改命を難しいとなさらず、万世の公議を畏れられ、立后の礼を止め、当初の詔のように〔貴族から皇后を選び〕なさいますようお願い申し上げます。

帝は真宗の劉徳妃の立后を指し、「これもまた祖宗の故事だ。私だけではない」と言った。すると鄒浩は「祖宗の大徳には倣わねばならぬことが多く御座います。しかし陛下はそれらに倣われることなく、かえってそのような僅かな疵に倣おうとしておられる。後世のものが我らを批判して止まぬことを恐れる次第です」と言った。帝は顔色を変えたが、なおも怒ることなく、その意見書を手に四方を見て、深く物思いに耽った。そこで〔浩の意見書を〕外廷に下げ渡した。

次の日、章惇は浩の発言は事実無根であると弾劾した。浩は除名勒停(降格人事)となり、新州に羈管された。

尚書右丞の黄履は「浩は帝に抜擢されたが故に、敢えて尊顔(皇帝の顔)を犯し、忠言を納れました。陛下がにわかに浩を死地(嶺南の地)に放逐されたとあっては、人臣は浩のことを戒めとし、もはや陛下の為に得失を発言しなくなるでしょう。善地(開封府近郊)を授けていただきたい」と言ったが、聞き入れられなかった。

陽翟の田昼は、議論慷慨、浩と気節を競っていた。劉皇后が立てられたとき、昼は人に「志完(鄒浩の字)が諫言せぬなら絶交だ」と言っていた。浩が処罰されると、昼は道すがらこれを出迎えた。浩は涙した。昼は厳しい顔をして浩を責めた。――「もし志完が諫言せず、京師で官僚であり続けても、寒気に襲われ汗をかかぬこと五日にもなれば、死んでしまうのだ。なにも嶺外の地だけが人を殺すわけじゃない。どうか君はこのことに満足しないで欲しい。士として為さねばならぬことは、これだけではないのだ」と。浩は呆然とし、「君の贈りものはなんと手厚いのだろう」と感謝した。

浩は諫言に先立ち、友人で宗正寺簿の王回に相談した。

回、「言責に任ずる者として、これ以上のものはない。子供は親が健在でも、孝を移して忠となすものだ。ましてや、それこそが母君の日頃の志ではなかったか。」

浩が南方に左遷されると、誰も見送ろうとしなかった。しかし回は交遊者から銭を集めて浩に与え、旅の身繕や往来の経理をし、また浩の母を慰めた。見回りの者の報告のため、天子の命により、取り調べられることになった。人々は懼れをなしたが、回は落ち着き払っていた。御史が〔浩のことを〕叱責すると、回は「確かに前もって相談に預かった。敢えて嘘を付こうとは思わぬ」と言い、浩の意見書二千言余を暗誦してみせた。審査が終了し、除名停廃となった。回は〔罰を言い渡されると〕すぐに歩いて都の門を出ていった。行くこと数十里、子供が追いつき、家事を尋ねたが、何も答えなかった。

また曾誕というものがいた。かつて浩に手紙を送り、孟后について意見するよう勧めたが、浩は従わなかった。浩が放逐されると、誕は『玉山主人対客問』を書き、浩を非難した。――〔浩は前もって〕孟后の廃を諫めることができず、〔劉后を立てるという〕朝廷の過失が明かになってから、ようやく諫言した。これは時機を知らぬものだ、と。


(05)閏月、皇子の茂が死んだ。


(06)三年(1100)春正月己卯(十二日)、帝が崩じた。子がなかったので、弟の端王の佶が即位した。


(07)辛巳(十四日)、皇后劉氏を尊んで、元符皇后と言った。


(08)五月丙子(十日)、哲宗の廃后孟氏を復して元祐皇后とした。

哲宗は崩ずる前、孟氏の廃后を悔やみ、いつも「章惇は私の名節に傷をつけた」と嘆いていた。このため向太后は孟氏の位をもどそうとした。ちょうど布衣の何大正が意見書を提出し〔孟氏の位をもどすよう主張したので〕、この詔が下ったのである。孟氏は瑤華宮から禁中にもどった。

陳邦瞻の評。陳瓘は廃后の事を論じてこう言った。――「この原因は元祐の説にある。神考(神宗)の継承を主張し、心に宣仁の報復を抱く者は、元祐を念頭に置いていた。例えるならば、草を刈るとき、根っ子から取り除くようなものだ。瑤華こそ宣仁の厚遇した人だった。万に一も政事に預かることがあれば、元祐の復活が考えられぬわけではなかった。だから大臣らは草を刈る心持ちで、瑤華を廃さずにおれなかったのだ。経術を知る者は独り心に謀り、政柄をつかさどる者は独り手に断ずるもの。その心の通りに事が運ぶとき、みずから密計なりと思うものだ。しかし事の機微を読み取る学者の目からは逃れ難いのだ」と。嗚呼、小人がその君主を愚昧に導くこと、これほどであろうか。なんと畏るべきことではないか。人の情は父子より親しきものはなく、夫婦よりむつまじきものはない。ところが李林甫が用いられてより、明皇は子を守ることができず、蔡卞や章惇の計が行はれてより、哲宗は妻を守ることができなかった。哀しいことではないか。


(09)徽宗の崇寧元年(1102)冬十月甲戌(二十三日)、再び元祐皇后孟氏を廃した。

当時、元符皇后の側にいた宦官の郝隨は、また元祐皇后を廃すよう蔡京を唆した。しかしまだ隙がなかった。ほどなく昌州判官の馮澥が意見書を提出し、孟氏を復后は間違いだと主張してきた。かくして御史中丞の銭遹は、殿中侍御史の石予や左膚と意見書を提出した。

韓忠彦などは布衣に過ぎぬ何大正の狂言に乗じ、瑤華の廃后を復し、流俗の虚美を掠め取りました。当時の世論は当然ながらどよめき、辺境の小官吏が都までやって来て、批判書を奉るほどでした。まことに忠義激切、天下の公議は明らかです。願うらくは大臣に是非を論究させ、大義によって断じていただきたい。流俗非正の論に牽かれ、聖朝の徳を損なわぬようにしていただきたい。

蔡京は許将、温益、趙挺之、張商英とともに御史の説を支持し、紹聖三年九月の詔書(孟后の廃)に従うよう訴えた。帝はやむを得ず、それに従った。詔を下し、元祐皇后の号を罷め、また孟氏を瑤華宮に出した。加えて、元符の末に孟氏の復后を支持した者を処罰した。――〔前の〕宰臣の韓忠彦と曾布を降格し、李清臣を雷州司戸参軍に左遷し、黄履を祁州団練副使に左遷した。また翰林学士の曾肇、御史中丞の豊稷、諫官の陳瓘と龔夬など十七人を遠州(開封府から遠く離れた州)に安置した。


(10)十二月、哲宗の子の茂に追諡して献愍太子とした。

これ以前、鄒浩は新州から召還され、帝(徽宗)に謁見したときのこと。帝はまず立后諫言の件に触れ、再三にわたり褒め称え、その草稿は所在を尋ねた。浩は既に焚いたと答えた。浩は上前を退き、これを陳瓘に話した。瓘、「禍はここにあろうか。後日、邪悪な者が〔偽造した〕意見書を出しても、君は弁解できまい」と。

蔡京が権勢を握ると、一味の者に浩の意見書を偽造させた。そこには「劉后は卓氏を殺してその子を奪い、自分の生んだ子だとした。人を欺くことはできよう。だが天を欺くことはできはしない」などの言葉があった。帝は事実を解明させ、ついに〔亡き哲宗の子の〕茂を太子とし、浩を昭州に竄(降格人事の一つ)した。


(11)二年(1103)二月、元符皇后劉氏を尊んで、皇太后と言った。宮名を崇恩とした。


(12)政和三年(1113)二月、太后劉氏が自殺した。

帝は哲宗のこともあり、劉太后に恩礼を加えた。しかし劉太后は外事に干渉し、また不謹慎な噂話も伝えられた。帝は廃后について輔臣と議論していたが、ほどなく劉太后は左右の者に迫られ、すだれ掛けに首を括って死んだ。諡を昭懐と言った。


(13)高宗の建炎元年(1127)夏五月、哲宗の廃后孟氏を尊んで、元祐太后とした。


(14)七月、元祐太后は金兵を避け、揚州に移った。


(15)八月、元祐太后の号を改め、隆祐太后とした。「元祐太后の『元』の字が太后の祖父の諱を犯しているので、太后がお住まいの宮の名に代えていただきたい」という尚書省の訴えに従ったものである。


(16)二年(1128)冬十月、隆祐太后は杭州に移った。


(17)三年(1129)秋七月、隆祐太后は洪州に移った。


(18)冬十一月、また虔州に移った。


(19)四年(1130)三月、帝(高宗)は使者を派遣し、隆祐太后を虔州に迎えさせた。

帝は輔臣に、「私は今まで太后を知らないでいたが、〔建炎の初め、太后を〕南京に奉迎した折り、私を己が子のように接された。今、太后は数千里の外に居られ、〔金との戦いで〕兵馬は乱れている。急ぎ太后を奉迎し、つねに太后を思うこの思慕の情を満足させよ」と言い、廬益・辛企宗などを派遣し、太后を虔州に迎えさせた。


(20)八月、太后は越州に移った。


(21)紹興元年(1131)夏四月、隆祐太后孟氏が崩じた。諡を昭慈献烈という。会稽県の上皇村に仮に葬り、事態が収束を待ち、哲宗の山陵に帰葬することにした。



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