HOME目次花石鋼之役

蔡京擅国(2)


(49)大観元年(1107)春正月甲午(七日)、蔡京を尚書左僕射兼門下侍郎とした。


(50)壬寅(十五日)、呉居厚が罷めた。


(51)壬子(二十五日)、何執中を中書侍郎とし、鄧洵武を尚書左丞とし、梁子美を尚書右丞とした。

子美は河北〔都〕転運使になると、ありったけの水運費用を帝に献納し、緡銭三百万で北珠を購入し、これを献上した。このため諸路の転運使は子美の悪事をまね、争って財物を献上するようになった。

北珠は女真族の地に産出し、子美は遼から購っていた。遼は金銭欲しさに女真族を虐待し、海東青(やはぶさ)を捕らえて北珠を要求した。女真族は深く怨んだが、子美はこれによって高官を手に入れた。


(52)二月己卯(二十二日)、再び方田法を行った。


(53)三月丁酉(十一日)、趙挺之が罷めた。何執中を門下侍郎とし、鄧洵武を中書侍郎とし、梁子美を尚書左丞とし、朱諤を尚書右丞とした。


(54)鄭居中を同知枢密院事とした。

蔡京の宰相再任には、居中の努力があった。このため京は居中を推薦した。

これ以前、居中は直学士院のころ、鄭貴妃の従兄弟だと公言していた。妃の家は零落していたので、居中を頼りとしていた。しかし居中が枢密院に入ったころ、妃は既に〔後宮で〕貴顕の地位におり、居中の助力を必要としなかった。そのため宦官の黄経臣の計略を用いて、親族の嫌疑を理由に〔居中の解任を〕求めた。居中は中太一宮使に改められた。これに居中は不満を抱いていた。

蔡京は居中の功に報いるべく、「枢密院は兵を統べる場所で、三省の執政ではありません。親族を用いても嫌疑は生じません」と弁解したが、経臣がこれを阻んだ。このため居中は京の援護に疑いを持ち、京を怨むようになった。


(55)蔡攸を龍図閣学士兼侍読とした。


(56)葉夢得を起居郎とした。

蔡京は宰相に再任されると、以前実施した法度の中、廃止されたものを再び実施した。

夢得は意見書を提出した。

『周礼』には「太宰は八柄を以て王に詔(つげ)て群臣を統御する」とあります。臣下の配置や賞罰は王がすることです。太宰は王に詔げることは出来ても、みずから専断することはできません。そもそも物事には可と不可の二つしかありません。可として陛下が命令されたなら、〔法度を〕復活させてはいけません。近頃はただ大臣の進退だけを〔陛下の〕可否と考えるようになっています。しかしこれでは陛下の御心にわだかまりが残りましょう。

帝はこれを聞いて喜び、「近頃の士大夫は朋党を組んで栄達を望むものが多い。しかし貴方の発言には一つも含むところがない」と言い、起居郎を授けた。

当時の大臣は小才ある者を喜んでいた。夢得は言った。――

むかしから人の任用する場合、まず賢と能を弁別しました。賢者は有徳のことを言い、能者は有才のことを言います。先王は必ず徳を才の上に置き、才を徳の上に置きませんでした。

崇寧以来、朝廷では大臣と同じ意見の者を純正と見なし、地方では法令を施行して速効を挙げたものを敏腕と考えるようになりました。そのため重々しく見識ある人間は顕彰されなくなりました。恐らくは才ある人を重視し過ぎてのことでしょう。今後の任用にあっては、徳ある人を先にしていただきたい。

帝はこれに頷いた。


(57)九月、侍御史の沈畸を監信州酒税に左遷し、御史の蕭服を虔州に竄した。

当時、蔡京は劉逵を怨んでいた。たまたま蘇州に鋳銭窃盗の獄が起こったので、京は劉逵の妻の兄の章綎を罪に陥れるべく、開封尹の李孝壽に調査させた。この事件に連坐したものは千余人に及び、自白の強要などのため、かなりの人が死んだ。京はそれでも手ぬるいと考え、侍御史の沈畸と御史の蕭服を代わりに派遣した。

畸は蘇州に到着すると、その日のうちに証拠のない七百人を釈放した。そして嘆じて言った、「天子の耳目の官となりながら、権力者に迎合し、人を殺して富貴を手に入れていいものだろうか」と。そこで実地調査の上、逮捕者の無実を報告した。京は激怒し、畸を監信州酒税に左遷し、服を処州編管(処罰の一つ)とした。綎も結局は海島に配流された。


(58)閏十月、鄭居中を同知枢密院事に再任した。

居中は蔡京を怨み、張康国と結託して京を阻んだ。都水使者の趙霆が黄河で二つ首の亀を発見し、これを瑞祥と言って献上した。

京、「これは斉の小白(桓公)の象罔です。これを見て覇者となったのです。」

居中、「なぜ首が二つあるのだ。多くの者がこの異常に驚いているのに、京だけが瑞祥だと言っている。まったく理解不能だ。」

帝は亀を金明池に棄てさせると、「居中は私を思ってくれている」と言い、前回の命令(同知枢密院事の任命)を実施した。


(59)太廟斎郎の方軫を嶺南に配流した。

当時、軫は意見書を提出した。

蔡京は社稷を制圧し、心に大逆不道を抱き、煕豊の紹述に託けて己の利益を図っております。朝廷の執政・侍従から、地方の帥臣・監司に及ぶまで、すべて京の門人や親戚です。京は意見書を提出しては、いつも御筆(皇帝の直筆命令書)で実施させておりますが、人に語っては「上の意向だ」と言い、翌日実施されなければ「実は私が申し開きをしたのだ」と言っております。善いものは自分がしたと言い、過失は君上がしたと言い、天下の怨みを陛下に集めさせております。元符の末年、陛下が大統を継がれて以来、忠義の士の糾弾は連日のように続いております。京は〔忠義の士を〕邪等とみなし、刺青をして死地に追放し、仕官の路を閉ざしました。これでいて陛下のために発言するものがいるでしょうか。京はまた息子の攸に命じ、毎日のように花石綱や鳥獣を献上させております。陛下を愚昧にし、天下の治乱を知らせぬように企んでいるのです。私の考えるところによれば、京は必ず謀叛を起こすでしょう。京を誅殺していただきたい。

帝がこれを京に見せると、京は軫を獄に下すよう求めた。このため軫は嶺南に配流された。


(60)十一月壬子朔、日食があった。蔡京は日食の程度が予定より軽微だと発言し、群臣を率いて慶賀した。


(61)二年(1108)春正月戊寅(二十七日)、蔡京に太師を加えた。


(62)三年(1109)三月壬申(二十八日)、張康国が急逝した。

これ以前、康国は蔡京に迎合して栄達したが、枢密院の地位を手に入れると、異論を挟むようになった。当時、帝は蔡京の専断を憎み、裏で康国に京の悪を阻止させたばかりか、〔京に代わり〕宰相の位をも許していた。

京は康国を憎み、呉執中を中丞に抜擢して〔康国を非難させようとし〕た。ところが執中が康国糾弾に及ぶ寸前、康国はこれを察知し、政務の報告に託けて帝にこう訴えた。――「執中の今日の発言は、京のためのもの、きっと私を非難するでしょう。私は職を辞すつもりです。」すぐに執中は帝に意見したが、康国の発言通りのことを述べた。帝は怒って執中を罷免した。

ここに至り、康国は朝の政務を終え、殿廬に向かう途中、病に倒れた。天を仰いで舌を出し、乗り物が待漏院に到着するや、死んでしまった。毒を疑うものもいたと云う。


(63)六月丁丑(四日)、蔡京が罷めた。

京は長らく国政を専断していた。御史中丞の石公弼と殿中侍御史の張克公は、数十もの意見書を提出して京の罪悪を弾劾した。帝も京を厭うようになり、ついに宰相を罷免して太一宮使とした。

これ以前、帝が端王のころ、大使局に郭天信という男がおり、「王はきっと天下を得るだろう」と言っていた。帝が即位すると、予言通りというので寵愛を受けた。天信は天文について意見するごとに、必ず京の権力を動揺させる発言をした。また「太陽に黒点が生じた」と密告した。帝はこのため恐怖を感じた。この後も天信は発言を止めず、ために帝は京を疑うようになり、罷免した。


(64)辛巳(八日)、何執中を尚書左僕射兼門下侍郎とした。

執中は蔡京に信服していた。だから京に代わって宰相となったのである。太学生の陳朝老は京城に詣でて意見書を献上した。

陛下は即位以来、五たび宰相を命じられました。韓忠彦の凡庸、曾布の陰険、趙挺之の愚劣、蔡京の跋扈に、天下は堪えられませんでした。今日、陛下は蔡京の奸を察し、宰相の印を解かれました。天下の人々はまるで生き返ったかのように鼓舞しました。ところが執中が宰相になると知り、世の人々は暗然と失望しました。執中は敢えて蔡京の如く国家人民を害しはしないでしょうが、無能な凡人であり、もとより人に過ぎた才能はありません。現在の天下の廃滅は、人の体で喩えますと、臓腑の深くまで病んだ状態です。凡庸な医者でこの病を直し得るでしょうか。執中は権力者に寄り添って生きていた人間です。二府(宰相府と枢密院)に地位を得ただけでも、すでに大幸と言わねばなりません。ところが突如これに国家の大権を任せられました。これでは蚊に山を背負わせるようなものです。その任に堪えぬこと明白です。

意見書は提出されたが、相手にされなかった。


(65)十一月己巳(二十九日)、蔡京は楚国公として致仕した。しかしなおも『哲宗実録』編纂の提挙官とし、朔望の日(朔日と十五日)に参内させた。

石公弼、「蔡京は京師に逗留し、地方に下る志なく、未だに群臣を畏怖せしめております。願わくは断を決し、後悔を絶っていただきたい。」

殿中侍御史の洪彦昇、「蔡京は二度も宰相となり、紹述の名に仮託して一切を変更し、先朝の法度を破壊し、奸邪の者と結託して国を誤めました。このため公私ともに困苦しております。京は既に宰相の印を返還したにも関わらず、都城で驕り高ぶっております。上には陛下の恩顧を頼みとし、中には跋扈の志を抱いておるのです。願わくは速やかに英断を賜い、京城から追放していただきたい。」

殿中侍御史の毛注、「京は賞罰の権を握り、朝廷内外を動揺させ、翰林学士の葉夢得を腹心とし、その一味と結託しております。」

帝は葉夢得を追い出して提挙洞霄宮とし、注を侍御史に遷した。

注はまた口を極めて京を批判した。――「京は孟翊の怪文書を受け、反逆者の張懐素と交遊し、兇徒の林攄を政府に引き入れ、懇意の宋喬年を開封府の長官としました。京の門人は各地に散らばり、『陛下の恩顧は衰えていない、再び京は重用される』と言っております。」太学生の陳朝老も京の悪事十四条を献上し、京を遠方に放逐して各所に巣くう盲者を防ぐよう訴えた。どちらも聞き入れられなかった。


(66)四年(1110)二月己丑(二十日)、余震を門下侍郎とし、張商英を中書侍郎とし、侯蒙を同知枢密院事とした。

京が罷免されると、商英は峡州から杭州知事に復帰した。都に上ると、面会を許された。そこで次のように訴えた。

神宗は法度の改訂に当たり、務めて大害を去り、大利を興されました。これらを誠実に一つ一つ行えば、紹述の美を尽くすことができましょう。しかし〔神宗の〕法にもし弊害があるようなら、変更しなければなりません。ただ神宗の御心さえ失わなければよいのです。

そこで商英を政府に留めた。

むかし帝は従容と蒙に意見を求めた、「蔡京はどんな人間だろう。」蒙、「もし京の心根が正しくなれば、古代の賢相でもこれ以上の人はおりますまい。」帝はこっそり京を探らせた。京はこれを聞き、感じ入った。


(67)五月丙辰(十八日)、彗星が現れたので、侍従官に命じて朝政の闕失を直言させた。

石公弼らは蔡京の罪を極論した。張克公も次のように論じた。――

蔡京は政治を輔弼すること八年、権力は海内を震わせております。軽々しく褒美を与えは国財を食い物にし、爵録を用いては私恩を売り、大工を役しては私邸を改築し、運搬を用いては花石綱を運ばせております。また陛下の長寿の祝事のため塔を改修させては臨平の山を荘厳にし、灌田に仮託して河を決壊させては興化の神託に符節させ、法には退送と名づけながら、門には朝京と号しております。(1)方田法を実施しては民の生業を混乱させ、圜土(刑務所の一種)を作っては各地の悪人を集めております。

また不軌不忠の罪数十事を論じた。

毛注も論じた。

京の罪悪は巨大。天人ともにその罪を咎めております。宰相を辞め、政権を返還したとはいえ、なおも陛下の恩寵を頼って私邸に退避し、上天の怒りを招いております。その咎の根源を推し量れば、まことに京にあると言えましょう。京の罪を考えれば、とても詳述することはできません。陛下が党碑を除いて自新の途を開かれると、京は批判を畏れて新たな禁令を設けました。陛下が明詔を布いて天下に直言を求められると、京は人の批判を憎んで重罰を設けました。その気勢の震わすところ、世の人々は憤り憎んでおります。早急に国都から追放し、天変を治めていただきたい。


(68)甲子(二十六日)、蔡京を降格し、杭州に出居させた。


(69)六月乙亥(八日)、張商英を尚書右僕射兼中書侍郎とした。

これ以前、蔡京は長らく権力を握っていた。世の人々はこれを怨み、商英に異論があるのを見て、優れた人間だと褒め称えた。そこで帝は人望によって商英を宰相とした。

当時、旱魃が久しく、彗星も天を掠めていた。商英が命令を受けるや否や、その日の夜に彗星は消え、翌日には雨が降った。帝は喜び、「商霖」の二字を大書して商英に授けた。


(70)十二月、張商英は『皇宋政典』――煕寧元豊の政事について書かれたもの――の編纂を求めたので、詔を下し、尚書省に部局を設置した。商英の考えでは、蔡京は紹述を口にしはしたが、〔したことはと言えば〕人主の権力を掣肘して、〔己に反対する〕士大夫を排斥しただけだった、と。だから『政典』を編纂し、〔神宗の政治を明らかにし〕京の妄言を退けようとしたのである。


(71)政和元年(1111)八月乙未(五日)、再び蔡京を太子太師とした。


(72)丁巳(二十七日)、張商英が罷めた。

商英は公平を重んじた政治を行った。蔡京が鋳造させた当十大銭を当三に改め、貨幣価値を公平にし、転般倉を復活して直送を罷めさせ、塩鈔法を実施して商人に通商させ、人民を救済した。帝には奢侈の禁止、土木工事の停止、僥倖の抑制を勧めた。帝は商英を憚り、升平楼の改修の時など、監督官に丞相(商英)の導騎(前導の騎兵)が来れば、必ず大工を楼の下に隠させていた。

当時、商英は忠直と称されていた。しかし慎重さに欠き、思ったことをすぐ公言した。このため商英に不満を持つ人は、前もって備えることができた。

これ以前、何執中は蔡京と宰相職を勤め、政策の実行にはいつも関与していた。ここに至り、商英が己の上位に出るのを憎み、鄭居中と毎日のように商英の失態を捏造していた。まず言官を唆して商英門下の客の唐英を批判させ、恵州知事に左遷させた。また当時、技術者の郭天信が帝の寵愛を受けていた。このため商英は天信と親交をもった。事が発覚すると、居中は御史中丞の張克公を唆し、天信とともに商英も糾弾させた。そこで商英を宰相職から罷免し、朝廷から出し、河南府知事とした。


(73)冬十月、陳瓘を台州羈管(刑罰の一つ)とした。

瓘は蔡京に歯向かい、瓘州に竄された。瓘の子供の正彙は杭州おり、「京に東宮動揺の迹あり」と訴えた。杭州知事の蔡瓘は正彙を捕らえて京師に送ると、京に密告して事件に対処させた。開封府で調査があり、瓘も逮捕された。開封府の尹(長官)の李孝壽は、瓘に正彙の虚言を強要した。

瓘、「息子は蔡京が社稷に害をなすのを知り、公言したのでしょう。私の知るところではありません。知らぬにも関わらず、父子の恩を忘れて息子の虚言を証明するなど、人として忍び得ますまい。さりとて私情を挟んで符節を合すというのも、道義として無理なこと。まして京の邪悪が国の禍になることは、かつて言官たる私が論じたものです。今日の発言に待つまでもない。」

内侍の黄経臣は訊問に立ち会ったが、瓘の言葉に声を失い溜息をついた。――「主上は事実をお求めです。言葉の通りに申し上げればよい。」調査は終わったが、正彙は虚言の罪に問われて海上に配流され、瓘は通州安置となった。

帝は瓘の著書『尊堯集』を取り寄せさせた。張商英は瓘の著書を取り寄せ,提出しようとした矢先、宰相を罷免された。そこで瓘は表書を出し、『尊堯集』を提出して京の悪を開陳したいと訴えた。さらには意見書に意を偶しておいた。――王安石は宣聖廟(孔子廟)に配享してはならない、と。帝は瓘の発言に理路がなく、さらに誹謗に類すると判断し、台州羈管とした。

これ以前、安石には『日録』八十巻があった。瓘は、安石のこの書は宗廟を誹謗したものだと考えた。瓘は廉州に降格されると、『合浦尊堯集』を著したが、『日録』の誹謗の罪を〔安石その人ではなく、〕蔡卞に帰した。後、また『四明尊堯集』を著したが、〔今度は〕安石その人を痛撃し、煕寧に宰相を勤めた人々の顛末を曝露し、みずから改過の心を明らかにした。

ここに至り、瓘が台州に左遷されると、何執中は蔡京の意向に従い、選人(身分の一つ)の石悈を台州知事として送り込み、瓘を死に追いやろうとした。悈は〔台州に〕到着すると、瓘を捕らえて庭に呼びつけ、拷問の道具を前に並べた。脅して自殺させようとしたのである。しかし瓘は悈の心を察し、「これは本当に陛下の命令だろうか」と大声で叫んだ。

悈はなす術なく、「朝廷は『尊堯集』を求めただけだ。」

瓘、「ならなぜこんなことする。君に『尊堯』と名づけた理由を教えてやろう。〔尊堯とは〕神考を堯になぞらえとし、主上を舜になぞらえたのだ。堯を尊びながら、なぜ処罰されるというのだ。現在の宰相は学が浅く、人に馬鹿にされている。君に何ができる。公議を畏れず、名分を犯すつもりか。ましてや『尊堯集』は既に陛下に献上しているのだ。」

悈は恥じ入り、瓘に拝して退かせた。あらゆる方法を駆使して瓘を陥れようとしたが、結局は出来なかった。執中は怒って悈を罷免した。

瓘はいつも京兄弟(蔡京と蔡卞)を非難していたが、その全てが彼等の心を抉り、虚偽を暴くものだった。〔京らは瓘を〕最も憎んだ。このため最も酷い扱いを受けたのである。


(74)二年(1112)二月戊子〔朔〕、再び蔡京を太師とし、致仕させた。私邸を京師に与えた。

京が杭州から召還されると、帝は内苑の太清楼で宴を催した。


(75)夏四月、再び方田法を実施した。


(76)五月己巳(十三日)、蔡京に命じ、三日に一たび都堂で政務を執らせた。

京は言官の非難を厭い、御筆を作って秘密裏に事を運ぼうとした。そこで帝に親書を下すよう訴えた。これを御筆手詔と言った。御筆手詔に違反したものは、違制(制書に違反すること)の罪に問うた。京は事に巨細なく、必ず御筆手詔を用いた。帝の親書とは思えぬものでも、指摘する臣下はなかった。このため外戚や近臣は争って口利きを求め、宦官の楊球に代筆させた。これを「書楊」と言った。

呂中の評。姦臣が御筆を作って以来、およそ私的に求めるものがあれば、すべて御筆に託して実施し、違反した者は罪に問われた。かくして給舎(給事中と中書舎人)は制書の返還ができず、台諫(御史台と諫官)は諫言ができず、綱紀は崩壊した。むかし仁宗に権力を総攬するよう奨めたものがいた。そのとき仁宗は「天下に対する命令を宮中から出そうとは思わぬ」と仰った。これこそ真に万世の法たるものである。


(77)八月、元祐時代の制詞を焼き捨てた。


(78)九月、官名を改訂した。

蔡京は擅ままに振る舞い、官名を改めた。元豊政事の継承を主張し、まず開封府の守臣を尹と牧に改めた。これ以後、府に六曹を設け、県に六案を設け、内侍省の称号を枢密院に類させ、六尚局を設け、三衛郎を置いた。かくして詔を下した。

太師、太傅、太保は古代の三公の官にあたる。現在、三師と称しているが、古代にこの名称はない。三代にならって〔三師を〕三公に改め、真の宰相の任に充てよ。司徒と司空は周の六卿の官に当たり、太尉は秦の主兵の官に当たる。いずれも三公の任にはない。全て罷めよ。また三孤を次相の任として設けよ。侍中を左輔に改め、中書令を右弼に改めよ。尚書左僕射を太宰兼門下侍郎とし、右僕射を少宰兼中書侍郎とせよ。尚書令および文武の勳官を罷め、太尉を武階の最高位とせよ。

しかし当時は官員過多で名称も混乱していた。このため走馬承受が使を帯び、道士が朝品を与えられる場合さえあった。ここに至り,元豊の制度は崩壊した。


(79)三年(1113)春正月癸酉(二十日)、王安石に舒王を追封し、息子の雱を臨川伯とし、孔子廟庭に従祀した。


(80)五年(1115)秋七月、詔を下し、明堂を寝廟の南に建設させた。

蔡京を明堂使とした。部局を開いて土木工事を興し、常時万を数える人足を使役した。


(81)八月、太子詹事の陳邦光を池州安置とした。

これ以前、蔡京は太子に大食国の琉璃酒器を献上し、宮庭に並べさせた。太子は怒って、「天子の大臣でありながら、道義によって輔導せず、玩具を持ち寄って我が心を惑わすのか」と言い、側近に破壊させた。邦光の進言によることを知った京は、言官に〔邦光を〕攻撃させ、放逐した。


(82)六年(1116)夏四月庚寅(二十七日)、蔡京に命じ、三日に一たび朝廷に赴かせ、公相(三公)として三省の政務を総裁させた。


(83)五月庚子(七日)、鄭居中を少保・太宰とし、劉正夫を少宰とし、鄧洵武を知枢密院事とした。

当時、蔡京は大規模な土木工事を興していた。このため民は苦しんだ。また法度の改変により、官吏は帰趨を失った。鄭居中はいつも帝にこれを指摘し、帝もまた京の専断を憎むようになった。そこで居中に太宰を授けて京を監視させた。また正夫の議論は京と異なることが多いというので、少宰を授けた。


(84)七年(1117)六月戊午朔、明堂が完成したので、蔡京を魯国公に進めた。京が両国の封を辞退したので、京の親属二人を官に登用した。


(85)八月癸亥(八日)、鄭居中が罷めた。

居中は蔡京と協力して事に当たることができなかった。ここに至り、母の喪に遭い、宰相の位を去った。京は居中の復帰を懼れた。居中は王珪の婿だというので、蔡確の子の懋に哲宗即位にまつわる事情を再調査させ(2)、〔居中の再任を〕阻止しようとした。そして確を清源郡王に追封し、御製の文章を刻んだ石を確の墓前に立てさせた。こうして居中を阻もうとしたのである。しかし結局邪魔することはできなかった。


(86)十二月、侍御史の黄葆光を昭州に竄した。

これ以前、葆光は左司諫となり、職務に当たると、すぐに三省の胥吏の過多を訴え、元豊の旧制に存在しない官職の除去を求めた。帝は無駄な官員を整理させた。このため当時の士論(士大夫の世論)に称賛された。蔡京は異論を挟んだことに怒り、帝に密告して内批を降させた。――「豊亨予大の時節、衰乱を口にし、節約を旨とした。符宝郎に降格せよ。」しかし翌年、またもや侍御史となった。

ここに至り、ひどい旱害があり、帝は心を痛めた。葆光は意見書を提出した。――「蔡京は擅ままに強権を握り、奢侈は節度を越え、君臣の分を弁えておりません。鄭居中と余深は京と対立したものの、恐れをなして逃亡し、天下の重責に応えられませんでした。このために天の災異を招いたのです。」

意見書は納れられたが、聞き入れられなかった。

京の権勢は絶大で、朝廷の官僚はみな口を噤んでいた。ただ葆光だけは死力を尽くして京を批判した。京は葆光を懼れ、他事に託けて葆光を左遷した。


(87)宣和元年(1119)九月、道徳院に金の芝が生えた。帝は道徳院に赴くと、ついでに蔡京の私邸を訪ねた。

当時、京の子供の儵、攸、翛と攸の子供の行は大学士となり、鞗は帝の娘の茂徳帝姫を嫁にしていた。また家人や雑用係は大官を与えられ、媵妾(3)まで夫人に封ぜられた。京は帝に侍っては、いつも君臣相悦ぶものと言った。帝はしばしば軽便な乗り物で京の私邸を訪れ、酒宴に於いては座席を与えて、家人の礼を用いさせた。京の謝表に「主婦が壽を奉り、酬を請うて敢えて従う。稚子は衣を牽き、挽留して卻かず」とあった。恐らくや事実であろう。


(88)蔡攸に開府儀同三司を加えた。

攸は帝の寵愛を受けていた。いつでも帝に謁見を許され、王黼とともに宮中の秘め事にも預かった。宴会に参加しては、攸と黼は短衫や窄袴を身につけ、青色や紅色を顔に塗り、俳優や侏儒に混じっていた。よく市井の淫靡でつまらぬ冗談を言って、帝のご機嫌を取っていた。

攸の妻の宋氏は禁中に出入りし、攸の子供の行は殿中監を抑え、その寵愛は父を凌ぐほどだった。攸はいつも帝に言っていた。――「人主と言うものは、四海を家とし、太平を娯楽とするものです。一生は短いのです。進んで苦労する必要はありません。」帝は深く納得した。


(89)冬十月甲戌〔朔〕、『紹述煕豊政事書』を天下に頒布した。


(90)十二月丙申(二十四日)、正字の曹輔を郴州編管とした。

政和以来、帝はよくお忍びで外出していた。はじめは誰も知らなかった。しかし蔡京の謝表に「軽車小輦もて、七たび臨幸を賜う」とあり、これが邸報で各地に伝わ〔り、帝の外出が知れ渡〕った。しかし臣僚は京に迎合し、何も発言しなかった。

曹輔は意見書を提出した。

陛下は法宮(宮室の正殿)を厭い、小輦に乗って都下近郊に出入し、遊楽を極めてご帰還なされている、と。道に行き交う言葉には、はじめこそ忌むところもありました。しかし今では常のことになっております。陛下は宗廟社稷の重責を担われながら、かくも安逸を貪り、危殆を忽せにしておられる。まことに私の想像だに出来ぬことです。

そもそも君と民は、人の努力で結ばれております。結ばれておれば、君臣は腹心の関係ともなりましょう。しかし離れてしまえば、楚越の〔ごとき仇敵の〕関係になります。〔君臣の関係が〕離れるか結ばれるかはごく些細なところにあります。細心の注意を払う必要があるのです。

むかし仁祖は民を見ること己が子の如く、その哀れみの心はただ民を害することのみを恐れておられました。しかるに少しく宮中に慢心があっただけで、衛兵が乗じて禁城に跋扈し、〔その凶刃は〕まさに仁祖の御身に及ぼうとしたのです。諺にもこうあります。――「盗賊は主人を憎む」と。もちろん主人は盗賊に負い目などありますまい。しかし愚民は日々の重税に苦しみにあり、己が運命を甘受することなどできないのです。万一にも陛下に不測の事態が生じ、一不逞の徒が禍々しい心を持ち来たるなら、神霊が〔陛下の御身を〕守り賜うとも、威信を損ない、重器を傷つけることになりましょう。ましてや臣子として言うに堪えぬことがあれば、どのようなことになるか。どうしても戒めないではおれません。

陛下におかれましては、深く堂奥に身をおかれ、天空至高の高きより天下に臨み、日月恒常の規矩によって範を示していただきたい。外出のときは、太史に吉日を選ばせ、有司に道路を浄めさせ、三衛と百官を前後に従わせていただきたい。もし煩雑を省き、費用を節約すると仰せなら、特に制旨を降し、少しく節制なさればよろしいでしょう。これを庶民の服で出歩くことに比べれば、遠く優っております。

帝は意見書に目を通すと、大臣らに下げ渡し、都堂で審議させた。

余深、「小官の分際でこんな大それた発言をするとは。」

輔、「大官が言わないから、小官が言ったのです。官に大小はありますが、愛君の心は同じです。」

王黼はわざとらしく張邦昌と王安中に目をやり、「こんなことがあったのか」と聞いた。二人とも「知りませんな。」

輔、「庶民ですら知りたること。重責を担う宰相でありながら、知らぬはずはありますまい。もし本当に知らぬなら、宰相は務まりません。」

黼は怒って、胥吏に輔の言葉を受け取らせた。輔は筆を操って曰く――「区区なる心、一として求めるものなし。ただ君を愛するのみ。」輔は都堂から退き、家で罪を待った。黼が「輔を厳罰に処さねば、浮言を止められません」と訴えたので、輔は郴州編管となった。

これ以前、諫言すれば処罰は免れぬと悟った輔は、子供の紳に後事を託し、家門を閉ざして意見書を執筆した。夕暮れに鳥が屋根で鳴いた。まるで糸を紡ぐような声だった。身に禍あることを知ったが、憂う心はなかった。〔ここに至り〕左遷されたが、輔は喜んで任地に向かった。


(91)二年(1120)六月戊寅(九日)、蔡京を致仕させた。

京は長らく政権を握っていたが、人気は凋落の一方で、帝も厭うようになった。また子供の攸の権勢は父と争うほどになった。浮薄な人々は京と攸の仲を裂こうとした。このため父子は互いに派閥を作り、仇敵のような間柄になった。

攸は別宅を与えられていた。ある日、攸は京の邸宅を訪ねた。京はちょうど客と話しをしていた。〔しかし攸が来たというので、京は〕客を別室に退かせた。攸は部屋に入ると、すぐに父の手を握り、脈を取りはじめた。「父上、脈の調子がよくありませんが、お体の具合でも悪いのですか。」京、「いいや。」すると攸は「禁中で仕事がありますので」と言って、すぐ出て行った。この様子をこっそり見ていた客は、京に理由を聞いた。京は「分らないのかね。あいつは私を病気にして、罷めさせたいのだ。」

数日後、京は太師・魯国公として致仕した。しかしなお朔と望の日には朝廷に赴いた。


(92)十一月、王黼を少保・太宰とした。

これ以前、京が致仕すると、黼は世上の人気を集めるべく、京と正反対の政治を行った。このため世の人々は賢相だと褒め称えた。しかし黼は太宰になると、権力に物を言わせて悪政を行った。子女や玉帛を多く蓄え、我が身を飾り、僭越にも〔私邸を〕朝廷に擬えるなど、京のやり方と同じことをした。


(93)六年(1124)十一月、王黼が罷めた。

黼は宰相でありながら、宴会に参加してはみずから俳優や下賤の役を演じ、笑いを取って帝の歓心を買っていた。このため太子は黼を嫌うようになった。黼は鄆王の楷に寵愛されていたので、宗廟簒奪の謀略(4)を進めていたが、なかなか成功しなかった。〔あるとき〕帝は黼の私邸で芝を観賞した。そこで黼と梁師成の家が隣通しで、壁に穴を開け、互いに行き来しているのを知った。帝はようやく黼と梁師成の結託を悟り、宮中に戻ると、黼に対する厚遇は急速に衰えた。

李邦彦は平素から黼に異論を抱いていた。そのため蔡攸と結託し、二人して黼を非難した。たまたま御史中丞の何㮚が黼の邪悪専横十五事を論列したので、黼を致仕させた。その一味の胡松年らは全て罷免された。


(94)十二月、蔡京に再び三省の政務を総裁させた。

王黼が致仕すると、朱勔は京の任用を強く推した。帝は勔の意見に従った。京はこれで四度目の宰相就任だったが、既に視力は衰え、政務を執れず、全て末子の絛に任せていた。京が裁定したものは、全て絛が取りまとめた。また京の代理として、宮中に報告に上がることもあった。

絛が朝廷にやって来ると、侍従以下〔の高官〕はみな礼拝し、こそこそ情報を耳元に囁いた。また堂吏数十人は案件を抱えて絛の後に従った。このため絛は好き勝手に悪事を働き、権力を弄んだ。にわかに妻の兄の韓梠を戸部侍郎とし、罪を捏造して朝廷の官僚を排斥した。また宣和庫式貢司を造り、地方の金帛と国庫の物資を掻き集め、その金品で宣和庫を満たし、天子の私財に充てた。〔大臣の〕白時中と李邦彦らは命令に従うだけだった。


(95)七年(1125)夏四月、蔡京を無理に致仕させた。

蔡絛は京の寵愛を恃み、好き勝手をしていた。兄の攸はこれに嫉妬し、しばしば帝に絛を殺すよう訴えていたが、帝は許さなかった。白時中と李邦彦も絛を憎み、攸と一緒になって絛の悪事を暴いた。帝は怒り、絛を遠方に配流しようとしたが、京が必死で免除を求めたので、ただの勒停に止め、京の養護に当たらせた。また韓梠を黄州安置とし、絛の侍読を奪い、賜出身の敕を破壊させた。これで京の動揺を誘ったが、京に辞任の意志はなかった。そのため帝は童貫を京の邸宅に向かわせ、辞表を書かせた。

貫が到着すると、京は泣いて、「陛下はなぜこんなにも私を遠ざけられるのだ。讒言している奴がいるに違いない。」貫、「知らん。」

京はやむを得ず辞表を貫に渡した。帝は詞臣に京の三度の辞表を代筆させた(5)。詔を下し、京の辞表に従った。

史臣の評。京は天性兇悪、狡知を弄んで人主を操り、人主の前では保身の計を求め、終始一貫、放蕩の説を説き、四海九州の財を尽くして己に奉じた。帝は京の奸邪を知り、罷免と復帰を繰り返し、且つ京に異論ある者に牽制させた。しかし京は罷免を気取るや、帝に哀願して泣き崩れ、もはや廉恥の態がなかった。燕山の役が起こるや、京は攸に詩を送ったが、表に不可の意を寓し、成功せざるときの弁解に充てた。利を見て義を忘れ、兄弟は参と商(星の名前)の如く相離れ、父子は秦と越の如く敵対した。晩年は家に政府を開き、名利進達を願う者はその門に集まった。従僕に賄賂を送り、美官を得た者もいた。綱紀法度を破壊し、地位名声に汲々となり、その一味は離れ難く結びつき、遂に宗廟社稷の災禍を招いた。


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(1)以上、具体的な事跡は不詳。
(2)王珪が哲宗の即位を阻もうとしたという噂があった。
(3)貴族の娘が嫁ぐときに従う女。下の夫人は身分の一つ。
(4)太子を鄆王に代えることを指す
(5)蔡京が三度も辞表を出したので、帝はやむを得ず京の辞表を受け入れた、という形式にしたことを指す。詞臣は翰林学士や中書舎人などの文章の専門家を指す。



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