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金滅遼


(01)神宗の煕寧七年(1074)十二月、遼の女真部節度使の烏古逎が死に、子供の劾里鉢が後を継いだ。


(02)哲宗の元祐七年(1092)夏五月、遼の女真部節度使の劾里鉢が死に、弟の頗刺淑が後を継いだ。


(03)紹聖三年(1096)二月、生女真節度使の頗刺淑が死に、弟の盈哥が後を継いだ。兄の劾者の息子の撒改を国相とした。


(04)徽宗の崇寧元年(1102)冬十月、遼の将軍の蕭海里が遼に反旗を翻し、女真の阿典部に亡命した。一族の斡達刺を〔生〕女真に派遣し、ともに挙兵するよう求めた。節度使の盈哥はこれを捕らえた。

当時、遼の君主は盈哥に海里の討伐を命じていた。〔……〕ここに至り、遼は数千の兵を出して海里を討伐したが、成功しなかった。盈哥が「軍を引け。我らだけで海里を破ってみせる」と言ったので、阿骨打に討伐を命じた。阿骨伐は海里を殺し、その一味を大いに破ると、海里の首を箱詰めにして遼に献上した。遼の君主は大喜びで褒美を取らせた。以後、盈哥は遼兵の脆弱を知り、ますます勝手な振る舞いをするようになった。


(05)二年(1103)冬十月、生女真部節度使の盈哥が死に、兄の子の烏雅束が後を継いだ。


(06)政和三年(1113)十二月、生女真節度使の烏雅束が死んだ。弟の阿骨打が都勃極烈を自称した。


(07)四年(1114)冬十月、女真の阿骨打が遼に反旗を翻し、寧江州を取った。


(09)十一月、遼の君主は寧江州の陥落を聞き、群臣を召集して意見を求めた。〔……〕遼は都統の蕭嗣先を派遣して女真を討伐させた。阿骨打は混同江で遊撃した。遼の軍は大敗した。


(10)十二月、遼の賓・祥・咸の三州および鉄驪部が叛乱を起こし、女真に投降した。


(11)五年(1115)春正月壬申朔、女真の完顔阿骨打が帝を称し、国号を金とした。


(12)遼は使者を派遣して金と和議を図った。金は従わなかった。


(13)金は遼兵と達魯古城で戦い、これを大破した。


(14)三月、遼は使者を派遣し、金の降伏を求めた。


(15)六月、遼は再び使者を派遣した。金の君主は使者の蕭辞刺を抑留した。


(16)八月、遼の君主は詔を下して女真に親征した。


(17)九月、金が遼の黄龍府を取った。


(18)遼の軍は混同江を渡った。副都統の章奴が叛乱を起こしたが、誅殺された。


(19)十二月、金は護歩答岡で遼軍を襲い、これを大破した。


(20)六年(1116)春正月、遼の将軍の高永昌が遼陽で叛乱を起こした。


(21)夏四月、金人が高永昌を攻め殺し、ついに遼の東京の州県を取った。


(22)六月、遼は耶律淳を元帥とした。


(23)七年(1117)八月癸亥(八日)、遼は怨軍――女真に報復するとの意――を設置した。


(24)十二月、遼の耶律淳は金の将軍の斡魯古と蒺藜山で戦ったが、敗走した。金はついに遼の八州を取った。


(25)金は使者を派遣し、遼に封冊を求めた。〔……〕使者が遼に到着した。

当時、遼東の諸州では盗賊が略奪暴行を擅ままにしていた。枢密使の蕭奉先らが封冊を奨めたので、遼の君主はこれを許した。


(26)重和元年(1118)十二月、遼は大飢饉に陥り、人肉を喰らいあった。


(27)宣和元年(1119)三月、遼は使者を派遣し、金の阿骨打を東懐国皇帝に冊したが、阿骨打はこれを受けなかった。


(28)八月、金は女真文字を作った。


(29)二年(1120)三月、遼は再び使者を派遣し、金に冊礼を打診した。金は許可しなかった。


(30)五月、金の君主は遼の上京に親征した。


(31)三年(1121)二月、遼の都統の耶律余覩が叛乱を起こし、金に投降した。


(32)十一月、金は遼の中京を侵した。


(33)四年(1122)春正月、金は遼の中京を攻め落とし、遂に沢州を降した。〔……〕遼の君主は衛士五千余騎を率い、鴛鴦濼から雲中に逃亡した。


(34)三月、金は遼の軍を襲った。遼の君主は夾山に逃亡した。


(35)丙子(十七日)、遼人は秦晉国王の耶律淳を帝に押し立てた。〔……〕群臣は天錫皇帝なる尊号を奉り、改元して天福と言った。妻の蕭氏を徳妃とした。〔……〕怨軍を常勝軍に改めた。


(36)金人は遼の西京大同府を攻撃した。遼の耿守忠が救援に駆けつけた。〔金の〕粘没喝、護良虎、斡本らが相継いで到着した。〔……〕守忠は大敗し、軍も壊滅した。西京西路の州県と部族は全て金に投降した。


(37)夏四月、金は遼の東勝州を取った。


(38)六月、遼の耶律淳が死んだ。その妻の蕭氏は太后と称し、国事を掌握した。李処温が処刑された。


(39)夏の君主は李良輔に兵三万を授け、遼の救援に向かわせた。金の将軍の斡魯と婁室は宜水で夏の兵を破った。


(40)八月、金の阿骨打は石輦駅で遼の延禧(遼の君主)を襲った。延禧は敗走した。


(41)十二月、金は遼の燕京を打ち破った。


(42)五年(1123)春正月、遼の知北院枢密事の奚回離保は、箭笴山で自立し、奚国皇帝を名乗り、元号を天復に改めた。


(43)二月、遼の君主は耶律淳を庶人に廃し、淳の妻の蕭氏を殺した。


(44)夏四月、金は斡魯を都統とし、斡離不を副都統とし、遼の君主を襲わせた。遼の君主は雲中に逃亡した。


(45)五月、夏の君主の李乾順は使者を派遣し、遼の君主を国に招いた。遼の君主はこれに従った。中軍都統の蕭特烈らが厳しく諫めたが、遼の君主は言うことを聞かず、遂に河を渡り、金肅軍の北に陣取った。人々は不安に陥り、騒然となった。特烈陰は耶律元直に「こうなっては皆の心はばらばらだ。今こそ我らが節を正すときだ。早くに計を立てねば、社稷はお終いだ。」そこで二人して遼の君主の第二子の梁王雅里を脅して西北に逃げた。三日の後、雅里を帝に立てて神暦と改元し、特烈を枢密使とし、特母哥を枢密副使とした。


(46)奚の回里保が部下に殺された。


(47)金は夏に使者を派遣した。

当時、斡離不は天徳に向かっていたが、夏が遼の君主を迎え入れ、遼の君主が河を渡ったことを知り、夏に書簡を送った。――遼の君主を捕らえれば土地を与える、と。


(48)八月、金の君主の阿骨打は、燕京から立ち去ると病に倒れた。そこで粘没喝を都統とし、蒲家奴と斡魯を副都統とし、雲中に兵を留めて辺境の備えに当てさせた。帰途、部堵濼で死んだ。国論勃極烈の斜也らは、阿骨打の弟の諳班勃極烈の呉乞買に即位を求めた。そこで〔呉乞買は〕晟と改名し、年号を天会に改めた。阿骨打に大聖武元皇帝を諡した。廟号を太祖と言った。斜也を諳班勃極烈とし、斡本を国論勃極烈とし、政治を助けさせた。斜本は阿骨打の庶長子である。


(49)冬十月、遼の雅里が死んだ。蕭徳烈らは耶律朮烈を帝に立てた。朮烈は興宗の孫である。


(50)六年(1124)春正月、夏は把里公亮を派遣し、遼の臣従の礼をもって金に対すること、且つ領土の安堵を求めた。粘没喝は君主の命を承け、下寨以北、陰山以南、乙室・邪刺部・吐禄濼の西を割譲した。これ以後、両国は親交を続けた。


(51)秋七月、遼の君主の延禧は再び河を渡り、突呂不部に居住した。耶律大石が金から来帰した。〔……〕金は遼の君主の陣営を襲った。遼の君主は北に逃亡した。謨葛失という者がおり、遼の君主を自分の部族に迎え入れた。〔……〕遼の君主は耶律大石と謨葛失の兵を手に入れると、天の助けだと思い、燕雲の回復を計った。大石は諫めた〔……〕が、遼の君主は聞き入れなかった。金人と戦い、山陰に敗走した。


(52)七年(1125)春正月、遼の君主の延禧は夏に逃亡を謀った。たまたま党項の小斛禄が遼の君主を迎え入れたいと言って来た。遼の君主は遂に天徳に向かった。〔……〕遂に党項に向かった。小斛禄を西南面招討使とし、軍事を総裁させた。


(53)二月、遼の君主は応州新城の東六十里のところで金の将軍に捕縛された。


(54)延禧を廃して海浜王とした。遂に遼は滅亡した。


(55)遼の耶律大石は起兒漫で帝を称した。

これ以前、大石は遼の君主が諫言を納れないことから、遂に北院枢密の蕭乙薛を殺し、自立して王となり、人々を引き連れて西に逃亡した。可敦城に到着すると、北庭都護符に駐屯した。西鄙七州十八部族を糾合し、復興を策し、精兵万余を手に入れた。そこで官吏を起き、軍規を立て、防備を固めた。また道を借りるべく、回鶻王の畢勒哥に書簡を送った。畢勒哥は書簡を手に入れるとすぐに迎えに出向いた。〔……〕通過した国の中、敵対した者はこれを破り、降伏したものは安撫した。兵は万里の行程を進んだ。帰順した数国から無数の牛・羊・駱駝・馬を手に入れた。〔……〕兵を尋思干に駐屯すること九十日、回回国王が投降し、土地の物を献上した。また西に向かい、起兒漫に到着した。群臣は大石を帝に押し立てた。そこで元号を延慶に改め、天祐皇帝と号した。妻の蕭氏を昭徳皇后とした。これが西遼である。



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