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道教之崇


(01)徽宗の崇寧四年(1105)五月、信州龍虎山の道士の張継元に虚靖先生の号を授けた。


(02)大観二年(1108)三月、天下に『金簶霊宝道場儀範』を頒布した。


(03)政和三年(1113)夏四月、福寧殿の東に玉清和陽宮を造営し、道像(道教関係の像)を奉納した。帝が生まれた場所である。


(04)九月、方士の王老志に洞徹先生の号を、王仔昔に通妙先生の号を授けた。

老志は濮州の人。もとは小役人だったが、異人に丹を授けられたことから、妻子を捨て、山野にあばら屋を構えた。人の運命禍福を説き、よく当たった。太僕卿の王亶は朝廷に老志の存在を報告した。当時、徽宗は道術に興味を持ち始めていた。そのため老志を京師に呼び寄せ、蔡京の邸宅に住まわせた。ある時、封書を帝に差し出した。帝が封を開くと、そこには去年の秋、喬妃・劉妃二人との歓談の言葉が記されていた。このため帝はますます老志を信じるようになり、洞徹先生の号を与えた。多くの官僚が老志の予言を欲しがった。はじめは不可解でも、最後には概ね予言の通りになった。このため家門には市場のように人が群がった。京は余りの評判に畏れをなし、徐々に警戒するようになったが、老志も浮かれた気持ちを引き締め、予言を禁絶するよう帝に意見した。その翌年に死んだ。

仔昔は洪州の人。もとは嵩山に隠遁していた男だが、「許遜に出会って『大洞隠書』と豁落七元の法を体得した。人の未来を言い当てられる」と言っていた。京が仔昔を推薦すると、帝は仔昔を呼び寄せ、沖隠処士の号を授けた。予言が当たるというので、通妙先生の号に進められた。これ以後、道家のことが盛んになり、仔昔の恩寵も増大していった。官僚や外戚も賄賂を使って関係を持った。

御史中丞の王安中は意見書を提出し、「今後、山林の道士を呼び寄せる場合、保証人に責任を取らせていただきたい。また宮中に招き入れる場合は、必ず口添えした人間を調査していただきたい。臣庶往来の禁を厳格にしていただきたい」と言うと、さらに蔡京が君上を欺瞞し、国家と国民を食い物にしている等のこと数事を意見した。帝はこれを喜んで受け入れた。

ほどなく安中は再び京の罪を訴えた。帝、「本来ならすぐに貴方の意見を実行したいのだが、天寧節(徽宗の誕生日)も近いことだ、それが済んだら貴方のために京を罷免しよう。」京はこれを知って恐怖に駆られた。京の子供の攸はいつも禁中に侍っていた。〔そこで父の留任を帝に〕泣きすがった。このため帝は安中を翰林学士に遷した(1)


(05)十一月癸未(六日)、圜丘で天を祀った。

帝は大圭(玉製の器物)を手に執り、儀仗として道士百人を前に進ませた。蔡攸を執綏官とした。玉輅(皇帝の車)が南薫門を出ると、突然、帝が「玉津園の東の方だが、なにやら楼台(建物)が二つ見えるのだが。どこに立っているのだ。」

攸はすぐさま、「雲の中に楼台殿閣が見えます。うっすらと幾重か見えますが、仔細に観察しますと、どれもこれも地上から数十丈の高さにあります。」

ほそなく、帝、「だれかいるのか。」

攸はすぐさま、「道士風の子供がいるようです。旗や楽器を持って、ぞろぞろ雲の中から出て参ります。だれもかれも眉目秀麗な子供達です。」

こうして天神が降臨したというので、官僚らに詔を下し、その土地に道宮(道教の宮殿)を造営させた。道宮の名を迎真と言った。『天真降霊示現記』を作った。これ以後、帝はますます神仙の類を信じるようになった。


(06)十二月癸丑(六日)、天下に詔を下し、道教の仙経(道書のこと)を探求させた。


(07)四年(1114)春正月戊寅朔、道階(道士の位階)を設けた。

当時、王老志、王仔昔、徐知常らは寵愛を受け、果ては先生や処士などの号を授けられていた。俸禄も中大夫から将仕郎の位階に擬え、二十六階級あった。後、また道官二十六階級を設けたが、そこには諸殿侍宸、校籍、授経などがあり、さながら朝廷の待制、修撰、直閣に比すべきものであった。


(08)六年(1116)春正月、方士の林霊素に通真達霊先生の号を授けた。

霊素は温州の人。若くして浮屠の学(仏教のこと)を学んだが、師匠の厳しい指導に堪えられず、逃げて道士となった。妖術に心得があり、淮河と泗河の間を往来し、僧侶の寺院で乞食をしていた。僧侶や寺は迷惑がっていた。王老志が死に、王仔昔の寵愛が衰えると、帝は方士を左階道簶の徐知常に探させた。知常が霊素を推薦したので、すぐに呼び寄せた。

霊素は威張って言った。――「天には九霄があります。神霄が最高で、その治を府と言います。神霄玉清王というのが、上帝の長子で、南方を王しており、長生大帝君と言います。陛下がこれに当たり、既にこの世に降臨されております。その弟を青華帝君と言い、東方を担当し、その統治に当たっています。また仙官八百余名があります。今の蔡京が左元仙伯であり、王黼が文華使であり、鄭居中と童貫などにも名があります。そして私は仙卿の褚慧が地上に降ったもので、皇帝陛下の統治を助けるものです。」

当時、劉貴妃が帝の寵愛を受けていた。霊素は貴妃を九華玉真安妃に充てた。帝はひそかに喜び、霊素を手厚く遇した。ついには霊素に号を授け、無数の賞与を与えた。温州を応道軍に改名した。

霊素にもともと能力はなく、少し五雷の法を習っただけだった。風雷を呼び寄せ、雨乞いの祈祷を行ったが、少しの効き目しかなかった。


(09)閏月丁未(十二日)、林霊素の意見に従い、道学(2)を設けた。

元士から志士まで全十三品。科挙の歳に襽襆(服装の一つ)で受験することを許した。また蔡京の献言を用い、古今の道教の事跡を集め、紀・志を作った。これを『道史』と言った。


(10)夏四月、道士を上清宝簶宮に集めた。

これ以前、帝は世継ぎの不在を心配していた。道士の劉混康は、法簶や符水が使えると言うので、宮中に出入りしていた。そこで「京城の北西に手頃な土地がございます。少しく土を盛れば、男児が多く生まれるでしょう」と言った。このため数仞の丘を作らせた。ほどなく後宮に子供が生まれた。帝はますます道教を信じるようになった。このため蔡攸は珠星・璧月・跨鳳・乗龍・天書・雲篆の符を持ち出し、帝に迎合した。

林霊素の献言で上清宝簶宮を造営し、ひそかに禁中に繋げさせた。宮中には小山と平地を設け、佳木と清流で囲み、その中に館舎台閣〔など様々な建物を〕を列べた。建物は全て高価な材木で作られ、色を施さず、自然の美しさを追求させた。また宮殿の各所に無数の亭宇を作らせた。帝はいつも皇城の上から宮殿を眺めていた。これ以後、景龍門を開いて城の上に二重の通路を作り、宝簶宮に繋げさせた。祭祀の便に備えさせたのである。


(11)九月辛卯朔、帝は玉冊と玉宝を奉じて玉清和陽宮に出向き、玉帝に太上開天執符御暦含真体道昊天玉皇上帝の尊号を奉じた。仙人の住む全土に詔を下し、宮観を立てさせ、聖像を塑造させた。また地祇に承天効法厚徳光大后土皇地祇の徽号を奉じた。宝冊奉納の儀礼は上帝と同様にした。ついで宮の名を玉清神霄宮に改めた。また神霄の九鼎を鋳造させ、上清宝簶宮の神霄殿に安置した。


(12)七年(1117)春二月甲子(六日)、道士二千余人を上清宝簶宮に集めた。林霊素に詔を下し、帝君降臨について講義させた。


(13)乙亥(十七日)、帝は上清宝簶宮に出向き、林霊素に道経を講義させた。

当時、道士には俸禄が与えられていた。また道観ごとに田が供給されていたが、その数は数百頃を下らなかった。大斎(物忌みの日)があれば、緡銭数万を浪費していた。金のない人間は青布の頭巾(道士の帽子)を買って出向き、いつも食を貪り、三百銭の布施を手に入れていた。これを千道会と言った。

士大夫と庶民に霊素の講義を聴かせたとき、帝は聴講のため、側に帷幄を設けさせた。霊素は高座に陣取り、下方から再拝質問させた。しかし発言に殊更立派なものはなく、冗談を交えた世間話をして上下の笑いを誘い、君臣の礼などなかった。また官吏と民衆に命じ、宮で神霄の秘簶を受けさせた。出世を望む官僚はみな道教に靡いた。


(14)夏四月庚申(二日)、道簶院が意見書を提出し、帝を教主道君皇帝とした。

これ以前、帝は道簶院にこんなことを伝えていた。――「私は上帝の長男であり、神霄帝君だ。中華が金狄の教を受けるのは哀しい。だから上帝にお願いしたい。願わくは人主として天下を正道に帰したい、と。君たちは意見書を出し、私を教主道君皇帝とすべきだ。」このため道簶院は意見書を提出し、帝を教主道君皇帝とした。しかし〔教主道君皇帝の称号は〕ただ道教の公文書内だけで用いることにし、一般の公文書には用いなかった。


(15)方士の王仔昔が獄死した。

仔昔は傲慢愚昧な男だった。帝が客礼の待遇をするので〔自分を帝と同格だと思い込み〕、奴隷のように宦官を扱った。また多くの道士には自分を宗主とするよう強要した。林霊素はこれを嫌い、宦官の馮浩と結託して、「〔仔昔に〕陛下を怨む言葉があった」と訴えた。仔昔は獄に下されて死んだ。


(16)戊辰(十日)、帝は「天神が坤寧殿に降った」と言い、百官に詔を下した。また〔天人の降臨を〕石に刻ませた。

これ以前、帝は林霊素の言葉に惑わされ、天下の至るところに宮殿を建てさせた。また青華帝君の正昼臨壇および火龍神剣夜降内宮を造らせた。霊素は天神の降臨に仮託し、帝誥・天書・雲篆を作らせ、世を惑わし、民を欺いた。その発言は出鱈目だったが、〔帝は〕過誤を正すことができなかった。霊素は自分の意に満たぬ宦官や道士がいると、必ず帝誥に仮託し、自分の思い通りに事を運んだ。

ついで霊素に通真達霊元妙先生の号を、張虚白に通元沖妙先生の号を加え、中大夫の身分に擬えた。宮中に出入してはもめ事を起こし、果ては諸王と道を争うほどになった。都の人は〔霊素と虚白の二人を指して〕道家両府と言った。霊素の一味は二万人にも及び、彼らは美食美衣を擅ままにした。


(17)元成節を設けた。青華亭君が八月九日に生まれたからである。


(18)重和元年(1118)八月(3)辛酉(十一日)、詔を下し、『御註道徳経書』を頒布した。


(19)〔九月〕丙戌(七日)、太学と辟雍に詔を下し、内経・道徳経・荘子・列子の博士二人を設置させた。


(20)宣和元年(1119)春正月(4)乙卯(八日)、詔を下し、寺院を宮観に改めさせた。

林霊素は以前の怨みに報復すべく、釈氏の徒を全て排斥しようとした。そこで帝に願い出た。――仏の号を大覚金仙に、他を仙人・大士に、僧を徳士に改めさせる。〔釈氏の徒の〕着物を変えさせる。姓氏を名乗らせる。寺を宮に、院を観に改名させる。女冠を女道に、尼を女徳に改めさせていただきたい、と。ついで詔を下し、徳士の道学入学を許可し、道士の法を用いさせた。


(21)六月甲申(九日)、荘周を微妙元通真君に追封し、列禦寇を致虚観妙真君に追封した。ついで冊命を行い、混元皇帝に配享した。


(22)二年(1120)春正月甲子(二十三日)、道学を廃止した。林霊素を田里に追放した。

霊素はもともと道士の王允誠と結託して怪異の発言をしていた。後、軋轢が生まれて允誠を毒殺し、ついに専権を握った。

都に洪水があったとき、帝は霊素に祈祷させた。霊素が廃墟の町を歩いていると、人足が血相を変えて棒で殴りかかってきた。霊素は走って逃げ帰った。このため帝は霊素を疎んじ始めた。しかし霊素の横暴は激しさを増し、道すがら皇太子と出会っても、道を空けて礼拝しなかった。太子はこれを帝に訴えた。帝は怒り、霊素を太虚大夫として郷里に放逐した。江端本を温州通判に命じ、霊素の動向を観察させた。端本が「霊素の住居は制令に違反している」と訴えたので、霊素を楚州に移住させた。命令が下ったとき、霊素は既に死んでいた。霊素の遺言が提出されると、なおも侍従の礼によって埋葬させた。


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(1)王安中を昇進させることで、言官から外し、安中の口を封じたという意味。
(2)科挙に対抗して設けた道士の試験。
(3)正確には政和八年八月。
(4)正確には重和二年春正月。



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