HOME目次蔡京擅国(2)

蔡京擅国(1)


(01)徽宗の建中靖国元年(1101)十一月、また蔡京を召還し、翰林学士承旨とした。

これ以前、供奉官の童貫は人に媚びる性の人間で、人主の心をよく理解し、事前にうまく物事を処理することで,徽宗のお気に入りとなっていた。貫は〔帝の娯楽品を集めるため〕三呉の地に出向き、貴重な書道や図画を求め、杭州に数ヶ月の間滞在した。蔡京は毎日のように貫と歓談をもった。京の屏風、扇、帯などは、いつも貫の手で禁中に運ばれ、さらに京の意見書までも送付した。このため帝は京の重用を考えるようになった。

左階道録(1)の徐知常は符水(呪いのひとつ)の術師という触れ込みで、元符皇后のもとに出入りしていた。太学博士の范致虚は知常と交友があり、「京こそ宰相に相応しい」と薦めた。治常は宮中で京について発言した。このため女官や宦官は口を揃えて京を褒めるようになった。ついに京は定州知事に抜擢され、さらに大名府知事に改められた。

ちょうど〔朝廷では〕韓忠彦と曾布が対立していた。布は京を引き入れ、自分の助けにしようと考えた。このため〔京を〕翰林学士承旨として召還したのである。

京はまず二つのことを論じた。

第一の意見。

神宗一代の歴史書は、紹聖の実録でなければ、元祐の誹謗を明らかにすことはできません。今また実録を修訂させておりますが、これは間違った改訂です。史官に命じ、紹聖の隠蔽を調査させ、天下に示していただきたい。(2)

第二の意見。

元祐の時代、訴理所を設置し、先朝の罪人の雪辱を行いました。紹聖の時代、安惇と蹇序辰に命じて駁正させましたが、これは当然のことです。ところが二人は除名されております。これでは訴理所の見解を認めたことになります。二人の罪が除かれねば、両朝の誹謗が後世に残りましょう。

意見書が提出されると、帝は京に心を寄せるようになった。

これ以前、鄧綰の子の洵武は起居郎となったが、世の公議に譏られることを恐れ、いつも帝の歓心を買う方法を考えていた。そこで帝に謁見してこう言った。

陛下は神宗のお子様です。今の宰相の忠彦は琦の子供です。神宗は新法を実施し、民に利を与えようとされました。しかし琦はかつてこれを批判しました。現在、忠彦は神宗の法を改めております。なるほど忠彦が人臣として父の志を紹述(継承)することはできましょう。しかし陛下は天子でありながら、先帝の紹述ができなくなるのです。先帝の志と事業の継承を願われるなら、蔡京でなければなりません。

また「陛下が先帝の志を紹述されるのあたり、群臣に助けとなるものがおりません」と言って、『愛莫助之図』を献上した。この図は『史記』年表のように七行から成り、左右に分けられていた。左には元豊、右には元祐と書かれていた。宰相、執政、侍従、台諫、郎官、館閣、学校に対して、各々一行が充てられていた。紹述に賛助する人物の名は左にあったが、執政には温益と蔡京の一二人だけで、その他も趙挺之、范致虚、王能甫、銭遹らの三四人の名がある過ぎなかった。右にあるものは、ほぼすべての朝廷の宰執、公卿、高官であり、「政治を害し、紹述を望まぬ人々」と書かれていた。

帝はこれを曾布に示したが、左の一人の姓名だけ隠してあった。布はその人物の名をたずねた。

帝、「蔡京だよ。洵武は彼を宰相にしないと駄目だと言うんだ。貴方とは意見が違うので隠させたのだ。」

布、「洵武は私と意見が違うのです。私が議論に加わるわけにはいきますまい。」

翌日、改めて温益に見せると、益は喜んで帝に従い、「蔡京を宰相とし、異論ある者を調査するよう訴えた。こうして立派な人々は全て容れられず、帝は京の宰相抜擢を決意した。そこで洵武を中書舎人・給事中兼侍講に進めた。


(02)礼部尚書の豊稷を罷免した。

稷は諫官となると、すぐに蔡京の罷免を訴えた、さらに曾布の奸邪についても発言した。ここに至り、大臣らの怨みが募り、罷免された。


(03)十二月、邢恕、呂嘉問、路昌衡、安惇、蹇序辰、蔡卞にまた宮観を与えた。すぐに地方の長官とした。張商英を都に召還した。


(04)崇寧元年(1102)五月庚申(六日)、韓忠彦が罷めた。

左司諫の呉材らは「忠彦は神宗の法を変え、神宗の人材を放逐した」と言った。このため〔忠彦は宰相を〕罷め、大名府知事となった。


(05)己卯(二十五日)、陸佃が罷めた。

佃はいつも〔紹聖と〕元祐の兼用を考えていた。特に〔官職を求めて〕奔走する人々を憎んでいた。いつも「人の能力に大差はない。年功で昇進させるべきだ。すこし昇進を遅くすれば、士大夫は自重を知るだろう」と言い、また「今の世の中は、大病から快方に向かうのに似ている。療養食で体を養い、回復を待つべきだ。軽々しく改作するのは、〔病人に〕騎射をさせるようなものだ」とも言った。

たまたま御史が「元祐の残党に懲罰を加えて欲しい」と発言した。佃は帝に重罰に処すべきでないと言った。そこで「元祐の諸臣は既に降格処分にした。これ以上処罰する必要はない。軽々しく発言してはならぬ」と詔を下して朝堂に掲げた。このため台諫らは「佃は元祐党の人間だ。だから厳しい追及を避けようとしているのだ。自分に累が及ぶのを恐れているのだ」と非難した。こうして佃は罷めて亳州知事となった。


(06)庚辰(二十六日)、許将を門下侍郎とし、温益を中書侍郎とし、蔡京を尚書左丞とし、趙挺之を尚書右丞とした。

京は平素より屯田員外郎の孫鼛と仲が善かった。鼛はいつも「蔡子は偉くなるだろう。しかし才が徳に堪えきれまい。恐らくは天下に憂いをもたらすことになろう」と語っていた。

ここに至り、京は鼛に「もし天子に大用されたら、私を助けてくれ。」鼛、「あなたが本当に祖宗の法を守り、正論で人主を輔弼し、胥吏に先んじて節倹を示し、軍事について口を閉ざすというのなら、天下にとって大変な幸福となりましょう。」京は黙ってしまった。


(07)閏〔六〕月壬戌(九日)、曾布が罷めた。

これ以前,布は王安石の推薦で用いられた。神宗の時代、帝前での発言は全て安石の意に適うものだった。また神宗に意見書を提出しては、安石に政治を任せ、刑罰で天下を威嚇し、批判の口を閉ざすよう訴えていた。

哲宗が親政を始めると、宰相の章惇は紹述に仮託して私憤に報いたが、布の助力は大きかった。惇が大獄を起こしても釈明せず、ひそかに事件を葬ることさえあった。惇が放逐されると、曾布は右丞相(右僕射)となり、元祐と紹聖の兼用を目指した。だから京を追い出したのである。

崇寧の始め、〔紹述を願う〕上の意向を知ると、今度は韓忠彦を押し退けて政治を壟断し、京を引き入れて自分の助けとした。しかし京はかつての怨みを忘れておらず、布に対して大いに異論を挟んだ。

折しも布は陳祐甫に戸部侍郎を与えようとした。祐甫の子の迪は、布の愛婿であった。京は「布は私情にかられ、己の親族に爵録を与えている」と批判した。布は憤激し、長時間にわたって反論したが、声音も顔色も荒々しかった。温益は「曾布、陛下の前でなんたる無礼な振る舞いだ」と叱りつけた。帝も気分を害した。殿中侍御史の銭遹はこの事件を非難した。布が辞任を求めたので、朝廷から出し、潤州知事とした。


(08)秋七月戊子(五日)、蔡京を尚書右僕射兼中書侍郎とした。

制書の下る日、京は延和殿に座席を与えられた。京に命じて曰く、「神宗は法を創り制を立てられたが、道半ばにして究められなかった。先帝はこれを継がれたが、二度の垂簾の変更に遭遇し、国是は定まらなかった。私は父兄の志を受け継ごうと思う。この度、特に貴方を宰相とする。貴方は私にどう導いてくれるだろうか。」京は首を垂れて謝意を示し、「命を捧げる覚悟にございます」と。


(09)己丑(六日)、元祐の法を禁じた。


(10)甲午(十一日)、詔を下し、尚書都省に講議司を設置した。

蔡京は失脚の身からあっという間に志を得た。世の人々は京の施策に目を側たてていた。京は紹述に仮託し、天子の権力を操った。煕寧の条例司の故事を用い、尚書都省に講議司を設け、みずから提挙(総裁官)となり、煕豊時代に施行された法度、および神宗が計画しながら実施せずに終わった政策を研究した。蔡京一味の呉居厚と王漢之ら十人余りを属僚とし、政治の重大問題を調査した。法令の発布はすべて講議司が実施したが、法令にしばしば変更があり、一定しなかった。


(11)八月己卯(二十七日)、趙挺之を尚書左丞とし、張商英を尚書右丞とした。

商英は中書舎人を授けられと、謝表で元祐諸賢を誹謗して見せた。翰林学士を授けられると、蔡京の宰相任命の制書を書き、美辞麗句を散りばめて見せた。そのため京は商英を抜擢したのである。


(12)紹聖の役法を復活させた。


(13)九月己亥(十七日)、〔元祐〕党人の石碑を端礼門に立てた。元符末の上書人を調査し、邪正の等第に分けて進退を決めた。

元祐年間と元符末年、多くの賢臣たちは辺地に追放され、そのほとんどが死んでしまった。しかし蔡京はなおも意に満たず、幕客の強浚明や葉夢得とともに、以下の人々を罪人として名簿に記した。

宰執

司馬光、文彦博、呂公著、呂公亮、呂大防、劉摯、范純仁、韓忠彦、王珪、梁燾、王巖叟、王存、鄭雍、傅堯兪、趙瞻、韓維、孫固、范百禄、胡宗愈、李清臣、蘇轍、劉奉世、范純禮、安燾、陸佃。

待制以上

蘇軾、范祖禹、王欽臣、姚勔、顧臨、趙君錫、馬黙、王蚡、孔文仲、孔武仲、朱光庭、孫覺、呉安持、錢勰、李之純、趙彦若、趙卨、孫升、李周、劉安世、韓川、呂希純、曾肇、王覿、范純粋、王畏、呂陶、王古、陳次升、豊稷、謝文瓘、鮮于侁、賈易、鄒浩、張舜民。

余官

程頤、謝良佐、呂希哲、呂希績、晁補之、黄庭堅、畢仲游、常安民、孔平仲、司馬康、呉安詩、張耒、歐陽棐、陳瓘、鄭俠、秦観、徐常、湯馘、杜純、宋保国、劉唐老、黄隠、王鞏、張保源、汪衍、余爽、常立、唐義問、余卞、李格非、商倚、張庭堅、李祉、陳佑、任伯雨、朱光裔、陳郛、蘇嘉、龔夬、歐陽中立、呉儔、呂仲甫、劉當時、馬琮、陳彦、劉昱、魯君貺、韓跋。

内臣

張士良、魯燾、趙約、譚裔、王偁、陳詢、張琳、裴彦臣。

武臣

王献可、張巽、李備、胡〔田〕

全百二十人。各人の罪状に等級をつけ、これを「奸党」と名付けた。帝の筆を求め、〔奸党の姓名を〕石に刻んで端礼門に立てた。

京らはさらに訴えた。――元符末年の日食で直言を求めた際、煕寧紹聖の政治に言及した意見書を中書に下し、正上・正中・正下の三等、邪上・邪中・邪下の三等に分けさせるよう詔を下していただきたい、と。かくして鍾余美以下の四十一人を正等とし、その全員を昇進させた。また范柔中以下の五百余任を邪等とし、各々罪に応じて処罰した。また詔を下し、処罰された人間が同一州に居住することを禁じた。


(14)冬十月戊寅(二十七日)、蔡卞を知枢密院事とした。


(15)十二月丁丑(二十七日)、詔を下した。――「邪説非行、前代先聖の書物を批判するもの、及び元祐の学術政治については、一切用いてはならぬ。」


(16)二年(1103)春正月乙酉(五日)、任伯雨など十二人を遠州に安置した。

蔡京と蔡卞は、元符末年に非難した人々を怨み、元祐党と決めつけて罪に陥れた。同日、任伯雨を昌化軍に、陳瓘を廉州に、龔夬を化州に、陳次升を循州に、陳師錫を郴州に、陳祐を澧州に、李深を復州に、江公望を南安軍に、常安民を温州に、張舜民を商州に、馬涓を吉州に、豊稷を台州に左遷した。

これ以前、蔡京が蜀の帥師だったころ、張庭堅がその幕府にいた。京は宰相になると、庭堅を抜擢し、自分の助けにしようとした。しかし庭堅は従わなかった。京はこれを怨んだ。ここに至り、庭堅を象州編管とした。


(17)丁未(二十七日)、蔡京を尚書左僕射兼門下侍郎とした。


(18)三月乙酉(六日)、党人の子弟の上京を禁じた。すぐにまた詔を下した。――「元符末年の上書で三舎の学生に充てられたものは退学させよ。元祐の学術でもって生徒に学問を教授するものがおれば、監司はその者を検挙し、絶対に処罰せよ。元符の上書邪党の名簿に載る者も上京を許さぬ。」


(19)丁亥(八日)、集英殿で進士を試験した。

このとき李階が礼部試の第一だった。階は深の子供で、陳瓘の甥だった。安忱は殿試の答案で「党人の子供の階が聖朝の科挙の首席になれば、天下に示しがつかない」と主張した。このため階の出身(科挙合格の身分)を奪い、忱を合格させた。

また黄定など十八人は上書邪党の人だった。帝は軒に臨んで、「君たちが私の短所を攻めるのは構わない。しかし神宗や哲宗は君たちに負い目があるのだろうか」と言い、十八人を退けた。


(20)夏四月丁卯(十九日)、景霊宮の司馬光、呂公著、呂大防、范純仁、劉摯、范百禄、梁燾、鄭雍、趙瞻、王巌叟ら十人の絵像を破壊させた。


(21)乙亥(二十七日)、范祖禹の『唐鑑』と三蘇(蘇洵・蘇軾・蘇轍)、黄庭堅、秦観の文集〔の版木〕を破壊させた。


(22)戊寅(三十日)、趙挺之を中書侍郎とし、張商英を尚書左丞とし、呉居厚を尚書右丞とし、安惇を同知枢密院事とした。


(23)旧直秘閣の程頤を除名した。

蔡京に迎合した言官は、「頤の学術は偏見満ちており、素行は奇怪、詭弁を用いて人々を困惑させている。最近では山林で物を書き、言を朝政に及ぼしている」と論じた。詔を下し、「頤の出身以来の文字を破棄せよ。その著作物については、監司に命じて厳密に調査させよ」と。

范致虚も「頤は邪説非行で人々を惑わし、〔その弟子の〕尹焞や張繹は頤の羽翼となっております。河南に命じ、頤の学徒を追放していただきたい」と論じた。このため頤は龍門の南に移住した。各地の弟子〔が師のもとに集まるのを〕を止めて、「各自が私〔たち兄弟から〕聞き知ったことを実践すればよい。私のもとに来るには及ばぬ。」


(24)八月戊申(二日)、張商英が罷めた。

紹聖の時代、商英は人に媚びては機嫌を取り、みなと一緒になって紹述を主張した。ここに至り、蔡京と対立した。司法官の石予、御史の朱紱と余深は、京の意向を受け、商英の弾劾を謀ったが、証拠がなかった。そこで元祐時代に商英が作った『嘉禾頌』――司馬光を周公に擬えていた――、および光の祭文――光の功績を褒め称えた言葉があった――を見つけ、商英の罪を正すよう求めた。詔を下し、「商英は議論しては反覆常なく、美官を求めるのに貪欲であった。元祐の初め、先烈を誹謗した。台諫の批判を前に、執政の地に止め置くわけにはいかぬ」と。落職・亳州知事の上、元祐党の名簿に名を加えられた。

当時、蔡京は巨大な石碑に奸党を自筆し、各地に頒布した。そして監司と長吏に命じ、官庁に石刻を立てさせた。

長安の石工に安民という男がおり、石碑に字を刻むことになった。民は「私は愚か者です。石碑を立てる理由など存じません。ただ司馬相公のような人は、世の人々がみなその正直を称えております。ところがその司馬相公を奸邪と仰います。〔相公の名を〕石に刻むに忍びません」と言って断った。府の官僚は怒り、民を処罰しようとした。民は泣いて、「やれと仰せなら辞退しません。ですが〔私の名の〕安民の字を石の末に刻むのだけはご勘弁ください。後で譏られたくはありません。」これを聞いた者は恥じたと云う。


(25)三年(1104)春正月、当十大銭を鋳造した。

太祖以来、諸路に監(行政特区)を設けて銭を鋳造させていた。折二銭や折三銭、当五銭といったものがあり、時に応じて規準を設けていたが、当十銭は鋳造したことがなかった。ここに至り、蔡京は利益でもって帝を惑わすべく、始めて諸路に当十大銭を鋳造させ、小平銭と通行させるよう訴えた。

当時、天下太平で財政は充実していた。京は「豊亨予大(天下太平で人々が享楽に耽ること)」と言い囃すと、官爵を糞土の如く扱い、歴代の備蓄をすべて使い果たした。


(26)蔡攸を秘書郎とした。

攸は京の長男で、帝の寵愛を受けていた。ここに至り、進士出身を授けられ、さらに秘書郎を与えられた。


(27)夏四月、講議司を罷めた。

諸州の現行新法の公文書を尚書省に直接上進するよう命じた。また講議司所属の官員に対しては、制置三司条例司の恩典の例に依り、張康国以下四十一人余りを昇進させた。また尚書省は「先朝の法度の復旧は千百数にも達しましたが、まだ未調査のものがあります。諸路に未復旧の法令を上申させていただきたい」と言った。これに従った。


(28)蔡京は京西北路に専切管幹通行交子所を設置し、川峡路に準じて偽造の法を作り、情実を知りながら転用したもの、または黙認した隣人を処罰することにした。また交子紙の偽造は徒罪に処すよう訴えた。ほどなく諸路に命じて〔交子を〕銭引に変更させたが、それは新式印刷を用いたものだった。四川は旧来の法規に準じた。ただ閩、浙、湖、広の諸地方だけは、銭引を実施しなかった。趙挺之が「閩は京の故郷だから」と言ったので、免除されたのである。


(29)六月壬寅朔、顕謨閣に煕寧元豊の功臣の図を設けた。


(30)癸酉(3)、辟雍が完成した。

詔を下した。――「荊国公王安石は孟軻以来の第一人者である。孔子廟に配享し、孟子の次席を与えよ。」吏部尚書の何執中が校舎の開示を求めたので、開封府の人々に観覧させた。


(31)戊午(十七日)、詔を下した。――「元祐元符の党人と上書邪党の名簿を改訂し、一つの名簿に併せよ。全三百九人の名を石に刻み朝堂に立てよ。これ以外の者は名簿から出せ。今後、弾劾の意見書を提出してはならぬ。」

戸部尚書の劉拯は「漢唐の失政は朋党から始まりました。今日に生きる者が前日の人を党と言えば、必ずや後日に生きる人が今日の我々を党と言うでしょう。人の悪は公論に現れるものです。名簿に加えて禁錮に処す必要はありません」と言った。蔡京は大いに喜ばず、台諫に拯を弾劾させ、蘄州知事として地方に出した。


(32)秋七月辛卯(二十日)、また方田法を実施した。


(33)八月、許将が罷めた。

将は十年の間政府にいたが、一つの建白もなかった。御史中丞の朱諤は将の過去の謝表と意見書を集め、文字を改変し、「〔将は朝廷を〕誹謗した」と弾劾した。さらに「元祐の時代にあっては元豊の法を改変し、紹聖の時代にあっては元祐のことを隠匿していた」と批判した。このため将を罷免し、河南府知事とした。諤は蔡京の一味である。


(34)九月乙亥(五日)、趙挺之を門下侍郎とし、呉居厚を中書侍郎とし、張康国を尚書左丞とし、鄧洵武を尚書右丞とした。

紹聖の時代、蔡京は役法の修訂に当たり、康国を属僚に推薦した。京が宰相になると、党籍を作って紹述を唱えたが、康国はいつも密議に関与していた。このため京は康国の抜擢に力を尽くした。康国は福建転運判官から抜擢され、三年ならずして翰林院に入って承旨となり、ついに左丞(4)を授けられた。


(35)胡師文を戸部侍郎とした。

これ以前、東南六路の食糧の運搬は、江浙から淮甸を経由し、真・揚・楚・泗の各州に至るまで、通計七つの倉庫を設け、兵粮を蓄積していた。また楚・泗の各州から汴河を伝って京師まで運搬していた。これらは江淮転運使に監督させていた。このため常時六百万石を京師に運搬することが可能であった。また諸種の倉庫にはいつも数年分の貯蓄があった。

地方に収穫の不足があれば、高額で買い入れていた。これを額斛とよんだ。また該当州の歳額を計算し、倉庫の貯蓄を不足分の代替として京師に運搬していた。これを代発とよんだ。豊作の歳には平価で米穀を買い入れ、穀物が安価になれば官が買い入れ、農村の不況を救った。飢饉のときは民に銭を納入させた。これらの施策に民は喜び、元本は連年増加し、兵粮にも充分な貯蓄が生まれ、まことによい方法だった。

蔡京は宰相になると、余分な財産を〔帝の〕贅沢費に充てようとした。このため姻戚の胡師文を発運使とし、米穀の買入元本の数百万緡を貢納させた。師分は朝廷にもどると〔この功績を認められて〕戸部侍郎となった。これ以後、後任の官僚はみなこの悪習をまね、いつも元本を朝廷に貢納し、元本はなくなってしまった。元本がなくなれば買入を増やせず、備蓄は空になり、運輸の法は崩壊した。


(36)四年(1105)春正月、蔡卞が罷めた。

卞は心根が邪悪で、舅の王安石の背中だけを追っていた。また兄の京が自分を抜かして上位(宰相)に立ったことから、自分の宰相就任の望みもなくなった。このため二府(中書と枢密)はいつも対立していた。

ここに至り、京は童貫を制置使にするよう訴えた。卞は「宦官を用いてはならぬ。必ずや国境問題を誤るだろう」と反対した。京は帝前で卞を非難した。卞が辞任を求めたので、河南府知事として地方に出した。


(37)三月、趙挺之を尚書右僕射兼中書侍郎とした。


(38)慶州知事の曾孝序を嶺南に放逐した。

これ以前、孝序は湖北察訪使の任を終え、都を訪れた。しかし孝序が帝に舒亶を弾劾することを畏れた蔡京は、門客を遣わし、美官でもって孝序を誘った。しかし孝序は従わなかった。また京と講議司について議論しては、「財政は流通が大事です。民の膏血を搾り取って京師に集めるのは、太平の法ではありますまい」と言った。このため京は孝序を怨み、慶州知事として地方に出した。

ここに至り、京は結糴俵糴の法を施行し、民の財産をかき集めて朝廷の財産を増やした。孝序は意見書を提出し、「民の力は尽き果てております。逃亡でもすれば、陛下は誰と邦国を守るおつもりですか」と発言した。京は怒りを募らせ、御史の宋聖寵に孝序の私事を弾劾させた、孝序の族人を逮捕して拷問を加えたが、証拠を得られなかった。そのためただ「出軍の約束期日に錯誤の可能性あり」を理由として、除名の上、嶺俵に竄した。


(39)六月戊子(二十三日)、趙挺之が罷めた。

これ以前、帝は蔡京を独相(単独の宰相)としていた。右輔(右僕射)の抜擢に意見を求めると、京は挺之を強く薦めた。そこで挺之に尚書右僕射を授けた。挺之は宰相になると、京と権力を争い、しばしば京の悪事を指摘した。また宰相を辞任し、京を避けたいと訴えた。このため挺之を罷免したのである。


(40)五年(1106)春正月戊戌(五日)、彗星が西方に現れた。天を覆う長さだった。


(41)甲辰(十一日)、呉居厚を門下侍郎とし、劉逵を中書侍郎とした。


(42)乙巳(十二日)、星の異変に応ずるべく、帝は正殿を避け、食膳を減らし、詔を下して直言を求めた。

劉逵が元祐党人碑を破壊し、上書邪党の禁を弛めるよう訴えたので、帝はこれに従った。夜半、黄門(宦官の官職名)を朝堂に遣わして石刻を破壊させた。翌日、蔡京は破壊された石刻を見て、声を怒らせ、「石は壊せても、名を消すことはできぬ」と言った。


(43)丁未(十四日)、太白(金星)が昼に現れた。

党人に関する一切の禁令を除き、仮に方田法および諸州の歳貢供奉物(花石綱の類)を停止した。詔を下した。――「崇寧以来、左遷された者は、存没に関わることなく、少しく復官せよ。〔嶺外に〕配流した者は帰還させよ。」


(44)二月丙寅(三日)、蔡京が罷めた。

京は邪悪な心で党派を作り、賞罰の権をその手に握り、紹述の名に仮託して法制を変更し、世の賢者を排斥した。朝廷の出費を増大させ、人主に奢侈を奨めてその心を惑わせた。京は『周礼』の「王は財政に預からない」を宗旨としていた。このため財を惜しんで節約を旨とした先代のことに話しが及ぶと、必ず野蛮だと発言していた。土木工事を興しては、いつも前代のものより巨大な建物を作ろうとした。

当時、天下は長らく太平だった。このため胥吏の数は増えすぎ、節度使は八十人を越え、留後・観察使以下、遥郡・刺史は数千人に達し、学士や待制も朝廷内外に百五十人もいた。応奉司、御前生活所、営繕所、蘇州や杭州の造作局など、諸種の名称が用いられたが、それらはより高価な贅沢品の入手に精を出していた。中でも花石綱の害は最もひどかった。

ここに至り、彗星の出現があり、帝は京の邪悪を悟ると、およそ京の建白によるものは一切廃止した。京を罷免し、中太一宮使として京師に留めたが、言官の批判は止まなかった。御史中丞の呉執中は帝に言った。――「大臣の進退に礼義を失ってはいけません。」帝は京のために詔を下して訓戒し、言官はようやく批判を止めた。


(45)趙挺之を尚書右僕射兼中書侍郎とした。

蔡京が罷めると、帝は挺之を呼び寄せた。そして「京のことは全く貴方の言う通りだった」と言い、再び右相を授けた。挺之は劉逵と心をあわせて政治を行った。京の施策の中、道理に逆らい、民を虐待したものは、少しく是正を加えた。しかし挺之は後のことを考え、〔是正の〕発端は開いても、後始末は逵に任せていた。逵も功績を挙げるべく自分勝手に行動し、周囲を顧みなかった。

これ以前、蔡京は国境の紛争を起こし、毎年のように兵を用いていた。ここに至り、帝は朝廷に赴いて大臣に語った。――「朝廷は四方の夷狄と争ってはならぬ。一旦戦端が開けば、戦禍によって生民は塗炭の苦しみを受けるだろう。人主として人民を愛しむものとはいえぬ。」挺之は帝前を退くと、同僚に言うには、「陛下は戦いを止めるおつもりだ。我らは鋭意努力せねばなるまい」と。しかし当時の執政はすべて京の一味だったので、ただ薄ら笑いを浮かべるだけだった。


(46)三月丙申(四日)、詔を下した。――「星の異変は消えた。直言の求めを罷めよ。」すぐに方田法や諸州歳貢納供奉物を復活させた。


(47)己未(二十七日)、礼部の進士及第および出身を授けた。全六百七十人。

当時、蔡薿は蔡京の再任を察知し、答案にこう書いた。――「煕豊の徳業は天に匹敵するものでしたが、不幸にして元祐に受け継がれました。紹聖の継述は永く頼りとし得るものでしたが、不幸にして建中靖国に受け継がれました。陛下は二度も直言を求める詔を下され、至言を耳にし、その実用を求められました。しかし元符末年〔の直言〕は、時政の変化を幸いとし、好き勝手に奸言を用い、隙に乗じて異意を投じ、先烈を非難して疑わず、国是を動揺させて憚らぬものでした。願わくは予め物事に対処してその本源を絶っていただきたい。」このため薿を主席とし、その答案を天下に頒布した。


(48)冬十二月己未(二日)、劉逵が罷めた。

これ以前、蔡京は一味の者を使って帝に進言した。――「京が法度を改めたのは、全て陛下の御心を承けてのこと。勝手にしたわけではありません。今それらを全て廃止しておりますが、恐らくは紹述の心に適うものではありますまい。」帝はこの発言に惑い、再び蔡京の任用を考えるようになった。しかし誰もこれに気づかなかった。

鄭居中は〔帝の側室の〕鄭妃の父の紳と関係があった。居中は帝の意向を知ると、すぐに帝に謁見し、「陛下の立てられたもの――学校を建て、礼楽を興し、居養院や安済院を設けたなどの法令――は、下々に手厚く、民を裕福にするものです。天の譴責などあり得ません。なぜ改変なさるのです。」帝は悦んだ。居中は帝前から退き、礼部侍郎の劉正夫にこの一件を話した。正夫は帝に謁見を求め、鄭居中と同じことを言った。帝はついに逵の専権を疑うようになった。

かくして京の一派の御史の余深と石公弼は、逵の専断と反覆、同僚に対する蔑視、邪党の任用を訴えた。このため逵を朝廷から出し、亳州知事とした。


****************************************
(1)『宋史』蔡京伝は左街道録に作る。林霊素伝は左道禄に作る。
(2)実際は范致虚の言葉。「神宗一代の信史は欠けたまままだ完成しておりません。元祐の書は、先朝に於いて、誹謗の故をもって廃して用いられませんでした。紹聖の書は、今朝に於いて、事実に隠蔽ある故をもって、また別途編纂すると謂われております。そもそも史書の編纂がかくも紛々たる有様では、後世に信を伝えることはできますまい。私はこう考えます。紹聖の実録なければ、元祐の誹謗を正すことはできない。今日でなければ、紹聖の隠蔽を正すことはできない、と。陛下におかれましては、もし史書の筆削が公正でなければ、事の軽重に鑑みて処罰すると、史官を戒めていただきたい。元祐の誹謗に対しては、すでに先朝に正しく処置されました。しかし紹聖の隠蔽に対しては、調査の上、天下後世に明示する必要があります。これにより陛下の孝思の心を明らかにしていただきたい。」
(3)不詳。癸酉の日は存在せず。
(4)もと右丞。校勘記により改訂す。



© 2008-2009 Kiyomichi eto Inc.

inserted by FC2 system