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花石鋼之役


(01)徽宗の崇寧元年(1102)春三月、宦官の童貫に命じて蘇州と杭州に部局を設置させ、器物を作らせた。

部局では牙、角、犀、玉、金、銀、竹、装画、糊抹、彫刻、織繍等々を作らせたが、どれもこれも技術の粋を尽くしたものだった。数千の技師を使役し、必要な材料や物品はすべて民の税から賄った。このため民の苦痛は極めて大きかった。


(02)三年(1104)二月、金銀を採掘精錬させ、その全てを内蔵(皇帝の財産庫)に納入させた。


(03)四年(1105)十一月、朱勔に蘇杭(蘇州と杭州)の応奉局および花石鋼のことを蘇州で管轄させた。

これ以前、蔡京は蘇州に出向いたとき、仏閣の建立を計ったが、巨万の費用を必要とした。僧侶、「この因縁を成就させるには、朱沖でなければ無理でしょうな。」京はすぐ沖に打診した。居ること数日、沖は寺に詣でて土地を計測したいと申し出た。到着すると大木数千を庭に積み上げた。京はその能力に感嘆した。翌年、京は朝廷にもどるとき、沖とその息子の勔を連れて行った。朱父子の姓名を童貫の軍籍に紛れさせ、官を授けた。

当時、帝は花石鋼に熱中していた。京は沖に両浙近辺の珍宝を献上するよう言い含めた。黄楊を三本を差し出したところ、帝はこれを褒め称えた。後には毎年五六種類〔の珍宝〕を納めるようになった。ここに至り、〔珍宝の納入は〕盛大を極め、淮河から汴河まで舟を連ねて運搬する有様だった。これを花石鋼と言った。応奉局を浙江に設置し、勔に事業を管轄させた。勔は軽々しく内帑金(皇帝の私財)を用いたが、それは数千百万にも上るほどだった。

こうして〔珍宝探索のため〕高山や深淵を調査し、あらゆる場所に足を踏み入れた。士大夫や庶民の家に少しでも珍らしいものがあれば、すぐさま無骨な兵士を引き連れて家に押し入り、「御前の物にする」と言って黄封を貼り付け、〔家のものに〕監視させた。少しでも不注意があれば、大不恭の罪に問われた。珍品を持ち出すときは、決まって家や垣根を破壊して行った。不幸にして珍品を持つ人がおれば、人々は不祥だと指さし、少しでもはやく壊そうとした。この役に充てられると、中産程度の民でも破産し、子女を売って供物に備えるものすらいた。山を斬って石を運ばせたが、その督促は残酷だった。深さの測れぬほどの江湖でも、あらゆる方法を用いて絶対に手に入れた。諸道の食糧運搬網を断ち、商船をかき集めて、納入物を押し上げた。舟人は権勢を恃んで横暴になり、州県の官僚をも凌ぐ有様だった。道行く人々はこれに側目した。

勔の権勢は強大だった。そのため使用人でさえ、直秘閣から殿学士(1)に至るまで、望みの身分を手に入れられた。勔に賛同しない者はすぐに官を辞めて〔蘇州の官庁から〕出て行ったので、当時〔朱勔のいる蘇州は〕東南の小朝廷と呼ばれた。


(04)大観四年(1110)閏八月、張閣を杭州知事とし、花石鋼を管轄させた。


(05)政和四年(1114)八月、延副宮を新築した。宮は大内北の拱宸門の外にあった。

これ以前、蔡京は宮室を造営することで、帝の歓心を引こうとした。そこで内侍の童貫、楊戩、賈詳、何訢、藍従煕の五人を呼び、宮廷が手狭である旨を伝えた。五人は延福の旧名を用いて宮殿を新築したいと申し出た。五人は分担して工事を行ったが、考え得る限りの奢侈と壮麗を競い、規格を無視して勝手な建物を造った。宮殿が完成すると、延福五位と呼ばれた。

東西は大内に配し、南北はやや低かった。東は景龍門に当たり、西は天波門に連なっており、都の宮殿や官庁を眺めることができた。池を海に、泉を湖に見立て、鶴荘、鹿砦、文禽、奇獣、孔翠の柵を作っては、千を数えるほどの爪や尾を作った。また嘉花や名木は種類に配置を分け、自然の情景の如く石や岩を列べた。この世のものと思えぬ出来だった。宮殿が完成すると、帝はみずから〔宮殿のために〕『記』(文体の一つ)を筆した。

その後、村の野店や酒屋の上りを庭園に設けた。毎年冬至になると、火を灯して、東華門以北の夜行の禁を解いた。開封府の店を通路に相対して並ばせ、賭博や飲酒の自由を許し、上元節が終わるまで続けた。これを先賞と言った。

ほどなく旧城を跨いで修築を行った。これを延福第六位と言った。また城外の堀を跨いで二つの橋を作った。橋の下は石畳で固め、舟で渡れるようにした。橋の上を歩く人は〔舟の運行に〕気づかなかった。これを景龍江と言った。景龍江の両側には奇花や珍木を設け、宮と対峙させた。


(06)七年(1117)秋七月、提挙御前人舟所を設置した。

当時、東南の監司、郡官、二広の市舶司には献納品目が割り当てられていた。しかしこれとは別に、無断で物品を都に運び、宦官と示し合わせ、宮廷に珍宝を献上するものがいた。献上物は概ね霊壁、太湖、慈谿、武康の石、二浙の奇竹、異花、海錯、福建の荔枝、橄欖、龍眼、南海の椰実、登州や萊州の文石、湖州や湘州の文竹、四川の佳果木等々で、いずれも海江を越えて運ばれたものである。〔それらは行く先々で〕橋を壊し、城郭を毀ちつつ〔時間を争って〕運搬された。そのため〔都でこれらの植物を〕植えつけると生き返った。異味珍品も〔同様で〕、健脚の者に急いで運ばせ、都からどれほど遠く離れたところの産物でも、たった数日で都に運びこんだ。〔それら植物の〕色や香りは少しも落ちることがなかった。

ここに至り、蔡京は言った。――「陛下には〔喜ばしいことに歴代帝王が国を傾けたような〕音楽・美女・犬馬といった類の嗜好がありません。ただ人の見向きもしない山林の産を好まれるに過ぎません。しかし有司が処置を誤り、民間で騒動を引き起こしております。」そこで提挙淮浙人船所を設置し、内侍の鄧文誥に管轄させた。詔を下し、今後必要物品は御前に納入させることとし、他の官僚が無断で献上することを禁じた。これは民のためという触れ込みだったが、実際は民の苦痛は今までと少しも変わらなかった。


(07)十二月、万歳山を作らせた。


(08)宣和三年(1121)春正月、童貫は詔を承け、蘇杭の応奉局と花石鋼を罷めた。

これ以前、帝は東南の事(方臘の乱)を童貫に任せ、「もし急があれば御筆を用いてもよい」と言付けていた。貫は呉に到着すると、花石に困窮する民を目にした。そこで貫は属僚の董耘に謝罪の手詔を書かせ、諸々の応奉造作局、および御前の花石運搬、木石菜食などの職務を止めさせた。そして帝も朱勔一族の在職者を罷免した。呉の民は大いに喜んだ。


(09)閏五月、再び応奉司を設置した。

方臘の乱が平定されると、王黼は帝に言った。――「士大夫は邪悪な心をもちつづけ、陛下への献納物を削り、妄りに朝廷を非難しております。望むらくは、応奉の一司を設置していただきたい。私がそれを管轄し、邪悪な人間の謀略を防ぎたいと思います。」これに従った。宮中のことを梁師成に管理させた。こうして応奉局を復活させた。発運司の人足を奪って応奉司の職務に充てたが、〔発運司を管理している〕戸部は敢えて批判しなかった。これ以後、天下の珍品は〔黼と師成の〕二人の家に集められ、宮廷に納入されたものはわずか十分の一に過ぎなかった。


(10)四年(1122)十二月、万歳山が完成した。名を艮嶽と改めた。

山は周囲十余里、最高の峯は九十歩あった(2)。上には介と呼ばれる停留所があった。山は東西に二嶺あり、南山に繋がっていた。山の東には萼緑華堂、書館、八仙館、紫石巌、棲真嶝、覧秀軒、龍吟堂があった。山の南には壽山があった。二つの峯が対峙していた。雁池と噰噰亭があった。山の西には薬寮、西荘、巣雲亭、白龍沜、濯龍峡、蟠秀、練光、跨雲亭、羅漢巌があった。さらに西方には万松峯があった。峯の半ばに倚翠という楼閣があり、上下に二つの関があった。関の下は平地で、大きい沼があり、沼の中には二つの陸地があった。東には蘆渚〔があり、その亭を〕浮陽と言った。西に梅渚〔があり、その亭を〕雪浪と言った。西の溜池を鳳池と言い、東の溜池を雁池と言った。中程に二つの館があり、東を流碧と言い、西を環山と言った。また巣鳳閣と三秀堂があった。東池の後ろには揮雪庁があった。再び山道を上がると、介亭があった。亭の東には極目亭と蕭森亭があり、右側にはまた麗雲亭があった。山の中腹の北側は景龍江に接しており、〔江の〕上流から山に水を注いでいた。西に行くと漱瓊軒があった。また石の間を進むと(3)、煉丹凝観と圜山亭があった。眼下に景龍江の境界があり、高陽酒肆と清澌閣が見えた。北岸には勝筠菴、蕭閑館、飛岑亭があった。支流は分かれて山荘となり、渓流となった。また南山の外に小山があり、その幅は二里もあった。芙蓉城と言い、精緻を極めたものだった。景龍江の外には諸々の館舎があり、とりわけ精巧に造られていた。その北側は瑤華宮の火により(4)、その地に曲江と言う大池を作った。池の中程に堂があり、蓬壺と言った。池の東は封丘門までだった。その西は天波門橋から水を西に引いていた。半里ほど進むと、江は南に枝分かれし、また北に枝分かれした。南に分かれた流れは閶闔門を過ぎり、いくつかの道に分かれ、茂徳帝姫の邸宅に通じていた。北に分かれた流れは、さらに四五里を進み、龍徳宮に至った。山が完成すると、帝はみずから『艮嶽記』を書いた。山が国に対して艮(北東)の方向にあったからである。

これ以前、朱勔は太湖で石を採取した。それは縦横数丈もあった。石を大舟に乗せ、千人の役夫に運搬された。〔行く先々で〕城や橋を壊し、堀や物を潰し、数ヶ月で都に到着した。ちょうど燕の地を取ったというので(5)、戦勝記念に昭功敷慶神運石と名付け、万歳山に立てた。また絳霄楼を作ったが、それは極めて鋭角の建物で、工芸の粋を尽くしたものだった。これ以後,宦官らは相継いで建物を造るようになった。こうして〔万歳山の〕山林丘谷は日ごとに高深さを極め、亭台楼観などの建築物は数え切れないほど建てられた。また金芝が万壽岑に生えたというので、〔艮嶽の〕名を壽嶽と改めた。宦官たちは趣向を凝らそうと、こんなことを考えた。――山の景観はもう充分壮麗になった。しかし山に住む天下の珍獣たちはまだ従順でない、と。市井の薛翁なる男がおり、動物の飼育に長けていた。そこで宦官たちは「あの男を使いたい」と童貫に頼み込んだ。これを許した。

翁は〔徽宗の〕御輿の護衛らを集め、黄蓋を張り、その中で遊ばせた。〔動物が〕寄ってくると、巨大な皿に焼き肉や米を盛りつけておき、翁が獣の鳴き声を挙げて、その〔鳴き声に該当する〕獣を呼び集めた(6)。動物が食べ飽きれば、自由にさせた。一月の後、獣は自然と黄蓋に集まり出し、翁が呼ばなくても来るようになった。だんだん人に慣れ、鞭を持っても畏れなくなった。ここに至り、局を来儀所と名付け、動物の飼育に当たる人々を集め、そこで管理させた。

帝が山に出向いたときのこと、道先で声がしたので目をやった。すると数万の動物が群がっていた。翁は牙牌を用いて動物を左に寄らせると、「万歳山の瑞禽が奉迎しております」と言った。帝はいたく感動し、大喜びで翁に官を授け、ふんだんに褒美を与えた。


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(1)某々殿学士のこと。
(2)以下の記述は『宋史』地理志一の万歳山艮嶽条を参照した。
(3)原文は「又行石間」。不詳。
(4)原文は「因瑤華宮火」。不詳。
(5)燕雲十六州の燕州周辺を回復したことを指す。
(6)原文は「日集輿衛鳴蹕張黄蓋以游至則巨柈盛肉炙粱米翁傚禽鳴以致其類」。もとは『桯史』巻九の万歳山瑞禽条の一説。試訳。



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