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孟后廃復


本篇は党争に絡んで生まれた哲宗の皇后孟氏の数奇な運命を描く。孟氏立后時の儀礼の制定、後宮に於ける孟氏廃后の原因、孟皇后のライバル劉氏立后に対する鄒浩の反対上奏文が、本篇全体の半分以上を占める。因みに孟氏は、孟皇后、孟后、元祐皇后、宋太后、元祐太后、隆祐太后、隆祐皇太后、昭慈献烈皇后、昭慈聖献皇后などの多彩な名で呼ばれる。生年は煕寧六年(1073)、没年は紹興元年(1131)、享年59。基本資料に『長編紀事本末』巻113(立后)、『太平治蹟統類』巻19(宣仁議立哲宗皇后)がある。なお注釈付き翻訳ということで、特に孟氏の逸話を本篇最後に付した。


(01)哲宗の元祐七年(1092)夏四月己未(七日)、孟氏を皇后に立てた。皇后は洺州(1)の人。馬軍都虞候の孟元の孫娘である。

太皇太后は帝の成長を待ち、名家から娘百人余りを選んで宮中に入れた。皇后は年十六だったが、太皇太后(宣仁太后)と皇太后(神宗の母)は彼女を愛し、女性として踏み行うべき道を教えた。ここに至り、太皇太后は執政に「孟氏の娘はよく婦人の道を守っている。正式に中宮とせよ」と言い、学士に草案を書かせた。また近世の礼儀は簡略であるとし、翰林、台諫、給舎(2)と礼官(3)に立后のための六礼儀制(4)を取りまとめさせた。

呂大防を兼六礼使とし、韓忠彦を奉迎使とし、蘇頌と王巌叟を発冊使とし、蘇轍と皇叔祖の宗景を告期使とし、皇伯祖の宗晟と范百禄を納徴使とし、王存と劉奉世を納吉使とし、梁燾と鄭雍を納采問名使とした(5)。帝は文徳殿に赴いて皇后を冊立した(6)。

太皇太后は帝に「賢妻を得るのは大事なことだ」と言い、また「この娘は賢く淑やかだが、惜しいことに福が薄い。後日、国に異変があれば、必らずこの娘がそれに当たろう」と嘆いた。

(1)洺州。州は当時の行政単位。北京大名府の北にある地名で、北宋の河北東路に含まれる。現在の邯鄲市北東に接する。

(2)翰林~給舎。翰林学士、御史台と諫官、給事中と中書舎人を指す。いずれも王朝の高級官僚で、朝廷の重大事項には彼らが招集されて意見を求められた。

(3)礼官。この当時は礼部太常寺の官僚を指す。

(4)六礼。婚姻時に行う六つの儀礼を指す。以下に見える奉迎・八冊・告期・納徴・納吉・納采問名がその六つ。

(5)『長編』元祐七年四月甲子条には次のようにある。「皇后六礼、尚書左僕射兼門下侍郎呂大防、太尉を摂り奉迎使に充つ。同知枢密院事韓忠彦、司徒を摂り之を副とす。尚書左丞蘇頌、太尉を摂り発册使に充つ。簽書枢密院事王巖叟、司徒を摂り之を副とす。尚書右丞蘇轍、太尉を摂り告期使に充つ。皇叔祖同知大宗正事宗景、大宗正卿を摂り之を副とす。皇伯祖判大宗正事・高密郡王宗晟、太尉を摂り納成使に充つ。翰林学士范百禄、宗正卿を摂り之を副とす。吏部尚書王存、太尉を摂り納吉使に充つ。権戸部尚書劉奉世、宗正卿を摂り之を副とす。翰林学士梁燾、太尉を摂り納采・問名使に充つ。御史中丞鄭雍、宗正卿を摂り之を副とす。」

(6)本篇は孟后廃復なる篇名が示す如く,孟氏の立后から議論を始めているが、哲宗の皇后選定はこの年を遡ること1年あまり、元祐五年六月辛丑の宣仁太后の宣諭に始まる。以下、『長編』を頼りに少し詳しく経過を記しておく(年月日は全て『長編』に拠る)。

元祐五年六月辛丑、太后は将来納后の為に、宰臣呂大防らに故事を尋ねさせた。八月乙未、呂大防らの要求で、太常礼官に古今六礼の沿革を検討させ、文書に備えさせるべく手詔が出る。しかし御史中丞蘇轍の発議で(己未)、翰林学士・御史中丞・両省給舎および礼官・太常寺で詳議させることになった(庚申)。以後、皇后適任者の選定と納后儀制の修定の二方向から話しが進む。

まず儀制。六年七月乙丑、八月己丑、同月癸巳と、納后六礼の儀制が順次完成し、七年二月庚午、納后六礼の儀制の辞語を学士院で修定させる。三月丁酉、六礼の儀も詰めの作業に入り、同月庚戌に礼部が納后儀注の修正案を提出。四月甲子に六礼使が、己巳に告天地・告宗廟の日程が、辛未に表賀の方法が、丁丑に納后の礼の詳細が決定し、事実上完成する。

一方の皇后選定は難航した。太后は臣僚百十家から人選したが、なかなか決まらず、ようやく元祐六年四月辛亥に狄諮(仁宗朝に戦功のあった狄青の子)の娘に的が絞られた。しかし宰相呂大防は賛成したものの、娘が庶出であること、また過房(親戚間の養子縁組)のあることから、王巌叟の強硬な反対にあい、頓挫する。久しく皇后が決まらない中、太皇太后と皇太后の高氏および向氏に紹介状を求めなかったことに不信の情が生まれるが、八月己丑に太后から二家には該当者がいなかったと告げられる。

そもそも選定が難航したのは、太后が門閥と勘婚(当時の占いの一種で、生年の干支によって男女の相生などを占うもの。『路史』巻四十「納音五行説」などを参照)の両方に適合する娘を選ぼうとしたことに理由がある。しかし結局は呂大防らの提議で、門閥から皇后を選ぶよう求められ、ついに元祐七年二月乙卯、孟家の娘が最もよいとの選択に至る。

二日後、太后の意向を受け、臣僚から勘婚不当の上奏(勘婚を無視したことに対する防衛策として、臣僚から勘婚をしないように言わせたもの)が出されると同時に、「孟家考察選召箚子」が進呈される。四月甲寅(二日)、「孟家の女、内に入り能く婦礼を執れば、制を降し立てて皇后と為すべし」と宣諭が降る。戊午(六日)に手書が出され、己未(七日)に制書が出され、「故馬軍都虞候・眉州防禦使・贈太尉孟元の孫女を立てて皇后と為す」ことが決定する。同月戊戌(十六日)、皇帝が文徳殿に御し册を発し、使者に皇后を奉迎させる。翌己亥、百官が賀を表して、納后の儀は終了する。

なお納后時の文字は、『宋史』冊立皇后儀(礼14)、『文献通考』巻256(帝系7)に見える。また「太皇太后下詔礼官検詳六礼著為成式納皇后」、「立孟皇后制」(『宋大詔令集』巻18)、「册孟行動文」(同巻19)がある。


(02)紹聖三年(1096)八月、范祖禹を賀州に、劉安世を英州に竄(処罰の一種)した(1)。

当時、劉婕妤が帝の寵愛を受けていた。むかし元祐の時代(2)、范祖禹は禁中で乳母を求めているとの噂を聞きつけた。帝の年はまだ十四歳、女色に近づく年頃ではなかった。そこで劉安世とともに、帝は徳を養い身を愛すべきであること、また太后は帝の御体を保護しなければならないこと等々を訴えた。その言葉は時宜に適ったものだった。太后は「乳母の話は噂話に過ぎぬ」と言ったが、〔祖禹らは〕「噂が嘘であっても、前もって戒めとするには十分です」と答えた。太后はこれにたいそう悦んだ。

ここに至り、章惇と蔡卞は〔祖禹らが〕乳母を戒めたのは、劉婕妤(3)を指してである、と訴えた。そこで二人は事実の捏造の罪に問われ、処罰された。

記事は『続綱目』に等しいが、「紹聖三月七月」に係る。もとは『宋史』范祖禹伝と同哲宗本紀、同劉安世伝から成る。ただし劉安世伝は、昭懐(劉皇后)立后の時に係けている。後段の如く、昭懐の立后は元符二年に繋るので、劉安世伝は誤りである。なお本来この記事は孟后廃復と無関係なので、『長編紀事本末』巻113(立后)では省かれ、巻101(逐元祐党人上)に見える。范祖禹らの発言と以後の経緯は、彼等の奏議が出た元祐四年十二月の『長編』(巻436)に詳しい。

(1)賀州・英州は何れも広東の地名。流罪地としては最悪の場所の一つ。二人の流刑は紹聖三年八月庚辰のこと。

(2)祖禹らの上奏は複数回にわたるため、各上奏の時期は断定できない。しかし本文に見える范祖禹の発言は、彼れの最後の上奏に当るもので、元祐四年十二月に繋る。

(3)劉婕妤。婕妤は妃嬪の一つ。劉氏の名前ではない。劉氏は後の皇后。

以下、少しく事の経緯を記しておく。

当初、劉安世と范祖禹は別々に皇帝が乳母を求めたことを批判した。皇后も立てておらぬ子供の皇帝が、宮中の女性と戯れるのは、極めて宜しくないということであった。しかし温厚な祖禹はともかく、硬派に属する安世が批判したことに太后は困惑し、宰臣の呂大防にその口止めを依頼した。そもそも宋代では、「言官が発言するとき、宰臣は立ち会わない」という原則があった(言責の中立性を保つため)。そこで呂大防は祖禹を介して安世に口止めすべく働きかけた。当時、祖禹は『神宗実録』編纂官の一人であったため、『神宗実録』の総裁官(宰相が兼任)の大防とは、職場の実録院で顔を合わる機会があったからである。そこで太后の意向は、大防から祖禹へ、そして祖禹から安世へと伝達された。しかしこれが逆に安世を奮起させ、祖禹を連れ立ち、再び太后に上奏を敢行した。これが元祐四年十二月末に提出された上奏文で、「帝は徳を進め身を愛すべき」云々というのは、祖禹の上奏の一部である。結果的に、安世等の発言によって、哲宗付きの女官が太后から叱責された。

しかし事件はこれで終わらなかった。後、章惇らが権力を握ると、哲宗みずからこの事件を章惇に話した。前々から安世に怨みを懐いていた章惇は、これを利用し、劉安世らは皇帝お気に入りの劉婕妤を誹謗し、皇帝に恥をかかせようとしたのだと言い出した。章惇はこうして皇帝の怒りを引き出し、祖禹と安世を流罪に処すことに成功する。これと同時に、哲宗と亡き宣仁太后との離間策を弄した。

なお『長編』にも范祖禹の上奏文が長々引用されているが、李燾の注によると、『新録』の記事が簡略であることから(蔡京の手になる『旧録』は記事が存在しなかったらしい)、安世の奏議集である『尽言集』(及びその子の手になる「追記」)、『祖禹家伝』(祖禹の息子が作った祖禹の伝記)及び、呉并の『漫堂随筆』を利用して増修したと云う。

事件の原因である、乳母を求めた理由、および劉婕妤との関係は、明らかでないらしい。李燾の注に拠ると、馬永卿の編輯になる安世の『言行録』を引いて、「宣仁、安世の上疏に因り、始めて其の事を詰窮せるに、乃ち乳母を雇いし者は劉氏たるを知るなり。宣仁怒りて之を撻(むちう)つ。是に由り、劉氏深く安世を怨望す。其の後、専ら寵せられ、孟后幽廃せられ、位を中闈に正し、是を昭懐皇后と為す」との記事を載せるが、他書になく信頼できないとの案語が見える。

なお范祖禹の上疏は「乞進徳愛身疏」「上太皇太后乞保護皇帝聖体疏」(『范太史集』巻18)に、劉安世のものは「論不御講筵及求乳母事」(『尽言集』巻12)に見える。


(03)九月乙卯(二十九日)、皇后孟氏を廃した。

これ以前、劉婕妤が皇后孟氏と景霊宮(1)に赴いたときのこと。皇后が勤めを終えて座に着くと、嬪御(2)のものは側に立っていた。しかし婕妤だけは皇后に背を向け、御簾の下に立っていた。部屋にいた陳迎児はこれを叱ったが、婕妤は気に留めなかった。このため部屋のものはみな憤った。

冬至の日(3)、隆祐宮(4)に出向いたときのこと、〔別の部屋で太后を到着を待っていた。その時、〕皇后は朱髹(5)の金飾に座ってた。〔宮中の決まりでは、皇后にのみ許されたものだったが〕婕妤もそれを望んだ。すると従者が心を読み、皇后のものと同じものに座を変えてしまった。このためその場のものはみな穏やかでなかった。その時、「皇太后がお出になられた」という声がした。皇后は立って太后を待ち、婕妤もまた立って待った。〔ところが太后が現れないので、各々〕また座ろうとすると、〔不満を持った〕女官が婕妤の座を取り払っていたので、婕妤は地面に倒れてしまった。婕妤はこれを怨みに思い、もう太后に謁見しようとせず、泣いて〔出て行き、〕帝に訴えた。内侍(6)の郝隨が婕妤に言うには、「こんなことでくよくよしてはなりません。大家(天子)のために早く子をお生みになることです。そうすればこの座は本当に貴女のものになりましょう」と。

福慶公主(孟后の娘)が病に倒れたときのこと、皇后には姉がおり(7)、医術に通じていた。むかし皇后を治療したことで、宮中への出入りを許されていた。公主に薬が効かないというので、姉は道家の用いる治癒の符水を持参した。皇后は驚いて、「お姉様、宮中では厳禁です。外とは違うのです」と言い、左右のものに符水を取り置かせた。そうして帝が〔公主の見舞いに〕訪れるのを待って、事細かに理由を説明した。帝が「人ならだれでもすることだ」と言ったので、皇后は符を帝の前で焼いた。しかし宮中では邪法で人を呪っているという噂が起った。

ほどなく皇后の養母の聴宣夫人燕氏と尼の法端(8)が皇后のために祈祷していると伝えられた。帝は入内押班梁従政などに命じ、皇城司を派遣して訊問させた。宦官や宮妾三十人を逮捕したが、拷問は厳しかった。体は激しく傷つけられ、舌を断たれるものさえ出る有様だった。

取り調べが済むと、〔侍〕御史の董敦逸に調査させた。内廷を過ぎる罪人は息も絶え絶えで、一人として声を出せる者はいなかった。敦逸は筆を執ったものの、冤罪を疑い、筆を下すことができないでいた。しかし郝隨などが脅迫すると、敦逸は禍を畏れ、〔疑獄を断ぜず〕報告書を提出した。詔を下し、皇后を廃して華陽教主・玉精妙静仙師とし、法名に沖真を授け、宮中から出して瑤華宮(9)に居らせた。

この時、章惇は宣仁太后による皇帝廃立の謀略を誣告しようとしていた。そこで孟后のことを利用し、宣仁にまで罪を着せようとした。また裏で劉婕妤と結託し、劉氏を皇后とするように訴えた。そこで郝隨とこの獄を捏造したのである。世の人々はこの事件を冤罪だと言った。

二十日あまり後、敦逸は「孟氏廃后につきましては、事件に因縁があり、人情に深く考えねばならぬ点が御座います(10)。私は獄を取り調べましたが、〔その時に正しく判断できなかったため〕天下に罪を免れないでしょう」と訴えた。帝は敦逸を罰しようとした。しかし曾布が「陛下は近習に獄を治めさせました。ですから〔世間の信用を得るために、朝廷の官僚である〕敦逸に調査させたのでしょう。今ここで敦逸を罰したら、どうやって世間の信用を得られるのです」と言ったので、止めにした。

『通鑑』『続綱目』に同じ。ただし『続綱目』は干支(乙卯)を省く。もとは『宋史』孟皇后伝に基く。原文「此人之常情」を、『宋史』は「此人情之常」とする。『通鑑』『続綱目』は原文に同じ。九月乙卯の日付は同哲宗本紀に拠る。また『長編本末』巻113(立后)と『事略』巻14(世家2の孟皇后伝)に同様の記事が載る。『長編』の欠落部分なので参考資料は少ないが、『綱要』巻13や『備要』巻24も、事件の経過は同じ。ただ『長編本末』は甲寅の日に上批が出たとするが、『綱要』は前日の乙卯の日に係けている。訳文中の大幅な補入は『紀事本末』に拠る。

(1)景霊宮。太祖以下の御容を収めた所。

(2)嬪御。天子に仕える女性で、劉婕妤もその一人。だから彼女も皇后のもとに立って侍る必要があった。

(3)冬至。何年の冬至かは不詳。

(4)隆祐宮。皇太后向氏の宮。

(5)朱髹。赤い漆塗りのこと。

(6)内侍。宋代の宦官の通称。

(7)孟皇后の姉。『建炎以来繋年要録』は妹とする。

(8)聴宣夫人燕氏と尼の法端。不詳。他にこの事件には王堅という男も関わったが、三人とも死刑になった。

(9)瑤華宮。仁宗の景祐二年に名を賜ったもので、もと安和院といい(『長編』)、都の西方、金水門の外にあった。また仁宗の廃后郭氏の居所でもある。

(10)「事に因る所有り、情に察すべき有り」。『曾公遺録』に見える解釈では、前半は劉皇后から孟皇后に嗾けたことを、後半は孟皇后の行いは皇帝の意を引き留めるための人情に過ぎないことを指しという。

以下、『長編本末』を利用して朝廷の動向を記しておく。

紹聖三年九月甲寅(または乙卯)に上批が、丙辰に詔勅が下され、廃后が決定する。また孟后の父(孟在)の左遷が決まり、同時に事の元凶の王堅・法端・燕氏を斬(死刑)に処すことが決まる。その案件が三省・枢密院に降り、章惇・李清臣・曾布・許将・蔡卞ら宰執と法直官(司法官僚)とに協議させた。法官の中には極刑に反対する声もあった。その理由は、謀議は実施されなかったこと、および邪法の方法に錯誤があり、実施しても成功するはずがなかったことにあった。しかし、曾布が「邪法を実施しようとしたのは事実だ」と発言し、反論が消え、三人の処刑が決定する。このとき章惇は何も発言せず、後々に問題を残した。なお曾布の発言の信憑性が問題となるが、彼の日記である『曾公遺録』にも触れられているので事実であろう(本項の元符三年五月丙子参照)。

曾布の発言に「此の事(廃后及び疑獄)、施行すること已に久し。幸いにして議論無し」とあるごとく、当時は廃后の如き重大事件でも、見て見ぬふりをする官僚がほとんどたっだらしい。しかし陳次升だけは廃后に反対した(陳次升「行実」に拠る。また『拾補』紹聖三年九月条を参照)。陳次升の反対上奏文の提出時期は九月に繋る。陳次升が廃后に反対した理由は、「廃后の原因追及の如き重大問題が、宦官のみの審査で決定されては、信頼性を保障できない。もう一度、世望のある中立な官僚を使って審査させ、事実を明らかにすべきだ」というものであった。この発言は無視されたが、十月壬戌に事件の審査を行った董敦逸自身が廃后の冤罪を訴えた。これも無視されると、敦逸はさらに丁丑の日にも再び訴え出た。

これに哲宗は激怒し、ただちに敦逸を御史から外し、処罰するよう宰執に言いつけた。宰執の中、哲宗に反対する章惇・曾布・許将と、迎合する李清臣・蔡卞との間で一悶着あったが、曾布が強行に反対してその場は収めた。反対した理由は本文に見える通り、もともと董敦逸に獄を審査させたのは、廃后の決定に正当性を付与するためであった。廃后に至る一連の事件は、すべて宦官主導で進んでいた。このため世論の不信を買っていた。そこで朝廷の御史を審査に迎えることで、廃后に正当性を付与しようとしたのである。ところがその官僚を処罰しては、廃后の正当性が失われることになる。曾布の理屈はこうであった。曾布が哲宗に処罰を思い止まらせた言葉は、曾布の日記『曾公遺録』にも記載がある。ただし曾布に拠れば、董敦逸を庇うための発言であったらしい。

他に孟氏廃后の史料として「廃皇后孟氏批語」、「廃皇后孟氏語」(『宋大詔令集』巻20)がある。また陳次升の反対上奏文は、彼の奏議集『讜論集』巻1(上哲宗論内治)中に収められている。


(04)元符二年(1099)九月丁未(二十八日)、賢妃の劉氏を皇后とした。

皇后は多才多芸で、帝の寵愛を専らにしていた。既に孟后を冤罪で廃し、章惇は内侍の郝隨や劉友端と結託し、賢妃を中宮にするよう訴えた。当時、帝にはまだ儲嗣(後継ぎ)がなかった。ちょうど賢妃が子の茂を生んだので、帝は大そう喜び、ついに立后の運びとなった。

「当時」以前は『宋史』劉皇后伝に同じ。子供が生まれたのは、元符二年八月戊寅(『長編』元符二年閏九月乙未條の注)、名は茂。

劉氏立后までの道のりは、以下の通り。

「昭懐皇后劉氏、贈太師・東平郡王安成の女。初め、宮に入り御侍と為る。紹聖元年四月、平昌郡君に封ぜらる。二年五月、美人に進む。十月、婕妤に進む」(『宋会要』后妃一之五)。婕妤から少し飛ぶが、五ヶ月で婉儀に進み、紹聖四年九月「己卯、婉儀劉氏、位を賢妃に進む」(『長編』巻四百九十一)。「元符二年、立てて皇后と為し、册礼を行う。三年五月、元符皇后と号す。崇寧二年二月、号を太后に進む。五月、册礼を行い、崇恩宮に居る。政和三年二月九日、崩ず。〔年三十五〕諡を昭懐と曰う。五月二十七日、永泰陵に陪葬し、太廟の哲宗の室に祔す」(『宋会要』后妃一之五)。

『長編』に拠ると、紹聖四年冬十月辛巳朔に三省の言として、「賢妃劉氏、冊命を罷めんことを乞ふ」とあり、哲宗はこれに従っている。しかし元符二年八月戊寅に皇子が誕生したことで、皇后冊立の動きは速まり、九月辛丑に宰臣章惇らの上章があり、同丙午に詔勅が降り、丁未に劉氏を皇后とた。後、以下に見る鄒浩の反対に遭うも、丙寅に文徳殿にて皇后の册を発して、儀式は完了する。なお劉氏の立后には、向太后の許可があったとされているが、そのお墨付きの文章に内侍劉端友と宰相章惇の改竄が加わっていたというので、後に物議を醸すことになる。後段の元符三年五月丙子参照。

他に劉氏立后の史料に、「立賢妃劉氏為皇后詔」、「立劉皇后制」(『宋大詔令集』巻19)、「册劉皇后文」(同巻20)がある。


当時、鄒浩は「章惇は不忠にして帝を軽んじている」と弾劾していたが、まだその返答を得る前に劉皇后が立てられた。

鄒浩は意見書を提出してこう言った。

皇后を立て天子に配することは、最も慎しまなければなりません。今、天下の為に母を択びながら、立てたものは賢妃でした。この知らせを受けた時、世の公論で戸惑わぬものはありませんでした。誠に国家にはおのずから仁祖の故事があり、それに遵わねばならぬからに他なりません。かつて〔仁祖の時に〕郭皇后と尚美人が寵愛を競うたとき、仁祖は后を廃されると、美人をも斥けられました。これは公平なることを示されたからに御座います。皇后を立てられるに際しましては、妃嬪の中から択ぶ様なことはなさらず、貴族より択ばれました。それは嫌疑を遠ざけるためであり、天下万世の法となさるために御座いました。

陛下が孟氏を廃されたことと郭皇后のことに異なるところは御座いません。しかし本当に劉賢妃と寵愛を争い罪を招いたのでしょうか。〔もしそうなら仁祖の故事に照らして、賢妃も斥けねばなりません。〕あるいはそうではなかったのでしょうか。〔そうでないなら、これも仁祖の故事にならい、妃嬪を皇后に立てず、貴族から皇后を選び、嫌疑を遠ざける必要が御座います。〕二者の中、必らずその一つに御座います。

孟氏を廃された時、賢妃を皇后にすることを疑わぬものはおりませんでした。しかし詔書の中に、「別に賢族から択ぶ」との言葉があるのを目にしました。また陛下は朝廷に臨まれ、「廃后は甚だしい国家の不幸である」と仰せになりました。さらに宗景(1)が妾を〔妻に〕立てたいと願い出たとき、お怒りになり、処罰なさいました。これらのことがあって、世の人々は始めて釈然と疑いがなくなりました。しかるにこの度ついに賢妃を皇后に立てられました。これが聖徳を損なわないでおれましょうか。

白麻(2)に言うところを観ますと、そこには〔賢妃に〕子がいることと、永平(3)と祥符(4)に前例があると言うに過ぎません。私はこの二者について論じさせて頂きたいと思います。

子があれば皇后に立てられるならば、永平の貴人に子はおりませんでした。皇后に立てられたのは、その徳が後宮に冠絶しておればこそに御座います。祥符の徳妃もまた子などおりませんでした。皇后に立てられたのは、名族であればこそに御座います。まして〔永平の〕貴人は馬援の娘であり、〔祥符の〕徳妃は〔立后以前に〕廃后の嫌疑などありませんでした。今日とは明らかに状況が異なっております。

先頃の冬、賢妃は〔陛下に従い〕景霊宮の祭に参加しましたが、この日の雷鳴は甚だ尋常ではありませんでした。また今日におきましては、〔立后の〕制書を宣せられた後、長雨にして雹が降りました。天地宗廟に報告なされてより以来、長雨は止みません。ならば上天の意図するところは明かに御座いましょう。

人事に考えても既に先ほどの通りに御座います。また天意に是非を求めても、またこの通りに御座います。願うらくは、一時の改命を難しいとなさらず、万世の公議を畏れられ、立后の礼を止め、当初の詔のように〔貴族から皇后を選び〕なさいますようお願い申し上げます。

帝は真宗の劉徳妃の立后を指し、「これもまた祖宗の故事だ。私だけではない」と言った。すると鄒浩は「祖宗の大徳には倣わねばならぬことが多く御座います。しかし陛下はそれらに倣われることなく、かえってそのような僅かな疵に倣おうとしておられる。後世のものが我らを批判して止まぬことを恐れる次第です」と言った。帝は顔色を変えたが、なおも怒ることなく、その意見書を手に四方を見て、深く物思いに耽った。そこで〔浩の意見書を〕外廷に下げ渡した。

次の日、章惇は浩の発言は事実無根であると弾劾した。浩は除名勒停(降格人事)となり、新州(5)に羈管(6)された。

尚書右丞の黄履は「浩は帝に抜擢されたが故に、敢えて尊顔(皇帝の顔)を犯し、忠言を納れました。陛下がにわかに浩を死地(7)に放逐されたとあっては、人臣は浩のことを戒めとし、もはや陛下の為に得失を発言しなくなるでしょう。善地(開封府近郊)を授けていただきたい」と言ったが、聞き入れられなかった。

文章の配列や文字は『通鑑』『続綱目』に同じ。もとは『宋史』鄒浩伝。黄履の言動は同黄履伝に拠る。黄履はこれに坐して知亳州に貶された。訳文中、補入した部分は、鄒浩の原疏(『道郷修』巻23「諫哲宗立劉后疏」)に拠った。鄒浩の上奏は元符二年九月甲子に繋り、黄履の処罰は元符二年閏九月辛巳に繋る(いずれも『長編』該当條)。李燾の自注に拠ると、黄履の言葉は概ね『徽宗実録』に依るものらしい。他にも黄履失脚の詳細が語られるが、今は省略に従う。

(1)宗景云々。宗景が妾を妻にしようとしたのは、「(紹聖三年)十二月辛酉、宗景、妾を立つるを以て上を罔するに坐し、開府儀同三司を罷め、判大宗正司事とす」(『宋史』哲宗紀)、及び「宗景、其の夫人を喪ひ、将に妾を以て室に継がしめんとし、先に之を外に出して、託して良家の女と為し且に納めんとす。坐して開府を奪はる」(同宗景伝)とある。また陳次升に弾劾文があり(『讜論集』巻1「上哲宗論宗景以妾為妻状」)、『皇朝名臣奏議』巻32の注に拠ると、「紹聖二年十二月上る、時に殿中侍御史たり」とある。

(2)白麻。詔勅の一種。宰相から皇帝に上げられ、再び下される黄麻と異なり、皇帝から直接下されるもの(つまり翰林学士が書くもの)。『石林燕語』巻3を参照。

(3)永平および永平の美人。後漢明帝の明徳皇后を指す。彼女は馬援の娘である。なお後宮に冠絶云々は、『後漢書』明徳皇后紀中の「馬貴人徳冠後宮」に依る。

(4)祥符および祥符の徳妃。章献明肅劉太后を指す。

(5)新州。今の広東省の南。配流先としては最悪なものの一つ。

(6)羈管。一定区域に拘束すること。刑罰の一つ。

(7)死地・善地。都に近いほど善地とされ、優遇されたことになる。処罰されて遠くに流された官僚は、段階的に都に近い土地に移り、最終的に赦される。また北に住む人にとって気候の激変する最南端の広東は死出の旅であった。だから広東に飛ばされるのは、死地を与えられたに均しい、ということになる。


陽翟の田昼は、議論慷慨、浩と気節を競っていた。劉皇后が立てられたとき、昼は人に「志完(鄒浩の字)が諫言せぬなら絶交だ」と言っていた。浩が処罰されると、昼は道すがらこれを出迎えた。浩は涙した。昼は厳しい顔をして浩を責めた。――「もし志完が諫言せず、京師で官僚であり続けても、寒気に襲われ汗をかかぬこと五日にもなれば、死んでしまうのだ(1)。なにも嶺外の地だけが人を殺すわけじゃない。どうか君はこのことに満足しないで欲しい。士として為さねばならぬことは、これだけではないのだ」と。浩は呆然とし、「君の贈りものはなんと手厚いのだろう」と感謝した。

浩は諫言に先立ち、友人で宗正寺簿の王回に相談した。

回、「言責に任ずる者として、これ以上のものはない。子供は親が健在でも、孝を移して忠となすものだ。ましてや、それこそが母君の日頃の志(2)ではなかったか。」

浩が南方に左遷されると、誰も見送ろうとしなかった。しかし回は交遊者から銭を集めて浩に与え、旅の身繕や往来の経理をし、また浩の母を慰めた。見回りの者の報告のため、天子の命により、取り調べられることになった。人々は懼れをなしたが、回は落ち着き払っていた。御史が〔浩のことを〕叱責すると、回は「確かに前もって相談に預かった。敢えて嘘を付こうとは思わぬ」と言い、浩の意見書二千言余を暗誦してみせた。審査が終了し、除名停廃となった。回は〔罰を言い渡されると〕すぐに歩いて都の門を出ていった。行くこと数十里、子供が追いつき、家事を尋ねたが、何も答えなかった。

また曾誕というものがいた(3)。かつて浩に手紙を送り、孟后について意見するよう勧めたが、浩は従わなかった。浩が放逐されると、誕は『玉山主人対客問』(4)を書き、浩を非難した。――〔浩は前もって〕孟后の廃を諫めることができず、〔劉后を立てるという〕朝廷の過失が明かになってから、ようやく諫言した。これは時機を知らぬものだ、と。

『宋元通鑑』『続綱目』に同じ。劉氏立后以下、文章の選択と文字は『宋元通鑑』に合致する。もとは『宋史』鄒浩伝附載の田昼・王回・曾誕の伝記から抜粋したもの。現存の『長編』にはこの三人の話は掲載されていない。

(1)寒気云々。『霊枢経』第二十三(熱病)「三日不汗、四日死」に依って訳した。

(2)母君の志。『宋史』鄒浩伝に「初め、〔浩〕の諫官に除せられしとき、親の憂いを貽すを恐れ、固辞せんと欲す。母の張氏曰く、『児、能く国に報じ、公論に愧ずること無ければ、吾れ何の憂いを顧みん』と。浩の両つながら嶺表に謫せらるるに及ぶも、母は初意を易えず」とある。

(3)曾誕。隠者のように振る舞っているが、実は神宗初期の宰相曾公亮の従孫で、貴顕の出である。

(4)『玉山主人対客問』。その大略が『東都事略』巻100(鄒浩伝附)に載っている。「客問う、鄒浩は有道の士と謂うべきか。主人、客に告げて曰く、浩、安んぞ道を知ると為すを得ん。然りと雖も、余は此の時に於いて浩を議すること、是れ天下に全人無ければなり。之を言ふは、尚ほ来世の戒と為すに足れり。易に曰く、『幾を知るは、其れ神か』と。又た曰く、『進退存亡を知りて、其の正を失わざる者は、其れ惟た聖人か』と。皇后の廃に方り、人として劉氏の将に立てんとするを知らざる莫し。四年の後に至りて、冊命未だ行はれず。是れ天子、清議の畏るに足るを知ればなり。余、三たび書を浩に移し、之をして力めて后を復するを請はしむ。浩、皆な答へず。其の時をして、浩、力めて后を復すを言ひ、能く天子を感悟せしむれば、則ち劉氏の事もて、朝廷に過挙を貽す無し。再三言ふも聴かれざれば、則ち義も亦た当れり。其の時をして罪を得たらしむも、必ず老母に憂いを貽すに至らざるなり。烏虖、浩の若き者、幾を知ると為すを得ずと雖も、然も百世の下、頑夫は廉に、懦夫は立志有れば、尚ほ聖人の清と為すを失わざるなり」とある。


(05)閏月、皇子の茂が死んだ。

『通鑑』『続綱目』『宋史』、いずれもほぼ同じ。閏九月乙未のこと(『長編』該当條)。若干補うと、「献愍太子茂。元符二年八月に生まれ、閏九月に薨ず。名を追賜せられ、太師・尚書令を贈られ、越王に封ぜらる。諡を沖献と曰う。三年三月、燕中書令を贈り、鄧王に封ぜらる。崇寧元年十二月、皇太子を贈られ、諡を改めて献愍と曰う」(『十朝綱要』巻11)「燕中書令」は、『宋会要』帝系三之十に「長子贈太師・尚書令・越王茂、贈兼中書令・鄧王」とあるように、兼中書令の誤り(『長編』閏九月乙未條の注も同じ)。


(06)三年(1100)春正月己卯(十二日)、帝が崩じた。子がなかったので、弟の端王の佶が即位した。


(07)辛巳(十四日)、皇后劉氏を尊んで、元符皇后と言った。


(08)五月丙子(十日)、哲宗の廃后孟氏を復して元祐皇后とした。

哲宗は崩ずる前、孟氏の廃后を悔やみ、いつも「章惇は私の名節に傷をつけた」と嘆いていた。このため向太后は孟氏の位をもどそうとした。ちょうど布衣(1)の何大正が意見書を提出し〔孟氏の位をもどすよう主張したので〕、この詔が下ったのである。孟氏は瑤華宮から禁中にもどった。

陳邦瞻の評。陳瓘は廃后の事を論じてこう言った。――「この原因は元祐の説にある。神考(2)の継承を主張し、心に宣仁の報復を抱く者は、元祐を念頭に置いていた。例えるならば、草を刈るとき、根っ子から取り除くようなものだ。瑤華こそ宣仁の厚遇した人だった。万に一も政事に預かることがあれば、元祐の復活が考えられぬわけではなかった。だから大臣らは草を刈る心持ちで、瑤華を廃さずにおれなかったのだ。経術を知る者は独り心に謀り、政柄をつかさどる者は独り手に断ずるもの。その心の通りに事が運ぶとき、みずから密計なりと思うものだ。しかし事の機微を読み取る学者の目からは逃れ難いのだ」と。嗚呼、小人がその君主を愚昧に導くこと、これほどであろうか。なんと畏るべきことではないか。人の情は父子より親しきものはなく、夫婦よりむつまじきものはない。ところが李林甫(3)が用いられてより、明皇(4)は子を守ることができず、蔡卞や章惇の計が行はれてより、哲宗は妻を守ることができなかった。哀しいことではないか。

『通鑑』『続綱目』同じ。もとは『宋史』徽宗本紀と同孟后伝に拠る。何大正の文章の内容は不明。また陳邦瞻の案語中の陳瓘の発言は、『皇朝文鑑』所収のものと『綱目備要』所載のものとで論旨が異なるので注意を要する。

(1)布衣。庶民のこと。

(2)神考。神宗のこと。

(3)李林甫。唐の玄宗の宰相。古典的には頗る評判が悪い。

(4)明皇。唐の玄宗皇帝のこと。

瑤華の復位は『長編』『長編紀事本末』ともに欠巻の部分に当る。『宋史』以外では『曾公遺録』巻9(五月癸酉條以下)、『東都事略』孟后伝、『綱目備要』元符三年五月条、『長編拾補』元符三年五月条などがある。何れも日時を明白にし難いが、以下には曾布の記録を利用し、やや詳しく記述しておく(『揮麈録』後録巻1の記述は曾布の記録を本にたもの)。なお日付は元符三年五月丁卯朔、戊辰(二日)、己巳(三日)、庚午(四日)、辛未(五日)、壬申(六日)、癸酉(七日)、甲戌(八日)、乙亥(九日)、丙子(十日)である。

瑤華復位の話は、少なくとも四月以前にはあったらしく、向太后より韓忠彦(四月甲辰より右僕射兼中書侍郎)を介して、曾布・李清臣らに打診があった。曾布に拠ると、「未だ生きながら位号を復する者有らず」、異義の出る懼れがあることから、太后の意向を見計らいつつ、水面下で折衝を続けることになった。四月に至っても太后の意向に変化がなかったため、五月に入り、場を都堂(宰執の政治の場)に移して、三省で意見の収拾に入った。

都堂では、宰相章惇と韓忠彦・曾布らの間で意見の交換が行われた。瑤華の獄に於ける章惇の態度に問題のあったこと、元符皇后を冊立する際にお墨付きを与えた向太后の手詔の文言が、章惇から出ていたことが暴露され、事態は紛糾する。それでも辛未、壬申、癸酉をかけて韓忠彦の手で聖旨の草案が固められる。一方、癸酉に太后から元符皇后を廃して瑤華を復すべきことが告げられ、曾布以下の反対にあう。曾布の説得の結果、結局、元祐・元符の両皇后を「両存」すべしとの太后の言葉をもらい、ひとまず事態は落ち着く。そこで皇帝(徽宗)から、世間の騒擾を避けるべく、瑤華を宮廷に入れて後、位号を復すべきことが提案される。結果的には、徽宗の希望もあって、事態は臣僚の意向で事が進んだことにした(『事略』本紀同日に太后の詔が載る)。

甲戌、乙亥の日に瑤華を宮中に入れることが決まる。乙亥、丙子に院を鎖して制を降し、復して元祐皇后とすべきことが決まる。同日、瑤華が犢車で禁中に還る。「中外の聞く者、歓呼せざるなし」。丙子、元祐皇后に復する制が降される。

元祐皇后は徽宗の発案で西宮に居ることなる。また太后の意向で、「須らく元符をして先に拜し、元祐をして答拜すべければ、乃ち順」、「将来、須く元祐をして霊駕に従はしめ、元符をして只だ虞主を迎えしめば可なり」と決まり、瑤華復位の議は終わる。

瑤華復位が問題となった日時は明らかにし難い。陳瓘に「論瑤華不当遽復何大正不当遽賞」(『皇朝文鑑』巻61)があり、文中に「臣二十二日、奏稟職事、因論朝廷之議、未及瑤華、而先賞何大正等、失於太遽」とある。陳瓘の左正言就任は三月甲戌(七日)に繋れば(『長編本末』巻129「陳瓘貶逐」)、陳瓘の発言は、上限は三月七日以後、下限は四月二十二日以前(瑤華復位が都堂で話し合われるのが五月五日日以前なので)となる。何大正の発言は徽宗の聴政が始まる二月以後、陳瓘の発言の下限である四月二十二日以前になる。

因みに「復元祐皇后制」(『皇朝文鑑』巻36)は蔡京(当時、翰林学士承旨)の手になるが、再び皇后を廃すべく、巧妙に文言を作ったとの指摘もある(『拾補』の注参照)。


(09)徽宗の崇寧元年(1102)冬十月甲戌(二十三日)、再び元祐皇后孟氏を廃した。

当時、元符皇后の側にいた宦官の郝隨は、また元祐皇后を廃すよう蔡京を唆した。しかしまだ隙がなかった。ほどなく昌州判官の馮澥が意見書を提出し、孟氏を復后は間違いだと主張してきた。かくして御史中丞の銭遹は、殿中侍御史の石予や左膚と意見書を提出した。

韓忠彦などは布衣に過ぎぬ何大正の狂言に乗じ、瑤華の廃后を復し、流俗の虚美を掠め取りました。当時の世論は当然ながらどよめき、辺境の小官吏が都までやって来て、批判書を奉るほどでした。まことに忠義激切、天下の公議は明らかです。願うらくは大臣に是非を論究させ、大義によって断じていただきたい。流俗非正の論に牽かれ、聖朝の徳を損なわぬようにしていただきたい。

蔡京は許将、温益、趙挺之、張商英とともに御史の説を支持し、紹聖三年九月の詔書(孟后の廃)に従うよう訴えた。帝はやむを得ず、それに従った。詔を下し、元祐皇后の号を罷め、また孟氏を瑤華宮に出した。加えて、元符の末に孟氏の復后を支持した者を処罰した。――〔前の〕宰臣の韓忠彦と曾布を降格し、李清臣を雷州司戸参軍に左遷し、黄履を祁州団練副使に左遷した。また翰林学士の曾肇、御史中丞の豊稷、諫官の陳瓘と龔夬など十七人を遠州(開封府から遠く離れた州)に安置した。

文章の選択から文字まで『宋元通鑑』に合致。『続綱目』もほぼ同じ。もとは『宋史』徽宗本紀、及び同孟皇后伝、銭遹伝に拠っている。原文は銭遹伝の記述を改変しているため、やや文章が混乱している。

時系列で配列すると、訳文の最後が先になる。つまり(1)銭遹は中丞になった後、韓忠彦らが元符末に孟后を復し劉后を廃そうとした罪を論じて、韓忠彦・曾布らを処罰させた。それを受け、(2)再び同僚とともに元祐皇后を廃して瑤華宮に出すように論じる。更らにそれを受けて、(3)蔡京らが孟后を廃するように皇帝に訴え、(4)皇帝はそれに従った、という流れになる。

『綱要』に拠ると、崇寧元年八月丁酉に「元符の末、臣僚、元祐皇后を復し、並びに元符皇后を廃するを議するの罪を治め、韓忠彦・曾布等、責降す。李清臣・黄履、追貶すること差有り」云々と、訳文最後の人名が列挙される。そして十月甲戌に「御史中丞銭遹・殿中侍御史石予・左膚及び蔡京等の言を以て、詔して元祐皇后の号を罷め、復た瑤華宮に居らしむ」とある。『宋史全文』に拠ると、銭遹らの廃后の議は十月壬申の日に繋る。

廃后の発端はである馮澥の上奏時期及びその文章は不詳。『備要』も孟皇后伝と同じ記述しか記載していない。銭遹の言に拠ると、「当時物議固り已に洶洶、乃ち疎逖小臣に至るまで、闕に詣で上書す」とある。文脈から「当時」は「復還廃后位号」した時期となる。ならば馮澥の上書は、元符末年に繋ることになる。

これにつき、『拾補』の注(元符三年五月甲午)は、『宋元通鑑』を引き、元符三年十月、蔡京が向太后に孟太后を再び廃すよう訴えたことを載せている(十月、蔡京復廃元祐太后、向太后力争不可、遂尊劉皇后為元符太后。但し『宋元通鑑』該当条にこの言葉はない)。蔡京は十月丙申(三日)に学士承旨を罷免されたので(『備要』『宋史全文』による)、時間的に不可能ではない。また向太后は翌年の建中靖国元年正月甲戌に崩御しているので、蔡京が太后に廃后を進めることのできた時期は、元符三年十月以外に有り得ない。

『宋元通鑑』が何に基づいたのか不明だが、正確な記事でないことは明白である。例えば、廃されたのは元祐皇后であり、元祐太后が廃されたことは一度もない。また劉皇后を太后にしたのは崇寧二年のことで、向太后崩御後の話である。なお、孟氏は再び廃后された後、「希微元通知和妙静仙師」を加えられた(『宋史』孟皇后伝)。


(10)十二月、哲宗の子の茂に追諡して献愍太子とした。

これ以前、鄒浩は新州から召還され、帝(徽宗)に謁見したときのこと。帝はまず立后諫言の件に触れ、再三にわたり褒め称え、その草稿は所在を尋ねた。浩は既に焚いたと答えた。浩は上前を退き、これを陳瓘に話した。瓘、「禍はここにあろうか。後日、邪悪な者が〔偽造した〕意見書を出しても、君は弁解できまい」と。

蔡京が権勢を握ると、一味の者に浩の意見書を偽造させた。そこには「劉后は卓氏を殺してその子を奪い、自分の生んだ子だとした。人を欺くことはできよう。だが天を欺くことはできはしない」などの言葉があった。帝は事実を解明させ、ついに〔亡き哲宗の子の〕茂を太子とし、浩を昭州(1)に竄した。

『通鑑』『続通鑑』に同じ。ただし「十二月辛酉」に係る。もとは『宋史』徽宗本紀、献愍太子伝、同鄒浩伝に拠る。また原文「帝詔暴其事」を『宋史』は「帝昭暴其事」に作る。

(1)昭州は広東の地名。

以下、鄒浩の偽章疏について。『長編』九月甲子条の注に拠ると、鄒浩の復官は元符三年二月二十四日に繋る。また同注に、鄒浩の偽の章疏が掲載されている。また『道郷集』巻23「諫哲宗立劉后疏」(『丁未録』から転載)にも注引されている。鄒浩の処罰は崇寧元年閏六月丙寅に繋る(『長編紀事本末』巻129)。

『長編』に拠って鄒浩の偽章疏を抜き出すと、「臣、陛下の為す所を観るに、傑紂に愈さり、幽王より甚しきなり。卓氏を殺して之が子を奪う、人を欺くは可なるも、詎んぞ天を欺くべけんや。卓氏に何の辜あらん。傑紂より愈さらざるを得んや。孟氏を廃して劉氏を立つる、陛下の志を快ならしむるは可なるも、劉氏に何の徳あらんや。幽王より甚だしからざるを得んや。臣、祖宗に唐虞堯舜の徳有るも、陛下に傑紂幽王の行有るを観る。識らず、陛下寝食安きや、居処安きやを」云々とある。


(11)二年(1103)二月、元符皇后劉氏を尊んで、皇太后と言った。宮名を崇恩とした。


(12)政和三年(1113)二月、太后劉氏が自殺した。

帝は哲宗のこともあり、劉太后に恩礼を加えた。しかし劉太后は外事に干渉し、また不謹慎な噂話も伝えられた。帝は廃后について輔臣と議論していたが、ほどなく劉太后は左右の者に迫られ、すだれ掛け(1)に首を括って死んだ。諡を昭懐と言った。

『通鑑』『続綱目』に同じ。ただし劉皇后の死に「年三十五」の言葉を挟む。もとは『宋史』徽宗本紀、同劉皇后伝に依る。

(1)すだれ掛け。原文「簾鉤」で、すだれを巻き上げ、とめておく鍵形の金具のこと。

劉太后について。『綱要』巻11によると、崇寧二年二月甲寅(五日)に皇太后となる。また五月丙午に昭懐皇后を永泰陵に葬られ、六月癸亥に昭懐皇后の神主を大廟に祔した(『宋史』本紀)。『宋会要』礼三十四に喪礼の記載あり。崩御は政和三年二月九日。

劉太后にまつわる逸話。「二月、崇恩太后劉氏、暴に崩ず。○后、其の才を負い、毎に曰く『章獻明肅、大いに誤れり。何ぞ裏より幞頭を起こし、出でて百官に臨まざる』と。上、嘗て蔡京に謂ひて曰く『朕、前日大病あり。那箇、便に垂簾の意有り』と。那箇とは、后を謂うなり。又曰く『朕、関防せざるを得ず。人をして殿門に当り之に剣を与えしめ、若し宣召に非ざれば、問何人なるかを問う勿く、門に入る者は便ち之を斬れと』と。是に至り、后は不謹を以て、疾無くして崩ず。死の日、天は黄霾の異常を為す。始め事覚し、上、輔臣に諭し、后の謹まざることあり、且つ重きを以て不幸と曰う。京曰く『宮禁、比ごろ修造多し。凡そ事に防護を失えば、宜しく此等有るべし。且つ古今に自から故事有り。聖心の憂悶を煩わすに足らず』と。何執中、忽かに進みて曰く『太后の左右、陛下多く人を置き侍奉し、婦人女子を以て之に愧懼を加うるを願う。万一虞らず、則ち陛下、嫂を殺すの名を負うべからざるなり』と。上、愕然として因て曰く、『此に即て之を決するを欲せず。晩に当に卿を召し来りて議すべし』と。晩に果して復た輔臣を召し、既に殿に入り議して将に之を廃さんとす。而して太后已に崩ず。蓋し左右の逼る所と為り、自ら簾鈎に即きて縊す。上曰く『孟氏已に廃し、今崇恩又た廃すれば、則ち泰陵に配無し』と。会たま其れ已に崩ず、故に其の事を掩うと云うのみ」(『備要』二十八)


(13)高宗の建炎元年(1127)夏五月、哲宗の廃后孟氏を尊んで、元祐太后とした。

『宋史』高宗紀に拠る。元祐太后に昇格したのは五月辛卯(二日)のこと。

靖康の変に於ける孟皇后の動向は、『宋史』孟皇后伝の外、『事略』孟皇后伝、『長編本末』『靖康要録』『要録』『三朝』などに記録がある。以下、これらの資料を用い、高宗即位(靖康二年=建炎元年五月)までの孟皇后の動向を少しく記す。

大きい流れとして、金との交戦時、孟氏は都城外の瑤華宮にいたままだった。戦争で瑤華宮に火の手がまわり、火を避けて延寧宮に非難する。しかしそこも火事となり、相国寺前の私邸(一族の孟忠厚が住んでいた)に移る。欽宗は再び孟氏の位号を復すべく詔勅を作ったが、降す前に京城が陥落する。そのため欽宗以下宗室はすべて連行されたが、廃后にて籍が宮中になかった孟氏のみ開封に置き去りにされた。それが幸いしてか、金の圧力で皇帝になった張邦昌は、孟氏に宋太后の尊号を奉るととともに、延福宮に奉迎する。そこで孟氏は百官の朝礼を受け、元祐皇后なる尊号を上つられ、張邦昌の要請で禁中に入り、垂簾聴政を始める。

康王(後の高宗)の健在が明らかになると、馮澥らを派遣して康王を都に奉迎させる一方、手書を天下に下す。後、康王が南京応天府に到着すると、康王は皇帝の位に即いて改元し、それと同時に孟氏も垂簾を撤す。そこで高宗から元祐太后を贈られる(以上、『宋史』孟皇后伝)。以下、資料ごとの動向。

『靖康要録』で日時を験すると、靖康元年十二月十八日に瑤華宮の人間が延寧宮に非難している。同二年二月二十八日、延寧宮に火の手が回ったため、観音院を経由して私邸に非難する。四月四日、張邦昌が孟氏に尊号を上って宋太后とし、延福宮に移すことが決まる。五日、私邸より孟皇后を奉迎して延福宮に入る。七日、元祐太后(原文のまま)が册を受ける。

『長編本末』に拠ると、靖康二年四月甲子(五日)、「元祐皇后を私第に迎え、延福宮に入居す」。戊辰(九日)、「恭しく元祐皇后に垂簾聴政を請い」、「元祐皇后、尚書左丞馮澥を奉迎使と為し、権尚書右丞李回を之に副とし、詔を持し済州に往き康王を迎えしむ」。庚午(十一日)、「太后、内東門の小殿に御し、垂簾聴政す」。甲戌(十五日)、「太后、天下に書を告げ」、康王に皇帝位に即くよう促す。書は汪藻の手になる。癸未(二十四日)、「康王、応天府(南京)に次す」。戊子(二十九日)、「太后、使いを遣わし手書を齎し南京に往かしむ」。五月己丑朔、「康王、皇帝の位に南京に即く」(以上、巻150)。

『宋史全文』に拠ると、靖康二年四月癸亥(四日)、「邦昌、元祐孟皇后を册して宋太后と為し、延福宮に御す」とある。なお五月朔日の干支は、『長編本末』以外は五月庚寅朔である(己丑朔は建炎元年正月=靖康二年正月に合致する)。

『要録』に拠ると、靖康元年十二月乙丑、欽宗が「張若水と弊政を更張せんことを議し、乃ち后を尊びて元祐皇太后と為さんとす。已に詔書を草すも、未だ行うに及ばざるなり」。そして閏十一月己卯、瑤華宮より延寧宮に移り、二年二月戊子に「延寧宮に火あり、元祐孟皇后、徒歩にて相国寺前の私第に出居す」る。戊子の記事は『回天録』に拠ったとのことである。四月癸亥、張邦昌が元祐皇后に請い、延福宮に入ってもらう。そして手書を降して宋太后の尊号を上る(『回天禄』に拠る)。李心伝の自注によると、「蔡絛『国史後補』に云う、延福宮は国初に西宮と号す。蓋し太后嘗て之に居る。故に邦昌此の故事を用う」とある。戊辰、元祐皇后と尊号を上り、禁中に迎え入れる。庚午、元祐皇后、内東門の小殿に御し、垂簾聴政の開始。甲戌、元祐皇后、天下に手書を告ぐ(汪藻の文)。

なお李心伝の引用する清湛『回天禄』には次に様にあったという。「三月二日、延福宮に火あり。元祐皇后、徧徨して帰る所無し。歩にて相国寺の中の、前軍器少監忠厚が家に入る。……四月四日、張邦昌の手書を聞くに、乃ち改めて宋太后と曰う。……五日、元祐皇后、延福宮に入る。九日申未の間に至り、遂に百官を召し、太后、是を以て禁中に入る」

以上をまとめると、孟氏が私邸に戻るまでの月日は、状況が状況だけあまり信用できない。大雑把に日月を記すと、靖康元年の末に欽宗とその周辺で復位の謀議があり、その前後に瑤華宮から延寧宮に移る。翌年二月には延寧宮も火事になり、相国寺付近の自宅に避難した。金から迫られて帝位についた張邦昌は、四月四日、宋太后の尊号を送り、世間の関心を集める。以下、五日には私邸から延福宮に移る。七日に元祐太后と尊号が上られ、九日には奉迎使を康王に送る。十一日に禁中の内東門の小殿に御し、垂簾聴政を開始する。十五日に手書を天下に発布し、五月一日、康王の即位によって垂簾を撤す。以上のようになる。


(14)七月、元祐太后は金兵を避け、揚州(1)に移った。


(15)八月、元祐太后の号を改め、隆祐太后とした。「元祐太后の『元』の字が太后の祖父の諱を犯しているので、太后がお住まいの宮の名に代えていただきたい」という尚書省の訴えに従ったものである。


(16)〔二年〕(1128)冬十月、隆祐太后は杭州(2)に移った。


(17)三年(1129)秋七月、隆祐太后は洪州(3)に移った。


(18)〔冬十一月、〕また虔州(4)に移った。


(19)四年(1130)三月、帝(高宗)は使者を派遣し、隆祐太后を虔州に迎えさせた。

帝は輔臣に、「私は今まで太后を知らないでいたが、〔建炎の初め、太后を〕南京に奉迎した折り、私を己が子のように接された。今、太后は数千里の外に居られ、〔金との戦いで〕兵馬は乱れている。急ぎ太后を奉迎し、つねに太后を思うこの思慕の情を満足させよ」と言い、廬益・辛企宗などを派遣し、太后を虔州に迎えさせた。

(20)八月、太后は越州(5)に移った。

直接的な典拠は明確でないが、内容的には『宋史』高宗本紀、及び孟皇后伝に拠る。訳文中の大幅な補注は、『要録』より補ったものである。元祐太后の移動を記すにしては、本編の記述はあまりに杜撰である。南宋初期の政治的動向は他の篇に見えるため、本篇には言及がない。

(1)揚州。今の揚州に同じ。長江の北側。大まかには今の南京の上。

(2)杭州。今の杭州に同じ。後の南宋の都臨安。

(3)洪州。江西省(当時の江南西路)の北部。

(4)虔州。江西省の最南端。すぐ東が福建省。

(5)越州。杭州の横。つまり南宋の都臨安の隣。

太后は「昭慈聖献皇后、建炎元年を以て南京に至り、二年に維揚(揚州のこと)に在り、三年に虔に在り、四年に越に在り。而して后、紹興元年四月を以て升遐す」(『要録』建炎四年十有二月己卯条)というように、開封から南京、南京から建康、さらに洪州から江南西路を転々とし、高宗のいる越州(杭州の横)まで辿り着いたと考えられる。以下、元祐太后の動向(自建炎元年五月、至紹興元年四月)を、主として『要録』に拠って記しておく(『聖政』も略々同じだが、『要録』の方が詳しい)。

建炎元年(靖康二年)五月庚寅朔、兵馬大元帥康王、皇帝の位に南京に即き、建炎に改元す。元祐皇后、東京に在り。是の日、簾を撤す。辛卯(二日)、靖康皇帝(欽宗)を尊び孝慈淵聖皇帝と為し、元祐皇后を元祐太后と為す。既にして尚書省謂う、「元の字、后の祖の諱を犯す。請う、居る所の宮を以て称と為さんことを」と。詔して学士院に擬定せしむ。[汪伯彦『中興日暦』、「辛卯、元祐皇后を隆祐皇太后と為す」と。諸書皆之に同じ。臣謹みて案ずるに、宮名を上り尊称を改むるは、八月庚午に在り。諸書の誤なり。]

八月己未(二日)、元祐太后、京師を発す。庚午(十三日)、元祐太后の居る所に名づけて隆祐宮と曰う。学士院の擬定を用うなり。是に於いて、后、隆祐太后に更称す。隆祐、本と欽聖憲肅皇后の宮名なれば、当に用うべからず。蓋し権直学士院王綯・朱勝非、之を失せり。丁丑(二十日。『宋史』丙子=十九日)、隆祐太后、南京を発す。

十月戊午(二日)、隆祐太后、揚州に至る。

建炎二年十月甲子(十三日)、常徳軍承宣使孟忠厚に命じ、隆祐太后を奉じ杭州に幸せしむ。

十有二月乙卯(五日)、隆祐太后、杭州に至る。

建炎三年三月甲申(六日)、太后、魏国公と垂簾す(苗傅の乱)。甲午(十六日)、有司、太后を尊び太皇太后と為すも、許さず。

四月戊申朔、隆祐皇太后の尊号を上られる(苗傅の乱鎮定後)。己酉(二日)、上、太后と垂簾聴政す。

辛亥(四日)、皇太后、簾を撤す。丁卯(二十日)、上、杭州を発す。簽書枢密院事鄭瑴を留め太后を衛らしむ。

六月庚申(十三日)、隆祐太后、建康に至る。上、群臣を率い郊外に迎う。

七月壬寅(二十六日)、詔して、皇太后を迎奉し、六宮を率い、予章(『宋史』洪州)に往かしむ。

八月壬戌(十六日)(宋史、己未=十三日)、隆祐皇太后、舟に登り建康を発す。百官、内東門に辞す。上、猶金人の侵犯を慮れ、密に滕康・劉珏に諭し、緩急をして太后の聖旨を取り、便宜に以て行わしむ。

閏八月乙未(十九日)、隆祐皇太后の舟、落星寺を過ぎる。

丁酉(二十一日)、太后、洪州に至る(『宋史』高宗紀に拠る)。

九月壬子(七日)、時に隆祐皇太后、南昌に在り。

十月庚子(二十五日)、金人、黄州(淮南西路の最南端。今の湖北)を犯す。

十有一月壬子(八日)、隆祐皇太后、虔州に退保す(以下、江南西路をうろうろする。今の江西省付近)。庚申(十六日。『宋史』『両朝聖政』辛酉=十七日)、隆祐皇太后、吉州に至る。

丁卯(二十三日)、金人、吉州を犯す。知州事・直龍図閣楊淵、城を棄てて去る。隆祐皇太后、吉州を離れ、争米市に至る。敵、兵を遣わし御舟を追う。金人を市に見る者有れば、乃ち解維夜行し、質明に太和県に至る。……金人追いて太和県に至り、太后乃ち万安より舟を舎てて陸をゆき、遂に虔州に幸す(『宋史』は乙丑=二十一日に繋ける。但し移動しているので、何れでも可かもしれない)。

建炎四年正月己酉(六日)、詔して使いを遣わし海道より福建・虔州に至らしめ、隆祐皇太后の艤舟の在る所を問わしむ。上、太后の径に閩・広に入るを慮え、乃ち問安せしむ。乙丑(二十二日)、中書舎人李正民を以て江浙湖南撫諭使と為す。隆祐皇太后に虔州に朝す。丁卯(二十四日)、虔州の従衛諸軍、乱を作す。

二月癸未(十日)、虔州郷兵の首領陳新、衆数万を率い虔州を圍む(反乱軍の胡友と戦い敗れ、友は虔州を去る)。

三月癸卯朔、上、呂頤浩に諭して曰く、「朕、初め隆祐皇太后を識らず。建炎の初めより、奉迎し南京に至り、方始めて之を識る。朕を愛すること啻だ己の出ずとするのみならず、宮中の奉養、一年半に及び、朕の衣服飲食、必らず親しく調整す。今、朕の父母兄弟、皆な遠方に在り。尊長の中、唯だ皇太后のみ。唯だ相別るること千里の外なるのみならず、之に加え、敵騎衝突す。又、兵民相得ず、縦火交兵、五六日にして乃ち定まる。復た驚擾を為す。当に早く大臣を遣わし、兵を領し奉迎し、以て朕が朝夕思慕の意を称うべし」と。甲寅(十二日)、盧益と御営使司都統制辛企宗・帯御器械潘永思に太后を奉迎させる。

六月己亥(二十九日)、虔州に在り。

七月丙寅(二十六日)、隆祐皇太后、已に信州に至る。

八月庚辰(十日)、隆祐皇太后、虔州より至る。資政殿学士・権知三省枢密院事盧益、寧遠軍節度使・醴泉観従衛提挙一行事務孟忠厚、神武副軍都統制辛企宗、扈従す。上、行宮門外に出て奉迎す。因て太母の過ぎる所の守臣の治状を歴問す。

十有二月己卯(十一日)、戸部に詔して、銭万緡を進め隆祐皇太后の生辰に奉ぜしむ。乙酉(十七日)、范燾……上疏し、忠厚と太母と、共に淵聖皇帝の子を養い、之を別室に蔵すと訴う。上、輔臣に諭して曰く、「朕、隆祐太皇に事うること、子母の間の如し、更らに疑間無し。燾の太后を誣謗すること、安くんぞ此れ有るを得んや。……」

紹興元年二月戊子(二十一)、執政事を奏す。范宗尹、隆祐皇太后の聖体を問う。

四月庚辰(十四日)、隆祐皇太后、行宮の西殿に崩ず。年五十九。上、后の不予より、衣の帯を解かざること連夕。是に至り、范宗尹等、上を殿の後閣に見ゆ。上、哀慟甚だ久しくし、宗尹等に諭し、喪礼は当に厚に従うべしと。


(21)紹興元年(1131)夏四月、隆祐太后孟氏が崩じた。諡を昭慈献烈という。会稽県の上皇村に仮に葬り(1)、事態が収束を待ち、哲宗の山陵に帰葬することにした。

『宋史』孟皇后伝に拠る。崩御の日付は紹興元年四月庚辰。

(1)仮に葬る。北宋に造られた皇帝陵墓(河南府鞏県)は金の領土になったので、仮に会稽県上皇村に葬り、中原を恢復してから、正式に鞏県に葬る予定であることを示す。

隆祐皇太后崩御後の山陵関係の記事は、『要録』及び『中興礼書』巻255~262に見えるが、『宋会要』は記事が抜け落ちている。山陵の全貌を記すのは煩瑣に過ぎるので、廃復の原因となった党争の結末(諡)、劉皇后との愛憎劇の結末(祔廟)について記しておく。結論を前もって書いておくと、『宋史』孟皇后伝の「神主を哲宗の室に附し、位は昭懐皇后の上に在り。〔紹興〕三年、諡を昭慈聖献と改む」とあるのがそれではある。

まず諡。訳文では「昭慈献烈」とのみ書かれているが、これは初めの諡であり、通常は「昭慈聖献」の四字になる。諡の選定は、紹興元年五月七日に始まり、五月十日に昭慈献烈の字が定められる。それにともない、隆祐皇太后の正統性が、元符三年の復位号の詔勅を根拠にして、「太后の隆名定位、已に元符三年に正され、靖康変故の日に在らざるなり」(『中興禮書』巻257「正名位」)とされる。つまり、向太后の意向が正統であり、隆祐太后は正式に復位している。崇寧に蔡京等姦臣が擅ままに廃后した、という路線で確定する。

四字の諡は、紹興三年四月八日、「昭慈献烈皇后の諡号、礼部太常寺をして同共に重ねて別に討論せしめ、尚書省に申せしむ」に始まり、同月十二日に礼部太常寺から意見があり、同月十六日に「昭慈聖献」の四字に改めた。理由として「国朝故事、慈聖光献皇后、宣仁聖烈皇后、皆な垂簾聴政に係る。其の諡号内、皆な聖の字を称す。今、昭慈献烈皇后、艱危の際に当り、両つながら垂簾聴政を経、功の社稷に在ること甚大。其の諡号内に、即ち聖の字無きは、尊称の義に於いて、未だ尽さざる所有り」ということで、廃復が問題になったわけではない。それ故にか紹興三年八月丙申に改諡册宝を太廟に告げた後、隆祐皇太后の親族の孟忠厚が「近く、詔有り昭慈聖献皇后の諡号を改めしめ、努めて尊崇を尽す。而るに其の廃復の因、終に未だ明らかに弁ぜず。人咸な之を疑う。臣聞く、昨に黄策の上書有り、専ら之を論ず。蓋し策は平江に於いて蔡京の家産を析売するに因り、乃ち京の旧と蔵する所の親しく聖語を奉ずるの箚子の手迹を得る。太上皇帝、京に諭するの語有りて曰く、『皇太后言う、昨に先帝既に廃后し、亦た悔意有り。嘗て以て皇太后に語る』と。則ち知る、廃黜の事、泰陵の聖意に繇らざること、断じて知るべし。昨に、已に宣を蒙り、京の書す所の箚の真本を取る。望むらくは、史官に宣付し、以て在天の霊を慰めんことを」(『要録』八年癸未朔)と要請を出し、承認されている。孟后廃復を厳格に論ずると、哲宗の得失問題に絡むので、そこを避けつつ、隆祐太后の正統性を認めたのであろう。

祔廟に関しては劉皇后との関係が問題になった。既に哲廟には昭懐皇后劉氏が配されているため、昭慈献烈皇后と昭懐皇后のどちらを上位に置くか問題となった。これについては礼部太常寺の見解に「今、擬定するに、祔廟の次序、合に升祔し昭懐皇后の神主の上に在るべし……詔して依る」(『中興礼書』巻261)とあり、劉氏の神主の上に置かれることになった。以後、これは変ることなく、現在の『宋史』にまで続いている。

最後に孟皇后の逸話を二つ記す。何れも『要録』から。

隆祐皇太后は恭謹な人で、朝廷の事に関与したことはほんの少しもなかった。ただ酒を飲むのが好きで、高宗は飲み過ぎだといって禁止していた。しかし皇太后は銭をもって酒を買いに出られ、取り寄せることをなさらなかった。呉才人は皇太后の最も愛された宮女であた。そのため、時に話が瑤華宮の事件に及ぶこともあった。皇太后は「私が宮廷に入った時は十六七の娘だった。まだ何を識らなかったのだ。あれはすべて劉氏が私に濡れ衣を着せたのだ」と仰っていた。少し風を引かれたことがあった。すると宮廷の者が「私は符呪を善くしますので、これでご病気を治されては如何でしょう」と言ってきた。皇太后は「そのような言葉、聞きたいとも思わない。このような人は禁中に置いてはなりません」と仰り、すぐに追い出された(建炎四年八月庚辰條。因みに劉氏の方が、孟太后より六つ年少のはずである)。

ある時、高宗皇帝は皇太后の誕生日ということで、宮中に〔普段は禁止している〕酒を持ってこられ、ゆったりと語り合われた。その際、前朝の事に説き及んだ。皇太后は「私も老いましたが、幸いにこうして陛下と再会することができました。後日、私の身に何があろうと、もう憂うことはありません。ですが一つだけ、どうしても官家のために言っておきたいことがあります。私は宣仁聖烈皇后にお仕えさせて頂きましたが、その母后として賢なること、古今に比類するものはありませんでした。ところが、姦臣が私憤を晴らすため、擅ままに謗りを加え、皇后の盛徳に傷をつけてしまいました。建炎の初め、陛下は詔書を出され、太后の罪を弁明なさいましたが、史書に載せられた〔姦臣の謗りは〕、まだ改められておりません。こんなことでどうして後世に真実を伝えられるでしょうか。在天の霊は官家に望んでおられるはずです」と。高宗はこの御言葉を聞かれて悲しまれた。後日、神宗・哲宗の両朝の実録を改修したのは、ここに基づくのであろう(建炎四年十有二月己卯條) 。



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